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少女は名をユィハと言った。秋葉原の方に住まう、機械技師である。尤も、その仕事は作るより直す方が多いし、大した実入りがあるわけではないが、別段貧しいというわけでもない。その身なりはいささか汚れていたが、風貌は逆に小ざっぱりとしていて、最低限の身の手入れはできているようである。それが、どことなくこの世の中では異質に見えるような気品を醸していた。
そんな彼女は、職場の親方の言いつけによってかたぶき町へ出張っていたのだった。そこで、例の混乱に巻き込まれたわけである。しかし、事件は取引きを終えた直後に起きた。つまり、ユィハは最初から屋内に居たのである。彼女は事件が終わるのを待って、外に出た。これは彼女の過去のためであるが、今は語るべきときではない。ともかく彼女は、死傷者のなかから助けられる人を助けたいと思っていたのである。
そこで少年を見つけた。
彼は生きているのが不思議なくらいであった。脇腹を撃たれたらしく、そこから血が流れていた。まるでペットボトルに空いた針穴から、水が染み出して行くような流れ方であった。すでに眼から輝きは失せ、虚ろになりつつあった。彼女はその姿に昔者の己れの姿を見た。ゆえに助けたいと思う気持ちがいっぱいになっていった。先ずは彼を仰向けにした。傷口を診る。砂だらけで、赤黒く汚れている。止血しようにも、汚れているから感染病になる可能性があった。それだけではない。頭を強く打ったらしく、頭からも出血がある。よく呼吸があるものだと彼女は驚きを禁じ得なかった。
とにかく、今一番必要なのは……
彼女は素早く頭を回した。親方からいつも教わっていること、身体感覚にまで染み込ませた思考が動き出していた。周りを見る。硝煙の臭いが漂うかたぶき町、銃痕を彫りつけられたコンクリートの壁、ひび割れた音を鳴らし、明滅するネオン、……四辺はすっかり静寂なる混沌に覆い尽くされていた。彼女はそのなかで、全身を緊張させつつも何がどこにあるのかを確かめていった。すると、ちゃぽんと鳴る音が聞こえた。振り向けば、そこにまるで居合わせたかのように水売りの姿を見つけた。彼女はそこに好機を見出した。
「ちょっと、あなた!」
ユィハは指差すように、声を掛けた。不意打ちを受けたように反応した水売りは、ぎこちなく振り向いた。少なくとも彼女にはそう見えた。
「あなた、水売りよね? 悪いけど、水をお貸ししてくれないかしら?」
少しの間があった。
「あ、はい。」
水売りはユィハの考えるより一拍遅れて動いた。そのぎこちない所作には、どことなく後ろめたいものがあるようにすら見えてしまう。彼はのろのろとペットボトルを取り出した。
ユィハは目を細めた。……この人は何を考えているのかしら? この後に及んで、自分だけが助かったからって、逃げ出そうとでも言うのかしら? だが、彼女にはその問いを口にする暇がなかった。ユィハは自らの衣服を裂いた。その切れ端に透明な水を染み込ませ、少年の傷の汚れを拭ってゆく。傷口に染みるのだろうか、少年の虫のような呼吸が、幽かに乱れるのがわかる。
次に必要なものは……
「水売りさん、包帯か、綺麗な布、お酒とか、あります?」
「え、ええはい。」
「直ぐにお願いします。」
「はい。」
水売りは黙々と従った。だが、その内側には行き場のない怒りが込み上げていた。畜生、なんで俺はこんな奴に水を差し出しちまったんだ。俺の日々の努力の結晶を、俺の生活の糧を、どうして、どうしてこんな奴に、しかも無料で! ……だがこれは言っちゃいけねえことだ。もしふとした拍子にでもこれを口にしてみろ、「あなた正気なの?」と言われるに決まってやがる。この場合、黙って従わないといけない。なぜって、これが人間に最も必要な倫理ってやつなんだからなぁ! 倫理的に生きるってのは、何かあったときに何でもかんでも差し出せるような、広い心を指すんだろう。だが、わかるか! 富める者が死に瀕している者を救う義務なんて、どの法律が決めたってんだ? 俺はいつでも法律を護る、善良な市民じゃないか。それが、いつもいつも法律を破ったり、法律なんて二の次のような連中に出し抜かれて行くんだ! まったく、世の中は理不尽だ! 不条理だ! ああ畜生め!
ユィハはそんな水売りの内心になど興味がなかった。彼女はただ、己れの内側の声に従っていただけだった。
やがて、ぞろぞろと救急隊がやってきた。彼らは、職業上の義務に拠ってやってきたのである。だが、彼らは傷病者を全て治療しなかった。それどころか怪我人に近付くなり、こう質問したのである。
「あなた、薬は非常に高いですよ。あなたはそれだけのお金を持っていますか?」
新宿は複製都市のなかでも、比較的貧しい区域だった。それを承知したうえで、この質問であった。もちろん、多くの怪我人はそれだけの金は持っていない。つまり、首を横に振る他なかった。なかにはこのように言うものもいた。
「借金をしてでもいい。……助けてくれ!」
「その場合、物凄い額になります。あなたはそれを生涯掛けて払うことができますか? できないとしたら、ご家族の方にも背負ってもらわないといけないのですが、」
「それは……」
そこから先の句が継げない。その人間のなかでは、恐ろしい未来のヴィジョンが見えていたからである。そして、彼は計算に計算を重ねたすえに、絶望とともに自分の死を選んでしまうのだった。それがまだましだから……
周囲には死の匂いが漂っていた。それは、アスファルト舗道に流れる血の臭いであり、硝煙の臭いであり、絶望の雰囲気が放つ腐ったような臭いでもあった。ユィハはそれらの匂いが嫌いだった。そもそもこの沙漠に屹立する複製された世界があまり好きではなかった。体裁だけが上手く作られた、偽善の世界……彼女の観念はこのような言葉を編み出していた。もとより彼女は救急隊なぞ信じていなかったが、現状を目の当たりにして、すっかり溜め息を吐きたくなった。
と、そこに水売りがやってきた。
「すみません、消毒に使えそうな酒は高級品なんで、流石にムリでした。」
むしろあったら俺が飲みたいね、と彼は内心毒づいた。
「ありがとう。」
彼女は新たに得た布で、止血した。すでに彼女は、膝小僧が見えるほどに、自分のへそが見えるほどに自分の服を破いていたのだった。
ふう、と彼女は心の中でひと息吐いた。
「あと、水売りさん。申し訳ないのだけれど、この人をベッドに寝かせてあげたいの。私一人じゃムリだから、おぶさってくれませんか?」
「……はい。」
やれやれ、もうこうなったらヤケクソだ。その倫理的な行為にとことん付き合ってやろうじゃないか。水売りはこう腹の中で考えていた。いつかその理不尽な行為の見返りをもらわにゃ、こっちが保たねえ。
だが、一方でユィハの関心はこの場と、少年の命のことだけであった。こんな絶望の空気を吸っていたら、たとえ傷が癒えたとしてもこの人は死んでしまう。なら、早くこの酷い空気の外に出さなきゃ。彼女は水売りを導いて、かたぶき町から出た。大通りには野次馬と往来でごった返していたが、それを「怪我人運んでるの!」と叫ぶことで除けて行った。むろん、叫べば叫ぶほどに咽喉が渇く。しかしユィハはその渇きを自覚しなかった。時間が惜しい。その思いだけが彼女に己れの渇きを忘れさせた。
ざわざわと蠢いている雑踏を掻き分け掻き分け、ユィハはついに自分が泊まっている家屋に着いた。そこは、酒場の二階にある貸し家である。すでに日も暮れた現在、酒場は多少手持ちのある人びとで賑わう附近でもあった。
軋む階段を登る。露出の多いユィハの姿を見て、奇抜な売春婦と勘違いする輩もいたが、彼女はそれを鋭い目つきで払い除け、背後から来る怪我人を通すことに専念した。
「ふう、」と部屋に着いたとき、ようやく彼女はひと息吐いた。そして水売りにベッドの位置を指示し、自身は椅子に腰掛けた。あとから水売りがやってくる。
「ねえ、水売りさん。私咽喉渇いちゃった。お代は出すから、コップ一杯くださる?」
「すみません、コップでの計量販売はしておりませんので……」
ユィハは苦笑した。
「あなた、そういう商売根性は曲げないのね。どれくらいの量からならいいの?」
「へえ、リットル五百円からです。」
「ふうん。」
何か言いたげな様子だったが、彼女は敢えて何も言わなかった。ただ五百円を出しただけである。水売りはにこやかに笑い、ペットボトルをテーブルに置いた。
「毎度あり。」
ユィハは返辞をせずに、コップに水を満たした。そしてそれを、ごくりごくりと咽喉を鳴らしながら飲んだ。水売りはその一見無防備でありながら、どことなく緊張した姿に見惚れてしまった。
彼女はコップを置いた。
「あー、やっぱりいい気持ちね。美味しい水を飲むのは。」
そりゃそうだ、と水売りは思う。活性炭を何個使ってると思ってやがる、この女。この水を清めることだけが俺の最も大事な努力なんだ。ケチでもつけられたら、俺のプライドが赦さねえ。
「どうも、ご馳走様。美味しい水をありがとう。」
「へへ、どうも。」
「ところで、まったく世も末ね。あなた、あの救急隊の言葉を聞いてた?」
「ええ、まあ。」
だが水売りにとって、救急隊の言い分はさほど矛盾することではなかった。対価を持たない人間に、それに見合うものを得られるわけがない。ある結果が、偶然であれ必然であれ、成就するならばそれだけのものを持っているのだ。それを、例えば「ない人から毟り取ると言うの! 人でなし!」と怒り狂うのは著しい感情論であり、無駄なことのように思われた。ならば……、と水売りは思う。自分がまったく偶然に死の危険に瀕したとき、それを誰かに助けてもらったとして、俺はそいつに何を返してやれば好いんだ? 命には命でしか返せないとするなら、俺は自分の一生を賭しても返せない負債を抱えることになるじゃないか。そんな負い目を他人に掛けられるなんて、ゾッとしねえ話だな!
つかの間の沈黙があった。
ふと、ユィハが気だるげに立ち上がり、別室へ移ろうとした。
「どこへ行くんで?」
「着替えるのよ。」
「さいですか。んじゃあ、俺もお役御免ってことで、お暇申し上げていいんですかね?」
「あ、ええ、そうね。なんだか申し訳ないわ。付き合ってくれてありがとう。」
水売りはお辞儀して、部屋を出た。階段を降りる。喧騒と塵埃で汚れた気配がする。まだここは掃除されている方であったが、それでも空気が渇いているのに変わりはない。疲れた肉体から汗が、吐いた息から蒸気が、とにかく身体から水からが脱け出してゆく。
畜生、俺は今日どれだけの水を盗られた? 俺は実に多くの水を盗られたぞ! それも、失った分に見合うだけの返しがないなんて、まったく、やってられねえぞ。この損はどこかでちゃんと取り戻さないといけない。俺は、やっぱりなんたって生きていたいのだからなぁ! ……ひょっとしたら、この心の中身は、思いも寄らずに口を突いて出てきたのかもしれない。水売りは、自分の口元が無意識に動いているのに気が付いた。途端、彼は自分の口を塞いだ。まただ。また俺は、うっかり口を溢すところだった。余計なものは、まったくどこから溢れ出すのかわからないもんだが、俺はそういう失態だけは避けにゃならない。うっかり口を溢してみろ。周りにはそれだけの信頼が失われる。覆水盆に返らずって諺を見ろ。失われた信頼はどんだけ積んでも返りゃしねえんだぞ。
だが彼の不安は、まったく幸運にも、喧騒のなかにすっかり埋もれていたので、誰もそのことに気を留めなかった。否、階下の酒場ではそれどころではなかったのである。水売りはようやくこの状況の異変に気が付いた。
いったいぜんたい、どうしたことだ?
「ちょ、ちょっと、いいですかね?」
「はあ?」
水売りは酒場の一角に座っている男に向かって話し掛けた。男は安酒を飲んでいたためか、悪酔いしていた。声は枯れたようで、人を苛々とさせるような含みを持っていたが、それはこの男がつい先ほどまで職場の愚痴を喚き散らしていたからである。
「すみません。いったい、この騒ぎはなんだって言うんです? 何が起こっているんです?」
「おお、おお、おいおい、聞けよ。おめえ、つい先刻かたぶき町の辺りで爆発があっただろう? あれで誰が死んだと思う? 水組合の組合長様だってよ!」
「なんですって!」
この瞬間、水売りのなかには一つの途方もない空想、いや妄想が思いついた。だがそれは纔か一秒後には喪われてしまい、当分のあいだ彼はこのことを思い出すことがなかったのである。