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旧文明ではその建物を「都庁」と呼んでいた。だが今者では拝水教の本部である。
天に高く聳えるような、砂上の楼閣。複製の都市を片っ端から破壊して廻るわりには、拝水教も借り物の容器を必要としていたのだろうか、と水売りは意地の悪いことを想像した。しかし、その楽しい考え事はすぐに断ち切られた。これから、いわゆる敵地に入ろうというのだから、呑気に空を見上げている余裕ではなかったのだ。
砂埃が舞う。防砂マスクを持ってなかったのは著しい不幸だと言えた。彼は袖で必死に顔面を護りながら、灰色の建造物のまわりを歩き、出入り口の綿密な調査を試みた。
しかし彼にとって、むしろ興味深い発見は、裏手に作られた畑だった。複製都市に本来あったはずの建物を根こそぎ破壊して、その跡地に近くの貯水槽かなにかから水を持って来ているようなのだ。畑の地面は湿っていて、決して美味いとは言えないが、不向きというわけでもない。沙漠に似合わず、青々と茂る葉のなかには、熟してはいないが幾つかの実すら成っている。オアシス特有の、食用果実だ。
つまるところ、教団は自給自足の基盤を作りつつあったのだ。
これは水売りにとってただならぬ驚きだった。というのも、拝水教は水を、それも豊かな水源を保有しているということがわかったからだ。
通常、蛇や砂狐のような動物の肉でなければ、食料とは即ち植物のことを指す。植物の生長には並々ならぬ量の、しかも持続性のある水が必要だ。だが沙漠では基本的に水分が足らぬ。あったとしても、例えば動植物の死骸から水分を搾り取る、死人花のような独特な手段で水を得るのでなければ、せいぜい海から漂う朝霧より、露を摂る程度でしか水が得られないのだ。これは昆虫や爬虫類などの動物にも同じことが言える。だから沙漠ではオアシス、ひいてはその水源が重大になってくる。
この世が沙漠と化すまえから、人類の生活は水なしでは生きられなかった。いや、あらゆる生命が水なくして生きることができない。それはただ飲んで潤いを得るだけではなく、食料を育むという意味においても水は必須なのだ。この点において、植物を一箇所に集めてこれを生育すること、すなわち農業を作り上げることで食料を得た人類であったが、その背後ではどれほどの水の恩恵を授かったことだろうか。
その水が、惜しげも無く振舞われて、緑が育まれている!
この驚きは水売り自身の饒舌な心を以てしても言い表しがたい衝撃を与えた。しかもこのとき水売りの瞼の裏には、再三思い付いては離れないオアシスの幻想が浮かんでいた。紛れもない、極上の園! 世のなか渇きに溺れた水売りには、なんともそう思われてならなかった。
しかし、その感動に浸ることは許されなかった。
「なんだ、貴様。」
肩にポン、と置かれる手。
それに気がついた瞬間、水売りはしまった、と思う。もはや遅かった。振り向けば、白い外套をまとった男が二人。そのうちの片方が水売りの肩に手を置いているわけだが、外套からわかる身体の輪郭からして、逆らわない方が良いとすぐに察せられた。
水売りは一秒の間に壮絶な思案を巡らせた。そして、得意の笑顔を被り、
「いやあ、お初にお目にかかります。こちら拝水教の本部だと伺いましたが……」
と切り出した。
すると、男は、
「ああ、そうだが……何か用でも?」
と怪訝な、しかしこれ以上言うことができぬと表情を曖昧に歪ませている。
ざまあみやがれ。と水売りは内心勝ち誇った笑みを浮かべる。うっかり不意を衝かれたが、うまいこと会話の先手を取れたぞ。口から出まかせを言ったが、拝水教の本部は隠しごとじゃあないもんな。何も、俺に不利なことはない。引け目を感じる必要はまったくありゃしない。落ち着いて、よく考えろ……
「実は……」と、懸命に自分の過去を振り返る。拝水教に関わる、自分に有益な情報、記憶を探し求める。「私、こちらに拝水教の本部があると伺いまして……見学に参ったのです。」
「見学?」
「ええ、そうなんです。と、言うのも、見ての通り私は水売りなんですが、水商売は大変罪深いでしょう? それで、私は怖かったのです。私みたいな男が、平然と本部の戸を叩いて、赦されるなんてことがあるわけない、とこう思ったのです。」
「おや、あなたは水商売の……これは気づかなかった。言われてみれば、そうだ。」と、男の眼光が鋭くなるのが見えた。
しかし、それは水売りの計算通りであった。彼はゆっくりと項垂れるように頭を垂れた。
「はい。かつてはこの新宿で多くの人から水と引き換えに金銭を頂いたものです。ですが、罪悪感を覚えないわけではなかったのです。あなた方が街に現れてから、私はつくづく己れの愚かさを思い知らされました。そして、できることならあなた方の宗門をくぐって、更生したいと思ったのです。」
「ほほう、」と男は感心したような顔になる。しかし眼は笑っていない。「……だがやはり貴様は自覚している通りの罪びとだ。更生するまえに、なんらかの罰を受けねばならないだろう。」
「承知の上です。」……畜生、そろそろ自分の舌が口を飛び出してしまいそうだ。むず痒くなってきた。早く決着をつけないと。「ですから、どうにもこうにも、にっちもさっちもゆかずにこの四辺を歩き回っていたのです。自分はあなた方とともにいられるほどの価値がある男なのか、いや、ないかもしれない。ないならないで仕様がありません。ですが、もしあなた方に慈悲の心があるのなら、私に更生の機会を与えてくださいませんか! つまり、私に、私自身を裁く機会を与えて欲しいのです。よくものを視て、聴いて、自分の心を本当に決するための猶予が欲しいのです。それさえ叶えば、あなた方の厳しい罰もいくらでも受けましょう。どうか……」
「わかった、わかった!」と男は押し負けるように言った。「お前の情熱はよく伝わった。すでに悔い改めているものに手は下さない。そもそも我々は何ものも罰しない。罰するのは我らが唯一なる神だけだ。」
「ああ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
水売りは偽らざる笑顔で砂の地にひれ伏した。それもそのはずで、身の内側から湧き上がる喜びは、趣きは異なれど、嘘偽りのないものだったからだ。
しかし、それ以上は語らぬように気をつけた。水商売のうえで最も肝要なことは、流れる水には逆らわず、しかし流されてはならぬ、と言うことなのだ。
「よし、ついて来い。中をご覧に入れようじゃないか。」
「はい!」
こうして、水売りは拝水教の本部に入ることを赦された。通りがかる人びとは、怪訝な視線を投げかけるが、案内を受けているのだとわかると関心を失った。
それを観察しながら水売りは北叟笑んだものである。
だが彼はまず周りをつぶさに観察することを心がけた。
構内はあたかも難民キャンプのようであった。あちらこちらの床にブルーシートが敷かれ、その上に人びとが何気なく暮らしている。
心なしか、空間の広さに比して人が少ないように見えた。
「ここは広場だ。なにせ我々は大きな集団だからな。しかし、屋根の下で過ごせるだけましだろう。ここにいるのはおおむね、屋根すら与えられなかったものたちなのだから……」
水売りの表情を察してか、男があれこれ解説を加えてくれた。
この建物の低層は、おもにホームレスや低所得者からなる新参者が集まっている。それに対して、拝水教の幹部、つまり高い地位のものはより高層に部屋を持っているらしい。ただし、拝水教内において所得と地位は関係がない。あるのは「神」と、その意志を受ける「教主様」なる人物の信頼なのだと言う。
「その、『教主様』というのは……?」
「教主様はお身体の弱い方でな、砂嵐の激しい大地では生きてゆかれんのだ。しかし、とても慈愛に満ちたお方で、物事の真実を見極めることには誰よりも抜きん出ておられる。我々も教主様の言葉で目を覚まされたのだ。」
「ほう……」
胡散臭いな、と水売りはホンネを押し隠しつつ、それでも思う。真実を見極める? なんなんだそりゃ。
彼の心を無視して、男の言葉は続く。おおむね「教主様」に対する惜しみのない賛辞の言葉とエピソードばかりだったが、水売りにはどうでもよかった。
だがそのなかで一際興味深かったのは、「教主様」は奇跡を起こさないということだった。いや、受け手側は「奇跡」「奇跡」と騒いでいるが、注意深く耳を傾けるにつれて水売りは、「教主様」自身は何ひとつとして「奇跡」を為していないということに気がついたのだ。
例えば、水源を掘り当てたという話。なんでも杖を突いたところを深く掘ったら水が出たという。しかし水商売に長く関わり、その仕事をよく研究したものであれば、水源を掘り当てる独特の嗅覚が養われる。極端な話、空気にほんのわずかに含まれる水分や、砂の手触りからどの辺に脈があるのか、見当がつくようになるのだ。そして「教主様」はその水源探しの基本をしっかり抑えていた。杖で砂突き、その手応えなどから発見したのだと水売りはすぐに察した。
だがそれ以上に水売りの脳裡には、ある直観が芽生えていた。それは考えるだけで肌寒くなるような仮説、単体で心を揺さぶられるような仮説だ。
ひょっとすると、「拝水教」を生み出したのは俺と同業者なのではないか? それも、組合に所属していたような、教育のある、立派な経緯を持った人間だろう。もしかしたら闇ブローカー上がりの狡賢さはあるかもしれないが、こいつは絶対にある種のノウハウを知っている。それも水商売に欠かせない、重要なものばかりを。
考えてみれば、そうでないとおかしい点が多すぎた。まず大衆に配るための水が、どこから出てきたのか? なぜ彼らが水商売を目の敵にしているのか? そしてなぜ拝水教は水組合から突き崩しに掛かったのか? 最初のうちはしょせん他人事だと思って蔑ろにしていたが、冷静にこうした事実を俯瞰すると、すべてが「教主様」の素性に密接に結びついてゆくのがわかった。
もはや、直観は確信となった。
「なあ、その……『教主様』は、俺みたいな、罪深い人間にも慈悲深く接してくださるのかな……?」
押し隠しても隠しきれぬ戸惑いの色を浮かべながら、水売りは問うた。
しかし男は厳粛だが陽気に答えた。水売りの戸惑いを、彼自身悔恨の念から出たものだと錯覚したのかもしれない。
「教主様は心の底から悔い改めた人間となら、まるで友のように接してくださる、素晴らしいお方だ。なに、案ずることはない。」
「な、ならお目通り……叶いますかね?」
男はぎょっとした顔で振り向いた。
この反応のために水売りはしくじったと内心舌打ちをした。しかし、杞憂だった。男はさも残念そうな顔でこう答えたからだ。
「惜しかったな。教主様は今者ここにはいらっしゃらない。」
「えっ! そ、そりゃあどういうことです?」
「言葉通りの意味だ。教主様は有志のものたちとともに渋谷の方へ向かわれた。あそこには多くの罪人たちが逃げ込んでいるからな。」
ゾク、と背筋が凍る思いがした。
あまり知られてはいないが、渋谷には幾つかの良い水源がある。そのうえ、「明治神宮」とかつて呼ばれていた大規模な緑地を有し、東京沙漠の流通の要となるポイントでもある。こういうことは、水商売や組合のネットワークに通じてないとなかなか知る機会がない。それに、今者思えば新宿は沙漠の主要都市であると同時に優良な水源の少ないエリアだ。組合も供給源を外部に依存している。人心を掌握するための条件をかなり好都合に満たしてはいないか。
目的は……? 「教主様」は、拝水教はなにを目指そうとしているんだ……?
水売りは初めてその疑問にぶち当たり、そして今者の今者までそのことに思い至らなかったことに驚いた。こうも人を信仰の虜にして、操作した挙げ句に「教主様」はなにを為さんと欲しているのか?
しかし、おそらく目の前の男に尋ねても「懲りない罪人を滅ぼすためだ」としか答えないだろう。むしろ下手な尋ね方はこちらの不信心を疑われる。なぜなら水売りが内側に抱いた疑問それ自体が、いかにも商売人じみた、利益ばかり求めている関心に根差しているからだ。残念ながら拝水教においてその関心は初めからタブー視されている。
拝水教徒は「教主様」の立てたシナリオの一役者にすぎない。粗筋は綿密に組まれはしているが、その全貌を知らぬのだ。目的など知らなくても、納得する道理さえ与えられればいとも簡単に考えることを止めてしまう。
人心は合理的には動かない。合理的な装いを持った信仰によって衝き動かされるのだ。
この、新たな確信に至ったとき、水売りはここから逃げ出したくなった。それは本能的な、護身のための恐怖というよりは、自分の足が地面に着いていないと気付くような怖れであった。彼は何とかしてここを脱出せねばならぬと決意した。
「……あっ! お前は!」
だがその意志は叶わなかった。
突然声を掛けられる。その声の気があまりに強かったために、水売りは不意を衝かれた。振り返り、見れば、険しい顔をした少女の姿があった。彼女を看留めるなり、男は頭を垂れる。
「やや、これはこれは……」
男は少女の名を呼んだ。しかし水売りには興味がなかった。むしろ彼女が「様」付けで呼ばれていたということに意識が奪われたのだ。
少女はキッとこちらを睨む。
「この男、どうしてここに?」
「はあ、なんでも見学に来たと申しておりまして……」
「出まかせを言うな!」
少女は一喝した。その言葉は水売りに浴びせたものだったが、同時に男はビクッと身を縮こめるほどの気であった。
「この馬鹿者! こいつは『敵』の密偵だ! 自己保身や利益のためならぶ厚い面の皮でいくらでも嘘を吐くような奴だぞ! どうせ口車に乗せられたのだろう……だが私は騙されないぞ。私に見つかったのが運の尽きだったな……」
まるで積年の恨みを晴らさんとするような、ゾッとするような表情だ。
彼女は水売りと面と向かった。
「初めましてだね、水売りさん。でも私はあんたのことをよく知ってるよ。あんたがケチ臭く水を売らなかったせいで、うちの親父は死んだんだからね!」
水売りは気がついた、彼女が、いつしか商売を断わった女の子によく似た顔をしていることに。
彼女も、水売りの表情から察したのだろう。片眉を上げながら、
「ようやく気づいたみたいね。あんたが突っぱねたのは私の妹さ。あのとき私は死に物狂いで働いて、病気の親父と、まだ働けない妹と弟を養ってたんだ。でも親父はあっけなく死んだ。そのあとに弟も死んだよ。惨めに、逝き際に水一滴も飲ませられなかったよ……」
残念だったな。だがそれが現実ってもんだぜ、と水売りは心の声で返辞をした。こちらにも生活ってもんがある。てめえの都合だけがすべてだと思うなよ。
まるで内心を読んだかのように、彼女は眉間にしわを寄せる。一片たりとも怒りを隠さぬ表情だ。
「お前のせいだ。お前みたいな奴が世にのさばってるからいけないんだ。」
被害妄想かよ。
第一、水売り自身「のさば」るほどの権勢を誇ったことがなかったのである。
「……その何をしてるんだかわからない顔が本当に嫌になる。何を言ったか知らないけど、どうせ心にもないことをさも本性のように言ったんだろうね。そのふてぶてしいところが、本当に醜い。」
おいおい、人格批判までするのか。俺はごく当たり前の仕事を、ごく当たり前にしただけだぞ。
水売りは呆れを通り越して、苦笑してしまった。
「なにが可笑しい!」
「いや、別に……」とホンネが溢れないように、「なんというか、大変だったようですね。」とかろうじて言葉を選ぶ。
しかし彼女は逆上するばかり。
「大変? お前になにがわかる。お前に私の苦渋と悲しみが。」
「わからないさ、お嬢さん。だがあんたも俺の努力と苦労をわかっちゃいない。だからお互い様じゃないか?」
一瞬、誰の言葉か、水売りにはわからなかった。しかし、すぐにそれが自分の口から堂々と吐き出されたものだと知った。
とうとう我慢の堰がひび割れたのだ。ホンネが溢れてしまった。
「なるほど、お互い様、か。」
ククク、と少女は笑う。鬼の首を取ったように、勝利の確信を帯びた、壮絶な笑い。
「おい、やはりこいつは『敵』だ。先刻自分でそう告白したぞ。連れて行って処分して!」
「あ、はい!」
案内をしていた男は、我に返ると、水売りの身柄を取り押さえた。
水売りは抵抗しなかった。むしろ諦念の苦い味が喉の奥から湧き上がるのを、深く深く噛み締めるだけであった。




