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静けさが反響する、暗い、暗い地下。
ほんの幽かに聞こえる水滴の音を耳にしつつ、男は思う。嗟呼、もったいねえなあ、と。
そこまで思い至って、水売りはハッと我に返る。渇きの臭いが、鼻腔の奥を刺激する。だが潤いを失った感覚器官は、もはや痛覚としてでしか外界を把握してくれない。
唾液で噎せた。嘔吐するように咳き込む。だが、手で口元を抑えようにも、肝心の腕は天井から吊るされた鎖で固定されていて、動かせない。現に水売りは爪先立ちのまま、天井に吊るされている状態で、少なくとも半日以上は放置されている。もしかしたら一日中このままだったかもしれない。
朦朧とする意識のなかで、水売りは過去を整理しようと試みる。
そうだ、そうだ……俺はとうとうしくじったんだったけな。商売断わった相手の姉貴に逆恨み喰らって、口答えした挙句にこの拷問部屋だ……畜生……畜生……!
腫れた瞼をまたたきながら、彼は言葉にならぬ怒りを脳裡で発散していた。そうこうしているうちにも、汚穢と渇きは水売りを苛み続ける。
階段を降りてくる跫音が聞こえた。
「お目覚めかしら。」
あの少女だ。防砂マスクを被って表情を窺うことができなかったものの、声でそうだと知れた。傍らには妙な形をした器具と、二三人の取り巻きがいた。体格からして、力仕事に携わる男なのだと推測できる。
「気持ちの、いい……目覚めじゃねえな。」
ガラガラに嗄れた声で、水売りは言った。自分でも驚くほどに酷い声だった。ミイラが喋るときこんな声じゃないかと思われるぐらいだ。
少女は嗤う。その傍らで背後の者共に指示を出す。
「当然。あなたが今者までやってきたことを考えれば、ね。」
教徒たちは黙したまま、水売りのもとへ器具を持って行く。
「今日は……どんなメニューなんで?」
「飽きれた。減らず口だけは止まないのね。」
「ずっと、考えてたんだが……」と水売りはその場をしのぐように言う。「あんたみたいなお嬢さんが、拝水っゴホッ、教の幹部になんか普通じゃねえよな。まだ若いし、未熟だよ。幼すぎる。」
「……なにが言いたい?」
「教主様に身体でも売ったかよ、え?」
返事はなかった。代わりに手が飛んできた。握り拳。直後に水売りは口内にじわじわと広がる血の鉄臭さと塩辛さを味わっていた。
だが血で渇きは癒えない。
「……へっ図星か。」
「妄言もほどほどにしろよ。」
「気に食わないならさっさと殺してくれてもいいんだぜ。」
少女はこみ上げる怒りを拳に込めた。だが、戦慄くだけで、その手を押し留める。
「いや、まだ。まだよ。他人の生活のうえで胡座掻いてるような連中を、そうやすやすと死なせはしないわ。あんたみたいなのは、特に、私の家族が味わった、とびきりの苦しみを与えてやらないと。」
沙漠の太陽のように、ギラギラと光る瞳が水売りを睨みつける。復讐心に溺れた瞳だ、と彼はその眼を見て瞬間的に悟った。
「あんたの家族が、病気で苦しんだように?」
「ええ。」
「あんたの家族が、生きたくても、金がねえ、て苦いものを噛み締めながら逝ったように?」
「そうよ!」
「迷惑掛けるだけかけて、最期に引け目を感じながら貧困のなかで喘ぎ続ける娘の気持ちを考える悲しみに耽るように、か?」
「ええそうよ! あんたらが突き落としたどん底の味をすっかり舐めさせてでないと気が済まないわ!」
彼女は怒りのすべてを声に込めた。
「んで、気さえ済めばいいのかよ?」
「なんですって。」
「俺だって大して変わった生活してねえさ。人混みに溺れて、へえこらへえこら頭を下げて、せっせと濾過した水を売るんだけどよ。俺はこんな仕事にもプライドがあった。客人には最高に綺麗な水を渡すべきだって。そのための苦労は職業柄惜しんじゃいけねえ、てな。」
「嘘をつくな。」
「本当だとも。家には誰も居ねえ。組合同士の意地きたねえ上下関係やお客に対してへえへえと頭を下げて、靴底を擦り減らし、咽喉に血の匂いが溜まっても懸命に商売してないとろくに小遣いすらなかったんだぜ。余裕もへったくれもねえよ。おまけにこうして客には怒られて貶されて……」
「自業自得だ!」
「そうさ。そうだとも。他の連中は真面目にやるよりも簡単に社会の裏口のほうを選んだとも。容器の底に泥や不純物溜め込んだような水担いで、さも『私共の努力ではこの程度を手に入れるのが精一杯でした』なんて取り繕って、そんな上辺だけの野郎こそが組合でのさばってるんだ。俺みてえな下っ端なんざ、いい迷惑なんだよ。」
「……黙れ。」
「こちとら聖人じゃねえんだ。いつまでも『お客様は神様』みたいにへえこらへえこらやってると思うなよ。まるで全世界の不幸を自分が背負ったて顔してるてめえみたいな連中が、俺は嫌いで嫌いでしょうがねえんだ。お互い様なんだよ。他人の努力のうえで胡座掻いてるのはそっちじゃねえか!」
今度は水売りが怒鳴っていた。もう、渇きなど構っていられない。とめどなく恨み辛みが湧いてくる。
だが、少女は耳を貸さない。
「黙れ!」
と一喝すると、饒舌りつづける水売りの顔を殴り飛ばした。だが、水売りはけだもののように眼を光らせ、切れた口元から血を流しながら、なおも言葉を止めようとしない。
「いい度胸だよ。こんな沙漠の世の中じゃあ、小狡い奴か、てめえみてえな力の強いだけのガキしかのさばらねえ。いつだって馬鹿を見るのは俺ら下っ端だ! 信念曲げなかった奴だけだ! 俺は職業を全うしようと努めていただけだ! それがどうしてここまで嫌な気分を味わされなきゃならねえんだよ! なあ、おい!」
ふたたび殴った。今度はもう言葉を返そうとはしない。憤慨に充ち満ちた表情で、少女は言った。
「もううんざりだ。気が向いておしゃべりした私の方がバカだった。もうさっさとやって!」
周囲で待機していた者共が、待ってましたと言わんばかりにせっせと動き出す。水売りの身体ははやくも器具に固定され、あたかも十字架に磔になったようだった。しかし唯一異なるのはその十字架が蝶番のごとき金具で曲げられる仕様となっており、腰のあたりで自由に身体を折り畳んだり引き延ばしたりできるという点だった。
こいつでいったい、何をやらせるってんだ……? 水売りの心は激していたが、それでもこれから起こることに関しての興味が拭われることはなかった。
少女はそんな水売りの不安などよそに、地下室をそそくさと立ち退き始めていた。
「実に嫌な気分だわ。本当はあんたの苦しむ姿を高みの見物でもしようと思ったけど、もういい。じっくりといたぶってやりな。私はそいつの処刑許可を取ってくることにしたわ。」
クソガキはクソガキのままなのかよ、と水売りは唸った。しかしもう一度怒鳴ろうにも、もう咽喉がしっかり渇ききっていて、掠れた声しか出なかった。血ではだめだ。もう何を言っても獣物の唸り声にしかならない。
取り巻きに身体を固定された。仰向けにされ、ゆっくりと台座が開いてゆく。背骨が反る側へ、じっくり、着実に、万力のようにゴリゴリと身体に負荷を掛けられているのを感じる。そしてある角度まで開かれて、初めて痛覚が意味を為して、全身を駆け巡る。
悲鳴が上がる。
当初水売りは、その声が自分ではない他人のもののように聞こえた。しかし、耳を劈くうちにようやくそれが自分のものだとわかった。
「くそッ!」
痛みを和らげるために、考えつく限りの罵倒を吐き出した。まるでこの拷問は、対象のあらゆる内臓を吐き出させるために機能しているかのようでもある。
しかし、本題はここからだった。
突如手が水売りの口に当てられ、強制的に口が開けられる。そして開口状態で力づくで固定されると、どこから持ってきたのか、踏み台のうえから水売りの口元に何かどろりとした液体を流し込む手の影が。
おい、止せ。まさか、それは……!
ヘドロだ。都市国家の裏路地に溜まってるとびきりの汚穢、それも、水分をたっぷり蓄えた、野童たちが感染症の危険を顧みずに飲むような、ヘドロの固まりが、がっつりと口に押し込まれる。声にならない叫びをあげながら、水売りはそれを吐き出そうと試みるが、体勢が仰向けなのである。もがこうにも、身体中が器具に固定されている。おまけに閉じたい口も無理やり開けられていて、なす術がない。
このような地獄の責め苦を受け、どれくらいの時が経ったのだろう、ようやく終わり、解放された瞬間、水売りは部屋の隅で嘔吐した。もう、何も腹の内側に残ってるわけでもないのに、ひたすらに吐き出せるものを吐き出す。
惨めだった。自分でもそうだとわかるほどにあからさまな惨めさだった。拝水教に近づけばいずれこうなるのではないか、とわかっていてこうしてしまった自分を徹底的に呪ってやりたい気分になる。だが過去はやり直せない。
自分はどうしてあんなことを思い立ち、実行したのだろう? ……水売りはそう思い、考える。が、すぐに吐き気が蒸し返してくる。嘔吐が止まないうちに彼はまた鎖で吊るされ、者共が去ったあとも、自分の吐瀉物に塗れながら、彼は自問自答を繰り返していた。
たぶん……と、ようやく、渇きと泪に侵されながら、水売りはまとまってきた思考を脳裡に走らせる。奴らの顔を拝んでやりたかったんだろうな。どういう魂胆でこんなことしてんのか、ちょっと、ほんのちょっとばかし気になったんだ。奴らは社会をぶち壊している。俺だってこんな社会は嫌だ。もしかしたら、俺もくそったれた世の中をぶち壊したくて仕方なかったんじゃないか。だが、それはご破算だ。しょせん俺みてえな人間にそんな権利はなかったってことだな……
思考が紆余曲折し、二転三転して、ようやく以上のような考えがまとまると、そのまとまりを一気に破り捨てるように、新たな想念が湧いて出た。もはや飢えや渇きしか残ってないような、虚ろな身体から湧き出たのは、このような憎悪の炎であった。
……復讐してやる! こんな非道なことをやって平然としてるような連中に、沙漠の現実ってやつを痛いほどに知らしめてやろうじゃねえかよ!




