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新宿は荒廃していた。
砂上の楼閣は破壊され、崩れ落ち、かつての喧騒は欠片ですらその面影を残していない。しん、とただただ死んだような静寂が潜んでいるだけだ。この惨状はあたかも、昔者世界を灰燼に帰したという戦争を髣髴とさせるようであった。
おそらくは日暮れなのにもかかわらず、空が灰色一色に埋め尽くされて、暗いということも、その死に絶えた感を増している要因の一つだろう。どんよりとした薄暗さが垂れ込めるような景色には、もはや希望らしき希望などまるで存在せず、すべてが破局に向かってしまうような予感しかさせないのだ。
そんな中で、動き回る人影が一つ。
瓦礫の影を通り抜けるように、ひょこひょこと歩いている。
だが遠くで人の声が聞こえた途端、物陰に隠れた。そして息を殺して様子を窺うように、耳を澄ませるのだ。
「この辺だ! 調べによると、水売りはこの四辺に潜んでいるはずだ。しらみ潰しに探せ!」
それは女の声だった。
あとから少年たちの返事が聞こえる。
その中には、隠れている影がよく知っている声も混じっていた。
シノっち……あんたなんで、拝水教に入ったの……?
カレンはその疑問を確認するために、ここまで来たのだった。あの日……セキ老人が殺された処刑場にはカレンも潜んでいた。飽くまで物陰にいただけであるが。
逃亡中、セキ老人が連行されるのを発見したから付いてきたのであるが、見れば、処刑人の側にシノハラの姿がある。驚愕せずにはいられなかった。
なんでシノっちがあんな連中と……?
カレン自身、シノハラという人間は自分の良かれと思うことを他人に押し付けてしまう癖があるとは思っていたが、狂信的な信条に身を任せるような人間だとは考えたことがなかったのである。渋谷を出るに出れなくて、隠れ潜んでいた間じゅう、ずっと彼女はそのことを疑問に思っていたのだった。
そして、秋葉原遠征軍が派遣され、渋谷の監視網が弱まるのを狙って街を出ようと待ち構えていたところ、シノハラが同年代の少年少女らとともに歩いてるのを見かけたのだ。本当なら逃げるべきだったのだろう。しかし、好奇心に駆られた。出来ることなら会って話してみたいと思った。すでに知り合いの多くは死に、あるいは散り散りになってしまっていた。どういう魂胆で彼は拝水教なんかに入ったのか、聞いても大丈夫だろう、とカレンは楽観したのだ。
なので、少女の指示のもとで、解散した少年らを観察し、シノハラと思しき人物を見つけたあと、カレンはその影を追いかけた。それはまるで、過ぎ去ってしまった時間の面影に縋っているかのようでもあった。
「……い……奴の背後……殺せば……」
誰かと話している。片方はシノハラのものだったが、もう一人は知らない人の声だ。立ち止まる。そして耳を傾けた。
「まだだ。」とシノハラ。「まだあいつは部下を信じちゃいない。というか、あいつは俺らのことを復讐のための道具ぐらいにしか考えちゃいないんだ。それしか見えてないからな。」
「まったく、何が楽しいんだか。」
「まあ、反抗軍の連中の水源を担ってるのは確かなんだが、それにしてももっと効率の良いやり方があるのを、頑として受け容れようとしない。目的を自分のにすり替えて、崇高なものに祀り上げてるって感じだな。アホくさい。そんな我儘で生命を落とすなんざ、洒落にならないぜ。」
「じゃあよ、いつあいつ殺るんだ?」
「機会は来る時に来るんだよ。水売りを殺るその瞬間に、一緒に始末しちまえばいいんだ。だからそれを待つんだ。ただし油断はするなよ。その時が来たら、あいつの手下も一気に殺るからな。さすがに俺一人じゃ殺りきれない。」
「よしわかった。」
「おいそこ! 何してる!」
少女の怒気混じった声が響く。
シノハラは何気なく手を振って、
「地勢の確認をしてました。直ちに調査に入ります。」
「早くしろ!」
「はい。」
と、会釈をしてシノハラともう一人が動き出す。シノハラが一人になったので、カレンはそれを追いかけた。
彼が砂上の楼閣の影に入り、少女の視野から抜け出たところを狙って、カレンはシノハラの肩を叩こうとした。
が、シノハラは俊敏な動きでその手首を掴み、捻りあげる。激痛がカレンを襲った。
「痛いっ!」
そう言ったとき、ようやくシノハラはカレンの正体に気がついた。手放す。
「……カレン? どうしてここに?」
「追ってきたのよ。渋谷で、あんたが人殺してたの見たから……」
手首を摩りながら、言う。
「それよりも、私の方が訊きたいわ。なんであなたがこんな、人殺しの手伝いしてるわけなの。しかも、先刻もまた殺すとかなんとか話してたみたいだし。」
シノハラは眼を見開いた。
「聞いていたのか。」
「ええ、たまたま聞いちゃったのだけど、」
言い切るか言い切らないうちに、シノハラは拳銃を引き抜いた。銃口がカレンを向いている。
カレンは戸惑った。
「えっ、なんで。」
「秘密を知った人間は死んでもらわないとな。余計な口は塞がなきゃいけない。」
冷たい声。それを聞いて初めてカレンは目の前の人物がかつて見知ったものとは別人であることを悟った。
「あんた……何しようとしてんの。」
「なにって。新宿を乗っ取るのさ。すでに手筈は整えてある。あとは恰度いい時期を窺うだけだ。」
「なにわけのわからないこと言ってんのよ。馬鹿も休み休み言って!」
シノハラは口の端を上げた。
「馬鹿だって? そうさ、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ! 宗教に、復讐に、とにかく何かに狂ってる奴らばかりじゃないか! 俺はただそっと静かに暮らせる居場所が欲しかっただけだ。だけど、こんな御時世じゃそんなささやかな我儘ですら許されない。まともな土地、水、資源、これは全部限られたもので、俺らの我儘を叶えるようには分配されないんだぜ! 戦わなくちゃならないんだ! 馬鹿な連中と同じくらい馬鹿になって、殴り合い、殺し合い、勝った人間だけが残されたものを自由にする権利を持つんだ。弱者や敗北者になんかちっとも優しくないこんな世の中で、生きたかったら何でもしなくちゃならないんだよ。それが人殺しだろうと、裏切りだろうと、陰謀だろうとな!」
ぱん、と銃声が鳴った。
始めは、自分が撃たれたのだということに気がつかなかった。しかし、だんだんと痛覚が全身をじわじわと責め立てるにつれて、カレンはこの傷が致命傷になるであろうことを素早く直感したのである。
縮こまるように、彼女は砂に倒れ込んだ。
「どうせすぐ死ぬからもう少し、冗舌ることにするけどさ。俺が拝水教に入ったのは、すべて自分のためなのさ。もう、誰かのために何かするのに飽きたんだよ。見返りは来ないし、疲れるだけだし。だから、全部自分のためにすることにした。邪魔な奴は殺す。都合のいい人間はとことん利用する。今者まで良い子ぶってたのが馬鹿らしいくらいに何でも出来るんだぜ。……」
そこから先は、カレンの耳が遠くなって、聞き取りにくくなる。嗟呼、何もかもが遠い。生きるためなら何でもしてたのに、それが辛いから、私はなにの変哲もない日常を愛していたというのに……その日常に裏切られたんだわ。何もかもが壊れて、信じられなくなって……でももうこの苦しみは、引いていこうとしている。私は死ぬんだ。死んで、すべて終わる。……
死ってなんだろう。それは生の苦しみからの解放? 人生のピリオド? それとも、自分が自然に還る瞬間? ……よく、わからない。でも、でも、……とカレンは止め処ない想いの流れの中で、意識を保とうと努力する。マスターだって、あのお爺さんだって……あんな死に方をしていい人たちじゃなかった。私だって、こんな死に方じゃ満足できない。死にたくない、死にたくない! 生きてることが不条理だって言うなら、死ぬことはいつだって理不尽だわ! こんな、こんな……
カレンは思考を止めないように心掛けながら、ひゅーひゅーと嗚咽を漏らした。胸から赤い水が零れてゆく。生命の水が沙漠の砂に呑み込まれて、死の渇きが身体を冒してゆく。泪が溢れ出した。死の渇きが無味乾燥なものだとするならば、生は感情の潤いに浸されている。しかし死に瀕して流す泪は、あまりにも理不尽な死に対する懸命な抵抗だった。
「……また、一人殺した。もう何人殺ったかな。あと少しだ。あと、少し……」
カレンが最期に聴き取った言葉は、それだった。
「おい、銃声が聞こえたぞ。なにがあった!」
シノハラは振り返る。そこには彼の上司となる、少女の姿があった。
「別に。敵の密偵がいたから殺したまでだ。」
「そうか。なら問題ない。」
女が踵を返そうとした瞬間、何かが旋毛を直撃した。何だ、と思って見上げる。それに対して、シノハラは下を向いていた。渇いた大地に黒い染みのようなものが、点、点、点……と刻み込まれている。そのペースはどんどん速くなって、やがてこの世のものとは思えないほどの洪水が、空からやってきた。
雨が、降ったのだ。
思いがけぬ、天からの水が。




