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「かつて犯した大罪のために、我々は今者、過酷で無惨な沙漠に追放されている。渇きを潤す恵みの水は取り上げられ、残酷で気まぐれな神の慈悲を、ただただ待つばかり……」
礼拝堂……瓦礫と砂で覆われていたコンサートホールを、掃除して、拡声用の機械を備え付けたその場所で、集まる群衆。この最後列のさらに後ろから、しんみりと情緒を込めた声で、司祭が何かと意味深い言葉を唱えているのを、シノハラは見ていた。
すでに入ってから数ヶ月が経とうとしている。門前の小僧ではないが、もう教義とやらはだいたい暗記してしまった。だが、諳んじることはできても、心を揺さぶられるようなものを、シノハラは感じられなかったのである。
「おい、坊主。」
ぽんと置かれる手。振り向けばそこには彼の直属の上司となる大男がいた。薄暗いホールなので、表情を窺うことはできないが、声の調子からやや不機嫌なのはわかる。
「てめえ、掃除をサボってどこほっつき歩いてたんだ。」
シノハラは、口の端をぐにゅりと曲げる。
「教主様の部屋を掃除していました。」
「……それはてめえみたいな下っ端のすることじゃねえぞ。」
抑制された怒り。
「下っ端? 畏れ多くも神の御前では皆等しく平等であるべき俺らに、上も下もあるんでしょうか? それはあなたの不信心ではないですか。」
「……神は年上を敬えと仰せだぞ。」
「他人を顎で扱き使うなとも仰せです。」
つかの間の無言。相手の焦燥と苛立ちが手に取るようにわかる。
「フン、教主様のお世話になって、いい気になるなよ。その減らず口もいつまで保つかな。」
腹の底から憎らしそうに、男はホールを足早に去っていった。
今者の今者まで相手の顔色を見て、人間関係を調停してばかりいた。それを吹っ切った途端、何もかもが自らの踏み台のようにも感じていた。人の心を察することができるなら、上手く言葉を使って心を操作するのも決してできないことではない。
現に。
「ごめんね、シノハラくん……」
傍らに寄ってきた、嗄れ声。振り向けば男の子がいる。砂埃に肺をやられ、身寄りのないまま兄とともに拝水教に入ったが、兄はテロやら何やらに行って帰って来ないのだとか。
この男の子に限らず、身寄りのない子供や、行き場のないまま拝水教に入った少年少女、青年らは多い。ここに来て一ヶ月でわかったのはそれだ。おまけに建前上は自由だ平等だと吹聴しているが、戒律だなんだと言って取り繕われた事実上の格差関係が出来上がってしまっている。「教主様」とやらを中心に据えた、腐り果てたような利権集団……拝水教の現状は、まさしくそうだった。
だがそれはシノハラにとって、むしろ都合が良い。
「気にするなよ。俺が好きでやったことだから。」
ごめん、ごめんと咳き込みながら言う男の子の頭を撫でる。見上げた顔に向かって、笑顔を見せる。男の子は黙ったが、申し訳なさそうな顔は相変わらずだ。
「ホラ、仕事場に戻れよ。今度は俺でもどうにもならない。」
頷いた。そして踵を返すと、男の子は暗がりのホールを歩いて去った。
教団に入るのは、案外容易かった。入りたい旨を述べて、幾つか質問を受けて、軽く書類をしたためる。それだけで、シノハラは教団の新参者となる。
会員制クラブみたいだな、とシノハラは当時内心で嗤っていた。身分証を見せて、ちゃちゃっと書いて決める、そういうの。青年グループと遊び始めたころ、ウォーターバーに出入りするために幾つかやったことがある。
だが、その気楽さも入って数日間までだった。手始めに行なわれたのは、「礼拝堂」の砂掻き作業と、定期的に行なわれる礼拝の下働き。……彼らは水と潤いを尊ぶ反面、渇きと砂を嫌う。特に砂掻きは徹底せねばならなかった。また、その作業のかたわらで教義についても幾つか教わる。「上善は水のごとし。」「太陽は過酷なり。万物を試し、選ばれた者のみを生かす。」「水は死なない。蒸発し、霧となり、露となってまた地に帰る。輪廻転生を繰り返し、永劫に生き、人を活かす。」……もしシノハラに教養があれば、これらは旧文明に存在していた哲学や宗教の、意味のない詰め合わせであったのを理解しただろう。しかし、もはや上辺の事実しか残らないような歴史教育を修めた人びとには、却って補強され、真新しく聞こえる人生の思想のように響いていた。
「我々は過まったのだ。過去に大きな過ちを犯し、さらにまた大きな過ちを犯そうとしている。それは、沙漠を救う救世主の呼び水を、薄汚い心の持ち主に手渡してしまったことだ。水は清い。しかし、一つ所に留めておけばそれは濁る。独占された潤いは、一部の心の腐敗とそれ以外の飢餓を、つまり災厄をもたらすのだ。だからこそ我々は、濁った堤防を破壊してやらねばならない! 高きから低きに流れる自然の摂理に、水を呼び戻してやらねばならない! 我々にはその権利があるし、これこそが大自然の本来あるべき姿なのだ! かつて人間は科学技術や文明の力によって自然を支配できると考えていたが、それは自惚れに過ぎぬ。頭を垂れるのだ! 今者こそ我々は大自然の厳粛なる神の慈悲を察し、深く頭を垂れ、そして頭の垂れ方を知らぬ人びとにそっと教え諭さなければならない! そしてそれでもなお慈悲を知らぬ愚か者どもには、思い知らさねばならない。虐げられし自然の代行者たる、我々の意志によって!」
礼拝堂に激しい突風のように文句が飛ばされると、それに呼応したかのやうに、空気が熱を帯び、群衆が沸き立ってゆくのがわかった。そのような人びとを背後から眺めつつ、シノハラは自分が入団して初めてこれを聴いたときのことを思い返していた。正確に言えば、その説法の直後に起きたことを。
『お前に任務を与えよう。』ニヤニヤ笑いながら、男は広場を指差す。『あの罪人どもを殺すことだ。』
見れば、四人、十字架に磔にされている。
『なんの罪だよ?』
『教えに逆らったからだ。教主様が選ばれた場所から立退かずに、あれやこれやと騒いでいた。挙げ句の果てには教主様に対する侮蔑の言葉を投げていたのでな。』
『なるほどな。』
男の表情が鈍った。あまりにも淡々と物事が進むことに違和感を覚えたからだろうか。しかし、その余裕もいつまで保つか、とより勇む。
『いいか、途中で怖くなってやめたくなっても赦されねえからな。教団の面子をくれぐれも潰すんじゃねえぞ。』
無言で頷く。
すでに広場には拝水教徒から為る群衆によって沸き返っていた。きっと長時間晒され続けていたのだろう、殆んどミイラと呼んでも差し支えないほどに磔にされた身体が弱っており、呼吸をしているのかどうか怪しいものもある。
『ほらよ。』と、ナイフを手渡される。『こいつだけで殺しな。』
そう言う男の顔もニヤニヤと笑っていた。
さくっ、さくっと砂を踏みながら、彼は歩き出した。自分の他にも、処刑人はいたようで、合わせて三人が並んだ。全員少年だ。注意深く周囲を観察していると、少年らの顔はどこか虚ろであるか、憎しみに燃えているか、あるいは怖れを成しているか、の三者三様である。
前を見る。するとそこには、老人の姿があった。日に晒され、痛み、襤褸切れのようになってしまっているが、元トレジャーハンターなのだとわかる。
セキ老人だった。
拝水教が渋谷に入ったあの日、彼はテルヒの姿を捜し続けていた。しかし、散々捜した挙句見つからず、あるコンサートホールを探っていたさい、遺跡を乱暴に壊して入る拝水教徒と揉め、ここに引っ張られてきたのだ。
『テ……ルヒ……』
うわ言のように呟かれた言葉が、シノハラの心を揺さぶった。しかし、すぐに幻聴だろうと念を振り払い、無感情な瞳で老人を眺めた。
と、そのとき。
銃声。処刑開始の合図が響く。
殺せ、殺せ、殺せ! と同類化した群衆の叫び声が聞こえる。
だが開始と同時に、ナイフは容赦なくセキ老人の胸を突き刺した。始めの一撃が決まればあとはもう、精神のたがが外れる。第二撃、第三撃と刃が振り上げ、降ろされる。途中、老人はうめき声ひとつ上げず、群衆の興を削いだ。が、シノハラはむしろ狂ったように殺戮の動作を反復し、残虐性を煽る機械的な振り子運動と化していた。逆にその殺しっぷりがいたく気に入ったのか、群衆はむしろ歓喜の声をあげて、シノハラを褒め称えた。
周囲の少年らは戸惑った。しかし、躊躇なく手を出したシノハラにつられたのか、憎しみを再燃させた一人が磔の男を切り裂き始める。容易に殺すつもりはないらしい。ときどき何かしら喋っていたようだが、シノハラの耳には入らない。次に虚ろな眼をした少年が機械的にナイフを振るう。が、あまりにも弱々しかったので、罵声がその背中を殴っていた。
悲惨だったのは最後の少年だ。彼は群衆の熱狂に気圧されて、とうとうナイフを力一杯磔の身体に突き立てた。しかしあまりにも唐突にやったせいか、相手の悲痛な断末魔を耳に入れてしまい、さらには吐き出した血反吐を顔面に浴びてしまった。そして、すぐさま我に返り、自分が何をしていたのかを理解すると、恐慌状態に陥る。膝から崩れ落ち、狂ったように泣き喚いていた。
その後のことはよく覚えていない。もしかしたらその少年は教団に逆らって殺されてしまったのかもしれないし、まだ泣きながら頑張っているのかもしれない。とにかく拝水教では、こうした人殺しや砂掻きなどの汚れ仕事を新参者や少年らに担わせて、大人たちはどこかで踏ん反り返っているという構図だけは理解できた。
結局、どこも一緒だ。汚いこと、やりたくないこと、面倒なこと……そういった、日常生活から吐き出される塵芥のような物を、互いに押し付けあって、社会の隅に堆く積み上げているだけのことなのだ。その割を食うものは少なからず現れる。もしかしたら自分は不器用なだけなのかもしれない。だが、不器用なだけで、自分の身の振り方をちょっと過ったからと言って、隅っこに溜め込まれた塵芥に埋もれて構わないという道理は存在しない。
「おいっ、シノハラ!」
今度は同い年の少年から声が掛けられる。振り向けば、シノハラと同い年ぐらいの少女が毅然とした姿勢でこちらを観ていた。
「……教主様がお呼びだ。来い。」




