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静寂が耳に煩かった。
渋谷の地表は、昼間は人通りが多く、さまざまな人が行き交い、賑々しい。だがその一方で地下の大空洞や廃墟では、まるで喧騒から隔絶されたかのように静寂がひしめいている。
瓦礫の山からひとつひとつ、丹念にものを調べるセキ老人を傍らに、テルヒはただひたすら静寂に聴き入る。
寂然と静まり返った、うつろな空間……
音も、言葉もない。
しかし静寂には独特の旋律がある。言うなればそれは時のざわめき、精神の騒音であった。彼はひたすら静寂へ耳を傾け、あたかも心音を探り当てるかのように、自分の心の空白から何かを聴き取ろうと試みていた。
だが、心への問いかけは、谺となる以外に、何ひとつ返ってこなかった。
都会にぽっかり空いた穴。棄てられた時間の結晶。行くべき場所もない、亡霊の漂う空間……この廃墟のなかでは、あらゆる空虚が反響しあい、音という音を吸い込み、生活の痕跡すら喰らい尽くしたあげくに、けたたましい静寂となって耳朶へ押し寄せてくるのだ。
何物をも与えない空白。
それは渇き。
都会の沙漠は、こうして人の心を揺さぶり、衝き動かす。渇きは潤いを求め、空白はやがて埋めてくれる何かを求める。そして静寂は生活の音を探し求めて、虚しく残響を繰り返す。
繰り返し。反復。
記憶を喪った少年は、己れの時間を遡り、心のなかにそびえ立つ廃墟を必死に駆け回る。
何度も何度も自分の時間を繰り返す。
思い出せ。思い出せ。
俺は何者であったのか。
何処より来て、何処へ向かうのか。
その根拠は、その構造は、その由来は?
……俺は、いったい誰なんだ?
『教えてあげようか?』
心の廃墟に、ぽつりと立つ少年。空白の顔。嘲笑っているように見えるのは、彼の思い違いなのか。
『お前は……』
『君はね、本当は「テルヒ」じゃない。皮肉なことに、君は僕の名前を借りているだけにすぎないんだ。』
『名前……? そんなものただの言葉さ。俺が「テルヒ」じゃなかったしても、今者は「テルヒ」なんだぜ』
『強がってるねェ』
やはり嘲笑っているように聞こえる。
どうしてだ、これはただの言葉だ、俺の幻覚だ。すべて俺の亡霊なのだ。なのに、どうして、どうして!
背筋がピリピリと痛む。
孤独という名の毒が、脊髄を迸る。
と、そのとき、肩に手が置かれた。ハッと我に返り、無意識に手を強く握る。警戒。そして威嚇。
己れを強く持てないときに限って、彼は他人に対して強く当たる。
自分が弱くないことを認めさせるために。
弱みに付け込まれないために。
「どうした、テルヒ。」
戸惑いの表情が浮かぶ。
いったいどうしたことじゃろう……渋谷に着いて、そろそろ二週間が経つ。拝水教の連中はなにをしでかすかわからんままだし、世の不安がますます満ちているが……じゃがこの子は、それとは無関係に心が荒んでいる。最初の数日間は儂の手伝いをしてくれていたが、だんだんと物思いに耽るようになって……今者もそうじゃ! 友達ができれば良いと思っていたが、こちらのことを疎かにされては困る。青年に悩みはつきものだし、これからも悩む種は尽きないものじゃが、だからこそ堅実に生きていてもらいたいんじゃ。
ふと我に返り、老人の困惑を察したテルヒは、手を離す。そしてバツの悪そうな顔をして、うつむいた。
「どうしたんじゃ……?」
セキ老人は、その顔を心配そうに覗き込む。だが、光の射さぬ、砂埃が仄かに充満している空間の中で、その顔を明らかにすることはできなかった。
実のところ、テルヒは動揺していた。不安で不安で仕方ないと思っていた。しかし、どうしてそう思っているのか、それがわからなかった。
わからないことがさらに不安を煽った。渇望はさらなる渇望を招いたのである。
「なあ……セキさん。あんたは、なんのためにこの仕事をしているんだ?」
ぽつり、まるで雫が落ちるように、呟かれた言葉。
つかの間、応答に詰まる。
「俺はあんたに助けられ、こうしていろいろ手伝わせてもらってるけど、実のところ、なんでこんなことをしているのか、わからなくなってきた。」
「それは、テルヒ。前にも言ったじゃろう。儂はこれが仕事なんじゃ。俗に儂はトレジャーハンターと呼ばれとるが、むしろ儂は自分を考古学者、いや、歴史家のようなものだと思っとる。」
やれやれ、どっこいしょ、とセキ老人は傍らの石に腰を下ろした。
「……少し長い話になる。
儂はな。『戦争』のころに生まれた。そして、この世界がいかに復興してきたのか、それをつぶさに身に感じながら生きてきたんじゃよ。あのころはなんというか、苦しかった。資源が足らんとか以前に、食べ物が、水が足りんかったのだ。だからその水を得るために組合ができた。まず何より食べ、飲まなくちゃならなかったんじゃ。
そして飢えや渇きが収まると、四辺一帯沙漠で、とうていこのままじゃいけないということがわかってきた。命を繋いだら、今度は生活を立て直さないといけないという具合になった。そのために旧文明のことを知る必要が出てきた。自分たちを滅ぼしてしまった原因を知ると同時に、かつて豊かだったという文明の恩恵を授かりたかったわけなんじゃよ。で、その延長線上に、現代ってものができとる。この、複製都市と呼ばれとる都市国家がな。
じゃが、時が経つごとに、何かが足りないことがわかってきた。正確には、なんだか旧文明の文献には決してないような不穏な出来事が、現代に頻繁に起こるようになってしまったのでその原因を、何かの欠落に求めるようになったのじゃ。例えば、複製都市を統一する権力や権威の喪失、文化や精神の復興遅滞、背負うべき国や文明という概念の喪失、といった理由付けをな……。なんの根拠もない青少年たちの暴行や、怪訝しげな新興宗教組織の横行や、なんとなく街場の空気から感じる倦怠感は、復興論者からは喜ばしいことではなかったし、理由なしに納得できないことだったのじゃよ。何にせよ、儂らのような人間からすれば、どん底から這い上がるように積み立ててきた努力が、一切合切報われぬ、蔑ろにされている、と思われてならんのだ。
しかし儂はあるとき、正確には、お前さんに会って、しばらく経ったころだ……直観のようなものを得た。この世の中は、ひょっとするとお前さんみたいな『記憶喪失』の状態にあるんじゃないか、と。」
テルヒはハッとする。
廃墟。打ち捨てられた時間。誰の見向きもされぬ投資と労働の果てに、放棄され、あらゆる世の中から断絶された時の結晶……過去から現在につながるはずだったものが、打ち切られてしまったもの。
途絶された記憶。
皮膚感覚を喪った現実。
起源を失った、
根拠を持たない、
沙漠に浮かぶ楼閣のように、
吸い上げる水を持たぬ、
渇いた、
ただ渇いた、
朽木のような生命。
それでもなお生きている。いや、生かされている?
「そう。儂らは、結局のところ自分にとって都合のいいものしか過去から学んどらんのじゃ。それはこれまでもそうだったし、これからもそうじゃろうて。しかし、自分にとって都合の良いものだけで世の中が成り立つわけがない。儂らはなにかを失くしてしまった。失くしたことに気づかず、いや、失くした物を補うためにやたらめったらわけのわからんものを、摂り続けて、歪になってしまった。もう、いい加減気付いてもいいはずなのだ。この空虚さの理由を。本当は何を喪ってしまったのかを。……儂はそれを探している。それは、テルヒ、お前さんもそうなのではないか? お前さんも、どうにもわからないものを抱えて、その理由を探し続けて、悩んでいるんじゃないのか?」
違う……と、テルヒは否定したい衝動に駆られた。そんなものを探してなんになるんだ。生まれたときからこの世は沙漠だった。倦怠感と絶望がどことなく漂っていた。そんなものに理由があるとでもいうのか? ないさ。これが他ならぬ俺たちにとっての現実なんだ。あんたにとっての「現実」こそが、昔者に縋った幻想に過ぎないんだよ。昔者話なんて悠長な暇は俺らにはないし、今者までずっとそうだった。
テルヒは、確実にセキ老人とのあいだにある隔絶のようなものを感じ取ったのである。
セキ老人はなおも続ける。
「……もしかしたら、これは儂の考えすぎなのかもしれないな。じゃが、儂は君の記憶が是非戻ってきて欲しいと切実に思っている。なぜか。歴史はどう足掻いても消すことができないからだ。残念なことに、儂たちは生まれてから今こうして生きているまでの歴史を背負っておる。それを無視して生きていられるほど、強くはいられない、と儂は思うぞ。」
「違う!」
テルヒは怒鳴った。その瞳は爛々と輝く感情に燃え、拳はぐっと握りしめられ、頭から背筋にかけて獣物のような緊張を帯びていた。
彼は初めて心のそこから感情を沸かせてみせたのである。
「強く居られるか、居られないかは問題じゃない。強くなければならないんだ。でなくてはこの沙漠で生きてはいけなかった。今者までも、これからもそうだ。」
ふと脳裡に映像がちらつく。
宏漠たる砂の光景。何もかも呑み尽くさんとする轟々たる砂嵐のなかで、組み交わされる拳、刃。血液を振り乱しながら崩れ落ちる姿。
そうだこの世は俺の生まれたときから沙漠だった。誰も俺たちに対しても優しくはなかった。俺はこの身に沁みて知っている。弱さとは付け込まれる隙のことだ。良識なんて腹黒さの臭みを消す程度の役割りしか果たさない。この爺いの言葉は俺にとって無意味だ。
『違うさ。』と怺えるような笑い。見れば、セキ老人の背後から顔の見えない少年がいた。『無意味ではないよ。だが信じたくないだけ。まだ甘えたいだけ。しょせん君はガキのまま。意地を張って、虚勢で塗り固められただけのか弱い人間。』
「だが弱ければ死ぬ。俺は……」
『僕を、見殺しにした。』
顔がそっと覗き込む。テルヒはようやくその瞳を視た。その眉毛を、その鼻を、その口元を、そして、その表情を。
彼は、他ならぬテルヒ自身の顔であった。
『いや違うね。君はテルヒじゃなくてヒュウガ。僕の双子の弟。そして、病弱な僕を見捨てて生き延びた、醜い野獣。』
混乱が脳を占拠した。
もはや現実と心像との区別すら付かなくなっていた。少年は頭を抱え、吼えた。四辺を構うことなく、ただひたすら目の前のイメージを振り払おうと必死になった。
セキ老人はわけもわからず、少年の突発的な動きに応じられず、突き飛ばされる。
「おいテル……」
「うるせえッ!」
眼を見開いた。
拒絶の言葉が、殷々と響き渡る。何度も何度もコンクリートの瓦礫と壁をぶつかり、跳ね返り、多重に押し寄せてくる。
反復。重複。繰り返し。
その瞬間、遠くから爆発音が聞こえた。軽い地響き。騒ぎ出す群集のどよめきが、漣のように廃墟を過ぎって、さらに遠くへと流れ去ってゆく。
奴らだ、と少年は確信した。奴らが来る前にこの街を離れなければならない。
呆気にとられるセキ老人を尻目に、少年は歩き出す。
『また、逃げるのかい?』
ふとそう聞こえた気がした。だがもう少年は聴く耳を持たなかった。過去など、根など要らない。今者を生き延び、勝ち残ったものだけが強者であり、繁栄する。それだけだ。それだけのことを、どうして忘れてしまっていたのだろう。
嗚呼、渇いてやがる。
しかし心はまだ空白のままだった。




