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翌日になっても、雨は止むことを知らなかった。
もはや砂の大地は泥沼と化し、砂丘等で起伏に富んだ箇所は河となってうねりを上げながら海へと疾走していた。迂闊にも近づこうものならすぐさま身体をあの世に持って行かれたことだろう。
現に、新宿においては、その影響はなべてならぬものであった。
「クソッ、火薬が湿気てやがる!」
ニシノが叫んだ。その手には銃器がある。野営地から周章てて雨宿りをして、弾薬を確認したところ、殆んどすべてがダメになっているということがわかったからだ。
「おいっ、水売り! 水売りは居ねえか!」
「なんですかい。」と気だるそうに水売りが現れた。
この数ヶ月のあいだで、水売りの外見は様変わりしていた。まず、かつてのような商業的な仮面は殆んどかなぐり捨てられ、険しい双眸が四辺一帯を睨み付けるようである。さらに、身体はもともと肥えていたわけでもないのになおのこと細くなり、むしろ鋭利になっていると言っても過言ではないほどだった。つまり、決して筋力があるわけでもないのに、さながらこの世の全てを支配しているかのような、他人を威圧する雰囲気を纏っていたのだ。
彼は野盗同然だった抵抗軍の財政を司り、事実上の首領と化していた。食い扶持を作り出す水源を握られた以上は、ニシノも水売りに逆らうことができない。アイはもともと指示待ち人間だから、文句一つ言おうとしない。こうして首領を挿げ替えられた抵抗軍は、まるで背筋を正したかのように様変わりした。まず彼は信賞必罰を旨とした。自らの厳密な調査のもとで、まともな人間とそうでないものを篩に掛けたのだ。この荒廃した沙漠、それも、殆んど不法地帯と化したこの界隈を生き延びるために必要なのは、実力以外の何物でも無かったからだった。篩に掛けられ、洗練された抵抗軍は、ここ新宿の一角を駐屯地として、さらに徹底したゲリラ戦術と補給路を断つ方策を採ることで、拝水教の軍勢を少しずつ削り取ることにも成功していた。その点、作戦に参加しながら、ニシノは水売りの恐ろしいほどの執念と計算高さに舌を巻いていた。
とはいえ、この降雨は水売りにとっても計算外であった。
東京沙漠にも雨は降る。しかしとびきりと言っていいほど少ない。年に一度あればましな方で、下手をすれば二年三年も雨は降らないのである。
こりゃあ、しくじったな、と水売りは思う。だが、待てよ。この誤算はあいつらもそうなんじゃないか?
「ニシノさんよォ、これはむしろチャンスかもしれんぜ。」
「なに?」
「向こうは火薬が濡れたどころじゃねえぜ。あいつら普段から『神がこの世から水を取り上げた』だとか言って戦ってたわけだからな。空から水が降ってきたから、戦う意味がなくなっちまったんだ。」
「つまり、どういうことだ?」
水売りは狡賢い笑顔で言った。それはさながら恵みの雨が笑いを咲かせたかのようであった。
「要するに、渋谷を攻めるなら、今者だ。今者しかない。この雨で大打撃受けてんのは俺らじゃなくてあいつらなんだ。そこを履き違えなければ、勝てる。」
と、水売りはニシノらを見下ろすように言う。
「今者こそあのクソ忌々しい教主の野郎を突き刺す絶好のチャンスだ。早く支度しろ!」
水売りは、もう迷わない。
「今者のうちに地下通路を抜けるんだ!」
* * *
「どういうことだ。」少女は苛立たしげに言った。「秋葉原遠征が中止だと?」
「はい。神の水が舞い降りた、と民衆が騒ぎ立て始めまして、歓喜にもはや戦闘準備どころではないのです。どうか一度渋谷に戻って、方策を、と。」
「巫山戯るな! ここまで来て戻れなんてバカな話があるか!」少女は激怒する。「ここまで来たんだぞ……ここまで……それが、なんでまたしても……!」と囁くように、苛々と言葉を呟く。
その様子を遠目で眺めつつ、シノハラは何も感じず、考えもしなかった。唯頭の中だけで少女のことを嘲笑っていたのだ。馬鹿だな。復讐だとか、神の国だとか、とにかく理想や目的のお題目を外に掲げないと何一つまともに出来やしないのか。
しかもそれが、今者たった一つの偶然で全てが崩れ去ろうとしている。なんて馬鹿げたことだろう。俺らが生きている現実なんて、ほんのちょっとしたことだけで大きく揺さぶられてしまうのだ。なんて繊細で、脆弱なのだろう! もうシノハラは弱さになど興味はなかった。強くならなければ生きて行けないのだ。
陰謀は着々と進んでいる。あのクソ女を殺すのも間近だ……
「報告! 例の水売りの居場所が判明しました! 地下通路を使用して渋谷方面へ向かっている模様。」
「なんだと! 急げ! 奴はこの混乱に乗じて何か仕出かすぞ! 阻止しろ!」
側近の報告で、少女はまたもや怒鳴る。見失いかけた目的をここで見逃すわけにはいかない。そのような想いが彼女を衝き動かしていた。
火花を散らしたかのように、シノハラたち少年兵らは駆け出す。
行く先は、地下通路だ。
地下通路は所々崩れ落ち、瓦礫と泥と濁流に沈みかけていたが、かろうじてまだ人が通れる余地があった。そして幸いにもかつて大きな鉄の箱が通っていたという、巨大な地下空間にまでにはまだそれほど水が降りていなかった。
水売りたちはようやく、駅と呼ばれていた空間に着く。そして線路のところに降り立って、それが足を奪うほどの深さではないことを確かめると、アイを先頭に、次々と部隊を繰り出していった。
そのときだった。シノハラたちが駅に到着し、少年の一人がナイフを投げたのは。
それは、水売りの隣りにいたニシノの首に直撃したのだ。
ニシノは何が起きたのかわかる間もなく、うつ伏せに倒れて死んだ。
振り返る。水売りは状況を察した。
対する側には、少女が勝ち誇ったような笑みを浮かべて構えていた。
「またかい。お嬢さん。」
「今度は取り逃さないよ、この極悪非道。」
「馬鹿言いなさんな。綺麗事並び立てて殺しまくってるあんたがたの方が極悪非道だよ。弱いからって偉ぶってんじゃねえ。」
「立場が分かってないようだな……」少女は拳を握った。「もうお前なんかに未来なんてないんだ。さっさと死ね!」
と、叫んだときだった。少女の首元にナイフを当てられていたのは。
「残念。死ぬのはお前の方さ。」
ナイフを引き抜いた。喉笛が切り裂かれる。少女は仆れた。実に、呆気ない死に様だった。
それが合図として、シノハラの周りの人間が次々と少女の配下を切り殺す。
唖然としたが、一部始終が済んだとき、水売りはむしろ嗤ってしまった。
「バカだな。敵の眼前で仲間割れだって……」
「こんな奴仲間じゃないさ。唯のムカつく上司ってだけ。権力振りかざしてさ、俺らに色んな指示だけ下して、偉そうに胡座かいて……」ごろり、と足で屍体を蹴る。「聞いた話じゃ、あんたもこの女に酷いことやられたんだろ? 良い気分じゃないか?」
「ああ、」と水売り。「でもこんなにあっけなく死なれると、俺はちいとばかし不満があるぜ。受けた借りは同じだけ返すのが俺のモットーでね……」
「ははっ! でもその負債はあの世で返してやりなよ。」
「嫌なこった。第一組織裏切ったてめえが、俺を殺してなんになるってんだ。一文の得にもなりゃしねえぞ。」
「そうだね、お金の得はしないね。」と満面の笑みを浮かべて、シノハラは言う。「でも、俺のやりたいことの前に、水売りさん、あんたは邪魔なんだよ。」
「ハッ! 何しようってんだい。」
「俺らだけの国を作るのさ。そのためにあんたの持ってる水源も、この街も、全部頂くよ。」
少年らがぞろぞろと水売りを取り囲む。そのうちの一人が、ナイフをチラつかせて、
「おい、水源の在り処をさっさと吐けよ。」
このひと言は、水売りに一計を案じるにこの上ない材料だった。
「あー、そうだな。あんな奴みてえに殺されるのはさすがにまっぴらだ。水源の場所を教えよう。だけどな、この雨だから、ちょっと今者使えるかどうかわからねえ。確認がてら、案内させてくれねえか。お前らだって、この街の地下じゃあ迷っちまうだろ?」
こいつ、俺らが新宿の水源を全く知らないって弱みを上手く突いてきやがる……! シノハラは不快なものが胸に込み上げてくるのを感じた。部下の無能さが相手に先行権を与えてしまうとは。しかし、グッとこれを怺えると、
「よし、良いだろう。案内してくれ。」
どうせ、こいつの護衛隊なぞはさっさと行っちまってる。どう形勢を逆転させるっていうのだろう。もはやシノハラは完全に勝ちを確信していた。だからこそ、水売りがこれからどんな策略を練っていようとも、自分の優位は変わらないと考えていたのだ。
水売りは案内をしながら、少年たちの人数を数えていた。筆頭格を含め、六人……一対一の単なる腕力勝負ならなんとか水売りは勝つことができたであろう。しかしあちらは全員刃物で武装しているのに対し、こちらは丸腰だ。迂闊なことじゃあ、生き残れない。この間の失策は幸運で生き延びたが、さすがに二度目はねえ。なんとかしないとなぁ……
「ねえ、」と突然シノハラが喋り出す。「この沙漠にオアシスなんてあると思う?」
つかの間の沈黙。
雨水が滴る音と、水を踏む跫音だけが響いていた。
「なんですかい、いきなり。」
「水源のことじゃないよ。それは、なんていうか、どうしようもない渇きを癒してくれる場所のことさ。こんな、人が群がって、格差と競争で傷付いて、傷つけ合ってるうちに、疲れて、渇いてくるときに、ふっと立ち寄って、潤いを与えてくれる居場所……それを、俺はオアシスと呼んでる。決して水や食料だけを作る農園のことじゃない。わかる?」
「わかりますよ。」
実際、水売りには痛いほどよくわかった。彼もまた、都会の沙漠のなかで渇し、彷徨っている一人なのだったのだから。
しかし、水売りはシノハラが何を言おうとしているのか、わかりかねた。
「俺はオアシスが欲しかった……でもさ、この世界では、オアシスも、水源や、鉄や、石油とかと同じ、数限られた資源なんだ。安らぐために争わなくちゃならないなんて、皮肉だと思わないか? でも、いつのまにかそうなってる。心を寛げるためには、まずその時間と場所を勝ち取らなきゃならない。そして、その時間中、誰の邪魔も入らせないようにしなくちゃいけない。次はカネだ。何もかもが対価を払わなきゃならない。まるで、持ち合わせがない人は無味乾燥に生きて死ぬしかないって感じじゃないか……」
「まあ、それがこの世の掟ですからね。そりゃもちろん、護らないで生きてける奴も居ますよ。ですが、そんなことできるのは強い奴だけですわ。」
「すると、結局弱い奴はオアシスを得る権利がないってことになる。そんなの不条理じゃないですか。」
「不条理も何も、それがルールだからな。負けた奴の恨みごとを聞いたって仕方ない。」
「それが嫌だから、俺はあんたをこうしてるんだよ。」とシノハラは突如口調を変えた。「あんたはここまで生き延びてきたようなタフな人間だ。確かに強いかもしれない。でも、この世の連中どいつもこいつもあんたみたいに強くねえんだよ。」
「俺だってか弱い人間ですぜ。」
「笑わせんな! 水源を、水の手持ちを持っていて、売りさばいてカネを手にして、……俺らなんかなぁ! ゴミ屑みてえな親のもとで育って、教育もろくに受けねえで、社会に要らないって棄てられたんだぞ! あんたみたいな人間は、この世の生存競争に負けた、弱い奴らの声なんざ一言も聞きやしないんだ。『自分には関係がねえ』って、澄ました顔してそう考えて、そっと目を反らすんだ! そして自分だけのオアシスでゆったり寛ぐのさ! 羨ましいよ! 本当に、本当に!」
シノハラは水売りの背中を殴るように、言葉をまくし立てた。
その声を、静寂が少しずつ蚕食していった。
やがて、静けさが空間に満ちてきた頃に、水売りは答える。
「なあ、あんたは『弱い』のか?」
「えっ。」
「一つ感想言わせてもらうなら、もう聞き飽きたんですわ。そういう、恨みごとは。」
くるり、と振り返った水売り。
「先刻の女と言い、お前らと言い、揃いもそろって『私はか弱き人間です』って言ってらぁ、世話ねえよ。弱いならまだしも、当てこすり気味に俺を『勝ち組』だとか言い出しやがる。自惚れやがって! 被害妄想なんだよ。いつからお前らは自分が偉いもんだと思い込んでやがった! ギャーギャー騒いで暴れればこの世の中が変わるとでも思ってるのか! 変わりゃしねえよ。どこに行っても強い奴が幅を利かせて、弱い奴が肩身の狭い思いをするんだ! わかるか! てめえらが『か弱き人間』とか言ってるのは、唯『弱い』と思いこんで被害妄想振りまいてるバカ共の集まりに過ぎねえんだよ! 神だ? オアシスだ? そんなこと知ったことじゃねえんだ! 沙漠に生まれて、死にたくないんなら意地でもそこにしがみついてみろよ! くだらねえ理想論振りかざして祭りやってる暇があるんだったらなぁ!」
水売りの怒号は地下通路一杯に響いた。その間、まるで稲妻に撃たれたかのように、少年らは立ち竦んでいた。水売りの声には、あらゆる苦渋を克服したものだけが秘めている覇気があったのだ。いかな怒りも前には萎縮してしまう、そういう覇気だ。
しかし、シノハラは前に出る。向かい合った水売りに向かって、ナイフを構えたのだ。
「気が変わった。あんた、ここで死ね。」
水売りは歯を食いしばった。もうここまでかな。さすがになんの策も思いつかなかった。怒りに任せて好き勝手言っちまうし、まったくもう、ついてねえよなぁ。
と、思った瞬間だった。シノハラの左隣りの男の後頭部に石が鋭く当たり、崩れ落ちる。何事だ、とシノハラは振り返る。
そこにはテルヒがいた。