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「さて、自分はどのような王と評価されるのであろうな」
ふと零れ落ちた言葉に返ってくるものは何もなかった。
誰もいない、しんと静まり返った部屋に、それは奇妙なほど寒々しく響く。
昼日中のこと、溢れるほどの日差しが室内には満ちているのに、温かみは遠く、また部屋の中はどこか薄暗くさえあった。
椅子に腰かけ、手に持ったグラスを呷る。強い酒が喉を滑り落ちてゆく。 強い酒を飲み、そして飲み続けていても、少しも酔った気になれない。
それはあの時から、ずっと変わらない。
それでも飲み続けていればいくらか気がまぎれる気がして……手放すことが出来ないでいた。
たちまちのうちに、グラスは空になる。大きく息を吐き出し、視線を遠くに投げる。
ここからはまだ影も形も見る事は出来ないが。
「ここへやって来るのも、時間の問題であろうな」
奇妙なほど静まり返ったこの場所が、なによりの証。
殆どの者が愚行を繰り返し聞く耳を持たぬ王など見切りをつけ、過ちを正すべく動いた王太子に従ったのだろう。
ここ数年、顔も見ていない自分の息子の顔を思い浮かべようとして……首を振った。
思い出すのは息子がより幼かった頃の姿ばかりだったのだ。最後に顔を合わせた時でさえ自分は酒を飲み碌に息子と向き合おうとしなかったから……鮮明なのは顔よりも表情よりも、叫びを押し殺したような声ばかりだ。
ようやく見切りをつけてくれたかと半ば安堵し、半ば苦いもので胸の内を満たしながら息をつく。
息子の事だ、王たる父を排除するにしても、無理やりその地位を奪い取るような真似はするまい。そんな事をすれば後に要らぬ災いを招くことにもなりかねないからだ。あくまでも政務を行えなくなった王に代わり、早めにその地位を受け継いだ、そのような筋書きで動くのだろう。
位を降りた王は、静養との名目で遠方の地へ送るつもりではないだろうか。警護の名目での監視付きで。
その辺りが妥当だろうし、おそらく息子には宰相もついている。内外に下手な隙を作るような真似はするまいと思った。
「……あれらには、済まない事をしたな……」
宰相が息子についた理由、それを思うと苦い罪悪感がこみあげて来る。
自分の目的のために、どれだけの人間を巻き込み不幸にしたか、考えるのも恐ろしいほどだったが、それを途中で諦める選択肢もまたはじめからありえないものだった。
しかし間近で接していた、信頼し、いつくしみ、また家族のように親しんでいた者たちを、自分の行いは不幸にした。
彼らの目の前でこれまで積み重ねてきた穏やかな思い出を一つ一つ切り捨てていくたびにどこかが軋むように痛んだが、一度始めた事はもう止める事が出来なかった。
宰相の信頼を裏切り、息子の尊敬を失い、そして……妹のように大切にしていた娘の願いをもまた、踏みにじっても。
「……辛い目に合わせた事、あれに知られたらただでは済むまいな……」
外に目を向けると、敷地の外れに高い塔があるのがわかる。そこには自分が閉じ込めた“妃”がいる。
王妃を亡くし、荒れていた自分が立ち直れるよう、よく似た面差しを持つ従姉妹の彼女が新たな妃として嫁いできたのは……自分としては誤算だったのだ。
政務を疎かにし、荒れた様子を見せていたのは意図しての事。
王妃の死には不審な点があった。家臣の誰かが関与しているのではないか……その疑いがあったが証拠はなかった。自分はその誰かを探すために、誰にもその意図を告げなかった。それが災いしてしまったのか……家臣の誰かが言いだしてしまった。
いつまでも妃の位が空のままではよくありません。新たな妃を迎えられては。それならば、先の王妃さまによく似た、宰相殿の娘御ではいかがでしょうか、と。
宰相は当然ながら反対していた。彼は自分がどれほど王妃に心を向けていたか知っていたし、また彼の娘の事はまるで妹のようにしか見ていないとわかっていたからだ。
まして王妃は家臣の手によって謀殺された疑いがある。そのようなところへ娘を送りこみたいはずがない。
自分も新たな妃を迎えるのは無駄だと何度も言ったが、一度作られた流れを止める事は出来なかった。
新たな妃を迎えたとして、自分が顧みる事はないがと吐き捨てたが、家臣らは気にする様子はなく……やがて彼女が嫁いできたのだ。
これから、改めてよろしくお願いいたします、陛下。
嫁ぐといっても、先の王妃と挙げたような式をするわけでなく、披露目をしたわけではない。
役人が差し出した書類に投げやりに署名し、続いて彼女も署名をした、それだけで婚姻の儀式は終わった。
彼女は自分を気遣うような顔をしながら、幾分硬い声で言った。それを鼻で笑いながら、自分は答えたのだ。
特段そなたとよろしくする気はないがな。初めに言っておくぞ、そなたを顧みるつもりはない。それでも構わなければ居るがいいさ。それにしても……。
く、と喉の奥で笑いながら、顔を強張らせてこちらを見上げる娘に言った。
それにしても、そなたにも権勢欲があったのだな。
陛下、わたしは……っ。
顔色を変え、声を詰まらせた娘に背を向け、自分はその場を後にした。
手に残ったのは……それまで積み重ねてきた優しい思い出を断ちきったような、嫌な感触ばかり。酒を含んだはずの口の中は、何とも言えない苦い味がした。
自分など愚かな王として見放してしまえばいい。
彼女を自分の妃に押し上げた者たちの考えなど見え透いている。
自分は以前側室などは持っていなかった。妃とその間に生まれた息子、その二人が自分の家族と呼べるものだった。
王の後継が息子ただ一人という現状に不安があったのだろう。しきりと側室を迎えるよう家臣たちは勧めてきた。それを跳ねのけてきたのは自分だった。側室を迎えたとして、自分の心が妃にしかない以上、不幸な女性を作るだけだとわかっていたからだ。
けれど、今にして思えば、もっと別のやりようがあったのかもしれない。
妃の命を奪ったのは……その側室にと考えられていた娘たちの家の関係者だろうから。
彼女を妃と同じ目に合わせるわけにはいかなかった。ならば家臣らの望むまま側室を入れればいい。
酒に酔い女に溺れる愚王として振る舞うには、皮肉にも丁度よいと言えた。
それに……たとえかりそめでも、妃が過ごした部屋に他の誰かを入れるなど我慢ならなかったが、彼女ならば許せると思えたのだ。色んな事が片付くまで、そこで大人しくしていてほしいと願っていた。そして自分の事など見捨てて欲しいとも。
しかし彼女は そうしてくれなかった。いやこれまでの彼女を知っていれば、おのずとそれは明らかではあった。
彼女はたびたび自分の元を訪れては、 自分の体を気遣い、また疎かになっている政務についてもやんわりと苦言を呈してくる。
そのたびに自分は煩い虫でも振り払うように彼女を追い払う。その時自分は酒を呑んでいることもあれば、傍に側室として上がった女を侍らせている事もあった。それらに彼女は悲しそうな顔をしながらも、声を揺らすことなく視線を外すこともしない。
側室がこれ見よがしにしなだれかかってきていても、動揺する様子も見せなかった。
顧みられることのない妃、そう彼女が言われているのを知っていた。
初めに自分が宣言した通りとはいえ、彼女を辛い立場に追い込んでしまった。側室たちが彼女を見下しさえしているのも知っていた。しかし彼女を庇うような言動はとれなかった。
早く自分の事など見捨てて、勤めが辛いとでも言って離宮にでも籠ってくれれば。そう願うのに彼女は度々訪れては自分を諌めてゆく。
他の人間など自分を見放し、あるいは付け込んで甘い汁を吸おうと画策しているというのに、どこまでも愚直なありさまは見ている方が辛かった。
彼女の父である宰相も同じだった。自分が政務を半ば放棄している今、曲がりなりにも国が回っているのは彼の手腕によるところが大きかった。
娘が妃となった彼にも、先の妃を手に掛けた者たちの魔の手が及ばないかと心配したが、彼に何かあれば本当にこの国は立ち行かなくなる、それを流石にわかっているのだろう。様々に嫌がらせめいたものは受けても、実害はさほどないらしいと知り密かに安堵したものだ。
彼もまた度々自分の元を訪れては苦言を呈してゆく。
けれど、自分の娘がどのような扱われ方をしているか知っているだろうに、娘の事については一言も口にしなかった。初めから娘を妃として嫁がせることを反対していた彼であるから、思う所はあっただろうに。
彼女も己の父の立場を分かっていただろうに、何一つ口にしたことはない。
二人とも自分を心配し諌め、このようなことではこれからが立ち行かないと懇願する。
そして。
自分を諌めに来るのはもう一人居た。
王太子である息子である。
自分にしなだれかかる側室に顔をしかめ、酒を呷る様子にも眉を顰めて、このままでは王室の権威も失墜し悪評も広がり、民の生活にも影響が出ますと何度も諌めてきた。
その顔には隠しきれない嫌悪と憎悪が浮かんでいた。さもありなんと心の中で思う。
幼い息子が必死に自分に頼み込んできたこと、そして彼女と交わしていた微笑ましい約束を、自分は知っていたのだから。
息子の顔は幸か不幸か、妃には似ていない。どちらかといえば自分に似ている。けれど受け継ぐ色彩は妃によく似ていた。
彼女を思い起こさせる色彩に目をそむけ、煩いものを払うように自分の前から下がらせる。そんな日々を繰り返し、そして。
「意外に早かったな」
そう呟いてまだ見ぬ影に思いをはせた。
あれとしてはもっと早くに事を起こしたかったのだろうがとひそりと笑い、焦れた時親指の爪をかむ癖はまだ変わっていないのだろうかと思う。
思い浮かぶのは子どもの頃の姿ばかりで、今どんな話し方をするのかどれほど成長しているのか知らないままだ。これでは妻に息子の事をまったく話せないことになるではないか。
もしも妃が居る同じ場所に行けるとしたなら、ば。
わかっている、と目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは弾けるような笑顔の妃の姿だ。
太陽のように、おしみなく光を注ぐ人だった。王として在るには、あまりに不向きであると知っていた自分を支えてくれた。あの人が傍に居てくれれば何でも出来る気がした。
その人を失っては、敢えて愚かな振る舞いをせずとも早晩立ち行かなくなるのは目に見えていた。
自分は光を受けねば輝けない月のようなものであると、よくわかっていたから。
何度も何度も、立ち止まろうとはしたのだ。こんな事をしても妃は喜ばない、と。
しかし関与した者たちが今でものうのうと生きていると思えば、容易くその考えは霧散する。
関与した人物たちを密かに調べ上げたものの、決定的な証拠を欠いており糾弾し処罰するには足りなかった。
正当な方法ではどうにもできない。それをはっきりと突きつけられた日、自分はもう迷うのをやめたのだ。
その結果……国中に災禍を撒き散らした愚王として自分は追われる。けれど、それこそが自分が望んだことだ。
「さて、退場にあたっては盛大に供をしてもらおうじゃないか」
ひそりと呟き、道連れにする面々を思い浮かべうっそりと笑った。
愚かな振る舞いをやめない王を諌めるどころか、甘言を囁き煽りたてさえしたような者たちだ。その中にはむろん、妃の死に関与した者たちも含まれていた。
愚かな王として自分は表舞台から去る。そしてその王の元で甘い汁を吸ってきた者たちも同時に淘汰される。
それでいい。密かな企みがあったことなど、誰にも知られぬまま……そして不穏分子を引き連れて去ることにしよう。
それが自分の後を継がねばならぬ息子へのせめてものはなむけになればよいと思う。
不意に騒がしくなってきた。とうとうここへ、自分の去り際を告げる使者が着いたのだろう。それは……おそらく息子自身に違いない。さて数年ぶりに顔を合わせる息子は、どのように成長しているのだろうか。
そしてこれが、おそらくまともに顔を会わせる最後の機会になるに違いなかった。
「……ああ、彼女には謝罪すら出来ぬままか……」
息子が彼女と自分とを会わせるはずもないだろう。息子を遠方の領地へ追いやったあと、彼女は高い塔へと閉じ込めた。最後に見た彼女は血の気の失せた唇を噛みしめ、目を逸らすことなく気丈に自分を見つめていた。
妃の居た頃の、自分を探しているかのように。
あの頃の自分はとうにいない。妃が失われた時に、ともに欠けたのだ。
お兄さま。
躊躇いがちに恥ずかしそうに自分を呼ぶ声はもう遠い。
妃は自分と彼女をさして、従姉妹どうしである私たちより、よほど兄妹らしいわねと笑っていた。顔かたちは似てないけど、雰囲気がよく似ているもの、と。
彼女は首を傾げていたが、自分にはその理由もわかっていたから……苦笑するにとどめていた。
自分も彼女も、太陽の光を受けねば輝けない月のようなもの。
似すぎている自分たちでは……たとえ自分が妃の事にけりをつけたとしても、どうにもなりようがなかったのだ。
彼女は二度と自分の事を、あの頃のように“お兄さま”とは呼ばない。
失くした呼び名、行き先を失った思い、それらは縺れあい醜く歪んでゆく。
自分は知っていた。彼女が嫁いできた後、彼女を拒絶するような態度を見せる半面、息子が彼女の事をしきりと気にかけていた事を。
もし妃が健在で、息子の気持ちが変わらず、そして彼女も了承してくれれば……息子の願いは叶えられたのだ。
もしかしたら今頃、自分の呼び名は“お義父さま”だったのかもしれない。妃もお姉さまではなく、お義母さまと呼ばれていたのかもしれない。
そうであったらどんなによかったことだろう。
在り得たかもしれない場面を思い描きながら……目をあける。
扉が重い音をたてて開けられると、そこには数年ぶりで顔を会わせる息子が立っていた。
END