第零話 その七 -荒野(4)-
◇麻人 ――ドォオ落下から二十七時間経過――
今朝も豪雨が止まず雲のせいで陽が見えないけれど、それでも夜に比べれば明るかった。僕はその明りに目が覚めると、まだ重い瞼を擦りながら固いベッドから這い出してきた。
このベッドの持ち主だったエルモさんは、あれから帰って来なかった。あの人がどうなったのか、想像したくもないし、出来れば理解したくもない。
あの日、僕はどうにか遺跡に帰って来るとそのままベッドに倒れ込み、夢の世界に現実逃避した。漫画やゲームのように助けに行こうなんて、これっぽっちも考えられなかった。僕一人で助けられないとか、我が身可愛さに見捨てたでもなく、精神的にも肉体的にも限界を超えてしまいショートしてしまったんだ。
朝になりベッドから起きだして意識がはっきりし出したとき、結果として僕はエルモさんを見捨てたという事実に愕然とした。
それでも後悔の念に押し潰されなかったのは、前日にさらに多くの人を亡くしていたのも大きかったと思う。既に感覚が麻痺するほどの悲劇を見ているので、今更もう一つ悲劇に遭遇しても挫けなくなっていたのかもしれない。……或いは、僕は案外心が冷たい人間だったか。
理由はどうであれ、とにかく僕の心は折れなかった。
そんな僕の複雑な心境を気にも留めず、お腹は空腹を訴えた。
本当に空気を読まないお腹だよ、情けなくて涙が出そうだ。いや、涙は出なかったけど。
致し方ないので、僕も後悔よりも空腹を満たす方を優先した。
幸いというべきか不用心というべきか、昨日焚いた囲炉裏火はまだわずかながら残っている。本来、消してから寝るべきだったのだろうけど、僕には一から火を起こせないので残り火があったのは本当に助かった。これで今朝も温かな食事にありつけるよ。
火くらい自分で点けられないの?
未成年である僕がライターのような道具を持っていないし、火打石の方は昨日挑戦して使いこなせないのは理解している。この火は絶やす事の出来ない絶対の生命線だったというのを、遅まきながら気付かされたね。
手遅れにならず本当に良かったと思う。
さて、今朝の献立はどうしようか。本当はスープにしたかったけど、食材と調味料の不足のためとりあえず諦めるしかないか。仕方ないので近くの井戸から水を酌んできて、それを白湯にして体を温めることで妥協した。
メインデッシュはこの部屋にある干し肉。それを囲炉裏火で炙ることで、スルメのように焼いてみた。主食の固いパンは相変わらず味がなくて美味しくないけど、干し肉に塗された塩分で我慢する。
手持ちの食料を食べればもう少しマシかもしれなかったけど、残りを考えると減らす気になれなかったんだ。
だって、僕は村の位置を知らないんだから。
エルモさんは村まで三日の距離とは言っていたけど、最後まで正確な位置を教えてくれなかった。今考えてみても、ある人はワザと正確な位置を教えなかったような気がしてならない。村の位置もそうだけど、僕に教える情報を注意深く選んでいたような気がする。
その行為に何の意味があったのかまでは分からなかったけど、単に無口な人とは違う気がした。
これ以上は止めとこう、いなくなった人を悪く言うのは褒められた事ではない。
思惑はどうであれ、エルモさんは僕を助けてくれた。
それでいいと思う。
思考が悪い方向に傾きかけたので一度リセットして、もう一度今後の方針を考えてみる。
方向感覚が狂いやすい地形を一人で歩いたとして、果たして辿り着けるのだろうか。仮に辿り着けるとしたら、それが何日後になるのか想像もできない。当てもなく荒野を歩きまわるのはどうかと思う。
だとしたら、このまま遺跡に留まり、異変に気付いた村人の救助を待つのも手かもしれない。凄く消極的な選択だけど捜索は必ず行われると思う。それが何時になるかは分からないけど、昨日までように食糧不足という時間制限を気にしなくてもいいし。幸いこの場所は燃料や食料がそれなりに蓄えてあるから、飢えの問題は解決する。
難点は一つ。
エルモさんがいない今、事情を説明したとしても相手が納得してくれるだろうか?
泥棒かなにかと誤解される可能性は大いにあるね。そう考えると、やはり独力で村に辿り着いた方が無難なのかもしれない。もっとも外はこの豪雨だから暫く動けないし、いま判断する事もないか。
僕は囲炉裏火が消えないように時々固形燃料を焼べながら、ひたすら雨が止むのを待つことにした。
◇麻人 ――ドォオ落下から四十一時間経過――
僕は朝食を食べ終えてから、遺跡の全体像を把握することに明け暮れていた。
探索といってもそれほど広い遺跡でもないので、単なる暇つぶしのつもりで始めたけど意外に時間かかったね。
別に隠し部屋があったりした訳じゃないよ。
遺跡内には干し草が大量に、しかもあちこちに置いてあったので手間がかかっただけ。
干し草が服のあちこちに入るので、痛いし痒いし非常に鬱陶しかったよ。
苦労しながら調べて分かったのは、この遺跡はメインストリートの奥に居住空間があった。居住空間に至る途中に複数の部屋らしい空間があるね。その部屋の多くが干し草で満たされていた。
もし火が付いたら大変な事になるだろうと思わなくもないけど、流石に火の回りには干し草は設置していなかったよ。
最初は単にヤクの食料なのか思ったけど、ここが一時的な避難場所である事を考えると、それだけではないような気がする。もしかしたら断熱材代わりに利用していたのかもしれない。
遺跡調査を終えたので食料庫内の把握を始めた。効率的に消費しなければいけないし、無駄にしたら餓死しかねないからね。それでも食料に余裕があるのは気が楽でいいや。今日の夕食は何を食べようかなと考えていたら、外で獣の悲鳴が聞こえたような気がした。
ここが襲われるのだろうかと不安に駆られたけれど、よく考えてみれば大きな悲鳴でなかったので、山彦となったのが聞こえたのだと自分を納得させる。
遺跡に辿り着くまで狼や狐には出会わなかったけど、昨日ロック鳥に襲われた事も考えると意外に生態系が多彩な場所かもしれないね。
悲鳴が聞こえてから五分が経過した。
ようやく安全だと理解したら、外がどうなっているのか気になって堪らなくなった。なにより一日中、遺跡の壁ばかり見ていたので――携帯端末でゲームもしていたけど――外の風景がどうしても見たくなったんだ。
僕はこの気持を安全と天秤にかけてみた。けれどこの気持ちを抑えられないと思ったので、少しだけなら大丈夫だと判断することした。
囲炉裏火で乾かした防寒具を手に取ると、扉を開けて外に出る準備をする。
もっとも外に出ると決めても、やっぱり心の準備は直ぐには整わなかったけどね。
また襲われるかもしれないという恐怖で体中の震えが止まらなくて、防寒具を中々着る事が出来ないし、いざ外へと歩みを進めようとしても体が行動を拒否する。
分かっているよ、安全かもしれないと理解してもやっぱり怖いよ。
無理をして外に出るのを止めて、昨日のようにベッドに逃げたら楽なのだと思う。でも、いつかは外に出なければいけないし。もしこのまま逃げたら、僕は一生外に出られなくなるような気がした。
僕は逃げるという行為が元々嫌いだ。
前向きでないし、僕を見ているかもしれない誰かに負けたような気がするから。
そんな僕だから亡くなってしまった口の悪い爺さんが言っていた、『最善を尽くしてもどうにもならないこともある』という言葉を素直に聞けたのだと思う。
このまま外に出るのを止めて逃げるのは嫌だった。
まあ、昨日は逃げ帰ったような気がするけど、そういう事もあるね。
心底だけで自分の行動が決められたら誰も苦労はしないよ、と自分を正当化してみる。
この葛藤を十分以上続けた。
外を向いたと思ったら踵を返す僕の行動は、傍から見たらとても奇妙で怪しい行動だったと思う。
意気地なしなんて言わないで欲しい。
一時的だけど安全な場所か出るというのは、それだけ勇気が必要だったのだから仕様がないよ。葛藤にようやく終止符を打ち、外に出るといつの間にか雨は止んでいて雲の間から太陽が見えた。先程まで悩んでいた自分が馬鹿みたいに思える。
日暮れまでもう少し時間がないけれど、一日ぶりの太陽は何カ月も見ていなかったような気がした。陽の光はカーテンのように照らし出される光景だった。
気分は天岩戸から出た天照大神。
大げさかもしれないけど、気分はそんな感じ。
少なくともやや荒んできた僕の心は、陽の光一つで大分楽になったような気がするよ。
雨上がりの風は冷たいけど、僕は暫くこのままで陽の光を見ていた。
そろそろ中に入ろうかなと思いながら辺りの様子を何気に見ていると、遠くで黒い煙が上がっているのに気付いた。最初は雨上がりに野焼きをするなんて不思議だなと漠然と見ていた。
あれ、何か重要な事を見落としているような。
てっ、馬鹿じゃないか僕は、よく考えたら誰かがそこに居る証拠だ!
僕は大声を上げて助けを求め始めた。
その声は昨日と同じように山彦となったけど、居るか分からない人物に声をかけるのと違って失望感はない。
何度も、何度も山彦を聞いた。
僕は五分程叫び続けた。
どれだけ離れているかは分からないし、もう直ぐ陽が暮れる。
不味い、不味い、このまま接触できないなんて本当に不味い。
なにか出来る事はないか、僕も出来る事はないか、まだやっていない事は……
あっ、相手が煙を上げているなら、僕も同じ事をすればいいじゃないか。
これなら相手も僕の存在や居場所にも気付いてくれる筈だ。
大丈夫、当てはある!
大量に保管されていた干し草だ。雨に濡れていないから充分燃える筈だし、なにより囲炉裏火の炎がある。
僕は大急ぎで干し草を外に運び出し始めた。
◇真壁 ――ドォオ落下から四十二時間経過――
俺はとりあえず付近で一番高い丘に登ると、辺りを見渡す事にした。
先程までいた場所の上空には鳶だろうか、鳥が多数旋回していた。大方、俺が肉片に変えてやった畜生共の掃除に来たのだろう。掃除役だった奴らが掃除されるとは皮肉な話だが、これが自然の営みか。
あの辺りでは、出発前には見えなかった黒い煙がもうもうと上がっている。
豪雨の後に野焼きをやる馬鹿はいないから、恐らくマイヤーの奴の仕業だ。あの煙の上がり方を見るかぎりドラム缶に詰めたガソリンでも使用しているのだろうか。かなり派手に燃やしている。あれではドラム缶数本では済まない。確かに許可はしたが、実に豪快な火葬だ。
短時間でこの手際、些か作為的なものを感じなくもない。だが、マイヤーの手際が良いのは今に始まった話ではない。あの老人は何時もこうなのだ。
水筒の水を飲みながら青草に腰を落とす。
ここから眺める風景は変わり映えしない。いい加減見飽きてきたのだが、遠くに見える巨大湖だけは別だろう。高地にある巨大湖はチチカカ湖を想像させるが、人家や集落のような人の営みを感じさせる建造物は見えない。
あれだけ規模なら魚も大量にいるだろうし、物流に適した地形だと思う。ドォオの事情など俺の知ったことでないが、放置されている事に疑問を覚えなくもない。
だが、こうは思う。
この風景を麻人が見たときチチカカ湖と誤解して、そこに存在するであろう人里を目指して巨大湖に向かった可能性は否定出来ない、か。
根拠はなくもない。
今まで救出した被験者達の話しをよく聞いてみると、彼らの大多数は直ぐに異世界に来たと認識していなかった。無理もない話だ、魔術や魔物と遭遇でもしなければ、この場所が異世界だと直ちに証明できるものなどない。地球の何処かにテレポートしたか、タイムスリップでもしたと考える方が自然なのだろう。
もっとも若い連中、特に学生はゲーム感覚で異世界に来たと単純に認識する傾向があった。その認識に間違いはないが、連中は大抵無謀、且つ、不用意な行動に走り自滅する。
正しい認識が望ましい結果に結びつくとは限らない。
学生である麻人の場合、異世界だと理解している可能性は大いにある。だが未だに生き残っている以上、不用意な行動をしない慎重な性格なのだろう。
巨大な魔術痕は平気で残す癖に慎重な性格か。中々面白い、実にユニークな少年だ。
巨大湖に移動すべきか暫く思案した。
巨大湖周辺の何処かに人里が存在している可能性は否定できない。一日ではたどり着かないだろうが、闇雲に歩き回るよりは遥かにマシな選択だ。
だが、俺の勘が否と訴える。
普通に考えれば人里があると思うのだが、数々の修羅場を潜りぬけて来た直感がそれは無いと告げていた。理性ではなく感性が『危険だ、近付くな』と警告音を鳴らし続けた。
俺なら近付かない。が、麻人なら行く可能性は有り得る。当初の方針に何時までも拘る事もないだろう。
俺は腰を上げ、巨大湖目指して下山しようとしたとき、遠くで声が聞こえた。
最初は鳥の鳴く声か、或いは気のせいかと思った。だが何度も聞いているうち、聞こえてくるのは人が発している声だと分かった。場所までは分からないが近くはない。風が強くなければ聞こえてこなかったに違いない。
この荒野で魔物や動物を刺激しかねない大声を張り上げる無謀な馬鹿、それは麻人しかいないだろう。
俺は浮遊の魔術を唱え二十メートル程上昇すると、声が聞こえた方向を注意深く観察した。何度も聞こえていた声はやがて聞こえなくなったが、大地に赤い点が見えた。
それが炎の灯りだと理解すると、浮遊の魔術を飛行の魔術に切り替えて急行した。
◇真壁 ――ドォオ落下から四十三時間経過――
陽は既に暮れ暗闇が辺りを包んだ頃、ようやく目的地上空に到達した。
時速五十キロで一時間くらい飛び続けたが、幾度か目印である炎を見失い、思いの外時間がかかった。この暗さでは上空にいる俺に気付いていないが、下にいるのが麻人なのだろう。
飛行の魔術を解除すると、地上二百メーターの高さから一気に降下。
数秒間のバンジージャンプ。
地面に激突寸前で急減速。
風圧で水飛沫が飛び散る。
俺は地面に降り立った
急な来客が空から降ってきたので、目の前の少年は目を白黒させていた。
ウーヌスでよく見かける防寒具を着ている事から考えて、彼が依頼人の言うところの『異世界に無意識に拉致された者達』に間違いない。
「失礼。俺の名前は、真壁 征志郎。真壁探偵事務所の所長をしている探偵だ」
「はあ、これどうもご丁寧に」
少年は条件反射的に差し出された名刺を受取ると、俺と名刺を何度も見返す。未だ理解が追いつかないようだが気にしてはいけない。余計な思考が入る前に質問を続けた。
「俺はある人物の依頼によって、あるケースに遭遇した人物を探している。ところで君は葛宮 麻人君で間違いないかな?」
「違うといったらどうします」
「人違いだったら、他を探すさ」
「確かに、僕は葛宮 麻人です」
否定的な言葉に対して踵を返そうしてみせた。彼は去られては堪らないと思ったのか、麻人だと簡単に肯定した。
「ところで、あの、貴方は……」
「真壁でいい」
「真壁さんはCIAかMIBやエージェント・スミスのような、どこかの政府機関や秘密機関に所属する方なのですか?」
予想外の質問に思わず噴き出した。
CIA? MIB? エージェント・スミス?
確かに黒いスーツに身を包んでいるが、そのように言われたのは今回が初めてだ。
「笑わないで下さい。僕は真剣に聞いているのですから!」
「いや、失礼。俺は政府機関や秘密機関の人間ではない、一介の私立探偵だ。生憎、免許証やパスポートなどの身分証明書は持ち合わせていないがな」
「名刺一枚で人を信用しろというのはどうかと思います」
「麻人、君は自力で後ろの住宅だか遺跡に辿り着いたのではないだろう? 君をここに連れてきた人物を、何故、どのような根拠で信用した?」
「あっ、あれは、他に信用する人物がいなかったから。それと真壁さんを信用するのは別の次元の話です」
カマを掛けたが、やはりこの場所には誰かに連れられてきたか。そいつから麻人の身柄を譲り受ける必要があるな、厄介だ。
「……ここに連れて来てくれたエルモさんはもう居ませんけどね」
「それは不幸だったな」
「ええ」
エルモとかいう奴には悪いが朗報だった。お陰で手間が省ける。
奴がどのような思惑で麻人を保護したかは分からないが、碌でもない目的だった可能性は五分五分だろう。彼らは親切心を装いながら接触してくる。中には本当に善意から接触してくる者もいるが、そうでない者も多い。
全てはドォオの貧しさに原因がある。彼らはウーヌスの人間が持つ珍しい物品が、結構な価値を持つと知った上で狙ってくるのだ。
良い例が一円玉硬貨。
俺達にとってはそれほどの価値はないが、ドォオにおいて一円玉硬貨は、金と同等かそれ以上の価値を持つ。
理解出来ない?
それは無理もないが、少しは科学と歴史を学ぶべきだ。
一円玉硬貨の原料であるアルミニウムは、一九世紀まで登場しない比較的新しい金属だ。このアルミニウムは軽量で柔らかく加工しやすく、そして耐食性に優れている。また合金する金属によって強度を増す特性がある。鉄や銅しかない世界であるドォオにおいて、その価値は計り知れず、金と同価値なのも頷ける話だ。もっともウーヌスの人間は、その価値を理解する前に大抵だまし取られるのだが。
また麻人や陽子のように奇麗な肌――適度な運動と充分な睡眠、なによりバランスの取れた食生活をしているため――と容姿を持つ若い人間は、人身売買として悲惨な末路に至る事が多い。
今回は陽子のように手遅れになる前で良かった。
「恐らく麻人は、自らの境遇に関して根本的な誤解をしている」
「どのような誤解でしょうか。ここがアンデスの山奥でないのは、なんとなく分かっています。でも、真壁さんのような人物がいるのなら、某国が所有する秘密の実験場ではないのですか?」
「おいおい、違うと言っているだろう? まあ、確かにこの服装からCIAやMIB、エージェント・スミスを想像させたらしいから、納得しないのも無理もない話だが。麻人、君が四十数時間前までいた日本ないし地球が存在する世界、仮にこれを第一世界『ウーヌス』とするならば、今いる世界は第二世界『ドォオ』だ」
「は?」
「分かりやすく言えば、君は異世界に移動したのだ」
麻人が状況を理解するのに、たっぷり一分はかかった。俺が見たところ理解が追いつかず、頭が真っ白になっていた。
「えぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「まあ、そういうことだ。その反応だとドォオに来てから不可思議な生態系や生物に接触しなかったようだな」
「……十六世紀に絶滅した筈のロック鳥に襲われました」
「ほう、よく生き残ったものだ。学生連中はゲームか何かと勘違いして挑みかかり、大抵返り討ちに合って殺されるものだがな」
「……エルモさんが逃がしてくれたんです」
エルモとか言う奴を思い出したのだろう、麻人の口が急に重くなった。
何時までも外にいる訳にもいかないので炎を消すと、今日は麻人の住居(?)に御厄介になる事にした。
◇真壁
入口の壊れかかった扉を見たときはがっかりしたが、遺跡の内部は意外にも適度の湿度と温度が保たれていた。
夜はかなり冷え込む上、先程までの豪雨の後でもこの環境。何らかの細工がしているのだろう。建築技術的な細工か魔術的な細工なのかは即断できないが、結界のようなものが遺跡全体を覆っていた。
この場所に目を付けるとは、エルモという奴は中々目敏い人物だったのだろう。
「思いの外、広くて住みやすそうな住居だな」
「住居というか避難小屋のようですよ」
「元々あった遺跡を再利用しているみたいだな」
「遺跡の保存として良いとは思えない状態ですけどね」
麻人は煤の付いた壁を指差す。なるほど、考古学者が見たら卒倒しかねない。
「他人の文化に口は挟めんさ」
「そうですね」
住居には囲炉裏が設置されているが、天井から釣らされている鍋には何も入っていなかった。夕食の支度はまだだったのだろう。俺は担いできたリュックからコーンビーフやパンなどの缶詰を取り出し、夕食にと差しだす。
「宿代だと思って食べてくれ」
「助かります。正直なところ、こちらの食事は余り美味しくなくて」
麻人は笑顔で受け取ると、感謝の言葉を返してよこした。
「だろうな。調味料や香辛料が決定的に不足しているため、ドォオの料理は基本的に味が薄い」
食事をしながら麻人にドォオに関する幾つかの情報を教える。食事、文化、政治体制、各地の勢力、魔獣など。俺の話しに麻人は食い入るように聞き入った。
「エルモさんは、僕に何も教えてくれませんでした」
「少しは信用してくれたか?」
「ええ、お陰で自分がどのような状況にいるか理解できました」
食事も済んだので缶コーヒーを二本取り出し、一本を麻人に放り投げる。
「ドォオの情報など、この程度でいいだろう。それより、麻人、君の話だ」
「僕がどうしましたか、なにか問題があるのですか」
「君が空から落下したとき、どのようにして助かったのか覚えているか。あと、何か印象に残った事はないか」
「あのときは必至だったのでよく覚えていないのですよ。死にたくない、生き残りたいと何度も唱えながら、地面に対してうつ伏せになり四肢を広げて降下速度を落としていました」
「ベリーフライか。パラシュートもない状態で恐怖心に負けず、よく実行できた出来たものだ」
俺は軽く流しているが、内心では助かる術もない状況でベリーフライトをする気になった事にかなり驚いていた。絶体絶命の状況で諦めを拒否とは、信じがたい精神力を宿している。
それが結果として大きなトリガーとなるのだが、果たしてそれが本人にとって良かったのか悪かったのかは俺にも分からない。
「必死だったんですよ。地表に近付くにつれ高密度の空気に似た感覚があったと思ったら、次の瞬間、急減速を感じて気を失いました。なので、どのように着地したとかは分からないですよ」
麻人はコーヒーを飲みながら、ロック鳥に襲われた時や落下地点に祈りを捧げたときに起きた不可思議な現象についても話してくれた。
偶然の産物と言えばそれまでだが、こうも状況が揃うものかと思う。
初心者でも魔術を発動させる方法は三つある。
1、呪文書に書かれた内容を一字一句間違えずに唱える。
2、発動させる魔術に合った触媒を用意する。
3、生贄を捧げることによる魔力の強化。
麻人の場合は三番目の選択。
麻人は誰も生贄にしていない?
そうかもしれない。
確かに麻人は誰かを生贄にする選択をしていないが、誰かより早く死なないという選択はしていた。そう、結果として生贄になったのは、先に落下した二百名の乗客達だ。
元々麻人は魔術の才能があったが魔力を宿していないため、ウーヌスでは魔術を発動できなかったのだろう。魔術士崩れや元魔術士の家系の人間には、そんな奴が結構いる。麻人もそんな一人だったのだろう。
だがドォオにはマナが豊富だ。
何度も飛べと祈っていたうちに、外燃機関方式で浮遊魔法が偶然発動してしまった。しかも生贄の規模が大きかったため使用されなかった魔力を体内に宿してしまい、内燃機関方式でも魔術が使えるらしい。
俺にも信じられないが、恐るべき偶然が重なってしまった。
ここまで来ると偶然というより、何か大きな力が働いているような気がしてならない。
末恐ろしさすら感じる。
否、真に恐るべきは、この状況を生み出した生への執念か。
「率直に言おう。麻人は魔術を使用して助かった。発動させたのは、ここに俺が降り立ったときに使った浮遊の魔術だ。」
「? メ○やファ○ア―とかを僕が使えるのですか?」
「あんなに簡単に魔術を使える奴はレベル1などでは決してない。魔術とは発動させるのが割と面倒な代物だ。もっと将来的にゲームのような事が可能か不可能かの議論で良いなら、可能と言える」
「物理法則を全力で無視していますね」
「魔術も魔術なりの法則が存在する。麻人が想像するような万能の術では決してない。まあ、信じられないのも無理はないが、そもそもパラシュートもなしで高度四千メーターから落下して助かると思うか?」
「神の奇跡とかの可能性を忘れていますよ」
「神は賽を振らない、か。もし神の御手が働いたとして、他の二百人は助けるに値しない人間だったとでも言いたいのか」
「……」
「済まない、少し言い過ぎたな。だが、麻人は魔術を使える才能があったから助かった、これは動かしがたい事実だ」
「でも、可笑しいですよ。僕は日本にいたとき魔術なんて使ったことなんて無いですよ」
「それはウーヌスにはマナが気薄だから魔術を使用できないからだ。一方、ドォオにはマナが豊富だ。麻人は魔術を発動させる才能はあったが、魔術を発動させるマナを持っていなかったから今まで使用できなかっただけだよ」
「そうなのでしょうか、少し納得できませんが」
その夜、俺は麻人に魔術の初歩を講義する羽目になった。
最初は懐疑的だったが自分の手で光を造り出せると、途端に熱心に講義を聞くようになった。真面目で優秀な生徒を持つ教師の気持ちを分かった気がしたが、好奇心に満ちた麻人が満足するまで付き合わされた。
お陰で寝不足でたまらない。
同じ寝不足なら、女が原因の方が遥かにマシだ。
尚、乗客二百名を生贄にした件については黙っていた。あくまで偶然の産物であり麻人に責任はないし、なにより知るには辛すぎる事実だ。いずれ気付く時期が来るだろうが、あえて今教えてやる必要はないだろう。
◇真壁 ――ドォオ落下から五十六時間経過――
朝まで魔術の講義をしたため、俺達の目覚めは遅かった。陽はすっかり上っていて、雲ひとつない快晴だった。
俺はまだ寝ている麻人を残して外に出ると、マイヤーに無線連絡をするためアンテナを設置していた。魔術により交信をすれば簡単だがドォオでは魔術を使える人間が多い以上、盗聴される可能性を考えれば無線の方が安全だ。面倒だが、労力を惜しむべきではない。
幸い障害物となる木もなく、この場所が高い位置にあるため電波状態は良好だった。
「こちら、征志朗。マイヤー、応答どうぞ」
「こちら、マイヤー。首尾はどうですか? どうぞ」
「こちら、征志朗。上首尾だ、そちらから迎えに来てくれ、どうぞ」
「こちら、マイヤー。十分程お待ちくださいませ、どうぞ」
「こちら、征志朗。了解した。これで通信を終わる」
マイヤーとの交信を終え、設置したアンテナを片付けると、まだ寝ている麻人を叩き起こす。
「まだ眠いよ、お母さん……」
「誰がお母さんだ。早く起きろ、迎えが来る」
麻人はまだ眠いのか眠気眼を擦るが、そんな事をしている時間は余り無い。エルモとか言う人物の捜索がいつ始まるか分からない。一刻も早く、ウーヌスの痕跡を残さず立ち去らなければならない。俺は麻人が寝ぼけている間も、昨日食べた缶詰等を片付けていた。
「いっそ、この遺跡に火を放って痕跡を完全に消したいところだがな」
「いくらなんでも、それは止めて下さい。行方不明になったとしても恩人の住居に火を付けるのは、僕は気が進まないです」
「だろうな。仕方ない、出来る限りは痕跡を消したか」
「ところで、一頭だけ残ったヤクはどうしたらいいでしょうか」
「気が咎めるのは分かるが、構うな。数日以内に村人が回収するだろうさ」
「そうでしょうか、そうであって欲しいのですが」
「ドォオでは人間より動物の方が逞しい。数日間くらい適当に生き抜く」
十分後、俺達は壊れかけた扉を開けて外に出た。
出た筈だった。
目の前に現れたのは赤い絨毯が敷かれた廊下と、黒いスーツを着こなす老人だった。
「お帰りなさいませ、征志朗様。葛宮 麻人様、御同郷である貴方様を歓迎いたします。どうぞ、こちらへ」
「真壁さん、貴方は一体……」
「魔術士だと教えているだろう。改めて自己紹介しよう、俺の名は真壁 征志朗、真壁探偵事務所所長を務める魔術士だ。葛宮 麻人君、当事務所は君を歓迎する」
五分後、真壁 征志朗と葛宮 麻人君の姿は荒野から消えていた。
一週間後。
エルモの村の住人が異変に気付き捜索を開始したとき、見つかったのはヤク一匹だけだったという。残りの家畜とエルモの消息はようとして知れず、そこで何が起きたかも分からなかった。村人は言う、山に住む怪鳥から襲われたのではないかと。
季節は流れ、その年の冬。
この土地の冬はいつも厳しいが、今年は例年以上の寒波が押し寄せた。凍えるような寒さに僅かに実る冬野菜が全滅した。運悪く冷夏により秋の実りも不作だった。食糧不足は深刻さを増し、餓死者が多数発生した。
それでも犠牲者が十数人で済んだのは、陽子を売った金を幾らか残していたからだろう。
それでもある者は言う。
今年も陽子のような存在を見つけられたとしたら、餓死者など出なかっただろうと。