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一話ごとに視点が変わります。
ハッピーエンドではありません。ご注意下さい。
どよめきは隔絶されたこの場所まで届いてきた。
初めは小さな響きだったが、やがてそれは打ち寄せる波のように、空気を振るわせ広がっていく。
波紋はまた別の波紋を描き、やがて大きな広がりになるだろう。
立ち込めていた暗雲を振り払う、つよい風のように。
それは幻であり、この目で見ているわけでは、ない。
けれどそれをありありとまるで現実に起こる事のように眼裏に描く事が出来る。
これから何が起こるか……起こってしまうか、私には予感があったから。
そしていま、潮騒のようなどよめきを耳にしながら、私が感じているのは確かな安堵だけだった。
すでに微笑むことすら久しくなり、固く強張っていたはずの唇に、知らず笑みが浮かんでいたのだから。
やっと、これで終わらせることが出来る。
まっさきに頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
長かったと心の中で呟いた。この場には私しかおらず、口にしても聞き咎めるものなど、誰もいない。
それでも万が一の可能性を考えて、一言でも一語でも口にのぼらせるつもりは、なかった。
何を考え何を思っても、口にしなければ……誰にも知られなければそれは無いのと同じ。
自分が抱えるものは自分だけの荷として、最後まで引き連れてゆくつもりだった。
その時、私の耳は微かな音を拾いあげた。
気のせいかと思ったが、確かに階下から螺旋状に伸びる階段を登って、こちらへと近づいて来る足音が聞こえる。
私が居るこの場所は、高い塔の天辺にある。塔の天辺らしく、さして広い部屋ではないが、設えられた調度品は素晴らしく手の込んだものばかりだ。 小さな窓しかないという閉塞感さえ気にしなければ、敷かれた絨毯や燭台などに至るまで贅をこらしたものだとわかる。
しかし、どれほど豪奢であっても、何の慰めになるだろう。
ここはかつて、貴人を閉じ込めるためにあった、隔離とは名ばかりの牢獄。出入り口は一つしかなく、この部屋の扉の鍵を持つのはただ一人だけ。
私をここへ閉じ込めたあとは、一度として訪れる事がなかった人、ただ一人。
そして今、ここを訪れているのは、閉じ込めた張本人ではないだろうし、その“誰か”を私はわかっても、いた。
今この時にここへやって来る意味は、ただひとつだろうと笑みを浮かべた唇のまま、まもなく姿を現すだろう“誰か”の名を口にする。
かつては幾度となく呼んだ名前。そしていつしか呼ばなくなった……呼べなくなった名前を。
規則的な足音は止まる事を知らず、やがて閉ざされた扉の前までやって来た。
私は椅子に腰かけたまま、扉が開くのを待っている。
簡素な衣装を身につけ、髪も結い上げ……この一室から出る事は叶わないとはいえ、飢えも渇きもせず清潔な衣装を着て温かな寝床で眠る事が出来ている。
誰の意向によるものかはわかっていても、何故という疑問は消えてくれなかった。その疑問に答えが与えられるのか、それとも疑問は疑問のままで終わるのか……じっと扉を見つめていると、鍵の開く音がして、軋みをあげながら扉が開いた。
私が閉じ込められて以来、一度として開かなかった扉が、初めて開いたのだ。
音もなく椅子から立ち上がる。
そして衣装の裾をつまみ、ゆるりと礼をする。
そこに居たのは。
「ご無沙汰しております。つつがなくお過ごしでいらっしゃいましたか」
殿下、と。
そう呼びかけると彼は大股に歩みより、あっと言う間に私の目の前に立つ。頭を下げ続ける私には彼の足元しか見えなかった。
「……もう間もなく、その呼び名も変わる」
低い呟きが落ちる。
聞きおぼえていた頃よりも低く重みを増した声だった。
その意味するところは、ただ一つ。
私は顔をあげずに、そうでございますねと頷いた。
「新たなる王のご即位をお祝い申しあげます」
「……それにともない、諸々片付けねばならない事がある。貴女のこともそのうちの一つだ」
そうでございますねと私は再び呟いた。
いずれこんな日が来るのだろうと覚悟もしていた。胸に過るのは恐れよりも己の不甲斐なさを憤る気持ちだった。
王に嫁いで何年が過ぎたのだろう。私が前の王妃様の代わりになるなど、一度も思った事はない。
それでも……少しでも王の力になれはしないかと思った私が浅はかだったのだろうか。
朗らかに微笑む、遠い懐かしい面影が胸をよぎりそうになったが、瞬間きつく目をつむりやり過ごす。
そうして伏せたままだった顔をあげて、間近に立つ人を見上げた。
世継ぎの王子、そして今や王を継ごうとしている青年は、見憶えていた頃よりも成長し、眇めた目で私を見下ろしている。その視線の強さ鋭さに、私は氷を呑んだような気分になったが、細い息を吐き出して震えそうになる体を誤魔化した。
「……では、私に下される処分はどのようになるのでしょう。陛下は退位という形になるのでしょうね。では、王妃の地位にありながら、陛下を諌める事も出来なかった私は?」
義母上、と低い声で彼は言った。
彼は酷く冷たい表情のまま私を見下ろしている。
私と彼とは、義理の親子という間柄であったが、そうなって以来彼の態度は今日のような冷淡なものだった。
私が王妃になった頃、まだ少年だった彼に差し伸べた手は、彼からの拒絶により行き場を失った。視線は棘を含み、声音には氷が混じるような酷く冷たいものだった。
何故、と私は戸惑い何度も彼に尋ねたが答えが返ってくる事は、なかった。
以前は……まだ彼の母である前王妃様が居た頃は、そうではなかった。
幼い彼に、何度も会った事がある。前王妃様と私は年の離れた従姉妹どうしであったから、彼女の招きに応じて時折王宮を訪れていたのだ。
幼い彼を抱き上げて、あやした事もある。私を慕ってくれる様子が、年の離れた弟のように思えて、とても嬉しかったものだ。
少し大きくなってからは、名を呼ぶ私の声に少し恥ずかしそうにしながらも、笑いかけてくれていたのに。
その頃とは事情が違ったのだろう、母の遠縁という間柄の頃はともかくも、“母”としては認められなかった、それだけの事、なのだろうと取りつく島もない態度を取られるたびに悲しく、そして寂しく思っていた。
このような時だが、ここで王妃として過ごした時間を思い返すと、つくづく私は、まるで不要な人間だったのだと苦い思いで一杯になった。
誰からも求められてなどいないどころか、王や王子には、不愉快な思いを与えるばかりだった。私はただ、私に課せられた……託された役割をこなすことに懸命だったのだ。
何度となく思ったことを、再び思う。
王にとって、妃とは彼女だけだった。
彼にとっては、母は彼女だけだった。
私のした事は、彼女の場所を奪っただけ、だったのだ。
そう何度も思い知らされているのに、未だに胸のどこかが酷く痛む。
けれど、それも今日で終わると思うと、少しだけ胸の閊えがとれる気がした。
お姉さま、と胸の中で彼女の面影に呼びかけた。
従姉妹である彼女の事を、私はお姉さまと呼んでいた。彼女が王妃になったのちは、恐れ多い事に私的な場所では王の事もお兄さまとお呼びしていた。そう呼ぶようにと、王が私に言ったからだ。
王と王妃がいて、王子がいて……その頃の様子が泡沫のように心の中に浮かび上がる。
当たり前のように、その光景が続くのだと思っていた。懐かしくも温かい情景は、二度とこの手に返らない。
それだけ……儚いものでもあったのだと、失くしてから気付かされた。
「義母上には責任をとってもらう」
「ええ、それは当然のことでしょう。王妃の位は降りましょう。陛下の処遇はどのようになるのですか」
「遠方の地で静養していただくことになるだろう。その地で終生過ごしていただく」
「そうですか……では私はどこへ行けばよろしいでしょう。陛下は私の顔など見たくはないでしょうから、同じ場所というわけにはいかないでしょうし。いっそ修道院にでも入れて下さいませ。そうして私も終生をそこで過ごしましょう。こうなっては前王妃などいらぬ火種にしかなりませんから」
あくまで穏やかに位は譲られたもの、と対外的には示したいとの思惑が見て取れた。国内の混乱は他国が付け込む隙になるからだ。勿論他国にはある程度内実を知られてしまっているだろうが、建前としては王の体調不良を理由に王位継承を早め、王は遠方の地で静養、王妃はそれを機に思い立ち出家……それがどれほど見え透いたものであっても、対外的には少しでもマシな言い訳ではないだろうか。
そう私が思っていると、彼はますます低い声で言った。
「義母上を修道院にはやらん」
「まあ……では、陛下と同じ地でしょうか?それとも、別の遠方の地へ?」
予想が外れてしまい、私は首を傾げて尋ね返す。すると彼は低く笑いながら答えた。
「どちらでもないな。……だいいち、すべて投げ捨てていけると思ったのか。責任をとると言ったのは義母上だ」
「ええ、ですから……」
反論する私の声は、彼の言葉で遮られた。
「表舞台から身を引く事だけが、責任をとる事ではない。義母上には離宮に移っていただく」
彼が口にした離宮は、何代か前の王妃が好んだ、小さな宮だった。
彼は私を王宮に留めおくつもりらしい。
驚く私に構わず彼は言葉を続ける。
「あいにく奥向きを取り仕切れるのは義母上だけしかいないのでね。私には姉も妹も居ないから、義母上に抜けられると外交上も困ったことになる。まだ貴女を手放すわけにはいかない」
「……いっそ、即位を機に王妃を迎えられては?」
私の提案を彼は鼻で笑った。
「もう少し落ち着いたら考えるさ。それまでは貴女が私の隣に立つんだ。なに、あれが王を諌められなかった王妃だと言われるだろうが、貴女にはいかほどのものではないんだろう?」
肯定も否定もできず、私はただ視線を伏せて息をつく。彼の冷たい目を見ていたくはなかったし、氷の刃のような声も聞きたくはなかった。しかしまだ私に果たすべき役割がある以上、顔をあげて……微笑みを浮かべてみせる。
どれほど歪であっても。
「そうですね、ええ、まだ私でお役に立つ事があるのなら、お言葉に従いましょう……陛下」
彼は酷く忌々しそうに私を睨むと、背中を向けて吐き捨てるように言った。
「この国が昔の姿を取り戻すのを、私の傍で見ているがいい」
END




