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「で、どうなんだ?」
と言って、銃を腕に抱える男。彼はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、部屋の隅にいる影に語りかける。
「どうってなにも。俺は戦いませんよ。そもそも俺は商売人です。あんたらみてえな自警団上がりの戦争屋と一緒にしてもらっちゃ困りますわ。」
語りかけた男、ニシノはクックッと笑う。
「戦争屋、か……」
「あんたらがなんのために戦おうが勝手にしてくださいよ。だが俺は水売りなんだ。できるかぎり安く仕入れて、欲しいと言う、金のあるやつにモノを廻す。それ以上でもそれ以下でもありませんぜ。このうえ余計な荷物は背負いたくない。」
「まったくだ。大した商売人根性だよ。お前には社会に対する責任ってものがない。」
「もとからありませんよ。だってここは沙漠ですぜ? 自分が生きてくだけで精一杯で。」
「相違ない。」
込み上げる笑いを堪え、ニシノは壁に凭れた。
新宿が拝水教によって事実上の支配を受けたあと、こと水商売に関わる業者の殆んどは街を遁れようと試みた。しかし拝水教の方はそれを見逃してくれず、一部の商売人を捉えるなり、公開で鞭打ちなどをしていた。信心を改めなければいくらでも懲らしめると言うのである。したがって大概のものは恐怖ゆえに信心を改める姿勢を示した。まれに固く意志を曲げずに殺されたものもいたが、そういう存在はむしろ見せしめにされ、さらなる恐怖を煽る道具となるばかりであった。
水売りにとって不可解であったのは、いつのまにか幅を利かせていた拝水教の、いったいどこに支配する力があったのかということだった。いや、そのことに関しては、しばらくまえにユィハという少女と交わした言葉のなかに答えがあったはずだった。「自分」というものの無根拠さ。目的の欠如。生きる価値を求め、意味を得んという欲望。その欲望が生み出した、「神」という幻想の楼閣。……だがそれだけでは群衆は暴力を振るわない。自らの抱いた観念に支配されることはあっても、支配するということは決して起こらないはずだった。
ということは、拝水教を使嗾する何かの存在を暗示していた。いわば黒幕的な存在を。
水売りは思い出す。「戦争」と呼ばれた、旧文明を滅ぼした醜い闘争を取り扱った歴史教育のことを。幼年期に語られた言葉を。……しかし思い返すだけ無駄だった。未だになぜ起きたかがわからず、誰のせいにもなっていない、滅びの現実のみを残した事実のことなど。もしかしたら、水売りが生まれるまえからこの世はずっと沙漠だったのかもしれないし、その現実を直視し難いからこそ生まれた「戦争」という言葉だったのかもしれぬ。昔者は豊かだった。いろいろあって今者は荒廃しているけど、豊かになれる模範はちゃんとある。そういう物語だったのかもしれぬ。
くだらねえ、何もかもでっち上げみてえなもんじゃねえか。俺が無責任だって? 少なくとも俺は俺自身のことに関しては立派に責任を負っているさ。むしろ無責任なのは世の中のほうではないか? 教育は俺に何を与えた? 社会は何を俺にくれた? なんにもありゃしない。中身がありそうに見えて、すっからかんな抜け殻ばかり呉れたんだ。むしろ奪ってすらいる。俺がせっせと作り上げた水でさえ、高すぎる、倫理に悖る、と飛び切りのケチをつけて。その最上級の罵倒が無責任な奴、か! 誰だって俺に義務だ責任だと押し付ける! だが見返りなんて一つもありゃしないのさ!
思わず本心が表情に出る。だがそれは幸いにも、暗闇に覆い隠されていたために誰の目にも触れることがなく済んだ。
瓦礫の破片がこぼれ落ち、砂塵が舞う音がする。跫音だ。一人だけ、それも急いでいる様子。
バッと部屋を覗く人影。放たれた声は、女性のものであった。
「大変ですニシノさん、拝水教の偵察がここを嗅ぎつけたようです。」
「なにィ……」
かつての笑顔の仮面はどこにもない。ニシノは不機嫌な、粗暴な表情をなに一つ隠しもせず、声を荒らげる。
「どうも塵芥捨て場を見つけられたらしく……」
「アイ、貴様ヘマしたな!」
「……すみません。」
愚者だな。と水売りは密かに思った。我が身可愛さで、責任転嫁してやがる。
まるでその思念が聞こえたかのように、ニシノは舌打ちをした。だが彼は自分の暴力衝動をこらえただけだった。
「まあいい。新宿の地下迷宮にはまだまだ余裕があるからな。ここを引き払ってもまだ場所はあるさ。」と、勇ましげに言う陰で水売りはニシノがこう呟くのを聞き逃さなかった。「……クソっ、絶対に生き延びてやる……あんなクズ野郎の手にかかって死ぬなんてゴメンだ……!」
さあて、クズ野郎はどっちかな。
水売りは北叟笑んだ。
「おい水売り! 拝水教はお前みたいな奴を敵視している。このままだとお前もただじゃ済まないぞ。生き延びたいなら手伝え。」
ニシノは水売りを見やる。しかし水売りの表情は見えていない。
水売りは微かにため息を吐いた。
「あいよ。……で、どうすりゃいいんですかい?」
「餌になってもらう。」
「おいおいおい、何言ってるんです?」
「まあ最後まで話を聞け。俺らは恭順したふりをして、奴らに近づく。そして油断した隙を突くわけだ。」
「ふざけてませんか? 普通に逃げればいいじゃですか。殺す意味が皆目見当つかないですよ。」
「殺らなきゃ殺られる。それが生存競争ってもんだろうが。まさか自分で自分の身が守れないのか?」
「自分を守ることと、他人を殺すことは同じじゃない。」
「同じさ。なにせ資源が限られている。自分が生き残りたかったら、他人を殺して奪った分の糊口をしのぐ。弱者は強者の糧となり、強者はさらにまえに進む。こうして沙漠は開拓されたんだぜ、知らなかったのか?」
嗟呼、と納得する自分がいた。だから世の中はこうも俺に厳しく、そして無慈悲なのか。どいつもこいつも薄っぺらい自分ばかりだ。憐れみなんて感じちゃいないし、それ以上に残酷だったのだ。
「いいや、知ってはいました。肌で感じたのは初めてですがね。」
「ふん。なら早速仕事といこう。」
「一つだけ、質問が。ニシノさん、あんたはもと開拓民の生まれなんですかい?」
「祖父の代からそうだったさ。つくづく生きる世知辛さを舐めさせられたよ。」
「シッ、跫音が遠くから聞こえます。」
アイが息を殺した声で言う。
「まあ、生き残れればなにしたっていいのさ。そういう具合に教わったし、これからもそうするつもりだね。」
ニシノはそう言うと、水売りの背後に回り、彼の身体を拘束した。縄はなかったのに、まるで縛られたかのように水売りは身動きできなくなった。
傍らで、アイが銃を構える。
「アイ、そこの壁に向かって撃て。」
発砲音。
銃声に応ずるように、跫音がせわしなくなった。だいぶ近づいたか、と思ったころに、ニシノが叫ぶ。
「水売りめ、ようやく捕まえたぞ!」
途端、跫音のキレが良くなる。獲物に飛びかかる肉食獣のようだ。
だが、ようやく辿り着いたとき、それが彼らの最期であった。
銃声が、二つ。
それだけだった。それだけが、彼らの生命を奪い取った。
まるで、花を摘み取るように簡単に……
淡々と、ニシノとアイは屍体を片付ける。その様を見て、水売りは「なんで……」と思わずつぶやいた。
「なんだよ?」
ニシノが睨む。
「なんで、ニシノさんはそうまでして拝水教に逆らうんですかい?」
「気にくわねえからだよ。それ以上の理由がいるか?」
あっちでは気味の悪い善意。だがこっちでは感情論だ。と水売りは思う。どいつもこいつもアホみてえに、自分勝手で、……いや、俺も自分勝手なのは変わりない。しょせん沙漠はこんなもんなんだろうよ。旧文明から得た秩序の仮面をかぶって、誰も彼もが幸せに生きているように見えていた幻想。それが拝水教の連中のおかげで壊れつつある。醜くて、血腥い、本当の現実が見えるようになってきた。いかに俺たちが幸福な御膳立てのうえに生きていたのか、ゾッとする!
図らずも笑いが出た。ケタケタとどこか穴が開いて零れ落ちたのではないかと思われるほどの、壮絶な笑いが出てきた。
その笑い方があまりにも変だったのだろう、ニシノはギョッと目を見開いた。
「……なんだ、何が可笑しい?」
「いや思い出し笑いです。」と必死に腹を抑えながら、「なんともバカバカしいことを思い出したもんでね。」
「ふん、拝水教もそうだが、貴様気味が悪いな。」
「へへへ、そらどーも。」
ニシノは苦い表情だ。
「水売り、貴様はこれからどうするんだ? 行くあてがないなら本当に俺たちと……」
「だぁから、俺は戦うつもりはないですってば。好き勝手やりますよ。」
「どうなっても知らんぞ。」
「言われるまでもなく。死んだらそのときの生命でさぁ。」
水売りは意気揚々と歩き出した。その背後でアイがお辞儀をしたが、彼はその様子など一顧だにしなかった。ニシノは曖昧な顔をして、水売りの背中を見送るばかり。
さてさて、これからどうしたものかな。と水売りは思案する。もはや法なんてなかった。秩序がないのだから、規則なんてあるようでないも同然なのであった。いつぞやの暗黒時代の再来か、それとも……? しかしこういう混沌は、嫌いではなかった。初めて群衆の混沌に呑まれたときに味わった、あの優越感というべき感動が、不思議と自信という形となって根差している。それも自尊心というどうしようもなく腫れぼったい古傷としてではなく、むしろ生々しい鮮血の滾り、心の湧き立つオアシスの源のような気がしてならぬのである。
少なくとも、砂上の楼閣は全部ぶち壊さないとオアシスなんて見つかりそうもない……破壊の爽快感。と、そこまで思い至った瞬間、水売りは自らの行くべきところを決めた。