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 テルヒは、大通りに人混みがごった返すを眺めながら思う。平和だ、と。まるで爆弾事件や、拝水教も、悪い夢ではないか、と考えてしまうぐらいに。

 むろん、そんなことは妄想に過ぎない。通りを行き交う人びとは、拝水教の噂を流しながら歩いている。渋谷(しぶたに)を占拠して、気にくわない人間を処刑し、恐怖と強制を撒き散らしながら、東京沙漠に勢力を広げつつあるということも、つい最近六本木(ろくほんぎ)にある文化都市を破壊し、略奪を行なっていたということも、そして、池袋(いけふくろ)を拠点とした反抗組織によって、まだ彼らは東京駅より東側へと勢力を伸ばすことができない、ということも。……とどのつまり、これは偽りの平和だった。外で誰かが手を汚しているからこそ保たれた、危うい均衡のもとに成り立つ平和なのだ。

 すでにテルヒが秋葉原(あきばはら)に来て数ヶ月が経っていた。親方には本当によくしてもらっていたし、ユィハを始め、レイナ、トオルも、もともとが同じ孤児だったからなのか、暗黙の連帯感というべきものがあって、親しみやすかった。少なくとも渋谷(しぶたに)で陰口を遣り取りするような、緊張感溢れる関係性よりは、気楽に振る舞えたのだ。もしかしたら、この居場所自体が、他人に流されてではなく、自分自身の選択によって得られたからこその満足だったのかもしれない。しかし、彷徨生活を終え、じっくり腰を据えて様々な作業に携わるうちに、まだなにか、大変な忘れ物をしてきたのではないかという疑心暗鬼がテルヒの内面を冒してゆくのだった。

 それは、たぶん、兄「テルヒ」の記憶のせいだろう。少年はまだ自分を受け容れたわけではなかった。そのためだろうか、工房に入る前に、淋しそうに脳裡で微笑んだ姿がどうしても忘れられないのである。

「あのとき……」と、テルヒは独りごちる。が、その先が続かない。彼はこう考えていた。俺は何か間違えたんじゃないのか? あのとき……それがいつだか思い出せれば!

「おーい、いつまで余所見してんのさ。」

 後頭部を突かれて、ハッと我に返る。振り向けば、トオルの悪戯っぽい笑み。

「頼むぜー、確かにアキバハラ・マーケットは暑いけどさぁ……あっ、でも日射病とかだったらヤバいからな。早く言ってくれよ?」

 後輩が出来たことに喜びを隠せないのだろう、面倒見が良いというよりは、世話焼きな笑顔を見せ、トオルはテルヒの肩を叩く。

 この人たちには本当に良くしてもらっている……とテルヒは思う。しかし、自分にまだそうしてもらえるだけの価値があるのか、自信が持てないままだ。

 その不安をみせまいと、テルヒは口の端を上げて誤魔化す。

「ああ、俺はまだ大丈夫だ。」

「ふうん……」とトオルは怪訝な顔をするが、すぐに「あっ、じゃあ工房に戻って品出ししてきてくれよ。店番なら慣れてるし。」

「わかった。」

 頷いて、その場を離れる。

 アキバハラ・マーケットにはまだ活気があった。通りを行き交う人びと……日中にもかかわらず盛んに喋り、値段交渉をする掛け声……お客を呼び寄せるためだろうか、不思議な装飾だらけの服を着ている店番までいる。どれも旧文明由来の、しかしちゃんと人の手が掛けられた文化の産物である。しかし一方で、人の盛んな往来には、その分息苦しくて、汚穢が澱んでいるという感触もある。路地に転がるプラスチックケースや、使い捨てられた包装紙、砂に塗れて埋もれている金属片や、ネジ。……人が集まればその分塵芥(ごみ)が出る。長く一緒に居ればいるほど、汚いものが見えてくる。それは時間の為す悪戯なのか、それとも自分が愚かなだけなのか。

 工房に戻る。しかし親方は居ないようであった。中は閑散としていて、まるで誰もいないように思える。たぶん用事だろうか、と思いながら、少年は倉庫に向かった。

 戸を開ける。ガタッと物音がして、咄嗟に身構えたが、すぐにそこにユィハがいることに気がついた。

「やだ、帰ったならそう言ってくれればよかったのに……」

「あ、いや、悪かった。」

「謝る必要はないわよ、」とユィハは苦笑する。「何か用?」

「品出しを頼まれて。」

「ああ。」と納得した様子。「それなら、こっちよ。」と手招きしながら奥に歩き出す。

 倉庫の中身は多種多様だった。木材、屑鉄、ガラス、紙屑、金属片、ネジ、導線、糸、奥には工具もあり、製品は最深部に大切に仕舞われている。

 素材の多くは路地裏や下水に溜まった塵芥を回収したものだ。この工房に入った当初、テルヒはしょっちゅうその屑鉄やら、ガラス片やら、あるいは単純に使い捨てられた道具や玩具などを回収する手伝いをさせられた。だが、地味で、屈んでばかりの、汚れた作業に飽いたテルヒは、当時同じ当番を担当していたユィハにこう愚痴った。恰度、今者みたいに倉庫の中で。

『疲れる作業だな。こんな、ガラクタ集めに時間食って……』

 だが、ユィハは眉を大いに(しか)め、

『ガラクタ? そんなものはないわよ。』

『だけど、これ全部使えないんだろ。要は塵芥じゃないか。』

『使えないなんてバカなこと言わないで。私たちにとっては立派な素材なのよ。』とユィハは、棚に乗っかっている愛おしげに人形に触れていた。『これなんか、繊維の素材。眼の硝子玉は新しい装飾に使えるし、そうしなくても、まだ形がいいから、綺麗にして他人に売ることだってできるわ。

 でもね、私はこういう、手が掛けられたものが用済みだからって塵芥扱いされるのが許されないの。』

 彼女の瞳には炎が宿っていた。

『塵芥? 自然界に塵芥なんてものは最初から存在しないわ。塵芥を出すのはいつもどこかの誰か。捨てられなきゃ塵芥とは言われないし、それ自体には人と一緒にいた思い出があるの。手一杯だから手放しただけに過ぎないものを、いつのまにか、塵芥だとか、汚いだとか、わかったように言わないで欲しいわ!』

 あとで親方にこのことを報告したら渋い顔をされた。その理由が何でそうなのか、全く見当がつかなかったのであるが、レイナがそっと、しかしひっそりと教えてくれた。

 ユィハという少女は、かつて秋葉原(あきばはら)の裏路地で殆んど売春婦まがいの職に就いていたのだという。親がいつのまにか居なくなり、孤児院で育ったものの、孤児院の環境が悪く、脱走や虐待が絶えず、とうとう破産して、院自体が子供を売るように店に引き渡したのだ。さすがに表向きが文化都市であったために、表立って売春が行なわれたわけではないが、その代わりに夜の裏路地では少女たちが男の袖に触れて、様々なサービスを提供して日銭を稼いでいたのだった。契約上は、ユィハは嫌なら辞めてもよかったのだ。しかし、彼女は孤児院で「棄てられた」という強迫観念に囚われていて、自分から世間に飛び出そうという勇気が持てないでいた。そして流されるままに生きて、又しても店から棄てられた。或る客の法外な、それも性的なサービスを断わったからである。もともと彼女は貧困に喘いでいたが、とうとう生計(たつき)も失うと、腹を減らしながら、路頭を彷徨い、力尽きてもはや死ぬ寸前まで行ってしまった。そのときたまたま屑鉄拾いで通りがかった親方に助けられたのだ。

 ここまで説明すると、レイナは付け足した。

『だから、あんたを助けたっていうのも、あの子らしいなぁ、てあたし思ったの。だって、あんたの境遇は違うかもしれないけど、死にかかってたときの姿、ユィハ、自分自身と重ね合わせてたはずだよ。』

 そのあと、彼はユィハに謝った。彼女は無言だったが、翌日から普段通りに接してくれて、赦されたのだとテルヒは実感したのだ。

 赦される。少年は赦しを求めていたのかもしれない。何に? それは彼自身の過去、思い出したくないと蓋をしたままの、自身の過去の過ちに対してだ。彼は、自分を空洞だと思っていた。しかし、作業を手伝い、たとえ塵芥だと他者に思われたとしても、そうしたものを一つずつ、少しずつ溜めて、洗練させ、製品に仕立て上げる過程を眺めているうちにそうではないと考えるようになっていた。

 たとえ誰になんと言われようと、地道に積み重ねた人たちの仕事は偉大なのだと感じるようになったのだ。

 ひょっとすると、兄もそうだったのかもしれない。

 奥から製品を積み出して、それを抱えた瞬間(とき)、理由もなくそんなことを思い付いた。この製品が、かつて塵芥だったものから造られ、再生したものであるならば、自分自身が無だという空虚な観念も、また再生する余地があるかもしれない。その行動を起こしていなかっただけで、いや、怖れていただけに過ぎなかったのだ。

 だが、何を?

 荷を運びだそうとしたとき、足元に注意していたら、或る物を見つけた。

「これは……?」

 荷を降ろそうとした。が、すぐさまユィハが拾った。まるで見られたらいけない秘密であるかのように、素早く取って後手に隠したのだ。

昔者(むかし)書いてた日記。倉庫片付けてたら出てきたの。」

 苦笑して、そう言った。

 だが、テルヒには或る衝撃が走った。目を見開く。日記。枕元でいつも書いていた……

「ここに来たばかりのとき、習ったばかりの文字を試してみたくて、日記書いてたの。今者みるととても幼くて、他人には見せられないんだけどね。」

 ぱらぱらぱら、とページをめくり、冊子を閉じる。その瞬間、少年の眼にはユィハの手が兄の手に見えた。そして、彼女は言う。

「でもね、」

『だから、』

「これは私にとっての、」

『宝物なんだよ。』

 兄も同じことを言った。淋しそうに、微笑んで。別れを告げるように。

 あのノートはどこに行ったんだ?

 新宿(あらやど)……?

 ハッとする。すべてが綺麗に繋がったという感触。

「行かなきゃ。」

「えっ?」

「俺、新宿(あらやど)に忘れ物をしてきた。だから、ちゃんとけじめをつけなきゃ。」

 そう言った少年の表情には、もう迷いはなかった。

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