表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/25

24/0

 水売りは東京沙漠に建ち並ぶビルの群れを眺めながら、こう思った。文字通りの砂上の楼閣だな、と。これが旧文明の複製(コピー)だというのなら、さぞかし旧文明も酷いものだったに相違(ちがい)ない。あまりにも歪で、継ぎ接ぎだらけで、それでいて生ける屍のように(うごめ)いている。そういう感触がする。

 彼は新宿(あらやど)かたぶき町の附近を歩き回っていた。すでに日暮れである。四辺(あたり)にだんだんと暗幕が降りて、赤、青、黄色、緑……とさまざまな色のネオンが目覚めるころだ。ネオンはまるで狂乱する舞踏家のように、(はげ)しい自己主張をする。それらの明かりは、廃墟に()い止められた作り物の世界を暴き出す。だがそれを気に留めるものはいない。もはや見慣れた光景(けしき)だったからだ。この眩しくも五月蝿(うるさ)い喧騒というものは、都会のなかの澱んだ空気と同じように、当たり前のものになってしまったのである。

 だが彼にはそれが非常に息苦しく感じた。この閉塞感。まるで檻の中に居るようだ。それも、飛び切り汚穢の溜まった、人間が家畜のように繋がれた、そういう檻の中だ。彼はこの沙漠から脱け出したいと望んでいた。オアシス。この願望は彼にオアシスの幻想を抱かせた。すでに滅び去った世界、沙漠と化した地球のなかに、静寂と癒しを与えてくれるような、暖かい緑の楽園……尤も、残りわずかなそれを基盤として、今のごとき複製(コピー)の都市が組み立てられたのであるが。そんなことは幼年期に受けた歴史教育で充分に知っているのだが、それでも彼は彼だけのオアシスを無意識に求め、歩き回っていた。

 かたぶき町の往来は、塵埃(ほこり)っぽくて、渇いている。人びとは砂風のようにすれ違う。風俗や酒場への客引きが、ネオン同様に大きな声を上げる。声を上げるものは、声を上げれば上げるほど、咽喉(のど)が渇いていくだろう。昼に疲れたものは、汗を流す度に、身体の内側に渇きを感じるだろう。それを見計らって、水売りは商売をしていた。

「水! 水は要りませんか!」

 しかし黙っているわけにはいかない。彼もまた、叫ばなければならなかった。それが人に埋もれ、砂に埋もれる東京沙漠においての、人の宿命なのだった。

「おい水売り、いくらだ。」

 ふと声が掛かり、彼は振り返る。そこにはがっしりとした身体つきの男が居た。水売りは男を建設に携わる業者だと思った。

「はい、リットル五百円でございます。」

「高いな。」と、男は財布のなかを見ながら、渋った。

 馬鹿野郎、こんだけ仕事にありつけているんなら、金なんて出し惜しむ必要なんてないだろうが。水売りは内心毒づいていた。しかし顔には、濃厚な化粧のように笑みを貼り付けたままであった。

「はい。申し訳ありません。水組合が公正価格をまた上げてしまったので、吾々も仕方なく上げざるを得ないのです。これでも、念入りに濾過(ろか)した、綺麗な水です。出血サービスに近うございます。」

「ふうん……」

 男は(あご)を撫でる。無精髭が太い指先によって、左右に動いている。その容子は、あたかも捕虜の処遇をどうするかと悩む征服者のようであった。

 まだ、まだだ、と水売りは思った。今は(こら)えるときだぞ。今、間違えても焦って言葉を話してはいけない。言えば言うほど俺は自分の首を絞めちまうんだ。いいか、この水を買うのは俺じゃない。眼の前にいる男の方なんだ。買い手が喋るまで売り手は喋っちゃならねえ。ここで俺は相手を選んでいられないんだぞ、どんな屈辱にだって耐えないといけねえんだぞ。

「うーん、やっぱり、少し汚くてもいいから安いものを選ぶよ。済まないね。」

 男は財布を仕舞った。

「左様でございますか。またの機会をお待ちしております。」

 男は去って行った。その背中が再び人混みに紛れてしまうまで、水売りは心の内側に砂嵐のように渦巻く雑音を押し殺していた。

 ああ畜生、畜生。たとえ俺がどんなに綺麗な水を作ったって、濾過したって、みんな安い方に、質の低い方に流れちまう。もちろん水は高いところから低いところへ流れちまうもんだけれども、それに代わる金ばかりは巧く流れないのはどうかしてる。どうして金だけはちゃんと入るやつとそうじゃないやつがいるんだ。世のことを少し知ったかぶった連中はみんな「実力だ」と抜かしやがる。実力? 正々堂々商売してねえやつに言われると腹が立つ。法を犯してこそこそとしている狐どもめ。あんな奴らが幅を利かせているから、俺はこの沙漠で苦しい思いを味わってるんだ。ええい、クソ!

 水売りは大きな溜め息を吐いた。

「あのう、」

 夢から覚まされた感触がする。周章(あわ)てて振り返ると、痛ましいまでの襤褸(ぼろ)をまとった、小さな女の子が見上げていた。

「み、水を……ください。」

 水売りはしゃがんだ。女の子の目線に顔を合わせるためである。

「お嬢さん、お金はありますか?」

「こ、これだけ……」

 骨と皮だけしか残っていないかのような、弱々しい手の内には、百円玉が三枚と、五十円玉が一枚あった。水売りは顔を(しか)めた。

「うーん……申し訳ないのですが、お代が足りないようです……」

「お願いします。あとでちゃんと払います。今、どうしても水売りさんの売ってる綺麗な水が欲しいんです!」

「申し訳ありません。掛け値なしの商品なので、どうしても現金即払いでないと困るんですよ。」

「そこをなんとかお願いします! 病気の父が居るんです! これは今私にできる限りのお金なんです!」

 嗄れた声だった。それでいて必死な声だった。

 だが水売りは首を振った。

「誠に申し訳ありません。こればかりは、どうしてもいけないんです。俺も可哀想だとは思うんですが、例外を作るとそこに付け込まれる。俺にも生活が掛かっているんですよ。」

「でも、でも!」

「一応、払えるだけのお代分は分けられるけれども、半リットルくらいにしかなりません。それでも良ければ……なんとかできますが。」

 女の子は黙った。しかし、しばらくあとに(うなず)いた。

「すみませんね。これも規則なんでね。」

 水売りは水をペットボトルに淹れ、キャップを締めた。女の子はそのボトルを、いささか乱暴に受け取った。

「この人でなし!」

 水売りはそれに対して答える言葉を出さなかった。ただ、苦笑いのような表情(かお)をして、手を振るだけであった。

 女の子は逃げるように行ってしまった。

 やれやれ、と彼は思った。人でなしなんて、言われる筋合いはねえんだが。一方では断られて、もう一方ではこうだ。まったく、真面目にやるのが馬鹿馬鹿しくなってくるじゃないか。

 水売りはすっかり寝座(ねぐら)に帰りたい気分になってしまった。こういう客商売は、いつも対人のストレスを抱え込んでしまう。幸いなのは、水売りという職業のために、生活上最低限に必要なものには事欠いていないということだけだった。つまり、サボっていても水と食糧に不足することはないということである。組合に関わっているうちは、食糧は配給を受けられるうえ、組合からは正式に水商売の許可が降りているので、制限はついているが、その制限を超えなければ水は無料(ただ)で使えた。他の者ならそうはいかない。先ず水道料金を払わないといけない。それも、リットル単位で税が課せられているような、高い金を払わなければならない。

 しかしこれは家を持って、そこに水道が通っていればの話である。そもそも水道どころか、家を持っていないものも多い。旧文明が砂塵と化して、それを復興中の現代では、ありとあらゆる資源が不足していた。水、食糧、木材、繊維、金属、石炭、石油、……資源は、現代の富である。これらの富を独占させないために、それぞれに組合を設け、これを管理することになった。これら組合は公定価格を定め、資源を護ることを主たる任務としている。あとは水売りのような小売人に対する売買許可を与えるくらいで、あとは特になにをするわけでもなかった。彼らは常に利益しか求めない。許可を与えるのは、つまり販売に掛かるリスクを避けるためだ。それでいて、上納金やなんかを納めさせることで、名実ともに儲けるのだ。ゆえに組合は人びとの暮らしの事情にはまったく関係を持たない。リスクは可能な限り避ける。これが組合の行動原理なのである。貧しき者がどう苦しもうと、どんなに悲惨な状況にあろうと、特には手を出さない。ゆえに落ちぶれた者はホームレスとなる。人が家を建て、水道を設けるためには、木材や金属が要る。しかし、資源は高くて取り扱えない。そうなると、もう貧しき者に身を立てる手段がなくなってしまうのだ。日々を食って飲むだけで精いっぱいになってしまう。

 あの女の子は、たぶんそういう貧しい身の上なのだろう、と水売りはふと思った。だとすると、俺は充分に恵まれているんだよな。だが、やっぱりやりきれねえもんは、やりきれねえな。

 さあ帰ろう、と荷をまとめ、それを担ぎ直した瞬間(とき)、地面が引き裂かれるかのような轟音と、震動が響いた。水売りは体勢を崩し、(たお)れた。そこに立て続けに起きたのは、鳴り響く炸裂音。

「なんだ、なんだ!」

「いったい何が起きているんだ!」

「銃声よ!」

「近いぞ!」

 様々な声が入り混じって聞こえる。すでに場は混沌で充ち満ちていた。路端に身を伏せる人やら、大声を上げてとにかくパニックに陥る人やら、とにかく焦って動こうとする人やらに、水売りはすっかり呑み込まれてしまった。それはまったく不用意に巻き込まれたために、彼は手持ちの水をいくらか盗まれてしまった。彼はそのことにすぐ気付いたが、それどころではなかった。すっかり動転した状況のなかで、彼は自分が上手く生き残ることだけを考えていた。ゆえに、彼は第一歩を間違えるわけにはいかなかったのである。

 彼は耳を澄ませた。音は遠くない。連続する炸裂音。「銃声」と言うものの声から考えると、機関銃(マシンガン)なのだろうか。それらの音は、代わる代わる場所を入れ替えながら、近付いていく。まずい。これは近いぞ、と彼は直感した。兎にも角にも身を隠さなければ。無理に逃げるより、そっちの方が生き残られる。彼は無闇に逃げようとする人混みに逆らった。まるで蟻地獄から脱け出さんとするように、身体に負荷を掛けた。しかしできなければ死ぬ。その直感が彼に力を与えた。

 ふと、ネオンが射抜かれ、割れる音がした。危機はすぐそこにまで迫っていた。彼は考えを改めた。物陰に隠れるより、人の影に隠れた方がいい。むやみに群集にしたがって死ぬのはまっぴらだが、群集を利用して生き残られる。彼は背をこごめ、目立たないように流れに従った。

 悲鳴が上がる。ついに群集の端から死人が現れたのだ。まるで肉食獣に追われる草食動物のように、群集は逃げるしかなかった。彼らは群れを為して逃げ続けた。その力は並外れていた。ここではないどこかへ。そういう願望が、この群集のなかには烈しく燃え上がっていたのである。しかし水売りは、むしろこのなかにいることを望んでいた。今の彼にとって、この混乱のなかこそ生き残る希望のオアシスであった。彼は初めて覚える昂揚感を身に受けていた。なんて群集は莫迦なんだろう! このとき、彼の内側にはこうした(おどろ)きが占められていた。彼らは群れを為しているが、群れでは何も考えていない。ただ狭隘(きょうあい)な利己的な考えが、群れで一致しているだけのことで、群れを率いるものもなければ、生き残るヴィジョンを見せるものもない。雷同した群集。彼らは気付きもせずに、死の崖へと身を投げて行く。実に滑稽(こっけい)だった。

 彼は笑った。銃声と悲鳴の嵐のためにその声は掻き消されたが、彼は実に爽快な笑い声を上げていた。もちろん、周りでは次々と人が死んでいるのである。若しかしたら、一瞬後には自分が撃たれて死ぬかもしれぬ。だがその時が来たら逃げも隠れもしない。そう彼は決めていた。その瞬間、彼は非常なる幸福感に包まれた。なんとも表現のしようのない、幸せな感触が彼を覆い隠してしまったのである。

 ついに隣りの人が撃たれた。彼はその亡き骸に巻き込まれるようにして、仆れた。だがそれが良かった。彼は死んだものとして、見逃されたのだ。途端、彼は先ほどまでの喜びが冷めていくのを感じた。そこにあるのは、悲惨な現実、死に嘲笑われた己れの醜い姿であった。

 ふと、音が止んだ。彼は身体を起こした。路端には多くの死傷者が転がっていた。そして呻き声やら、泣き声やらが、あちらこちらでさざめいていた。そのとき、

「ちょっと、あなた!」

 と、水売りを呼び止めるものがいた。

 振り向いたら、そこには少女が居た。傍らには、少年がぐったりと仆れていた。その腹からは血がとめどなく流れていた。

「あなた、水売りよね? 悪いけど、水をお貸ししてくれないかしら?」

 水売りは断ろうと思っていたが、その凛とした声には、有無を言わせぬ調子が含まれていた。しかもその挑むような瞳に射すくめられ、何も返すことができなかったのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ