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 索漠(さくばく)とした倉庫。そこに少女がいた。先刻(さっき)までもう一人、少年がいたはずだったが、今者は居ない。

 ひとりぼっちだった。

 まるで、風のように去って行ったわ……とユィハは思う。あの子は突然現れて、突然去って……何から何まで突然で、極端。でも、それがむしろあの少年らしいかもしれない、とも思っていた。まだ自分の居場所が分からず、悩みに悩んで、それでも動かずには居られない。何かをしていないと、生きている資格がないのではないか、という恐怖は、自分の身にも覚えがあったのだ。

『どうしても、取りに行かないといけないんだ。でないと、まだ、俺が此処には居ちゃいけない気がする。』

 テルヒ、と名乗っていた少年は、真剣で、しかし切実な顔でそう言っていた。それをユィハは止めることができなかった。口惜しい、と思う反面、仕方ない、とも思っている自分が居た。

 誰しも生きることに不安を抱えている。生とは一回切りの、修正の効かない、まるで直線的な時間を駆け抜けるしかない徒競走みたいなものだと考えてしまいがちだ。どれだけ速く、他者を出し抜き、自分が優れているかを証明し、序列に入ることで人生の意味を決めてしまう。それはあたかも、序列に入らなければ自分が自分であることすら認められないかのような、残酷な弱肉強食の世の中でもある。なぜ振り返って意味を問いただすのではいけないのか? なぜ立ち止まってはならないのか? 時間は絶え間ない流れのようなもので、さながら生まれつき持ち合わせている人生の残金のように考えられてしまっている。確かに、どんな人間であれ、いずれは死ぬであろう。生きている時間とは、水のように掴んでも指の間から滑り落ちて、渇いた大地に吸い取られて、消えてしまうように思われてしまう。だがその無常さに耐えられないのだ。自分が今者の今者まで為してきたこと、そしてこれから為すであろうことに対して、意味の根っこがあって欲しいと願ってしまうのだ。

 記憶がないとは、どのような状態なのだろう。それは、自分が今者まで生きてきたという証を持たないということではないだろうか。なぜ自分がいるのか? なぜ自分がこの世に生を受けたのか? そして、なぜ自分は生きているのか? 記憶は、自分の成り立ちを知る歴史である。それは物語だ。言葉に紡がれた日々の思い出だ。それを喪えば、忽ちにして、自分の居場所が分からなくなってしまう。心は荒れ果てた沙漠の中を彷徨い、常に渇きに苦しみながら、砂上の楼閣で囲まれた文明にも縋ろうと、必死に己れの拠って立つところを探して求めるようになる。文明はひと時の悦びと安らぎを与えてくれるかもしれない。だが、ユィハや少年のような文明の新参者にとっては、それは見せかけの、虚飾に充ち満ちた息苦しい閉塞感しか与えない。

 だから彼女もかつては悩んだものだった。工房で武器を修理したときの、あの、殺人に手を貸したような罪悪感は、まだ彼女の中でしこりとなって残っている。唯生きるために素知らぬ顔で誰かを殺す手伝いをしていけるだなんて、考えるだけでもゾッとする。生存のために何かを犠牲にしなければならないという規則が、仮に変えられなかったとしても、その事実をはいそうですかと納得することが未だできないままなのだ。

 なら、いいじゃない。私にも、こんな世の中で生きている意味を教えて欲しい。あの子が自分の忘れ物を取り戻して、何かが見えたとき、私はその忘れ物を見つけるきっかけになれたんだって、誰かの為にはなれたんだって、そういう理由でもなんでもいい。自分が居たという証が、生きている価値や意味が、あったっていいじゃない。

 たとえそれがちっぽけな理想論だったとしても、生きるってことは、そうでなくちゃ到底耐えられる代物ではないのだから。

「テルヒ、そこにいるのか?」

 トオルの声がした。振り向く。

「ユィ姉、テルヒ、知らない?」

「彼、行っちゃった。」

「え?」

新宿(あらやど)に大事なものを忘れてきたんだって。」訳も分からず、ユィハは微笑んだ。「脇目も振らずに走って行っちゃった。」

「まじかよ。」苦笑する。「まぁ、でも、心ここにあらずって感じだったからな。いつかこうなるかも、とは思ってたけど。まさかね。今者行っちゃうなんてねぇ……」

「でも、良いんじゃない。何もしないでくよくよしてるよりも、何かしなきゃともがいている方が私は好き。それも、空っぽな中身を誤魔化すんじゃなくて、自分がどうすればいいのか、必死に考えながら何かしてるようなのが。」

「むっつかしいなぁ。」

 へへっ、と鼻を指でさする。

 と、そこに物音がして、親方とレイナがやってきた。

「あれ、親方。早いね。」とユィハ。

「取引自体は早く済んだんだがな。それに嫌な知らせを聞いたから、寄り道しないで帰ることにしたんだ。」と親方はいささか早口で喋る。「秋葉原(あきばはら)が攻め込まれるらしい。それも、ここ数日以内に、だ」

「えっ、まじ?」

「いつ来てもおかしくなかったんだけどね。」とレイナ。「どうもきな臭くなってきたみたい。水商売(ウォータービジネス)関連の人たちみんな、東京沙漠の外に出るとかなんかでゴタついててさ。」

「酷い。自分だけ助かろうってことなの。」

 ユィハは唇を噛んだ。

「標的は主に彼らだからな。まぁ、当然の判断だと私は思う。そこで、だが、私たちも店仕舞いをして疎開する支度をしよう。……ところでテルヒは?」

「出て行ったよ、新宿(あらやど)に行くって。」とトオル。

 親方は目を見開いた。

「いつのことだ?」

「つい、先刻(さっき)。」

「馬鹿野郎! なんで止めなかったんだ!」

 怒鳴った。ユィハは、親方が怒るのを初めて見た。しかしすぐに親方は冷静さを取り戻すと、

「……言っても仕方ないか。」

 と渋面を作る。

「ごめんなさい。」

「謝ることじゃない。」

「でも、」

「お前たちが責任を負えることじゃないんだ。悩みを聞いてやれなかった私も悪かったし、そう信じてもらえなかったのにも非がある。やれやれ。身内が戦場に行くって言うなら、放って置けないじゃないか。」

「まあ、それに、逃げても助かる保障はないしね。」とレイナが付け加える。

「おい、トオル。運び屋からトラック借りてこい。あの子を連れて帰るぞ。」

「わ、わかりました!」

 言われてトオルは駆け出した。

「レイナ、すぐに荷造り。」

 頷いて、レイナも去る。

 あとにはユィハと親方だけが残っていた。

「……あの、すみませんでした。」

「だから謝ることじゃない。」

「だって、私が、」

「飛びたがってる小鳥を、放してやることは謝るべきことなのか?」

「いえ。」と目をそらす。

「謝ってどうにかなるなら私も怒りはしないさ。問題なのは、周りを見ないで、自分だけで解決できると思い上がってることだ。何に責任を感じているのかはわからない。が、それは一人で背負って、どうにかなるものではないだろう。そのために私みたいな保護者はいるし、今者からその役目を果たさなきゃならないと思ったまでさ。」

 そこまで言うと、まるで自嘲するように微笑んだ。

「ユィハ。私だって、自分が作ったものが人を殺していて、私が人殺しの手助けをしているだなんてことを好きでやってるわけじゃない。だからこそ、いや、しょせん罪滅ぼしに過ぎないのだろうが、私は、君たちみたいな親を知らずに育った子供たちをなるべく面倒見ようと思ったんだ。だけどね、生命に責任を持つなんてことは生半な覚悟では許されないことなんだ。唯でさえ一人生きるのですら辛い世の中で、他人の面倒を見ていられるほど余裕を持ってなんかいられなかった。それこそ自分だけ罪悪感から逃れようとするだけの気休めに過ぎなかったんだ。そんな中途半端な気持ちで人助けなんかやってみろ。いい迷惑じゃないか。」

 ユィハはハッと胸を抉られるような感触がした。

「半端に関わるぐらいなら、最後まで関わった方がいい。私はそうするつもりだ。君もそうしたいのなら、彼を見送るだけじゃ不味かった、と私は思う。失敗しても帰って来れる場所こそが自分の居場所なんだ。決して自分から探しに行くもんじゃないさ。」

 親方は淋しそうに微笑んだ。

「だから、私たちも責任を果たしに行こう。人間は一人では生きられないのだから、ね。」

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