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「小僧、そろそろ着くぞッ!」
運転席から怒鳴るような声が聞こえる。
トラックの荷台から、むくり、と少年が身を起こす。防砂マスクもなく、黒く日焼けかと見紛うほど汚れた顔が露わになる。彼は、言葉を返すことすら億劫だと言わんばかりに、運転席の背後にある壁にノックで返した。
渋谷から駆け出したあと、当初はなんのあてもなく歩いていた。なんとなく新宿に向かいたい、と思いつつ、しかし迂闊には近寄れず、ウロウロと彷徨い続ける日々を過ごしていた。
目的もなく、標べもない虚ろな沙漠……それは海に似ていた。さながら、見渡す限りの砂、砂、砂。将来の展望などまるでなく、惰性で生きる倦怠感。単純な飢えや渇きは通りがかった街から盗んでどうにかしていたものの、行く当てもない旅は彼の渇きを癒しはしなかった。
だが、旧文明の街道のうえを歩いていたのが幸いした。秋葉原マーケットの故買屋に用があるというトラック運転手に、運良く拾ってもらったからだ。
「……けどよォ、ホントに良かったのか。アキバは小僧みてえのとはまったく縁がないようなとこだと思うんだが、どうなんだ?」
またしても運転手は大きく声あげる。よくもまあ渇かないものだ、とテルヒは感心してしまう。
彼は擦れつつある咽喉を使って、声を返す。
「いいじゃないですか。他に行く当てもないんですし。」
本当はこれで良いはずはない、と彼は思う。しかし、これ以外にどうしようもない、という感情があとから押し寄せてくる。
「そうか。まァ、無理強いはしねえけどよ……」
そう呟いた運転手は、どこか淋しそうだった。
防砂用の、都市を囲む壁を潜り、街に入る。街を通る幅の広い道路は、砂掻きが丹念に為されてはいるものの、しかし車輌のために設けられたのではない。トラックはその仕来りのために入ってすぐの通りで曲がり、止まった。
荷台から飛び降りる。そこで懐ろから幾ばくか金属片を取り出そうとしたところを、運転手は妨げた。
「いいよ、」と苦笑いする。「これは商売じゃねえ。」
ムッとなり、少年は拳にして突き出す。
「いや、受け取ってほしい。」
「その気持ちだけで充分だ。別にガソリン代がひどく掛かったわけじゃねえし、気にすんなよ。」
「でも。」
「お前は商品じゃねえんだ。そう、拘らないでくれよ。ちょっとした親切ですら、カネで買いたいのか?」
真顔になった運転手を見て、少年はようやく手を引っ込めた。
つかの間の沈黙。
「……すまんな。強く言いすぎた。」
「大丈夫です。では、これで。」
一礼すると、少年は歩き出す。運転手は言葉にできない何かを胸に、その背中を見送ることしかできなかった。
商品じゃない、か。
少年は、言葉を反芻させながら自嘲するように笑った。
秋葉原の街は、少年の心や拝水教の騒動とは無関係に妙に活気付いている。そもそもが機械故買屋の闇市から始まった歴史を持っているからだろうか、今者や大勢の職人や物作りたちが集まって、アキバハラ・マーケットと呼ばれる定期市を開くほどで、むしろある種の職人街のようにもなっている。通りという通りは「歩行者天国」と称された人びとの激しい往来があり、うっかりすると流されて行く先がわからぬぐらいだ。また、通りによってまちまちであるが、電気街と称される中古機械やその部品の市場や、職人による手作りの文化産物……例えば、人形やら、旧文明の映像娯楽作品、アクセサリーや特殊なデザインを施した日用雑貨などがガラスのケースのなかに仕舞い込まれ、通りがかりの人間に挨拶をするように陳列されているのが見える。
少年はそのどれにも興味を示さず、影法師のように人混みの中を揺れていた。
今者や少年は誰でもなかった。かつて「テルヒ」と呼んでくれた人間のもとを去り、「テルヒ」と名乗る影もあの日以来現れない。少年はただ孤独だった。なんとなく行き場もなく、沙漠を放浪してはいたものの、とうとう人恋しさに負けて、この街に来た。だが、そこにいたのは人ではなく人びとであり、人混みであった。噎せ返るような人間の臭いと熱気が伝わるが、心は冷え切っている。無関心はまるで人を物のように扱う。風に吹き飛ばされる砂のような、目に入ると痛くて、なるべく目には入れまいと思う、あの、砂のような……
ふと、角を曲がろうとした。そこで少年は思いがけず人とぶつかる。相手も勢いよく飛び込んできたのか、かなり強い衝撃で路上に突き飛ばされる。まったくの不注意だった。少年は尻餅をつく。あとから金属片やら、ネジやらが路面に散らばる。
「大丈夫ですか?」
黄色い声。
顔を上げる。少女が手を差し伸べていた。
「いや、自分で立てる。」
と、少年は身を起こした。
面と向かい合う。そこで少女は怪訝そうな表情になり、ジロジロと少年の顔を検分する。
「な、なんだよ。」
「あなた……」と少女はひらめいたように、「確か、新宿に居た……」
少年は目を見開く。
「そして渋谷に行ったって。」
「どうしてそれを。」
「新宿の爆破事件のとき、私あなたを介抱したの。ちゃんと生きてたのね。まさかこんなところで会えるなんて。……まさか、拝水教から逃げてきたの?」
「まあ、そんなところだな。」
と苦笑するように。
すると少女は不意を衝かれたような表情になる。しかしすぐに瞬きをして顔を引き締めると、
「ねえ、あなた今日の寝る場所とか決まってる?」
「いや、」
「じゃあ来なよ。親方が面倒見てくれると思う。」
「えっ?」
「そういえば名前、聞いてなかったね。なんていうの? 私はユィハ。」
わけのわからぬ間に話は進み、気がつくと自分は誰かと訊ねられている。少年は、しかし、その問いかけに対する明確な答えを持たない。
見せかけでもいい。仮令本名でなかったとしても、名前があって、そう呼ばれるだけで人と繋がると思ったから、彼はこう名乗った。
「『テルヒ』、だ。」
ユィハは頷くと、路上に転がったものを拾い集める。テルヒもそれを手伝おうと手を伸ばした。それに気付いたユィハは、
「ありがとう、優しいのね。」
「なんだ、いきなり。」
「……憶えてないの?」
「いや。」
「あなた、うなされて、さんざん騒いだ挙げ句に私の居た借家を壊して出てったのよ? あのあと大家さんに追い出されるわ、戻って親方に怒られるわで、大変だったんだから。」
意地悪な笑みを浮かべて、彼女は言った。テルヒは俯く。
「そう、か……それは、悪かった。」
こつん、と拳を額に当てられる。
「そういうときは謝るもんよ。」
「……ごめん、なさい。」
まるで幼児みたい、とユィハは思った。それも、心を育てることが出来ずに、身体だけが時間に任せて成長してしまったような。
おそらく少年は少女に比べて二、三年が下なのだろう。なんとなく彼女は少女を自分の弟のように感じ始めていた。
「まあ、いいわ。早く片付けて、工房に戻らなきゃ。」
その後そそくさと金属片を回収すると、少女は少年の手を掴んで、速足で通りを歩いて行く。
ユィハに手を引かれて、少年は突如脳裡に、鮮明な映像が現れるのを感じた。女ではない、たぶん、男の、手に引かれて、砂だらけのアスファルトを踏みしめている……自分を導いてくれた、「テルヒ」の腕……『おいヒュウガ、兄ちゃんの手、離すなよ?』
不意に聞こえた声。
懐かしい、という感情が、一瞬だけ過ぎった。
「……っ。」
「えっなに?」
ユィハは振り返る。そこで我に返る。
「いや、なんでもない。」
少年はそう呟くように答えると、黙ったまま連れられた。
ユィハのいる工房は、表通りにはない。人混みがだんだんと薄れ、閑散としている裏路地にあるのだ。砂が埋もれ、死人花が咲き、内側に閉ざされた路地には工房からはみ出したような作業台が展開し、そこに向かって毛深い男が金槌を振るっていた。とんてんかんてん、リズミカルに打ち出される建設の音は、秋葉原の外側を蚕食しつつある破壊と無秩序とは対照的であった。
「親方ー、帰ったよ!」
「遅かったじゃないか。」と親方。「シュウヤとトオルは待ちくたびれてる。あとレイナがしんぱ……」
「ユィちゃん!」
建物から女が飛び出してきた。と思ったら肉食獣が獲物に食らいつくように俊敏な動きでユィハに抱きついた。
「好かったー、心配したんだよ?」
「苦しいっ! わかった。わかったから!」
さんざん言われて、ようやく身体を離した女は、傍らの少年に今更のように気がつくと、
「あらやだ。ユィちゃんが彼氏連れてきたわ。」
少年はきょとんとする。しかし少女は苦笑して説得を試みる。
「あー、いや、あのね、これは……」
「いーのよユィちゃん。相手がどんなヒトだって、お姉さん応援してるからね。あたしはあなたの味方よ。」
「だから違うんですってば。」
女二人がごちゃごちゃと騒いでるとき、親方は素知らぬ顔で少年の元に歩み寄った。
「君は……?」
「テルヒ、と言います。新宿から来ました。」
「新宿、か。爆発事件だとか拝水教だとかで煩くなったあそこか。ユィハから事件の話はよく聞かされたが、」
「ええ、その事件でユィハさんに助けられたんです。」
「そうか。」
すべて納得したというように、そう言った。
向かい合う。静寂。
親方は細身ですらっとした体躯であった。しかし汗に塗れて塩の吹いた、濃緑のタンクトップから見える腕は、きりりと引き締まっている。そのためか、髭が濃く、顔立ちはさほど厳格そうではないものの、どこかしら人怖じさせるような風格を物していた。
何か言おうとして、しかし、少年は躊躇った。
「ユィ姉が彼氏連れて来ただって?」
と、そのとき少年と同い年くらいの男が、大きな声で沈黙を破った。
「やだ、トオルあんた作業抜け出して何してんの!」
「いやぁ、ユィ姉の彼氏と聞こえたら行って見ないとわからないって、てあれ?」
トオルと呼ばれた少年は、砂まみれの少年の方を向いた。
「きみ、だれ?」
「……テルヒ。」
「ふうん……」と、まるで作品を鑑賞するように頭から足の先まで凝視めると、「で、ユィ姉との出逢いはいつ?」
「トオルっ!」
ユィハはレイナの腕を振りほどきながら、文句を言う。だがトオルはそれを無視して、テルヒの様子を窺っていた。
「いや、俺は、助けられただけだ。」
「あー、そっか。」と、トオルは何かを察したらしく、それ以上言おうとしなかった。その沈黙が、テルヒにはむしろ有難かった。
この間隙を縫って、ユィハが親方に声を掛けた。
「彼、宿無しなんだって。だから、」
親方は片手を上げて、その先を制した。そして改めてテルヒの顔を見る。少年は、しかしまだ躊躇していた。俯向く。
「決めるのは、お前自身だぞ。」
ハッとして、顔を上げる。
同じだ。あのときの兄の言葉と。
「テルヒ」の言葉と。
『俺に手を引かれてばっかで、俺が死んだ後どうするつもりなんだよ。』
親方の無愛想な顔に、兄の苦笑が混ざったような気がした。
「……一晩だけでもいいので、泊めてくれませんか。」
ようやくそう言うと、案外、自分から手を伸ばすのは簡単なことだな、と拍子抜けしてしまう。今者の今者まで何を悩んでいたのだろう、と呆れてしまうぐらいに、それは、単純なことだった。
ほんの数秒、親方は黙っていたが、
「働かざるもの食うべからず。」
というと、テルヒに背を向けて、工房の軒の下に入っていった。
きょとんとする少年の背中を、トオルが叩いた。
「仕事手伝うならいつまでも居て大丈夫だってよ。良かったな。」
振り向いたら、ユィハとレイナが微笑んでいた。
レイナが言う。
「ようこそ。そしてこれからよろしく。」
その言葉が、少年の心の空洞にすとんと落ちた。初めて彼は、自分の居場所ができた、と感じた。手を引かれるのではなく、自分の意志で、居場所を得たのだ、という達成感。
記憶の裏に取り憑いた兄が、淋しそうに微笑った気がした。




