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ごめんなさいね、あなた。
最後のその時、私の胸を過ったのは、その言葉だった。
「あら、ここに誰かいるの……?」
初めて招かれた王宮でのパーティ。
父に連れられて参加していたものの、父が他の招待客と話しこんでばかりいたので退屈になってしまった。
大人しく隅の椅子に座っていなさいと言いつけられていたものの、初めて見る眩い豪華なシャンデリアや煌びやかなドレスを身にまとい蝶のように軽やかに踊る女性たち、そして食べきれないほど用意された美味しそうな食事やお菓子の数々が、どうしても気になって仕方がなかった。
初めて煌びやかな世界を見た私にとっては、なにもかもが目新しくて落ち着かなかった。
ずるいわ、お父さまはとても楽しそうなのに、私だけこんな隅でじっとしていなさい、だなんて。
つんと薄紅色の唇を尖らせて、手にしていたグラスの中身を飲み干す。
よく冷えたあまい果汁はとても美味しくて、同じもののおかわりを私に着いて来ていた侍女に頼んだのだけど、侍女はすげなく首を横に振った。
「いけません、これ以上お召し上がりになったら、お腹を冷やしてしまわれます」
これが他の誰かだったら、強請り倒せば折れてくれたかもしれない。でもこの侍女だけは駄目だろうとわかってはいた。主である父の言いつけには何処までも忠実な侍女だからこそ、初めて訪れる場所への供として、娘につけたのだろうから。
「それなら、私なにか甘いものが食べたいわ。駄目?」
少し離れたテーブルに、クリームやカスタード、果物をふんだんに使った、一口大のケーキや焼き菓子が盛りつけられていたのを、ここへ来る時に横目に見て通って来たのだ。
通り過ぎる時、甘い香りが漂ってきて、思わずうっとりしてしまった。
料理人たちが腕を奮ったであろうそれらは、私の目にはまるで宝石のように見えた。
お食事がまだでございましょう、それを済まされてからお召し上がりください。
てっきりそう言うと思っていた侍女は、けれどためいきひとつついたあと、わかりましたと言って立ち上がる。
「え、いいの?」
あっさりと許されて、言い出した私の方が驚いてしまう。侍女はいささか渋い顔をしながらも答えた。
「あまりよろしくはございませんが、これ以上お嬢様にあれこれ我慢していただくのも酷でございましょうから。けれど、一度にたくさん召しがってはいけませんよ」
いくつか見つくろって参りますから、しばしこのままお待ちくださいませ。
忘れずに釘をさした侍女は、わかってるわよありがとう、と弾むように答えた私の声にもう一度ため息をついたあと、背筋を伸ばしたまま人波の向こうに消えて行った。
目にした美味しそうなお菓子の数々を思い出し、おもわず頬を緩めていると、ふと微かな音が聞こえてきて眉をひそめた。
大勢の人たちの話し声や笑い声。陽気な音楽やグラスや食器が触れ合う音。
それらの間を縫って私の耳に届いたのは……それらとは全く異なる響きだったから。
どうしたらいいのかしら。
私はここから動かないよう言い含められている。
侍女は人波のせいか、まだここへ戻ってきていない。もし……私がここに居なければ侍女は慌てるだろうし、私から目を離したことで父から叱られるかもしれない。そんなことが頭の隅をかすめたけど、聞こえてくる響きがあまりにも悲しそうで寂しそうで。
行かなくちゃ、そう強く思って……気付けば聞こえてくる響き、声の方へと駆け出していた。
「こっちの方から聞こえてきたと思ったのだけど……」
広い庭のあちこちには篝火が焚かれ、その周りは昼間のように明るい。けれどこんもりと様々な形に整えられた茂みの辺りには灯りは届かないようだった。
そろそろと茂みの間を歩きながら呟いていると。向かう先からやはり声が聞こえてくる。
「ここに誰かいるの……?」
おずおずと呼びかけたあとすぐに、私は茂みの傍に隠れるように背を丸めてしゃがみこむ、小さな影を見つけたのだ。
茂みをかきわけた音を聞いてか、小さな影は背を震わせる。これ以上怖がらせないようにと、私は出来るだけ優しい声で尋ねた。
「ねえ、ここで何してるの?あっちに行って、美味しいものでも食べましょうよ」
そこに居たのは、私よりも小さな男の子だった。こわごわと私の方を振り返ったその子は、大きな目に涙を一杯ためていた。
だれ、と小さな唇が動く。その拍子に、ぽろりと涙が零れ落ちた。
それが、私と彼……のちに王となり私の夫となる彼との……初めての出会いだった。
父の言いつけを破った私だったが、結果としては父の望む方向になったためか……さして叱られる事はなかった。父があの日私をパーティに連れて行ったのは、彼と私を引き合わせるためだったのだから。
彼は王の第三子で、本来であれば王位の継承とは無関係のはずだった。けれど長兄である王太子、そして次兄が次々と病で亡くなったため、図らずも彼はいずれ王位を継ぐ立場になったのだ。
第三子ともなれば、王位を継ぐ可能性は薄かったため、彼はまさか自分がそのような立場になるなど思いもよらなかったという。
「こわいんだ」
彼はそう呟く。
「兄上は時期国王として期待されていた。二番目の兄上だって、万が一の時にとそれなりの教育を受けていた。でもぼくは違う。兄上たちがいるから、ぼくは何も心配することはなかったんだ。兄上たちの役に立てればそれでいい筈だった。でも……」
背中を丸めて、味方などいないように自分で自分を抱きしめる。
「こわいんだ。兄上たちのように期待されてもぼくは何も知らない。でも失望されるのもこわいんだ」
どうしたらいいんだろう。
宥めるようにちいさな背中を撫で、優しく囁く。
「大丈夫よ、あなたひとりじゃないの。周りの人も支えてくれるし、なにも知らないのならこれから知っていけばいい。大丈夫よ」
「あなたもそばにいてくれるの」
「ええ、居るわ」
「それなら……きっと大丈夫だ」
私の言葉に、彼は安心したように笑った。
私の言葉に嘘はなかった。あの時以来、何故か彼は私に傍に居て欲しがるようになった。私の知らない間に、私を含む数人が彼の婚約者候補になっていて、彼の望みにより図らずも私が頭一つ抜け出ることになったらしい。
この頃はまだ……彼に感じていたのは庇護欲のようなものばかりで、こわいと怯える彼を守りたいと、励ましたいと思うばかりだったのだ。
だから私は、彼が見ている前ではいつも朗らかに笑って見せた。
もし何か問題が起きても、大丈夫よ落ち着いて一つ一つ片付ければなんとかなるものよと。彼には私が弱気なところを見せられなかったのだ。
「あなたは太陽みたいなひとだね」
彼は私を見て、眩しそうに笑う。
「あなたが居てくれたら、本当に大丈夫だって思えるんだ」
彼は私の手をとり、私よりも大きくなった手のひらに包みこむ。
いつの間にか見上げるほど成長した体で、それでもそっと微笑む様子はずっと変わらなくて。
「どうか、ずっと傍で支えてくれないだろうか」
仕方ないひとね、いいわよと。
彼の望むように、笑う以外の道が残されていただろうか。
彼が思っているほど私は強くはない。ただ彼がそう望んでいたから、私はそう振る舞っていただけだった。
ただ彼がそれに励まされてくれるなら、私の強さなど見せかけのものでも、よかったのだ。
そう、思っていたのだけど。
ねえ、それは間違いだったかしら、ね。
泣きそうな顔で私を覗き込む彼の顔が、どんどん霞んでゆく。
私がするべきは、彼を依存させることじゃなく、私が強さをよろうことじゃなく、私自身弱さを晒して、それでもともに歩んで行きましょうと伝えることだったのではないのかしら。
そう伝えたくても、もう言葉にならなかった。
ともに過ごすうち、彼は以前のように怖がる様子も不安な様子も見せなくなった。どんな時でも穏やかに微笑んでいる。
彼が自身の強さを身につけているのなら、いい。
ずっと傍にいるとの約束を途中で果たせなくなった、その事は悔しく悲しいけれど……不安と怯えで背を丸めていた小さな子が、もうどこにもいないのなら、その方がいい。
でも……。
ねえ。
ごめんなさい、あなた。
その声はあなたに届いたのかしら。
END