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俺には親は居なかった。物心ついたころから兄さんと一緒に孤児院に入ってて、そこで育って……
少年は回想する。思い出した記憶を紡ぎ合わせ、自分がかつて自分であったという証拠を掻き集める。
それは、物語り。
忘れていたけど、思い出さねばならないような気がする、自分の歴史。
少年は新宿を歩き回っていた。殆んどの建て物がもぬけの殻か、瓦礫の山と化していて、かつてなにがどこにあったのかということが、わかりにくくなってきている。しかし、少年の心にはこれら廃墟はすべて自分の生き生きとした思い出に彩られ、喜びや苦しみ、そして言葉にできないほどの深い悲しみを伴って、立体化していくのを感じていた。あそこに居酒屋があって、あそこにはレストランが、それで、そこには狭い通りがあって……
孤児管理者の、子供達に対する扱いは酷いものだった。食べ過ぎれば殴られ、規則を破れば蹴られ、そうでなくても虫の居所が悪ければ暴力を振るわれた。カネもない、身寄りもない、ただただ食料と水を喰らい、何も生産しない……いかにも効率の悪い、見返りの少ない事業のように思っていたのだろうか。とにかく、そこの子供達は、日々殴られないことに目一杯努力をしていた。機嫌を損ねないように、規則を破らないように、そして、食べ過ぎず、飲み過ぎないように……次第に痩せ細り、やつれ、少年たちの知らないところで次々と脱落者があった。気が付いたら居なくなっていたのだ。他の引き取り手が居たんだよ、と管理人は言っていたが、孤児院の裏手の塚山が増える意味をわかると、誤魔化しだと気付いた。
幼少期から周囲を怖れ、迷惑を掛けないような人間になることを目指すとともに、生きることは激しい競争だということもなんとなくわかってしまっていた。うかうかしていれば他人に出し抜かれ、食料や水を奪われる。しかし出しゃ張れば骨を折られて二度と立ち直れないようにされてしまう。だからめいいっぱい努力と知恵を凝らして、他人を欺いて、誤魔化して、出し抜くことだけを考えていた。与えられた規則は守り、仕事はきちんとこなし、しかし不必要に苦労はしないよう、手を抜く。要は気付かれなければ良いのだ。そうした虚飾と欺瞞の化かし合いだけが延々と、砂上の楼閣のように積み重ねられていった。この東京沙漠の現代において、頼るべき親も、安定した精神の地盤もない中で、彼ら孤児たちは、まず何よりも自分自身が沙漠の根無し草であることを自覚せねばならなかったのだ。
テルヒ、というのは、少年の兄の名前だった。
少年自身は本来ヒュウガという名前で、彼らは双子であった。
そのことを思い出すまでに、どうしてこうも時間が掛かってしまったのか、その答えを、ようやく、「テルヒ」は見つけようとしている。
それは、一冊のノートだった。記憶の中で、テルヒが書いたはずのそれには、少年の歴史が残されているはずなのだ。
記憶を頼りに、少年は瓦礫を漁る。
ついでに心の瓦礫から幼年期と少年期の記憶をも漁り、起こしてゆく。
あれは……いつのことだっただろう。ヒュウガという少年は、いつも何かするたびに殴られているような人間だった。典型的に不器用だったのだ。部屋掃除をすれば砂を残してしまうし、水は零すし、言いつけは護らない。何かと言いがかりを付けられては殴られて、何かあると冤罪を掛けられ、蹴られた。それを庇って、テルヒは傷付いていた……
「あった!」
ある廃墟の中、古びた棚の、奥底に、瓦礫に隠れたそこに、ノートがあった。黄ばんでいるが、まだ残っている。
拝水教の爆破テロによって、所々破壊され、もはや新宿の東側からは人口が居なくなってはいたが、その廃墟と瓦礫の跡からはかつての生活や人がいた痕跡が残されていた。例えば、椅子とテーブル、台所、本棚、散らかった玩具、などなど……
あの頃、俺は、青少年グループに所属して、盗みや乱闘をよくやっていた……それもわずか一二年程度のまえなはずなのだが、すでに遠く過ぎ去ったことのように思えてしまう。あたかも断絶された、「戦争」の歴史のように。だが今者の今者まで無視し続けていた昔者の出来事を、たとえそれがいかに辛くて苦しくて切ないものだったとしても、思い出さねばならない時期が来ようとしていた。
ノートを、開いた。
* * *
最初、書いてあることは酷いものだった。文字を習いたてだったせいだろうか、序盤などは主述の関係がめちゃくちゃだし、ところどころ奇を衒っていたのか、倒置法やらいろんな技巧を理由なく用いているから、読みにくいことこの上ない。
ようやく文字が読めるようになったとき、ノートにはこんなことが書いてあった。
『ヒュウガは負けん気が強く、そのためにいつも殴られていた。たぶん、名前のせいだろう。日に向かうと書いてヒュウガだ。何かに逆らいたがる気質を、名前から受け継いだのかもしれない……僕はと言えば、お日様が照ると書いてテルヒだ。どちらかといえば物静かで、本ばかり読んでいる。もともと本が好きだという理由で言葉を教わったぐらいだ。管理人は嫌そうな顔をしたけど、ちゃんと教えてくれた。暴れるよりは静かに本を読んでる方が良いと思ってたのかもしれない。……』
『孤児院ではしょっちゅう争いがあった。管理人の暴力もひどかったけど、いつの間にか誰が偉いかとかで、喧嘩がある。いじめもある。僕だって虐められた。最初は読んでる本を隠されたり、酷いときは続きのページを破られていたりした(まあページ破きはばれて懲らしめられたので、二度と起きなかったけど)』
『ヒュウガは僕とは違って、頭より手が動いちゃう人間だった。すぐ手が出る。行動しないと気が済まない。じっと落ち着くこともできないから管理人にはしばしば怒られていた。それに、出る杭は打たれるって言うんだろう。周りからも虐められてて、なかなか馴染めないままだ。僕はあとでそういうヒュウガに手を差し伸べて、いろいろ聴いてあげることにしてる。だって、兄だもの。双子だけど。』
と、ぱらぱらページをめくる。
だんだんと文章がしっかりして、読みやすくなる。まさに昔者が今者に近づこうとしている。
そんな中、あるページで立ち止まる。
『ある日、ヒュウガは出て行った。理由は管理人との喧嘩だった。出て行けって怒鳴ったところ、平然と出て行ってしまったのだ。それから八時間。もう日も暮れかけている。さすがに管理人も心配したらしく、探しに出ることになった。一晩中探したが、見つからなかった。』
たぶん、野童グループに居たころだ、と少年は思う。あの頃、俺と管理人と合わなくなって、もう居場所がないと、出て行った。そこで野童たちの中に入り、グループ間の闘争をよくやっていたのを思い出した。
『ヒュウガは帰って来なかった。管理人はそこらへんでのたれ死んだと思って、荷物を処分してしまったらしい。僕はとても淋しかった。ヒュウガと僕とは、まるで正反対の性格だったけれども、もともと二人で一人、みたいなところがあったからだ。しかも弱ったことに、ヒュウガを好き勝手に虐めてた連中が、散々手間をかけさせただのなんだと言って、僕を虐めるようになった。ご飯を盗られ、掃除を押し付けられ、……雑多なことばかりが僕を悩ませて、僕の居場所が失われていった。でも、僕はあまりにも弱かった。あるとしたらただノートを書いて、整理することだけだった。』
『僕は居場所が欲しかった。ある日お腹を空かせて歩いていたら、通りにたくさんの人がいた。通り過ぎるとき、炊飯の匂いがしたからつい寄ってしまった。どうやら、水や飯を配っているらしい。僕は久々のご飯にありついた。ついつい二杯も食べてしまったけど、笑顔でご飯を盛ってくれた。孤児院では、お代わりするだけでも殴られていたというのに、この違いはなんだろう。周りをみれば、僕と同い年か、もっと小さい子供だっていた。みんな笑顔だった。満足な顔をしていた。そしてそのとき僕は初めて気がついた。自分の渇き、言葉にしようもない、淋しさみたいなものを。』
『それからというもの、僕の居場所は孤児院じゃなくてこっちになった。辛い現実よりもこっちに居る方が、楽しいのだ。ここには笑顔がある。僕が何かやっても、許してくれるし、無理に肩肘張る必要もないのだ。素直でいて許される場所は、僕にとって、何よりも変えがたい居場所だった。喩えるなら、それはオアシスなのだ。お腹がいっぱいで、渇きに悩まされることもなく、他人を怖がる必要も、蹴落とすこともない。なんて優しいんだろう。今者までを考えると信じられないくらい、疑いたくなるような環境だった。でも、まだ悪意はない。少なくとも教主様(とその人は呼ばれていた)は僕らをどこかに売り飛ばそうだとか、そういうことは考えていないらしい。』
『でも、ある日から教主様は変わった。「水組合を許さない!」と怒ってばかりいた。僕が尋ねると、水組合が俺らの水を奪ったのだ、と言う。詳しく聞いてみると、何か手続きをしないと、水源は組合のものになって、誰もこれを取ることができないのだとか。その日以来、ご飯は減り、水も少なくなり、残りものを盗り合う日々がやってきた。孤児院の再来だった。』
『僕らは飲み食いする物以前に、心を貧しくしてしまったのだ。つくづく、そう思う。もう教主様は水や食料を配る優しい人ではなくなってしまった。武器やら何やらを買い集め、大人たちと物騒な話をして、僕らに水を渡さなくなってきた。「すまんなぁ、水源さえあれば……」て、よく口癖のように言っていたけど、その眼が憎しみで燃えていたのをよく覚えてる。教主様の心が渇きはじめていたのだ。何もかもが渇いて、ギスギスとして、崩れ去ろうとしている。そんなのは嫌だった。せっかく得た僕の居場所が、こんなに無様に奪われてしまうのが許せなかった。だから決めたのだ。この事態を引き起こした水組合の人を殺そう、と。』
少年はハッとした。あの日。自分は何をしていたのだろうか。俺は……確かそのとき、街に繰り出していて……
ページをめくる。
『とうとうその日がきた。爆薬は教主様が取り寄せていたのを幾つか盗んできた。すでに新宿かたぶき町に水組合長がいるとは聞いていた。だから、何か変なことさえなければ、上手くいく。
僕は間違いなく死ぬだろう。でも構わない。僕はもうこの世界でひとりぼっちなのだ。死んだって構いやしない。誰も気にしないんだから。たとえ死んだとしても、それが誰かの為になるのであれば、まだ、今者までの人生に比べれば、ましだと思えるはずなのだ。
強いて言うなら、このノートは僕生きた証だ。誰に宛てたわけでもないけど、もし生きているなら、このノートは弟ヒュウガに渡したい。この世で唯一の肉親。そして、もう二度と会えないもう一人の僕へ。』
ノートは、ここで終わっていた。
そうだった。あの日、この街で爆発があったとき、俺は、俺は……!
この瞬間、銃声が聞こえた。
近い。
そう直感すると、彼は飛び出す。
外では雨が降り始めていた。
通りを曲がり、音のした方へ走る。渇きに満ちた砂は、少しずつ泥濘み始め、足を取られたが、それでも前へ進んだ。そうでなくてはならぬような気がしたからだ。
あの日、「テルヒ」に手を伸ばしても届かなかった。声をかけようとした瞬間に、それは起こったのだ。
もう少し手が伸ばせたのなら……! そう悔やまずにはいられない。そして、あまりにも本人のイメージからかけ離れていたために、それを嘘だと信じたかったかもしれない。自分には、親も兄弟もなく、生まれたときからずっと独りで生きていた、と。
真実は、時として自分にも耐え難い。だからこそ少年は自分に嘘を吐いて、誤魔化して、掻き消そうとした。そうでないと、正気が保てないからだ。
しかし。
「……カレン。」
また一人、死んだ。
テルヒは激しい後悔に駆られた。自分が一人でウジウジと悩んで、何もかもを忘れ去ろうとしているうちに、現実はこうまで変わってしまった。多くの人が死に、知り合いまで逝ってしまっていた。
こんなはずじゃなかった。
でも、もう戻ることはできない。
彼は初めて時間を呪った。行きて戻らぬ生命の時間を。自らの生を制約する時間の限界を。
泣いて挫けている暇などなかった。
現実を直視せねばならぬ時が来たのだ。
少年は走り出す。気が狂ったような現実で、それでもその中で生き抜くために。




