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「この国が昔の姿を取り戻すのを、私の傍で見ているがいい」
本当は。
彼女の望むように、様々な思惑が入り乱れる王宮から、誰も彼女を利用できないような……どこか遠い地へと移した方がいいのだと……それが最もよいのだろうと、わかってはいた。
彼女の存在は諸刃の剣。
王を諌めた挙句幽閉された妃だと、国中に知られている。無碍に扱えば思わぬところから非難の声が上がりかねなかった。
彼女が初めに口にしたような……修道院へ入る事さえも、いくら彼女自身が望んだとしても周りから見れば厄介払いだと受け取られかねない。
また彼女はどうにも己の評価が低いようだが、彼女の行動は讃えられこそすれ、非難されてはいなかったのだ。彼女自身だけがそれを知らない。頑なに認めようとしない。
そうであるからこそ、見合った咎を与えてくれなどと口に出来たのだろう。
彼女は己で出来うる事をした。その結果、数年に渡り塔に幽閉されたのだ。
その知らせを遠い地で聞いた自分は、重いため息とともに心の中に残っていた何かを押しつぶした気がする。もう父には……王には誰の声も届かないのだと諦めたのだ。
遠い遠い、気候の穏やかな地で静養するためにこの地を離れるのだと言えば、周りは納得させられる。
彼女には、これは静養という名の追放であると言えば疑うことなく信じるだろう。与えられた地でひっそりと暮らし……そうすれば彼女は二度と戻ってくる事はなく、自分と二度と顔を合わせることもない。
しかしどうしても、それを選択出来なかった。
自分の目の前で、裁きを待つ罪人のように静かに頭を垂れている彼女を見下ろしていると、苦い思いがこみあげてくるが、何でもない素振りで飲み下す。
意のままにならない感情を呑みこむのも、習い性になってしまった。
幼い頃には見上げていた彼女だが、今では彼女を見下ろせるほど成長した。
それでも、何年たっても自分は変わらなかった……変えられなかった。
ただ、一点において。
物心ついたころには、彼女は自分の傍にいた。
母の年の離れた従姉妹である彼女は、母の招きに応じてしばしば王宮を訪れていた。母を姉とも慕う彼女は、自分の事を年の離れた弟のように可愛がってくれたし、母に何処か似ているけれど、母よりももっと穏やかに笑う彼女に、自分はとても懐いていた。
その細い腕に抱きあげられたこともあるし、抱きしめられたこともある。そのたびに嬉しくて、もっととせがみ、やがてその腕の中で眠ることもしばしばだった。
彼女が来ると聞けば、その日が待ち遠しかった。
一番嫌だったのは、彼女が帰る時間が来た時だ。時間が来れば彼女は去らねばならない。泣いて引きとめてもいくら頼んでも、少し困ったように微笑んで彼女はごめんなさいねと言って、宥めるように頬を撫で額に口づけをくれる。
そして決まって言うのだ。
また来るから、それまでいい子にしていてね。約束よ。
どんなに困らせても彼女が頷いてくれる事はなかったので、彼女が帰る時泣いて引きとめる事はしなくなった。彼女を困らせて、来てくれなくなる方が嫌だったからだ。
その代わり、次はいつ来てくれると約束をせがむようになった。
毎日でも会いたくてそう言うと、それは無理だわと彼女は首を横に振る。 とても残念で悲しかった。
それなら……どうすれば毎日一緒に居られるんだろう。
自分の父と母はとても仲が良く、時間のある時はよく二人で庭を散歩していた。あんなふうに傍にいてくれたらどんなに楽しいだろう。
お母さまたちみたいに、どうすれば一緒に居られるのと母に尋ねると、母は目を丸くした後、そうねえと楽しげな声をあげた。
お母さまたちみたいに、結婚すればそばに居られるわよ。
ずっと一緒にいられる?
ええ、ずうっと一緒に居る約束をしたのだもの。
それを聞いて、自分は次に彼女が来る日を心待ちにした。
お願いして彼女と結婚してもらおう。そうすれば彼女は帰らなくてもいいし、ずっとそばに居てくれる。
父と母に、彼女と結婚するからねと言えば、二人は顔を見合わせて笑った。母は微笑みながら言った。
それなら、まず彼女にきちんとお願いして、いいよ、って言ってもらわなきゃね。
絶対いいって言ってくれるもの。そう答えて、彼女が来る日を心待ちにして、ようやく彼女がやって来た日。
挨拶もそこそこに、彼女に言った。手には庭から摘んできた花を持って。
ぼくと結婚して下さいっ。
彼女は目を丸くして自分を見下ろしていた。彼女の答えをじりじりしながら待つ。彼女はいつもと変わったところなどないのに、なんでこんなに落ち着かないのか、ちっともわからなかった。
彼女の手が伸びてきて、花に触れる。
これは私がいただいてもいいのかしら。
うん、と頷くと、彼女は花を受け取り、ありがとう、とても綺麗ねと笑う。でもね、とすぐに言葉が続く。
私、結婚は出来ないわ。
なんで、と聞くと、だってね、と彼女は首を傾げた。
だって、私もあなたも、まだ成人していないもの。ね、あなたが成人して、その時にまだ私を望んでくれるなら、その時にもう一度言ってくれる?
自分が成人するのなんて、まだまだ先だった。何年待てばいいのか考えるだけでうんざりしそうだった。
いい考えだと思ったのにうまくいかなくてがっかりしてしまった。
それでも、渡した花を彼女が嬉しそうに持っていたので、それだけでもよかったかなと思う。
ねえ、ぼくが成人するまで待っていてくれる?
そう尋ねると、彼女は笑いながら頷いてくれた。
ええ、お待ちしています、と。
けれど……その約束が果たされる事はなかった。
母が亡くなったあと、彼女が父に嫁いできたからだ。
何故彼女が父と結婚したのかわからなくて、自分は彼女の手を振りはらってしまった。
前と同じように自分に触れようとした彼女の細い手。その手をはじいたとき、彼女が浮かべた表情は今でも心に焼きついたように、少しも薄れてくれない。
その時自分が放った酷い言葉とともに。
僕の母上は一人だけだ、そう言うと彼女は目を見開いた後、そうですねと小さく呟いた。わたしがお母さまの代わりが務まるとは思いませんが、少しでも陛下の……あなたのお父さまのお手伝いが出来ればと思うのです。
うるさい、僕はそんなの知らない。
癇性に叫ぶと彼女は自分の名前を呼んだ。
彼女の声で聞く自分の名前が好きだった。穏やかで優しい声で呼ばれるのは心地よかった。それなのにその時は酷く苛々させられて。
二度と僕の名前を呼ばないで。
そう叫んで、立ち尽くす彼女を置き去りにその場を駆けだしたのだった。
少し考えれば分かる事だった。いずれ王位を継ぐべく、自分は様々な事を学んでいる。冷えた頭で考えれば、彼女にどれほどの選択肢が残されていただろう。王に嫁ぐ、それを拒む事は彼女にとって難しい事だった。
それを理解しても、自分の中には昇華しきれない……それどころか年を経るに従ってより混沌とする感情の澱が溜まっていった。
自分との約束など、子どもとの他愛ない口約束として忘れてしまったのか。
酷く裏切られた気がした。納得しようとしても最後にはそこへ行きついてしまう。
彼女が自分を名で呼ばない事にも苛々した。名前を呼ぶなと言ったのが自分自身であったのに、そして伸ばされた手を振り払ったのが自分自身であったのに、二度と与えられないそれが欲しくてたまらなくなった。
そう……彼女はあれ以来自分の名を呼んでくれないし、触れてもくれない。
呼ぶ時は敬称であるし、何くれとなく気にかけてくれているものの今までのように気軽に触れてはくれなかった。
変わらないのは優しい声と穏やかな目だけ。
それは自分が父の不興をかい遠い領地へ追いやられたときにも、変わらなかった。
体には気をつけてと、心配そうな顔で自分を見ていた……彼女と、もう目線の高さは殆ど変わらなかった。名は呼ばれず、手も伸ばされることはない。それを寂しいと思える資格はとうになかった。
彼女が差し出してくれた言葉や何か温かいものを……尽く振りはらったのは自分だったから。
何も言えず、遠くの領地へと発った。
もう彼女との関係は変えられないのだろうと諦めてもいたが、領地へいても聞こえて来る不穏な噂に、不安が大きくなるばかりだった。
彼女は己の役割を知っていた。何のために王妃へと望まれたのかを、このうえなく理解していた。
彼女は王を諌め、王は彼女を厭う。そうしてますます彼女と執務から足が遠のく。その悪循環。
悪い予感は的中してしまった。そしてその時、自分はある事を決めたのだ。
「……離宮は整えてある。今後はそこで過ごしてくれ」
そう言うと彼女は目を伏せ、はいと頷いた。
彼女は自分を陛下と呼ぶ。
おそらく二度と名を呼ばれる事はないのだろう。
あの頃のように名を呼ばれそして優しい手で触れられる……それは自分がいくら望んでも、手に入らないものだった。
どこかで間違わなければ、望みを叶える手立てがあったのか。
いくら考えても自分にはわからなかった。
END