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夜。冷え切ったさなか。東京湾からの霧が、月を朧に見せる頃。
静寂に侵された砂丘に、男がうつ伏せていた。防砂マスクを被り、外套を纏った姿で何かを窺っている。ただ、あまりにも砂が堆積しているために、さながら砂中に埋もれた行倒れのようにも見えなくもなかった。
男はマスクのレンズ越しに、何かを見付ける。すると、砂にグローブを嵌めた腕を突っ込む。取り出したのは閃光弾だ。
砂丘の向こう側をじっくりと窺いつつ、機を見て閃光弾を投げ、身を隠す。途端、激しい光が砂の向こう側を覆い尽くした。
一。
二。
三。
心で数を算え、タイミングを見計らって武器を持ち変える。刃物に、なけなしの銃弾を込めた小銃。視界の悪いなかで弾丸を撃ち回るほど彼らは愚かではなかったが、銃声は立派な合図と威嚇にはなる。
天に向けて、一発。
途端、砂から人影が飛び出す。さながら沙漠を彷徨う食屍鬼のように。
向かう先は、トラックだ。旧文明の遺産であり、食料生産地であるオアシスと、大消費地である都市国家とを結ぶ重要な役割を果たす乗り物……濃霧に紛れ、まるで野盗のように男たちは群がり、抵抗する人間を殺し、そして積荷を奪っていった。
「なんだ、今日はこんだけかよ。」
全行程を何の異変もなく終え、戦果を算えあげると、ニシノは不満げにそう呟いた。
オアシス産の果実・野菜が二箱。
砂狐などの肉が塩漬けで三箱。
そして水入りペットボトルが六箱。などなど。
主に食料であるが、先週の襲撃ではこの倍の量は積んであった。運び屋たちの情報網が働いているのだろう、そろそろ違うルートを探さねばならない。
新宿で反教活動を行なっていたニシノは、しかし街の外に溢れかえるほどになった拝水教の勢力に抗いきれず、とうとう街の外に出ていた。そして北上し、池袋のあたりを根城としつつ、定期的に南下して無差別に運び屋を襲撃、食料や水分補給を執り行っていた。表向きの理由は拝水教の流通を抑えるだとか、打倒拝水教のための資産徴収といったところだが、実際は野盗の群れにすぎない。沙漠開拓時代を憶えているものたちは、砂賊の再来だと嘆いたことだろう。事実拝水教への打撃は全くと言っていいほど存在せず、むしろ都市国家間の流通が冷える事態へと悪化していたのである。
ニシノ自身には、大義はない。自警団時代からそうであったが、最低限の生活と最低限の娯楽さえあれば、彼自身世になんら求めるところはないのだ。今回騒がれている拝水教とやらも、実はニシノにとって生存環境が激変した要因以外のものを感じておらず、ただ、今者までの生活を壊した『敵』だという観念しか抱いていなかったのだ。
むしろ、大義があるならあっちの方だろう。今者や彼らは「忌まわしき人間どもの文明を破壊し、神の国をこの世に作る」だのなんだのと標語を掲げ、それに見合うような思想を展開していっていた。恐らくは運び屋の協力でも得たのであろうか、噂さは忽ちにして多くの都市国家に伝わり、悪徳水商売人に喘いだり、閉塞感に疑問を抱いた若者たちが共鳴している始末だという。現に池袋からも賛同者がチラホラ現れ、新宿、渋谷に脱けだすものが後を絶たない。ニシノのグループからも、戦いの不毛さを嘆いて寝返るものすらあった。
全く、どうしてこうも唯生きるってことができないのか……とニシノはその時思ったものだった。だが、彼は動物だった。彼が常に覚える飢えと渇きとは、物質的なものに留まるという点で、動物に過ぎなかった。
「ニシノさん、」とふと傍らで声が掛かる。アイだ。「新宿からまた一台出たそうです。今度は少し大きいのだとか。」
「ほう……」
さながら砂狐、狡猾な笑みを浮かべながら、顎を撫でる。
「恰度いい。獲物が足りなかったんだ。もう一個やってもバチは当たらねえだろう。」
「了解です。」
アイは無表情に頷くと、防砂マスクを被りなおし、周囲の人たちに指示を出そうと歩き出した。
「おい、アイっ!」
だが、ニシノは何を思ったのか、アイを呼び止めた。彼女はマスクを被ったまま振り返る。
「はい。」
「お前はなんでこんな戦い続けてんだ?」
ほんの一瞬だけ、時間が歪んだような気がした。しかしそうかと分かるか分からないかのうちに、彼女は
「さあ、なんででしょうね。」
と答えた。心なしか、微笑っていたようにも聞こえた。
こいつもひょっとすると同類なのかな……と、ニシノは内心苦笑する。が、すぐに気分を変えてグループに指示を出した。
幸いにも壊れていなかったので、移動にはトラックをそのまま借りて用いることにした。荷物はそのままで、銃器を抱えた人びとが荷台に乗り込む。運転はアイが行なった。
沙漠の月夜は、真昼とは打って変わって静かだ。海の方から流れてくる霧に呑み込まれて、いろんなものが湿っぽくなる。残酷な光を照らし続ける太陽は隠れ、冷徹な眼差しを投げ掛ける月だけが鎮座している。
昼は暑さと渇き、夜は寒さと孤独。
ニシノは面白くもなかった自警団の日々を思い返していた。郷愁というよりは、それしか他にすることがなかったからだ。だが、あまりにも淡々とした作業の繰り返しばかりしか思い出せず、やる気を喪った。変なことは思い出すもんじゃないな、と自嘲する。
だが、手持ち無沙汰なので空想は止むことを知らなかった。
見渡すかぎりの沙漠……どこまでも、青白い月に照らされて、人の気配は遠く彼方……戦争が終結したとき、残された人びとが見たのはこんな茫漠たる光景だったのだろうか。こんな途方もない空虚な世界を、今者ふたたび住み易いように建て直そうと日々努力していたのだろうか。開拓団の祖父は、こんな絶望的な広さと闘っていたのだ。それに比べてどうだろう。いかに自分の生きていた世界の狭いことか!
そういえば、……とニシノは考える。アイも、もと自警団の連中のほとんども開拓団の末裔だった。文明崩壊後の沙漠に、誰よりも先んじて遺跡を掘り、街を建てた一族なのに、野蛮人と罵られ、軽蔑された。彼らはいつしか建設する手を奪われて、腕っ節をのみ認められて自警団の任を果たすことになった。かつては治安維持で感謝されることがあったが、いろんな人を取り締まるうちに誰が良くて悪いのか、どうでも良くなった。飢えのために市場で盗んだ子供、袖の下に手を入れて事件をもみ消しにする成り金たち。組合からの干渉も少なからずあり、ニシノの親の世代から、その職務を骨抜きにしていった。
だから、いつしか夢を持つのは止めようと決めた。唯生きるのだ。夢なんて持っていても辛くなるだけだ。誰も彼もが己れのためだけに考え、動くのであれば、道端に咲いた小さな花のような、ささやかな夢ですらなんの関心もなく蹴り飛ばされてしまうに相違ない。そう思い、決心し、やがて法律に従う機械のように、ただ職務を熟すだけの自動人形と化していた。
「……ニシノさん!」
ふと我に返り、見れば、霧が徐々に晴れ、遠くに巨大な輸送車が見留められた。
「おい野郎ども、弾づまりしてねえか確認したか?」
だが、制約が無くなった今者は違う。多少は、心が生き生きとしている。不思議だった。文明に縛られているうちは安全だが心は死んでいる。しかし荒野に立つとき、危険かもしれないが心は解き放たれていると感じる。
ひょっとすると自分は渇いて、渇ききっていたのかもしれない。
「まあ、今者さら潤いが欲しい歳頃でもねえんだがな……」
そう独語すると、アイに指示を出す。トラックは輸送車に対して漸近線を画くように近付いていったが、向こうも気付いたようだった。
銃声が轟く。
トラックの運転が不規則に乱雑になり、砂を暴いてゆく弾丸を避けようとする。対するニシノたちは、舌を噛んだり振り落とされないように体勢を整えながら、応戦した。
不規則に乱発される弾丸。
数分間の撃ち合い。
ぷしゅっと間抜けな音が聞こえたと思ったら、トラックのバランスが多いに崩れる。だが、恰度そのとき、ニシノの撃った弾が輸送車の運転席の窓を貫いた。輸送車が急にのろくなる。対するトラックは砂に半身を飲み込まれるように横転し、乗員はすぐさま荷台から飛び降りた。
それからは流れ作業のような戦いだった。あちらも武装はしていたものの、軽度だったうえに、少年兵を主体とした部隊であった。何人か射ち殺したらすぐさま降伏したのである。
戦利品は、期待していたほどではなかった。やはり少量の食料と水。また砂をかまされたか! と叫びたくなったとき、ニシノは面白いものを見つけた。
水売りである。
「よォ、久しぶりじゃねえか。」
だが水売りは濃い髭と臭気に覆われた顔で、すっかりやつれていた。眼ばかりが真昼の太陽のように輝き、悪夢でも見ていたかのように、ブツブツと独り言を呟いていたのである。復讐だ、復讐してやる……と。
ようやく正気に戻ったとき、彼は重苦しい沈黙と会釈のみで、ニシノに応じた。
「なんだいあんた、捕まってたのか。危ないところだったなァ。無事……ではないが、生きてて何よりだよ。」
実は皮肉のつもりで彼は言ったのだが、水売りの耳にはそのニュアンスは響いてこなかった。
「なあ、」とひとしきり思いの丈をぶちまけるニシノの口を遮って、水売り。「あんたたち、どこに行くんだ?」
「ん、……池袋だが。それがどうかしたか。」
「連れてってくれ。無料とは言わねえ。俺のへそくり呉れてやるさ。」
「ほう、」とニシノは驚愕に眼を見開いた。「いったいぜんたい、どういう風の吹き回しだよ? てめえみてえな傍観者が、味方になるとは。」
「簡単さ、」と水売り。ありったけの憎悪を声に込めながら、「拝水教の連中にとびきりの借りが出来たからなぁ、取り立ててやらねえと気が済まねえんだ!」




