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「野郎、アズマがやられた!」
と、感情的になった少年が、テルヒにナイフを振りかざす。だが、彼は少年の鳩尾に鋭い一撃を加えると、一瞬で気絶させた。
残り、四人。
「……お前、テルヒか。」
シノハラがそう呟くのを見て、水売りは驚愕する。
このガキ、まさか、あの時の……!
なんて奇妙なことだろう。恰度、ここ新宿のことだった。もう半年ほど前のことになる。ユィハという少女に頼まれて、背負った少年が、今者、水売りの生命を助けようとしていた。
「……シノハラ。カレンを殺したのは、お前か?」
ゆっくりと呼吸を吐きながら、テルヒは言う。
「そうだ。」とシノハラ。
「なんでだ。」
「邪魔だったからだよ。それだけ。」
「それだけ、か……」とテルヒは苦い虫を噛み潰したような心地を覚える。かつてカレンがテルヒに言った言葉を思い出す。独りよがりだとか、なんだ、とか。
「んで、どうするの。先刻二人片付けてくれちゃったけど。この水売りさんを殺す手伝いをするんだったら、俺は構わないよ。」
「断わる。もう、こんなことやっても不毛だ。」
「不毛? 君にそう言われるなんて、思いもよらなかったよ。」とシノハラはナイフを取り出した。「ここじゃないどこかを求めるのは、そんなに不毛なのか?」
「逃げてばかりいても、何も見つからない。俺らは自分の現実と向かい合わないといけないんだ。」
「それがたとえ嘘でも? こんな、嘘の上に嘘を積み重ねて行ったような、砂上の楼閣だとしても?」
「そうだ。」
「嘘だ! どいつもこいつも無責任で、好き勝手言いやがって、俺を惑わせる! 唯のガキだと思ってれば、そうじゃない、もっと良いところがあると言って、何かもっとできると思ってりゃ、お前は唯のガキだ、力なんてないと言いやがる! テルヒ、お前のせいだぞ! こんな、こんな……!」
テルヒは胸に痛みを覚えた。ふとした何気ない言葉が、他人に影響を与え、変えてしまっていたということに、苦々しいほどの責任を感じていた。
この世の中で、自分なんて大したことのない存在だと思っていた。
居ても居なくても変わらない、そんなちっぽけなものだと思っていた。
それは、しかし思い込みだったのだ。
都会の沙漠で、水を求め、人と結ばれ、分かち合う過程で、否が応でも誰か他人と付き合わなければならない。その付き合いは日頃吸って吐いている空気のように当然なものだと思っているから、その時として現れる重大な意味に気づけない。気づかない。そして、ふとした時、特に失くしたときに初めて気がつくのだ。自分がいかに、他人に依存していたのかということに。
他人無くして自分なんてありえないということに。
「ハッ、やっぱり、お子様だからか。不都合になったら他人の所為にするんだな。」
そこに水売りが口を挟む。
「なんだと……!」とシノハラ。
「自分の選んだ道に、責任が持てないから、当てこするんだ。違わないか? やっぱ、そうなんだよ。自分が上手く生きて行けないのを、環境のせいだ、カネがないせいだ、弱いせいだ、強い奴らが搾取するせいだ、挙げ句の果てにはお前が何か言ったせいだ、てな。冗談も休み休み言ってくれ。」
「お前に……お前に何がわかるっていうんだ、水売り!」
「わかるわけねえさ。いう気もないんだろ?」
「くっ……!」
シノハラは水売りに詰め寄る。このまま一息に殺してしまおうか、とまで考えた。ナイフを持った腕を突き出そうとする、が、
テルヒが先に動いた。
足で泥水を蹴飛ばす。テルヒを注視していた二人の視界に泥が飛び込んだ。ウッと呻いて目を守ろうとするが、その隙を突かれて、鳩尾に強力な一撃を受け、うずくまる。立て続けに二人目も、首に蹴りを受けて倒れた。
こいつ、戦い慣れてやがる……!
水売り、シノハラ共々驚愕した。シノハラのグループは、もともとが渋谷出身のやさぐれた青少年で、腕力が強く社交スキルはあるものの、テルヒのような戦い方を習っていない。拝水教で習ったのは、暗殺の仕方と、自殺の仕方だけだったのだ。
こんな短い時間で、四人も再起不能にするなんて……
身構えるテルヒ。キッとシノハラらを睨むと、最後の一人は恐れをなしたのか、脱兎のごとく駈け去ってしまう。
シノハラは、しかし、テルヒが動く前に、水売りの脇腹を刺した。呻き声が上がる。
すぐさまテルヒは間合いを詰めた。ナイフを持っている手を掴む。が、シノハラの狙いはそれだった。空いている方の手で、テルヒを殴ろうとする。
だがその拳は受け止められた。
二人は力と力でぶつかり合った。押したり、引いたりする。そのうち、段々とシノハラが力勝ちしそうになっていく。しかしテルヒはその力を利用して、シノハラを背後に投げ飛ばした。翻筋斗打ったシノハラは、腰に手を当てながら、立ち上がる。
つかの間の睨み合い。
もう、言葉など意味をなさなかった。
今度はシノハラが先に動く。無駄の多いモーション。その隙を見て、テルヒは脇腹を蹴ろうとする。しかし、すんでのところで受け止められると、刃で朴を傷付けられた。
次の瞬間、水たまりに顔から落ちた。
刃が後を追いかける。
それを腕で防いだ。激しい痛みがテルヒを襲う。しかしナイフは少年の腕に食い込み、容易に抜けない。
シノハラの朴を殴った。
利き手ではなかったので、気絶には至らない。お互いに呼吸を荒げながら、また向かい合う。
シノハラは笑っていた。
「馬鹿だな。利き手を盾にするなんて、よ……」
対するテルヒは、右腕からナイフを抜いた。
「こんな、……こんな稚拙な手段でしか、自分を表現できなかったのか、シノハラ。」と、ナイフを背後に投げ捨てる。「誰かを傷付けて、殺さなきゃ自分の居場所が作れなかったのかよ。」
テルヒは泣いていた。
「ああ、お前だってそうだろ? そうだったんだろ?」
「確かにそうだったかもしれない。でも、それでは何も生み出さない。こんな武器を持って、他人を押し退けて、『仕方ない』って目を背けていちゃ、何も、何も……解決しない。」
「それを……お前が言うか!」
シノハラは握りこぶしを作る。
殴った。
テルヒは抵抗しなかった。
「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!」
殴り続けた。
テルヒは、それでも泪を流しながら、シノハラを見ていた。
そして、八回目の拳を振り上げたとき、手を止めた。
「馬鹿だよ……やっぱり、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。」
いつのまにか、シノハラも泣いていた。膝から崩れ落ちる。
「なんでこんな……」
テルヒは口から流れる血と泥を吐き捨てると、立ち上がった。
手を差し伸べる。
「もう、いいだろ。こんなのは止めだ。」
だが、シノハラはキッと睨むと、差し出された手を弾いた。立ち上がると、烈火のごとく毛を逆立てながら、
「俺はお前が嫌いだ。今者ようやくわかったよ。だからもう、お前の顔なんか二度と見たくはない。」
そう言うと、シノハラは彼らに背を向けて歩き出した。
テルヒはその背中を唯見送ることしかできなかった。
これで良いのだろうか。
そう、思わないでもなかった。しかし今者さらどうしようと言うのだろう。時間は戻らない。唯前に進むだけなのだ。
「またね。」
こう口の中で呟くと、テルヒは水売りの方に向き直った。すぐさま水売りの肩を担ごうとする。
「おいおい、反対側にしてくれや。脇腹斬られてんだ……」
担ぎ直す。そのまま歩き出した。来た道を戻るのだ。
だが、ようよう戻ろうとしたとき、壮絶な音が聞こえて、瓦礫が崩れ落ちた。テルヒの来た道から、塵埃が飛んでくる。
それはまた、シノハラが去って行った道だった。
「結局、あのガキは逃げることしかしなかったんだな……」
苦笑するように、水売りは言った。
「俺は、逃げても悪くないと思う。俺もずっと逃げてたから。」
「そうだったな……お前も自分のやらかした罪から逃げてたもんな。爺さんに甘やかされて、さ。」
「あれは、……俺のやったことじゃない。兄さんだったんだ。双子の、兄。」
またしても、沈黙。だが水売りは笑った。
「……んなこたぁ、もうどうでも良い。そいつを裁く奴もいねえし、裁いたって誰も得しないんだ。今者は生き延びることだけ考えようや。」
「ああ……でも、俺、ここの道がわからないんだ。それに、こいつら……」と足元に転がった少年らを見遣る。
「んなもんほっとけ! どうせ雨で溺れ死ぬわけでもないんだから。……ほら、俺が道案内してやるよ。まずそっちだ。」
水売りが左を指差す。テルヒは、水売りの肩を担ぎながら、新宿の地下を歩き出した。
沙漠の地下に広がる、薄暗い迷宮のような通路……それは、この混迷を極めた時代を暗示していた。どの道を選ぶべきかわからない。道を間違えたら最後、自分の居場所がわからなくなってしまう。目的地は愚か、出口すらわからなくなって、閉じ込められた、まるで流れを失った水のように澱んで腐ってしまう。そういうときに、人は外側を、革新を、あるいは救いを求めたりする。これこそが精神の渇きであった。
その渇きを癒す場所が、オアシスだとするならば、恐らくオアシスはこの世のどこにもないのかもしれない。それは全き幻想で、現実とは無縁の、唯の逃避の世界だったのかもしれない。
「そこを曲がれば階段だ。……おい見ろ! 光がある。太陽の光だ……ッ!」
がくん、と身体が落ちる。
テルヒの体力も弱ってきているのだ。
少年は立たねばならぬと思った。だがどうにも膝が笑って立てない。全身の打ち身やら切り傷から泥が入り込んで、力を遮っているようにも感じてならない。
それでも彼は歩き続けた。脚を引きずってでも、地上に這い上がった。
「雨が……止んでる……!」
彼らは空を見上げる。そして、瓦礫ばかりとなった都会の沙漠を見回した。
荒廃しかない。
暴走した人びとの怒りと、悲しみと恨みが生み出した破壊の痕跡が、そこには広がっていた。生き残った砂上の楼閣も、旧文明の復元だ。偽りの時間を模して、なおも現代の惨状を押し隠すかのように欺瞞を重ねているに過ぎない。
この世のどこにも希望はなかった。しかし雲間から差す日差しを浴びて、彼は心の底から生きようと思った。この想いだけは、どんな欺瞞と虚飾にも歪められない、真実だった。
そう思い至った途端、テルヒは疲れが噴出して砂に伏せてしまった。共に水売りも貧血で仆れてしまう。
遠のく意識が聞き取った最後の音は、少女の呼び声だった……