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「なあ聞いたか?」と青年の一人が言った。急ききった響きがある。「拝水教のハナシ。」
「ああ、聞いてるさ。水の売店片っ端からぶっ壊して、金払えない人に配ってるっつーヤツだろ?」
答えたのはシノハラだ。彼らは、渋谷の裏路地に寂寥りと集い、息をひそめるようにして表通りの暴動を観察していた。
そこでは、彼らの遊び場であったはずのウォーターバーが、灰と炭に塗れた状態で、有った。
もしやと思って来てみたら、これだ。
「ここもかよ……これも拝水教の仕業だってのかよ……」
「ひでえことしやがる。マスターはどうなったんだ。」
「無事なわけねえ。クソが。」
青年が砂を蹴飛ばす。だが向かい風だった。忽ちにして砂は翻り、汗まみれの身体にへばりついた。渇きが彼らを襲う。
いらだたしげに身体に付いた砂を掻き回す。だが、砂はあたかも嘲笑うかのごとく、身体からこびりついて離れない。
「なあ、俺らこれからどうすりゃいいんだ?」
「俺に訊くなよ。俺だってどうすればいいのか、さっぱりわからねえよ。」
シノハラは溜め息を吐いた。吐いた傍から水分が減ってゆくが、もはや構っていられる状態ですらない。
息が吐き出されるとともに、彼は砂まみれの路面に腰を下ろす。幸いにもここは日陰だ。しかしそれは同時に日の当らぬところでもある。
なんでこんなにコソコソとしなけりゃならないんだろうな。と、シノハラは内心独りごちた。俺たちは何にも悪いことはしてねえのに。どうしてこんな、まるで泥棒みたいな……女に逃げられて不甲斐なく呑んだくれてるようなクソ親父に、憐憫の視線だけ寄越して何もしない隣人たち……自分たちしか頼るものがなかったからこうしたまでだ。それがどうして。どうして俺らの居場所は奪われ続けてるんだ? ちょっとぐらい楽しみが残ってたっていいじゃんかよ。どうして沙漠は俺らのささやかの水場まで奪っちまうのかな……
やるせない気持ちになる。そんなとき、彼の脳裡にはぎこちなくも思いやりの言葉を手渡した、記憶喪失の少年の姿が思い浮かぶ。
「テルヒはどこに行っちまったんだよ……」
「拝水教に捕まってたりしないのか? じーさんはすでに捕まったって聞くぞ。」
「いや、俺は見たぞ。」
突然あいだを割って、一人が言い出す。
「あいつは俺らを見捨てたんだ。拝水教の連中が渋谷に入るちょうどその日に、あいつ、街から出てったんだ。俺、ちゃんと見たぞ。」
「本当か?」
「ここでウソついてなんの得があるんだよ! 事実だよ、事実!」
「あのヤロウ……」
「巫山戯やがって……」
だがシノハラだけはその事実に遅れて反応した。
「なに、あいつ逃げたって?」
「そうさ。あいつは裏切ったんだ! 気付いてて自分が大事だったんだ!」
「ちょっと待てよ、」とシノハラ。「誰だって自分の身が大事だろ。それを棚に上げて裏切ったっつーのは、それこそエゴじゃないのか。」
「なんだてめえ、あの余所者を庇おうっていうのか!」
激昂した青年がシノハラの胸ぐらをつかむ。だがシノハラを慕う周囲の人が青年を押し留める。
「やめろよ。仲間割れしてる場合じゃないだろ。」
「利己的なヤロウを仲間だとは言いたくねえ!」
結局……とシノハラは思う。見せかけに過ぎなかったのかもな。「仲間」も、「居場所」も、そして「自分たちの生活」も。
何もかもが非現実になる。何もかもが、嘘くさい、頼りない、空虚な沙漠となり、朽ち果てる。沙漠に建ってるあの楼閣はなんだ? 俺らを意味のわからないものから護ってるこのコンクリートの塊はなんだ? そして、突然外からやってきて、現実を嘲笑う連中は、いったいなんなんだ?
「……そうか。そうだったんだな。」
独りごちる。シノハラは、初めてテルヒの抱いていた寂寞感を理解したような気がした。
「おいなに意味わかんねえこと言ってんだよシノハラ!」
「おいシノ!」
もはや分裂寸前だった。もともとこの青年らも家庭が荒れ、貧困に喘ぎ、そして居場所を求めて集まってきた人びとだ。しかし、寂しさを撚り合せて作ったつながりの糸は、とても、脆い。
「もういいさ。居ない人間に八つ当たりしてどうするんだ。」
なら切ってしまおう、とシノハラは決意する。上辺だけの関係、見せかけの喜びになずんでいるぐらいなら、いっそのこと。
「けどよ、けどよ……」
「お前らはそこでグジグジ何か言ってればいい。俺は決めた。拝水教に入る。」
周囲が一斉にどよめいた。
「おい、正気か?」
恐る恐る尋ねるものがいた。
「正気さ。」
「行かないでくれよ。」
止めるものがいた。
「お前らがなんて言おうが、知ったことじゃない。俺は行く。そう決めた。」
「シノ、お前が行ったら、残った俺らはどうすりゃいいんだよ! 見捨てるのかよ!」
縋り、非難するものがいた。
「知るか。俺はお前らの保護者じゃない。」
それらを軽くあしらって、シノハラは歩き出す。
もううんざりだ。家庭が嫌で、社会が嫌で、街をフラフラ歩いてた。気の合う人と出会って、楽に話せて、それで呑気に過ごせる場所さえあれば、それでよかった。でもその場所が大きくなるにつれて、頼られたり、縋られたり、結局何かに縛られる。何かが俺を縛り付ける。
「ふざけんなっ! てめえも自己中だなシノハラ!」
背後から罵声。シノハラをよく思ってない代表格の声。
「そうさ、俺は自己中さ。今まで自己中にやってきて、お前らが『親切』だと勘違いしただけだ。だから俺は出て行く。見せかけの『仲間』なんざ居ても邪魔なだけなんだよ。」
空気が一気に濁った。すぐさまそうだと知れるほどに、関係が崩れ始めていた。なるほどな。しょせんこんなもんだった。自分の居心地が良いようにグループを調整してきた。自分が楽でいられるように場所を作り続けてきた。それに便乗し、賛同し、仲間が出来たと思ってた。
だがそれは利害の一致した見せかけに過ぎない。
もはやシノハラを遮るものは誰もいなかった。
彼は進む。もう誰かのためではなく、自分だけのために。
* * *
カレンは焦っていた。追っ手は近くにまで来ている。どうかバレないように、と祈ることしかできない。
傍らにはウォーターバーのマスターがいる。拝水教のリンチに遭う寸前で、助け出したのだ。砂掻きで蓄えられていた砂溜まりを頭上からぶっ掛けて、怯んだ隙を突いて。
「大丈夫ですか?」
マスターは血の滲んだ頭を押さえ、首を振った。呼吸が荒い。よく見れば瞳も焦点が合ってない。無理もなかった。逃亡を始めてから二日も経っているのだ。
拝水教が渋谷に入ってやったことはと言えば、水商売関連の捜索だった。彼らは新宿で水組合を解体し、水を支配したように、渋谷でも行なう算段だったのだろう。しかし新宿と比べて渋谷の水源の方が多いため、拝水教はその掌握に手間取っていた。そこでフラストレーションが溜まっていたのだろう、水商売人への態度は以前よりも過激なものに化していた。例えば、リンチ、拷問、公開処刑……都市国家の自警団が機能してさえいればまだこんな事態にならなかったかもしれない。しかし、遥か過去に治安の維持を公共事業ではなく民間に委託してしまった時点でこの事態は想像し得たかもしれない。すでに安全を保障してくれる大きな政府は存在せず、どんな愚かな法のもとでも、競争に勝ったもののみの言い分が認められる。
でもそれって、原始時代への回帰じゃないの? とカレンは思う。目の前の現実に対処できなくなって、逃げた先がただ昔者の栄光だとか、偉い人への幻想を身にまとっただけの、そういう、虚勢みたいなものを連想させる。もし競争のなかで何もかも構っていられないのだとしたら、きっと取り出すものがどんなに汚くても、見えなければ許されるのだと思う。それが心地よい嘘だとしても。非道な手段だとしても。
しかしただ生きていることが罪になるとは、どうしてもカレンには信じられなかった。でなければ、不倫関係から生まれた自分はなんなのだろう。『お前さえ生まれなければ!』と母の罵る声が思い起こされる。否定され続けて育った幼少期。もうどうせと売った処女。結構高値で売れたのは覚えている。もう二度とするかとあのときは思ったが、いつのまにか、減るものじゃないしと諦念を持ち、稼業と化している。不思議なことに、その気になればなにをしても生きていけた。その代わり感性は磨耗して、倦怠感だけが常に自分の内側に巣食っていたのもまた事実だ。
どうして人助けなんてしちゃったのかな、と自嘲気味に微笑う。だが、むしろ倦怠感のためだったのかもしれない。誰も自分なんて見ていない。身体ばかりだと思うなかに、なんの関係もなく、ゆるゆると過ごせる居場所があった。彼女にとって、そこが都会の沙漠に佇むオアシスだった。なんてことのない一挙手一投足、何気ない会話、意味のないおしゃべり……そういうものに憧れていた。
それが崩れる。壊れてゆく。
どうして時間は遡らないの? どうして嫌なことは予感もなく訪れるの? どうして、どうして……
マスターを助けたのは、もしかしたらその人が彼女の居場所の象徴だったからなのかもしれない。でも、彼を助け出して、むしろ自分を追い詰めただけだったのかもしれない。
いずれにせよ、もう時間は戻らない。やり直せることもなく、楽しかった記憶だけが反復される。もうこの過酷な現実のなかで、何処に逃げれば良いのだろう?
「足跡があるぞ!」
遠くで声が聞こえる。マズイ、と思った。もうこれ以上はいられない。
「マスター、早く行かないと、殺されちゃうわ!」
マスターの肩を持つ。しかし、彼は諦めたように苦笑した。
「ありがとう。でも、もうダメだ。何も見えない。前も後ろも、未来も、見えない。こんな、こんな……」
「諦めないでください!」
「こっちだ! 早くしろ!」
「私は置いて行くんだ。そうすれば、君だけは生き延びられる。」
「でもっ!」
砂を蹴散らす跫音が迫る。
カレンは焦った。なんとしてでもマスターを連れ出さねばならぬような気がしていた。懸命に肩を持つ。だが彼の身体は重い。
と、その途端。
カレンの身体を突き飛ばされた。
何も言う間もなく、彼女は物陰に放りやられる。背中から砂に身を埋める。すぐさま銃声が追いかけてくる。見れば、マスターの身体が蜂の巣になるのが見えた。
言葉が出ない。
皮膚の穴から溢れんばかりの血を流し、彼の身体は砂に吸い込まれた。その傍らには、死人花が、紫色の花弁を揺らしていた。その死を嘲笑うように、生存の喜びを表現するように。
「もう一人いたぞ! 逃すな!」
悲しんでる余裕もない。
人一人の死に泪を流すことすら許されない。流れたものは全て吸い取られ、貪られる。都会の沙漠。悲しみが尽きず、とうとう泪すら枯れ果てた沙漠。
彼女は駆け出した。生きるために。
この呪わしい沙漠を否定するために。




