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夢の中では、彼はつねに一人であった。
……はずだった。
『気がついた?』
そこには兄「テルヒ」の姿があった。
『僕のこと、まだ憶えてたんだね。ヒュウガ。』
同い年、そっくりな顔をした少年が二人、向かい合う。
『……ずっと、忘れたかったんだ。管理人の糞爺いと喧嘩して、もう、俺は居場所がないって思って出て行った。帰れないって思ったんだ。会おうと思えば会えたはずなのに、ずっと、あそこでの思い出とか、何もかも忘れ去って、楽になろうって……』
俯いた。だが、「テルヒ」は両手を差し出して、少年の顔を支えた。
瞳と瞳が合う。
そこには他ならぬ自分の影が映っていた。
『そうか、……死んだ人間が話し掛けてくるわけがない。お前は……俺だったんだ。自分の名前を捨てて、兄さんの名前で生きようとした俺の、良心だったのか。』
『ようやくわかったんだね。』
と「テルヒ」は微笑んだ。
『僕は君の記憶だ。それでいて、君の中にいる「テルヒ」でもあるんだよ、ヒュウガ。君は確かに僕のことを忘れ去ろうとしていたね。もちろん、ときとして自分が自分でいるためには、忘れ去りたいと思うようなことはあるかもしれない。でも……』
『わかってる。俺は俺以外の何者にもなれない。いくら他人の名前を借りても、偉かった人間の言葉や、巨大な文明の中に生きていても、俺はしょせんちっぽけな俺なんだ。関係はあるかもしれないけど、俺を離れた、別の何かであることはない。』
『そう、だから、僕は君ではないんだ。君がそうありたいと願っていても、ね。』
と、突然「テルヒ」は少年を突き放した。
だんだんと遠ざかってゆく。
『おい、どこ行くんだよ。』
『もうお別れの時間だよ。君はもう、僕なしで生きていかなきゃならない。だって、自分で言っただろう? 君は、君でしかありえないんだ。』
『だからって、急過ぎだろ! 一人にしないでくれよ!』
『一人じゃないさ。』と「テルヒ」は手を振りながら、『それに、会おうと思えばいつだって会える。でも君は現実の人間だから、現実に生きて。たとえそれが、どんなに朽ち果てた沙漠だったとしても、ね。』
遠く離れる「テルヒ」の背後から、光が飛び込んで来る……それは、太陽の、光……
目覚めた。
ひびの入ったコンクリートの天井が見えた。
小鳥のさえずりが聞こえた気がした。
むくり、と身体を起こして、確認しようとした。窓際のベッドに横になっていたようだ。さえずりは、いったいどこから……と四辺を見回そうとして、ハッと息を飲む。
そこには緑野が広がっていた。
「……どういうことだ?」
思わずそう呟く。眼前の景色には、死人花ではない、赤、青、黄色、選り取り見取りの色彩で飾られた花々が、見渡す限りいっぱいに広がって、かつて沙漠があったことなど信じられないほどの植物が、コンクリートを引き裂き、砂上の楼閣を覆っていた。殺風景な沙漠の景色に、途方もない生命と色彩が宿っているのである。
「気がついた?」
反対側を向く。
そこにはユィハが居た。
「えっ……なんで……」
「独りで勝手に出て行った悪ガキを連れ戻すためだ。」
彼女の背後から、親方が現れる。
「あっ、あの……」と、テルヒは俯きかけた。が、グッと怺えると、向き直って、「すみませんでした。」
親方は歩み寄る。
そしてジッとテルヒの顔を凝視めると、手を頭に載せた。
殴られる、と思ったテルヒには、意外な反応だった。
「もう、お前は一人じゃないんだ。もっと私たちを信頼しても良いんだぞ。」
「そーだよ。何にも言わずに勝手に行っちゃってサ。」とトオルがどこからともなく現れる。
「そおそ、それに、ここに来るまでに、ユィちゃんとっても心配してたんだよー?」とレイナ。
「ちょ、ちょっと、それは言わなくたっていいじゃない!」
ユィハは少し表情を赤らめた。
テルヒはどういう表情を作れば良いのか、わからなかった。
そのとき親方が爆笑した。
みなが驚いた。無愛想な印象しか持っていなかったのだろう、しかし、すぐさまつられてみなが笑った。
「ところで、ここは……?」
笑いを収めると、ようやくテルヒが喋った。
「新宿だよ。」と親方。
「えっ……これが?」と信じられないという含みを持って「いっそ天国です、て言われた方が……」
「そうか、お前たちは雨を知らない世代なんだな。死人花だけじゃなくて、この沙漠には普通の植物も咲くのさ。ただ種になって埋もれているってだけでな。数年かに一度、特にこないだみたいな土砂降りの翌日は、こうなるんだ。」
「へえ……」
ふたたび窓の外を見る。
しばらくの静寂。
砂埃のない、奥行きのある大気が、呼吸のたびに身体中を駆け巡る。心の底から気持ちが良い、と感じられた。まるで今者までの沙漠の光景が嘘であったか、と勘ぐってしまうほどに。
しかしここは沙漠なのだ。沙漠の現実を忘れてはならない。
「そういえば、拝水教って、どうなったんだ。」
「あっ、それね、教主が殺されて、今者は残党狩りなんだって。」とトオル。
ユィハもそのあとを続ける。
「それで水組合も再結成されたらしくて、新しい組合長さんと一緒に復興し直しだとも、聞いてるわ。」
「組合長……て、誰だ?」
「俺だよ。」
と、そこに現れたのは水売りだった。
「おかげさまで、ピンピンしております。」と会釈する。
「組合長、てあなたのことだったのね、水売りさん。」
「ええ、ええ。」と、仮面のような笑顔を浮かべる。「そこのテルヒくんに用があるんですが、大丈夫ですかい?」
「俺は構わない。」
ベッドから立ち上がる。一瞬、血が退いてゆくような感触に襲われたが、すぐに体勢を維持する。
もう、揺らがないと決めたんだ。
「それじゃあ、こっちです。」
水売りが先導する。あとからテルヒが続く。しかし、その足取りがあまりにも不安なので、ユィハも付いて行くことにした。
建物を出る。
緑野を踏み締める感触は、なんともくすぐったかった。雨上がりのせいか、露が葉の表面に付いていて、足が触れるたびに、足元が濡れていくのがわかる。水売りはその傍から、もったいねえと思わずにはいられない。が、すぐに思い直す。今者は、今者はまだ、もったいないくらいの贅沢な日なんだったな、と。
拝水教の最期は呆気ないものだった。まだ信仰自体が滅んだわけではない。しかし、まったく予期せぬ雨と、それがもたらしたこの緑野が彼らの戦う目的を喪わせた。彼らは結局生活の糧、自分自身の精神の渇きをなんらかの形で癒したかっただけだったのだろう。文明に隠された貧困は、すなわち、沙漠における大地との根を絶たれることであり、生活の糧の不足であり、人と人とのつながりの欠如でもあったのである。沙漠において「神」という存在は、は断絶された現実から人と人とが繋がるためのツールとして機能する。唯一無二の「神」は沙漠で生まれたのだ。人びとは沙漠の現実を「敵」や「罪」だと思うことにして、真実の幸福や喜びをこの世の外に置いた。そう信じなければ、沙漠などには到底生きられぬと、直観していたのだろう。だがその幸福が思わぬ形で現実になったとき、拝水教は自らの信仰自体によって解体されてしまった。扇動者だった教主もすでに死んだ。その配下で甘い汁をすすっていた幹部も何人かは刈られている。まだ残党狩りをしてはいるものの、大した勢力ではない。
結局誰しも弱いのだ、と水売りは思う。どいつもこいつも沙漠の植物のように、細くて、ちっぽけで、どうしようもないくらい弱い。だから神だのなんだのと持ち出す。群れをなして幸せになりたいと考える。だが、そんなのは戯れ言だ。甘ったるい嘘っぱちだ。もしそういう嘘を吐かないと正気が保てないというのなら、俺はむしろ狂気を選ぶだろう。理解される必要なんてない。だが夢や希望に溺れたり、渇いた欺瞞を積み重ねて平気な顔をしたりはできない。なんたって、俺は俺以外の誰でもない人生を生きてるんだからなぁ! 遠くを見ていたって、自分が偉いわけじゃあねえんだからな。
と思考を巡らせているうちに、彼らは目的地に到着した。
そこには、死人花が咲き乱れていた。不気味なほどに美しい、赤紫の花弁が、陽の光を浴びて、緑野の中で妖しく揺れている。
「……シノハラ、だったか。あいつの遺体はまだ見つかってねえが、この戦いで亡くなった人たちの墓をここに作った。どの屍体にも死人花がくっついて離れないから、こんな、お花畑みたいになっちまったけどな。」
と苦笑する。
ユィハは驚いた。
「水売りさん……あなた、変わったわね。」
「そうかもしれねえな。だが、俺は単純にそこのテルヒくんに生命の借りがあるから、こうしたまでだ。」
「……ありがとう。」
ぺこりと頭を下げる。
水売りは頬を掻いた。
「止せやい。別にそうされたくてやったんじゃねえ。義理だからな。」
くすり、とユィハが笑う。
「それでも、死んだ人たちは喜ぶわ。死人花は私たちに思い出させてくれる……」
「ハッ、止してくれよ。俺は昔者語りのために墓を作ったんじゃない。死んだ人間と縁を切るために墓を建ててんだよ。
明日か、明後日か、いずれまた、この緑野も沙漠になるだろうよ。そしたらみんなまた忘れるさ。思い出して懐古に浸ってる余裕なんざ、ねえよ。」
「そんなことはない。」
断固とした声色で、テルヒが言った。
「俺は……確かに、今者に生きているけど、それでも昔者とは繋がってる。だって、昔者が今者を作ったんだ。忘れようたって、俺らはそこと縁が切れるわけじゃない……!」
「ほう、ほう、ほう!」水売りは興味深そうにうなずいた。「そうか、面白いことを言うようになったじゃないか、テルヒくん。だけどなぁ、お前の言ってることは綺麗事だ。この緑の野原と同じくらい、滅多にあり得ねえ綺麗事だ。でもなぁ、人間様はそこまで清く高潔じゃあねえんだよ。そんな、昔者のこと全てを背負って、前を見ているような人なんて!」
「ああ、そうだろうさ。それでもこれが俺の答えだ。あんたがどう言おうと、俺が見つけた信念だ。」
水売りは声高々に笑った。心の底から可笑しくてならない、と言った風情ではあったが、しかしそこには嘲りの色が一切なかった。
「最高だ! とても面白くなってきた! その思想を大事に取っておきな、テルヒくん。これからが正念場なんだぜ。どうせ同じ沙漠に戻るなら、その思想が何時まで保つのか賭けてやろうじゃないか! そうだな……十年後、十年後だ。十年経って、その立派な考え方が曲がらずに生き残ったのだとしたら、俺は君を迎えに来よう。そしてこの沙漠を変えてみようじゃないか。今者この沙漠に必要なのは、夢でも希望でも、もちろん神でもねえ。水だ! それも飛び切り貪欲に磨かれた水だ!」
クックックッと笑いと痛みを怺えながら、腹を抑える。やっと収まったかと思うと、水売りは言った。
「俺はたぶん、未だかつてないほど面白い、て感じてるよ。本当の水ってのはな、渇きから生まれるんだ。それは欲望だと言い換えてもいい。物足りなさだ。満たされない想いをたっぷり抱えて、濾過に濾過を重ねた水こそが、本当に渇きを癒すんだぜ。それこそ、汚くて小狡い連中や、できっこない夢や理想に溺れてるような連中とは違う、とことん貪欲な奴が! その水を創り上げるんだ!
旧文明の薄気味悪い複製は破壊され、拝水教も滅んだ! これでめでたしめでたしだとでも思ったか? お前らはそれで満足できるのか? 俺はできないね! お前らは興味ないかもしれないが、まだまだ俺には人生が待ってんだ! だから俺は俺の生き方で前に進む。まだ俺は満足してねえからなぁ! 絶えない渇きだけが俺を衝き動かすのさ!」
水売りはそこまで言うと、ふいと少年少女を置いて、歩き出した。十歩ほど行ったところで、振り返り、
「じゃあな、お二人さん。今度逢える、そのときまで!」
そう言って、意気揚々と緑野を立ち去って行った。
「……行っちゃったわね。」
ぽつり、とユィハが言った。
「ねえテルヒ、親方たち待たせてるし、そろそろ戻ろう。」
「そう、だな。」
と、歩き出そうとするが、ふと立ち止まり、死人花を振り返った。
そこでは昔者が微笑んでいるような気がした。
しかし、テルヒは前にいる今者に向き直る。
歩き出した。
その一歩は小さく、弱々しいものだっただろう。しかし、彼の背中には過去の想いが担われていた。
たとえ歩き出す先が、どんなに美しすぎる幻想だったとしても。またそれがどんなに虚飾と欺瞞に充ち満ちた世界だったとしても。
もう迷わない。
大事なのは、歩き続けることだ。
こうして少年少女は前に進む。その歩みは、彼らの影が陽射しで消えて無くなるまで、絶えることがなかった。
約一年間、ご愛読有難う御座いました。




