蘇生の条件
木原は真っ白な空間に佇んでいた。
床、もしくは地面と思しきものはあるが、それ以外には何もない。上にも、横にも後ろにも、何も存在しない。ただただ真っ白な空間だ。
眼鏡をはずして見ても、レンズをシャツで拭ってから見ても、そこは真っ白な空間だった。
なぜこんなところにいるのか。
つい今しがた自分に何が起きたのか、記憶を呼び起こす。確か車に撥ねられた。
そして横には彼女がいた。交際期間およそ一年。幸せなデートの真っ最中だったのだが、そこにトラックという名の横槍が入れられた。
ではここは死後の世界だろうか。すんなりとそんな考えに至った。
そうだとすると、自分は死んだということだが、彼女はどうなったのか。この空間にはいないようなので、無事だったのか。
すんでのところで突き飛ばして、どうにか被害を避けられていたような気もするが、木原の記憶は定かではない。
正確な記憶を探ろうと、木原が瞼を閉じかけたその時、空間に声が響いた。
「思い出す必要はないよ。残念ながら彼女さんも亡くなられております」
だしぬけに発せられたその声は、少年のように軽やかで、その内容とは裏腹に明るい調子のものだった。
声の主の姿は見えない。先ほどから変化なく、何もない真っ白な空間に音だけが響く。
「木原義弘くん、二十一歳の大学生。この年齢で、しかも彼女と一緒に死んじゃうなんて、ついてないねえ。他に死んでもよさそうなのが世間にはごろごろいるのに」
無造作に告げられた言葉に、木原の身体がピクリと震えた。
やはり彼女も死んでしまったのか。だがそれは状況から考えて当然の結果だ。そうそう助かることなどありえない。
自分でも驚くほど、自分と彼女の死を素直に受け入れた。人から、冷静だとか落ち着き払っているとはよく言われるが、これほど取り乱さないとは。いま置かれている状況の異常さの方に意識がむいているからだろうか。
現状は『死んだ』と言われても納得できない状態である。
だから木原は、まず目の前の状況を解決するため、虚空に向かって問いかけた。
「お前はなんだ? 俺が死んでいるってことは、ここは死後の世界か?」
答えはすぐに返ってきた。
「惜しいねえ、ちょっと違うかな。そもそもここは死後の世界じゃない。キミはまだ死んでないしね」
「いましがた死んだといったばかりだぞ」
「ごめんよ。さっきのは言葉の綾で、わかりやすく言ってみただけ。いまの君は仮死状態なんだ。生と死の境界線上にいる――キミの彼女もね」
その言葉を聞き、初めて木原の顔に明るい色が浮かんだ。死んだことを素直に受け入れておいてなんだが、やはり嬉しいものは嬉しい。
「本当は即死だったんだけどさ。外的な損傷が意外とひどくなかったのと、ちょっとした事情があったもんで仮死状態になってもらいました」
「なんだ、その事情って?」
木原の表情は、すぐに探るようなものに変わる。
「まず第一に、僕が本来は死を司る神じゃなく、恋愛を司る神だってこと。臨時でこの場にいるんだ」
「……神」
「そう。基本的に人間が死んだときは、キミがさっき言った『死後の世界』に魂を送るっていう作業が必要になるんだ。それをする係が死を司る神なんだけど、いまそいつが他の用事で忙しいから、代わりに僕が兼業状態で頑張ってるの」
声の主――神は、人間の死に関する重大な『事実』についてぺらぺらと喋る。その語り口はあまりにも軽い。
「そんな簡単に兼業できるのか?」
「できるよ。少なくとも僕は立派にお勤めしてます! 人間からも感謝されちゃったりしてるしね」
「何をどうすれば死んだ後に感謝しようと思うのかは見当もつかないが、まあ、それで問題はないんだな」
「その通り。問題ナシ! だいだい僕が本来は恋愛の神で、なおかついまここで兼業状態だからこそ、君も彼女も仮死状態でいられるんだから」
胸を張る姿さえ見えてきそうな、はきはきした答えを返す。
「そしてさらに! 君たちには生き返るチャンスがあります!」
その言葉に、木原は思わず息をのんだ。
確かに、いま仮死状態であるのならば息を吹き返すことは可能であるはずだ。それが理屈として正しい。
「恋愛の神として、仲睦まじきカップルには幸せになってもらいたいからね。死からの一発逆転のチャンス! そしてそのチャンスとは、与えられた課題をクリアすること。キミたちには恋人同士の定番ゲーム『恋人あて』をやってもらいます!」
神は木原の反応が見えているのかいないのか、マイペースにさっさと話を進めていく。
「ルールは簡単。キミの恋人である大浦由香さん、そして彼女を模して僕が作った人形四体。これらあわせて五人の女性の中からキミの恋人を見つけ出せたら見事クリア! そして男女逆パターンでもう一回。これもクリアしたら、晴れて二人は生き返ることができます!」
空間に、神の声が響き渡った。壁も天井もないのに、反響するような音の重なりが聞こえるのを、木原は不思議に感じた。
しかしすぐにそのどうでもいい感覚を心の奥に引っ込めた。
やるべきことは告げられた。課題はよくある類のものだ。実際にやったことはないものの、危険性もなく及び腰になる必要もない。あとは全力で課題をクリアし、生き返ることだけに集中するべきだ。
「ルールはわかった。じゃあ早速始めよう。特別な制約もないんだろう?」
「あらら、あっさり進めるんだね。まあいいんだけどさ。これまでのクリア率は8割超えてるし、そんな難しいことでもないしね。――ただ、制約といえばひとつあるかな」
そう告げられた直後、空間に指を鳴らす音が響いた。
それと同時に、木原の着ていた衣服が一瞬に消え去った。
「な――――!」
反射的に下半身に手をやる。半ば自動的に、視線が自分の身体へ向いた。が、その視界はひどくぼやけている。
「いきなりでごめんね。これが制約。課題には生まれたままの姿で挑戦してもらいます。もちろん眼鏡もダーメ」
木原は顔を上げた。その眉間にはくっきりと皺が寄っている。当然、眼鏡をかけていないことだけが理由ではない。
「ごめんってば。いきなりすっぽんぽんにしたからって、そんなに怒らないでよ。眼鏡を取った分難易度は下げたからさ。彼女の方も一緒」
神は変わらぬ軽口をたたいているが、この制約は木原にとって大きな不安材料だ。眼鏡を取ってしまえば、せいぜい眼から十センチほどがはっきりと輪郭をとらえられる限界距離である。日常的に人を見分けられないほどではないが、いまの状況では少し心もとない。
由香も目が悪くコンタクトをつけているが、幸い木原ほどにはひどくない。眼鏡なしでも日常生活を送れないことはない、という程度だ。
神の言う、難易度は下げてあるという言葉に期待するしかない。
その点については、木原は希望を持っている。
先ほどからの口ぶりからして、神は自分たちが生き返ることに寛容である。別に生き返らせてもいいけど、何もなしに無条件ではあんまりだから形だけでも課題を与えよう、と、その程度の感覚に思える。本来が死を司る神ではないため、自分の役目に対する責任感、厳密さが薄いのだろう。
落ち着いて、集中すれば問題ない。
確認というよりは、半ば自分に言い聞かせるように、木原は心の中で呟いた。
「キミに伝えた説明は彼女さんにも教えてあるから、木原くんがクリアした時点で彼女さんにチャレンジしてもらいます。――質問もないみたいだし、じゃあさくさく始めようか。」
またもや指を鳴らす音が響く。
不意に、木原の身体が浮き上がる。それはゆっくりとした動きだが、足を前に掬い上げられ、仰向けになる体勢で、身体が床から少しずつ離れていく。
「リラーックス、リラーックス。力が入ってちゃ、当たるものも当らないよ」
ほどなくして上昇が止まる。
「では、スタート!」
だしぬけに始まる。
声と同時に木原の眼前、数メートル先に五つの人影が現れた。
服は着ておらず、身体の力は抜け、棒立ちになっている状態。瞼はあいているようだが、視線がどこを向いているのかは判断できない。こちらに対して何の反応も見せないことから、意識はない、もしくは体の自由がきかない状態のようだ。
そしてその中に彼女、大浦由香の姿がある。
木原の目には、そのぼんやりと薄ぼけた視界には、しっかりと由香の姿が映っている。
――――しっかりとだ。
だから木原は、一呼吸置き、気持ち上を向いて、
「……おい、この中から由香を選べばいいのか?」
神に問いかける。その声には戸惑いの色がありありとあらわれている。
「そうだよ! 僕に愛の力を見せてくれぃッ!」
陽気な神の声に対し、木原はそれとは裏腹に先ほどまでの覇気がなくなっていくのを自覚していた。
何故か。
端的に言えば、拍子抜けしたからだ。
どう見ても、彼の目の前に存在する五人の女性の中に、彼女である由香の姿はひとつしかない。この距離でも、この目でも、彼女は一人しかいない。迷いも不安もない。間違えようのない、劣化コピーとしか言いようのない別人が4人いるだけだ。
「おい、この課題は裏があるのか?」
「まさか」
「この程度で愛がはかれるのか?」
しばしの沈黙の後、
「この課題受けた人はみんなそう言うんだけど、なんで? なんでなの?」
どうやらまじめにやった結果がこうなっているようだ。
そうであれば、これ以上の問答は必要ない。そう判断した木原は、自分が寄越した問いに心底疑問を感じている様子の神を無視し、由香と思しき女性を指差す。
「左から二番目。俺の彼女の由香だ」
「ピンポーン! 正解でーす!」
間髪入れずに神の声が響く。なんの溜めもなく演出もなく告げられた、『正解』の言葉。
拍子抜け、肩透かし、期待外れ。
こんな誰がやってもクリアできるものであるなら、課題自体なくてもいいのではないか。
「……生き返るなら文句はないけどな」
木原が思わずつぶやいた瞬間、
「じゃあとりあえず下ろそうか」
空間に光が満ちた。眩しさに目をつぶり、顔を腕で覆う。
光は一瞬で消え去り、瞼を開けた木原の眼前、そこには由香の姿があった。ぼやけた視界でも、その目がこちらを向き、先ほどとは異なり自分の姿を認識していることが瞬時に分かった。
「正解のご褒美で2,3分だけ喋っていいよ。課題クリアのコツとかヒントを教えてもオーケー。 今度は彼女さんが選ぶ番だからね」
そんな神の声を聞き流しながら、木原は由香に一歩近づく。課題の内容が恐れるに足りないものと分かったため、コツも何も話すつもりはない。
ただ言葉を交わそうと思い、
「由香」
呼んだその声に、由香が反応する。
「……義弘……」
その反応は、意外なものだった。由香の眉間に皺がより、瞳が揺らぐ。それはいまにも泣き出しそうな顔と、そういえるものだった。
由香は自分と似た性格で、落ち着きがあり思慮深い性格の人間だ。自分と同様の説明を聞いていれば、いまがいくら異常な状態とはいえ、取り乱すほどの状態にはならないはずである。
木原は明らかな違和感を抱いた。
「どうした、この課題が不安なのか? 俺は簡単にクリアできたんだ。落ち着いてやれば大丈夫。問題ない」
「眼鏡をかけてないのに、わかるわけないじゃない!」
反射的に返ってきたのは、由香には珍しい怒気を孕んだ声だった。
悲しみにしろ怒りにしろ、ここまで感情を表に出すのは珍しい。
「わかるって。あいつが難易度を下げた分を差し引いても、この課題自体は異常なぐらい簡単だ。眼鏡の有無なんて関係ない。現に俺はクリアできた。由香は俺より視力もいいだろ?」
なぜ由香が怒りや焦りを覚えているのか、それは分からないが、どうにか気持ちを持ちなおさせようと声をかける。しかし、その声が届いているのかいないのか、由香は足元に視線を落としてしまっている。その目には、うっすら涙が浮かんでいた。
「由香、なにがあった。あいつに何か言われでもしたのか? なんで無理だと思うんだ?」
その言葉に由香はゆっくりと顔を上げ、木原の目をまっすぐに見つめた。
「だって――」
一瞬言いよどんだのち、口を開く。
「眼鏡かけてない義弘なんて――――他の男と見分けがつくわけないもん!」
由香が何を言ったのか、理解するのに数秒かかった。
そして理解した瞬間、木原は目の前が真っ暗になった。