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夢のなかでは、彼はいつも戦場に立っていた。
戦場と言っても、大義名分が掲げられるような大層なものではない。新宿の水資源……それも町外れの井戸の所有権を巡る、少年グループ同士の闘争に過ぎなかった。しかしそこには噎せ返るほどの死の匂いが漂っていた。火薬の爆ぜる音と、炸裂音と、砂を踏み荒らす静かな音……無機質な殺人と騙し合いとが錯綜するこの空間で、少年は獣物のように駆けた。いつ死ぬかわからぬ。その興奮が少年を活き活きとさせたのである。
隣りに居た少年の仲間が撃たれた。血のしぶきすらなく、ただ呆気なく死んだのだ。後には血すら残らない。砂が全て呑み込んでしまうのだ。その死に様を見ると、彼はえも言われぬ緊張に包まれるのを感じる。次は俺か……? いや、まだだ。まだ俺は活きているぞ……、ここで彼は眼前の敵を襲う。そしてその喉元を、ナイフで引き裂いた。肉体から溢れ出す紅い色の水が、少年の心の渇きを充してゆく。さて、次の敵はどこにいる……? 彼は貪欲に敵の姿を求めて彷徨っていた。
『どこへ行くんだい?』
ふと聴き覚えのある声を聞いた。
振り返ると、そこには自分と同い年くらいの少年が居た。背丈も、ガリガリに痩せた手脚も、陽に焼けて茶色くなってしまった髪まで同じだった。
しかしその顔は空白だった。
こいつの名前はなんて言ったのかな……少年は憶い出せなかった。その名前、その言葉が、まるで破り捨てられた本のページのように、抜け落ちていたのだ。
本。
そうだ、あいつはよく本を読んでいた。どこから持ってきたのだか、わからないような妙な本ばかり読んでいた。俺にはそんなものはてんでわからなかったが、あいつはよく俺に語って聞かせてくれたな。物語りとか、よくわからない昔者のこととか。
頭の悪い俺に対して、よくもああしつこく教え込んでくれたな。それだけは憶えている。
彼は、まるで半身のように少年の傍らに居た。それだけは憶えている。なんで死んだんだっけな? 待て、待て、なんで俺はそいつが死んだことを知っているんだ? まだ生きているかもしれないじゃないか。いや違う。死んだ。俺が殺したんだ。
俺が殺したんだ。
悪夢は逆流となって血液を滾らせた。少年は絶望の叫びを上げ、咽喉を掻き毟る。咽喉が渇いて仕方がなかった。
『さあ、あなた、水を飲んで。咽喉が渇いていたら、言葉は出てこないわよ。』
見知らぬ手が差し伸べられた。彼は躊躇わずにそれを取った。奪い取るような仕草だった。そしてガブガブとひと息に飲み込むと、すぐさま次の渇きが咽喉を支配することに気が付いた。まだだ、まだ足りない。俺の渇きはこんなものでは足りない! 少年はそのとき、自分の身体のなかに水の音を聞いた。どくん、どくんと脈を打ちながら全身を廻る水の音を聞いたのである。彼は渇きの衝動に身を任せて、鋭い爪を立てた。泉を掘り当てたかのように、湧き上がる赤い水は、彼にとって能く親しまれた鉄の薫りと、渇きの潤いを与えた。彼はそれを貪るように飲んだ。飲めども飲めども、癒えず、むしろ促進されていゆく渇きが、彼の心をより寂寞なものにさせていった。まるで機械のようじゃないか。生きるためにしか駆動しない、クズみたいな機械。欲望の機械。癒えない渇きを潤そうと足掻き、結局は渇きをさらに深めていくだけの、不毛な循環運動。
『やめて、やめて!』
ふと昂ぶる快楽が、何者かに邪魔された。彼はそれを敵と見做した。久しぶりの敵。殺しがいのあるものならいいなぁ、と無邪気なことを考えていた。しかし、それは自分と較べるとあまりにも弱かった。
拍子抜けだった。
そして抜けた拍子から再び彼が現れた。
『まだキミはそんなことをしてるのか?』
悲しそうな、声だった。
もうわけがわからなくなった。さっさと自分が死ねれば何よりも幸福だと思えた。だが彼の内側にある、何とも言いようのない強迫観念が、彼に『生きろ』と命令していた。
彼はまだ死ねなかった。
……ふと、目が醒めた。
気を喪っていたのだろうか。少年はベッドからゆっくりと身を起こした。
日暮れだった。彫り込まれたかのようにクッキリと深い闇が部屋のなかに立ち込めている。少年はしばらく眼を瞬かせて、段々と眼を慣らしていった。すると、部屋の隅の砂溜まりから、壁のシミまで、だいたい把握できるようになった。
既視感。この部屋はどこかで視たような気がする……でも思い出せない……俺は何があったのか思い出すことができない……。
がちゃり、とドアの開く音がした。
その後から現れたのは、老人と水売りである。しかし、少年にとってはどちらも赤の他人であった。
「お、気がついたか。」
水売りが気さくに声をかける。
「誰だ、」としかし少年は威嚇するような声を出し、身構えた。「敵……か?」
少年はベッドから降り立った。だがその瞬間に彼は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。激しい立ち眩みが彼を襲ったのだ。ヅゥーン……となんとも言うことのできない音と痺れが全身を支配した。
それを観て周章てて老人が駆け寄った。
「馬鹿者、治りかけの身でそんな無茶をしおって。」
少年は肩を担がれるようにして、ベッドに腰を降ろした。
「……んで、お前らは何だ?」
「何だ、てなんだよ、」と水売りはムッとなって言った。「俺はお前の命を二度助けたんだぞ。いわば生命の恩人ってやつだ。」
「へえ、」と少年は挑戦するような口調で、言った。
「水売りさん、申し訳ないが、ここはちょっと席を外してもらえんかな?」
老人が割って入った。
畜生、どいつもこいつも俺を汗ばんだ肌にこびりついた砂のように扱いやがって! 水売りは老人の態度をこう解釈した。彼は自分さえ良ければ構わないという性格の者ではあったが、決して他人に暴力を振るわなかった。なぜなら、彼の内側に染み込んだ商売人としての根性が、それを無駄なものだと決め付けているからだった。ゆえに、彼は澱のように自分の不満を蓄積させるだけにとどめたのである。
彼は憤慨を巧みに押し隠し、部屋を出た。
「さて、」と水売りの背中を見届けてから、老人は少年に向き直った。「落ち着いて聞いてくれればいいんじゃよ。儂は君の味方だ。儂はセキと云う。君の名前はなんていうのかな?」
「名前……」と、少年は虚を突かれたような顔をした。名前? なんだ、それは? 俺の……俺の名前? 俺はなんて呼ばれていたんだっけな?
「そう、名前じゃよ。君のことを教えてくれる言葉、自分が何であるか伝えるための言葉……それが名前じゃよ。」
つかの間の沈黙。
少年はわなわなと腕を震わせて、頭を抱えた。ダメだ、思い出せない。俺が、……俺が何者であったのか? 俺は自分のことを知らない。知らないのだ。少年は爪を立ててガリガリと自分自身を痛めつけ始めた。あたかも自分の肉を剥ぎ取った先に、本当の自分がいると伝えようとしているがごとく。
それを見たセキ老人は、少年の腕を掴んだ。だが少年はまるで餌を奪われた狼のようにキッと睨み、セキ老人に向かって乱暴に手を上げた。
「止さんか!」
セキ老人が一喝すると、少年はビクッと怯んだ。そのような響きが含まれていたのだ。しばらくのあいだ誰も動くことがなかったが、やがて少年は恐る恐る手を下ろした。セキ老人はその手が完全に下されるのを待って、話を続けた。
「思い出せないのなら、無理はせんでもええぞ。無理をするのが何よりいかん。申し訳ないことをしたわい。」
セキ老人はかぶりを振った。やれやれ、なんてことだ。この子供は自分の名前すらまともに言うことができないというのだ。それはつまり、自分が何であるのか、わからないということだ。
「じゃあ、質問を変えよう。君に……親や兄弟みたいなものはいるかな?」
少年は俯いた。
「……すまん。またしても質問を間違えたようじゃな。」
もはや少年は答えなかった。
しまった、とセキ老人は思った。心を閉ざしてしまったのか。もう彼は儂の言葉を聞き入れはしないじゃろう。こういう子供は、たいがい悪い方向に傾きがちだ。特に、自殺や、殺人や、何か怪訝しいものへの偏りが。
セキ老人は同時に、東京沙漠に蔓延する不穏な空気についても想起していた。紛争、怪訝しい宗教、乱闘、麻薬、そしてテロ……セキ老人は自分が若かりしころに、遺跡やらなんやらからせっせとテクノロジーを発掘し、複製都市を築いていたのを思い出す。製鉄所跡地から大量のスティールを掘り当てると、生涯をあぐらを掻きながら過ごせると言われた時代だ。あの頃が目指していた夢は果たしてどこにいったのだろうか。セキ老人たちの世代が目指してきた豊かさの夢は、或る意味では叶ったはずであった。しかしその豊かさとは、資源の乱獲のうえに成り立った豊かさであった。考えもなく根こそぎ刈り取るようにして発掘された資源の底が見え始めたとき、停滞期が現れた。彼らはただ片方の天秤から重りを置き換えただけだったのだ。見せかけの豊かさが度を過ぎたとき、他方で築かれた貧困が醜悪な臭いを立てて見えるようになってしまったのである。
そして貧困から腐敗が起き、腐敗から悪業が沸き起こっていく……セキ老人はそう考えていた。この子供には悪業に傾きかけている。自分がどこの誰だかわからず、誰を信じていいのかわからず、そして自分がこれからどうすればいいのかもわからない。ただ生きるだけだった。だがその生き方は動物となんら変わることがなかった。もしくは、倫理的な判断力のない機械か。いずれにしても、その容子は目も当てられない。
「た、大変だ!」
と、その瞬間水売りが部屋に入ってきた。何やら周章てている容子だった。それを見た少年が、身構えた。
「なんじゃ騒々しい、」とセキ老人は水売りに向かって困惑の視線を向けた。
「これ、これを見てくださいよ!」
水売りは片手に一枚の紙を持っていた。セキ老人はその紙を受け取ったが、それをじっくり検分しているうちに、驚愕に目を見開かれた。
「なんじゃと……この子が殺人犯だって?!」
その紙は、自警団による指名手配であった。水組合長の殺害の疑いありと付記されており、紛れもなく少年自身の面相と合致していた。
水売りは内心興奮していた。こいつを今すぐ自警団の連中に差し出せば、賞金が得られる! 賞金が手に入れば、少しくらいは暮し向きが良くなるってものだ。
だが、……と水売りはその思いを口に出すほど迂闊ではなかった。善良な市民の皮を被らなきゃならねえ。世の中は私利私欲で動いているとは言え、それを隠さないバカ野郎はこの世のどこを探してもいないだろうに。第一、絶好のチャンスを手にしたときこそじっくり考えて行動しなけりゃならねえ。用心に越したことは、ないんだからなぁ!
「……どうも、そうらしいですね。」なるべく興奮を見せまいと、呼吸を整えるようにして喋舌る。「どうしましょう? こいつは見かけによらず危ないヤツだと思いますよ。」
「フム……」
思案顔だった。
よし、と水売りは内心で成功を確信した。上手く言い切ったぞ。本心を潜ませ、なんとなく誘導するように喋舌る。それがなかなかむつかしいのだ。
だが、セキ老人はすぐには判断しなかった。指名手配の紙を少年に見せたのだ。「どうじゃ? 今の君はこういう肩書きを与えられているようじゃぞ? 名前はわからないようだが……」
その容子を、水売りは信じられないと言う目付きで見た。
「おいおい、ちょっと待ってくださいよ! しょ、正気ですか?」
だが、セキ老人は敢えて無視した。少年が訝しげに紙に書かれた内容に目を通しているのだけを見ていた。
「どうじゃ、身に覚えがあるかな?」
「……わからない。俺は、何がここに書かれてんのか、わからない。」
「フム、要は君が人を殺したから見つけ次第捕まえるように、と書いてあるんだよ。」
少年は鼻で嗤った。
「人を殺すことが、なんでそんなに大事なんだよ。」と、吐き捨てるように言う。「もう俺は何人殺ったか思い出せねえよ。どいつもこいつもナイフで首を掻っ切って……」
「ちょっと待て。その中に爆弾はないのか?」水売りが突然割って入った。
「え、爆弾……?」
途端、少年の脳裡に何かが閃いた。しかしそれはほんの一瞬の出来事であり、すぐに空白に取って代わられたのであった。
「爆弾……、知らない、知らない、知らない……」
声が段々と虚ろな響きを帯びていった。彼は自分の内側にゆっくりと引きこもってしまったのである。
セキ老人は水売りを見た。
水売りは気まずそうな表情をしたが、内心ではさほど悪びれていなかった。図星じゃないのか、と思ったのだ。
「とりあえず、」とセキ老人は口を開いた。「落ち着ける場所を探した方がいいんじゃなかろうか。君は今自分がどこの誰なのかすら、わかってないんだから。だいたいこの街の自警団は手に負えない事件を、身元のしれない浮浪に着せて無理くり解決させることが多い。それが、よりによって、こんな子供に対してされるとは思っとらんかったがな。」
そして、セキ老人は水売りの方に向き直った。
「あんたも、気をつけた方がいいと思うぞ。権力はしばしばお前さんみたいな人を利用しようとしたがるものじゃ。つまり、あまりものを知らない、無垢な市民をじゃ。だが、都合の良いハナシほど何か良くない意図が隠されているもんじゃて。」
水売りは不愉快になったが、少し考えてその考えが正しいことを認めた。そしてもう余計なことは何一つ言うまいとした。
「へへ、じゃあその子をどうするんですかね?」
「儂が引き取ろう。身寄りもないようだしの。」
「え?」
「こないだの事件のこともあるからなぁ、もう新宿には居れないじゃろう。儂はこれから渋谷に行く積りじゃった。仕事の助手も探していたからの。好都合じゃて。」
セキ老人はふふっと、微笑った。
そして少年の顔を見た。
「それでいいかな?」
少年は無言だったが、首を縦に振った。果たしてその行為に何か考えがあったのだろうか? セキ老人には、その首肯が動物的な、自分の身を守る本能の動きにしか見えなかった。
「では君がもう少しまともに回復してからにしようか。街の抜け道くらいは何個か知っている。自警団の包囲網なぞ、大したことじゃなかろう。」
セキ老人が水売りを連れて部屋を出ようとしたときだった。
「……テルヒ。」
「ん?」
「たぶん……それが俺の名前。」
「ほう、」とセキ老人は興味深そうに顎を撫でた。「いい名前じゃな。沙漠のなかでもギラギラと、逞しく生きられるようじゃて。」