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「その人には……どのような疑いが掛かっているんですか……?」
ユィハは恐る恐る尋ねた。その慎重さでさえ、用心して覆い隠すようにしていた。
ニシノは笑顔のまま答えた。
「いやあ、実はまだ特に嫌疑とか掛かってないんですがね、任意同行みたいなもんです。」
「なんの、……ためなんですか?」
この問いにはアイが答えた。
「水組合長の爆殺事件ですね。」
やはり、とユィハは思った。
「実はね、その少年を訊ねて回っていたら、お宅に運び込まれたっていう興味深いお話をいただいたんですよね。まさか、居ないなんていうことはないと思いますが……いかがでしょう?」
笑顔は相変わらずであった。しかし、そこには有無を言わせない気配を漂わせていた。ユィハはすぐさまそれを察知した。なるほど、これが自警団のやり口ってわけね。
現代社会において、警察業務はもはや政府の仕事ではなかった。政府は都市の再興に忙しいからである。そのために政府は『自分の身は自分で守るべし』とスローガンを掲げて、ありとあらゆる公共事業の払い下げを行なっていた。ゆえに自警団が設けられた。自警団は新宿、池袋、渋谷、秋葉原、金座などの主だった複製都市に置かれた。彼らは地域ごとに異なる性格を有していたが、こと新宿のものは悪質だと評判だった。
ここは逆らわない方が無難なのかしら? ふと彼女は思った。が、その考えはとても恥ずべきことのように感じられた。何をあたしは考えているの? 自分が助けた命でしょう? 最後まで責任を取りなさいよ。でも一人を助けるために、親方やその他の人に迷惑を掛けるわけにはいかない……彼女は、何も言えなかった。言ったら必ず初手を間違える、そんな確信がふと思い浮かんだからだ。
「……申し訳ないんですが、人の話を聞いておられましたか?」
ニシノの顔は変わらない。まるで生まれ落ちた瞬間からずっと笑顔だったかのように、表情が何ひとつとして変わらないのである。
ユィハはこのことに気づいた。そしてその笑顔のなかに、脅迫の色を見た。
「……ええ、まあ、拾いました。」
拾いました? まるで人をものみたいに! 言ったそばから彼女は後悔した。
「ほほう! では、失礼しますがその少年に会わせていただけませんかね?」
「申し訳ないのですが、それは無理かと思います。先ほどからずっと気を失っておりまして……あっ!」
言っているそばから、アイが何食わぬ顔で部屋に上がって行った。ニシノが合図を出したのだろうか。そんな疑惑を抱え、ユィハはアイを引き止めようとする。
「何をしようとしているんですか。止めてください。」
「家宅捜査されて何か不都合なものでもありますか。」
「あるわけないじゃない。だけど勝手に人の家に入るのは、自警団としてどうなの?」
ニシノが割って入る。
「はは、その通りですね。アイ、自警団の名が廃るから、止しておきなさい。」
アイはお辞儀をしたが、無言で戻った。
なによ、とユィハは思った。断りもなく入るなんて、なんて礼儀知らずなの!
「……それで、なんでしたっけ?」
ニシノは何もなかったかのように振る舞う。それもユィハには嫌な印象を与えた。
「ええ、まあ、その少年はまだ意識を取り戻していないんですね。」
「そうですか、まだ意識を取り戻してないと……それほどの重傷だったのでしょうか?」
「いえ、詳しくはわかりません。」
「おやおや、医学の知識はございませんか? ならば医院を幾つか紹介致しますが。」
「お金がないんです。」
「はは、情けないことを仰いますな! 金欲しさに病人からたかっていくそこらの闇医者と一緒にしないでくださいよ。吾々が紹介するのは、政府公認の医院なのですから、保障は確りしておりますよ。」
その公認医院が病人からたかっているのよ、とユィハは心のうちで毒づいた。だが、その感情はわずかに眼に表れただけで、注意深く表情から隠されていた。
「……だから、安心して吾々に少年の身柄を引き渡してください。」
さて、どうするべきか。ユィハはこの時が訪れるのを予感していたが、いざ来たらどうしたらいいのかわからなかった。そもそも昨夜初めて出会った、謂わば赤の他人である。それでも一度助けた命を、こうした形で明け渡すのはなんだか気が引けた。しかし一方では、少年のうわ言が気になってしまった。もし本当に彼がなにかの罪を犯していたのだとすれば……そのときは然るべき処置がされなくてはいけない。そう考える自分も居た。この二つの自分は対立した。まったく厄介だったのは、どちらも自分の良心だということである。どっちを取っても、彼女の良心が傷付いた。ゆえに、このほんの一二秒のあいだに彼女の思考は目まぐるしく回転し続けた。
もうこれは諦めた方がいいのかしら? そう彼女が自分を説得しようとした矢先、新しい異変が起きた。
先ずあったのは、獰猛なけだもののような声であった。つかの間時が止まったように感じられる。しかし自警団員の反応は素早かった。ニシノとアイはユィハの傍をすり抜けるように家のなかに入っていく。
「え、ちょっと!」
一拍置いて、ユィハは叫ぶ。
だがすでに遅かった。乱暴にものが壊されていく音、烈しい殴打の音、身体がものにぶつかる音、そして、ガラスが割れる音……ユィハが部屋に駆けつけたとき、すべては終わっていた。そこには壁に凭れているニシノと、窓から外を見るアイが居た。
……気が付いたんだわ。
ユィハはそう直感した。
「クソッ!」
ニシノは先ほどの笑顔をかなぐり捨てていた。眉間にしわを寄せ、豹変したかのような怒りの相を見せている。そして、左肩を抑えながら、よろよろと立ち上がると、アイの背中を蹴った。
「おい馬鹿野郎、なにしてるんだ、早く追いに行くぞ!」
「はい。」
アイは機械のような無表情で、応答した。ニシノはなにひとつものを言わず、荒々しくその場を立ち去って行った。アイはそのあとを追う。しかし、アイは一旦立ち止まった。そしてユィハに深く御辞儀をした。
何も言わなかった。
しかし、ユィハはふと、心臓を小突かれたような驚きを感じた。その感触はほんの一瞬で過ぎ去ってしまったが、まるで痛痒のようにその印象は拭い去れないものとなって残ったのである。……
* * *
水売りは昨日と変わらず新宿かたぶき町を歩き回っていた。
「水、水は要りませんか!」
今日も彼は咽喉を枯らしながら、客を呼んでいる。興味を示してくれる人もいれば、無視するものも居る。
まるで、何もなかったかのようだ。彼はふと思った。物好きな客が訊ねて来る以外は、爆発のことなんて誰も憶えちゃいねえ。第一、その訊いて来る奴だって、ろくな訊ね方じゃねえんだ。「ねえ、ここいらで爆発があったんですってね、怖いわー」という野次馬根性が骨の髄まで沁み込んだようなのから、「ねえねえ、昨日の爆発ってどんな様子でしたか?」と事情通を気取る奴、「いやあ、俺も見たかったなぁ」なんていうクソ野郎までいる。まるで親切心から傷口に塩を塗ってるようなもんだ。あいつらに、人の心を弄んでいるという自覚があるのか? いやいやあるわきゃねえ。わかってねえから、こうして平然と、道端の小石を蹴飛ばすように、人の心も知らねえようなことを訊けるんだよ。
しかし水売りは、本当のところは別に傷付いているわけではなかった。ただ一つ言うなら、昨晩の事件の大きさに対しての無関心や、関心の向きが奇妙に思えてならなかったのである。だって、水組合の長が死んだんだぜ? 一歩間違えば、自分の手元に水が来なくなるかもしれねえんだぜ? もちろん、長が何よりも偉くって、長が俺たちを活かしているわけじゃあねえ。だが、組合がちゃんと機能しているから水が廻って来るんだ。今、俺たちは社会の心臓にぷすりと針を刺されているんだぞ。これがわからねえって言うのか?
彼はお客に水を渡しながら、こう考えていた。今度の客は初老の男であった。ありていに言えば、好々爺である。人の好い笑顔と、物腰の低い喋り方をしていて、白髪がとても綺麗であった。きっと、ストレスのない生活をしていたんだろうな、と水売りは邪推した。いいなあ、たぶん復興時代の初期、発掘ブームのころに育ったんだろう。あの頃は前だけ見ていれば良かった時代らしいからな。さぞかし楽しい夢を見ながら成人を迎えたんだろうよ。
「水売りさん、ところであれはなんだい? ご存知かね?」
突然老人から話題を持ち出された。水売りは周章てて老人の指差す方を向いた。するとそこには、通りを占拠するかのような規模の人びとが、整然と行進していたのであった。服装はてんでんばらばらであったが、その表情やしぐさには統一感があり、道行く人はそれを気味悪がって道を譲ってしまう。そのためか彼らは正々堂々と街中を闊歩しているようにも見えた。これが不思議に見えたのも無理はない。
だが、水売りの顔はたちまちにして蒼ざめた。
「お、お客さんすみません、ちょ、ちょっと来てくれませんかね?」
「ん?」
「お客さんも危ないですよ!」
老人は解せぬという表情だが、水売りの言うことに従った。
彼らは行列から距離を取り、人気の少ない小さな通りへ入っていった。三度四度曲がったところで、彼らは立ち止まった。それはビルとビルのあいだの狭い路地で、砂埃がそこここに積っているような場所だった。しかしところどころに紫色をした奇妙な花が咲いていた。だが、彼らはその存在を無視し、声を潜めて会話を再開した。
「いいですか、あれは、拝水教徒ですよ。水を生命の源だ、神聖なるものだ、て見てる連中ですよ。」
「ほうほう、」
「つまり、俺ら水売りを片っぱしから敵視しているような連中なんです。神聖な水を金で売買するのは赦せないとか言うんでさあ。」
「ああ、」とようやく老人は納得したという様子を見せる。「別に、違法なわけではないんだがな。」
水売りは苦笑した。
「宗教に法律なんて求めちゃダメですよ。彼らにとっての法律は社会ではなく神様にあるんだから。」
「ふむ。まあ仕方ないな。しかし、拝水教とはいったいなんなんだね?」
「俺にもわかりませんよ。知りたくもない。ただの営業妨害者くらいにしか考えてないんですよ。」
水売りにわかっているのは次のことだけだった。拝水教はここ数年のうちに、突如として現れたということ、なぜかよく知らないが熱狂的な信者を抱えているということ、そして、それが一神教らしいということ。……しかしこの程度の知識ならば、歩行者を捕まえて訊ねれば聞けることだった。それだけの半端な知識を吹聴するのは、彼のプライドが許しがたかった。彼は他ならぬ自分しか持たないものの価値を、何よりも重んじる性格だったのである。ゆえに彼は通り一遍のことを冗舌るくらいなら、無知を晒したほうがましだと思った。
老人は首を傾げたが、ゆっくりと肯いた。
「お客さん、くれぐれも連中には見つからんように気を付けてくだせえよ。」
「はい、はい。」
大らかな返辞であった。
老人は陽気に手を振りながら立ち去ろうとした。しかし、そこであるものを見つけて、声を上げた。
水売りは素早く反応した。
「どうした!」
「子供が一人、倒れておるぞ!」
「子供ォ?」
肩透かしを食らった気分になる。なんだ、連中じゃないなら俺には関係ないじゃないか!
内心で罵倒の声を上げながら、彼は老人のあとを追った。だが、水売りはそこで思わぬものを見つけた。
「こいつは……!」
その子供、いや少年は、つい昨晩彼が背負っていた少年であった。