31話 夕食 - 後篇 -
この話は単体でも楽しめるように書かれていますが、「22話、昼食」「27話 黒パンの女」「28話 疾走」を読み直してからですと、背景をより理解出来るかとかと思います。
◇麻人
――会議再開まで、残り三十分――
食堂まで来ると入口の扉から光が漏れ、人の話し声が聞こえて来る。
随分遅い時間になっているけれどイリーナさんの言う通り食堂は開いていた。
こんな時間まで学園の食堂が空いているなんて想像もしなかったよ。
いつも、こうなのだろうか?
気になるけれど、今の僕はメシより宿ならぬ疑問より飯なのだ。
「お……御姉さん、なにか食べる物は残っていませんか」
「悪いけど、今日は看板だよ」
「食堂には人がまだいるようですけど……」
「アンタ。これ以上、おばちゃん達をこき使うのかい」
「いえいえ、そういう訳ではないのですよ」
「大体、何か出してやろうにも食材を使い切ったからね」
「本当ですか?!」
「しつっこいわね。あんた、私達を疑うってのかい?」
「いえ、そんな事はないですよ」
自称『食堂のマドンナ達』こと食堂のおばちゃんは、軽い口調で僕に死刑宣告をする。もう少し粘って交渉しようとかとも思ったけれど、どこか虫の居所が悪いそうなのが気になった。
今夜をどのように乗り切るかは重要だけれど、だからと言って明日以降の食生活を棒に振るのは自殺行為。ここは大人しく引き下がるしかないかも。
何故、自殺行為か?
それは、おばちゃん達は仕入れから調理そして予算に至る食堂に関連する業務の全権を握っているから。その絶大な発言力と影響力故に、食堂内で逆らう人間はいない。
正に食を制す者は世界を制す。
自分達を御姉さんと呼ばせているのはその一例で、犯すべからざる不文律なのだ。
僕だって心の中でしか、おばちゃんと呼べない。
『食堂の独裁者』の異名を持つおばちゃん達には、エミリオ学長も頭が上がらないとか。僕らはただ大人しく食堂のマドンナ達に従うしかなかった。
おのれ、ファッショ!
全学連は自由、平和、パンを勝ち取るために立ち上がらなければならないのだ!
思わず妙なノリで口走ってしまった。
最近、一部の生徒達の間で流行っているスローガンらしいけど、どこか胡散癖いんだよね。大体、パンは兎も角、自由と平和は食堂での待遇改善とは関係ないような。
来訪の者の誰かが余計な知識を与えた気がしてならない。
冷静になって考えるとおばちゃん達に苦情を言っても事態が改善する筈もなく――それ以前に苦情を言うわけにはいかないのだけれども――途方に暮れていたら一人のおばちゃんが話しかけて来た。
「しょうがないね。終業後に食べようと思っていたデザートを出して上げるよ」
「本当ですか、御姉さん!」
「今回だけ特別だよ。困り果てた猫みたいな顔見せられたら、おばちゃんもたまらないよ」
余程情けない表情をしていたみたいで同情を買ってしまった。
武士は食わねど高楊枝と言うけれど、僕は武士じゃないので御好意に預かる事にしよう。
おばちゃんが差し出してくれたのは、昼食で食べた冷却魔法でシャーベット状にされたオレンジ。『これはこれで美味しいけれど腹は膨れないなぁ』と内心では思いつつ、御礼を言って受け取ることにした。御好意を無駄にするのはなんだし、わらしべ長者のようにトレードするのも手だからね。
オレンジシャーベットは、今日のA定食にデザートとして提供されていた商品。A定食はそのデザート目当てに女生徒達が注文しているくらいだから、トレードの材料としては悪くないと思う。ジュリエッタもデザート目当てにA定食を頼んでいるくらいだから間違いないよね。
さて、誰と交渉しようか。
交渉相手を探して食堂を見渡すと、妙に教師と上級生が多いことに気付いた。
昼食時とは異なる構成比に疑問が湧くけれど、夕食時は来ないので今日が特別なのかは判断が出来ない。
まあ、本来なら客層がどうであっても問題ないのだけれども。
いまの僕は、わらしべ長者を目指す身の上なのだ。
腹の足しのなる物を手に入れるには誰かと交渉して交換するしかなく、交渉するなら同級生が好ましく、贅沢をいえば知り合いが良いに決まっている。そんな事情を持つ身としては、交渉相手が教師や上級生というのは少しハードルが高い。
どうしたものかと思いながら適当な人物を探していたら、彼ら全員がある人物に視線を送っているのに気付いた。
視線の先にいた人物はユースティアさん。
彼女は大人しく机に座ってパンか何かをじっと見つめている。近付いていないから正確なところは言えないけれど、どことなく苛立っているように見えるのは気のせいだろうか。
曰く、学園最強の魔法士。
曰く、氷姫。
ユースティアさんを指し示す異名は多い。それだけ有名人ということだけれど、彼女に近付く人は少なかったりする。他人に対して冷淡ではないけれど淡泊な上、ナチュラルに毒を吐く。僕の知る限りユースティアさんはいつも一人のような気がする。注目されているけれど近付く人が少ないため、孤島のような存在だとジュリエッタが教えてくれた。
無理もないと思う。
誰だって地雷は踏みたくない。
死中に活ありといっても、何事にも限度というものがある。
某宇宙海賊は『男には、例え負けると分かっていても戦わなければならないときがある』とか言ってのけたけれど、エレン魔法士学園にはそのような猛者はいないらしい。いや、かつてはいたのかもしれないけれど、何度も爆死を繰り返して心が折れたのかも。少なくとも、僕はそんな猛者を学園内で見かけた事はない。
で、僕はどうかというと、実はそれほどユースティアさんを嫌ってはいなかったりする。面倒な人だし、しつこい人だとは思う。話の噛み合わなさに苛々させられるけれど、嫌いかと問われると少し違う。
数日間、ユースティアさんとは付き合って――正確には付きまとわれて――分かったのだけれど、彼女は一般常識からズレた感覚と極端な無関心、珍しく興味を惹かれたときは徹底的にのめり込む性格で構成されている女性なのだ。
面倒極まりない人だけれど面白いと思うよ。
僕が被害を受けなければ。
そのユースティアさんの興味は、現在、真壁さんに注がれている。
僕にとって真壁さんは恩人であり兄のような存在であり、師匠的存在である。そんな人物に興味と好意を持ってくれる人を嫌う道理がなく、被害を受けると分かっていても邪険に出来ないのだ。
ただ、何事にも噛み合わせがあるわけで。コミュニケーション能力が不足しているユースティアさんと心情的に逃げることが出来ない僕とでは、不毛な会話がエンンドレスで繰り返されてしまう。
体力と精神力だけが消耗され、建設的でない事この上ない。
僕の気苦労を誰か分かち合ってくれないかな。
問題を面倒にしているのは、噛み合わせが悪いと理解しているのは僕だけかもしれないという点。
気のせいかもしれないけれど、なんとなくユースティアさんは僕との会話を楽しんでいる気がする。僕はユースティアさんを苦手にしているけれど、ユースティアさんは僕を苦手にしていない。
なんて理不尽な人間関係なのだろう。
上司と部下の関係ならば胃が変になってしまうかもしれない。
いままではジュリエッタが緩衝材代わりになってくれたけれど、そのジュリエッタはいない。
避けるべきかな、という考えが頭を過る。
そういえばユースティアさんはA定食をデザート目当てに食べていたような。
ジュリエッタが『ユースティアさんもA定食ですか』と尋ねたとき、『デザートが美味しいから』と答えていたから間違いないと思う。今日のデザートで出されたオレンジシャーベットならトレードが成立する可能性は十分にある。
見知らぬ教師や上級生と面識はあるが会話が成立しにくいユースティアさん。どちらと交渉するのがマシかは悩ましいところ。
どうしたものかと悩んでいたら、偶然目が合ってしまった。普段、周りの視線を気にしないユースティアさんが、誰かと視線を合わせるのはレアなことだと思う。
偶然とは恐ろしい。
思わず目を反らそうとしたけれど、僕と眼が合ったとき少し嬉しそうな表情に変わったのに気付いてしまった。なにより僕が気になったのは、視線が合うまでのユースティアさんが少し寂しそうに見えたから。無関心を装っているけれど、本当は寂しいのだろうか。
勘違いかもしれない。
知り合いを見付けてほっとしたのかも。
自分の勘を間違いないと言い切れるほど、僕は彼女の事をよく知らない。
それでもユースティアさんを見ていて、理不尽にもドォオに放り出され一人高地をさまよったときを思いだしてしまった。あの寂しや心細さといったら言葉には出来ない。あのときを思いだしてしまった僕は、ユースティアさんから視線を外す気にはどうしてもなれなかった。
◇
――会議再開まで、残り二十五分――
「オレンジシャーベットが美味しい」
「……それはよかったね」
「麻人、黒パン美味しい?」
「空腹は最高の調味料というけれど、何事にも程度というものがあると思うんだ」
ユースティアさんから黒パンを分けてもらった僕は、一口食べた瞬間、『デカルチャ―!』と心の中で叫んでいた。
オーバーアクションと思わないで欲しい。それほどまでに昼食に食べた黒パンとは、似ても似つかぬ食べ物だったのだから。
ある種の悪意を感じたね。
全てを理解した上で、交換と称して半分押しつけてきたのではないかと疑ってしまう。いや、ユースティアさんの言葉を聞く限り、交換という認識があるのかすら怪しい。疑惑の視線を向けるけれど、嬉しそうにオレンジシャーベットを頬張る彼女は僕の視線に屈することはなかった。
バッタものと交換されるか空腹に耐えかねて餓死するか。究極の選択も良いところだ。バッタものは言い過ぎかもしれないけれど、他の言葉が思い付かないのだから許してほしい。ボキャブラリーが足りないのは文部科学省か教育委員会の教育方針が間違っていた結果であって、断じて僕は悪くない。
「これ、本当に黒パンなの?」
「黒パン」
「そうかな。ぼくの味覚が狂っていなければ、別の食べ物だと思うけど」
「昼に食べたのは黒糖パン。小麦粉に黒砂糖を混ぜるため黒くなっている。いま麻人の手にあるのはライ麦パン。ライ麦を原材料に別の製法で作る」
「別物じゃないか!」
「どちらも黒パンと呼ばれている。ユースティアは嘘を言っていない」
「そういうことは先に言ってよ」
「麻人は聞かなかった」
「普通、疑問に思わないよ」
「ユースティアは、麻人が疑問に思わないとは思わなかった」
「詐欺師の言い分だよ、それ」
「そう?」
「そうだよ!」
僕の糾弾を柳に風の如く軽くスルーして、ユースティアさんは黒パンを細切れしている。嬉しそうにオレンジシャーベットを食べていたときと違い、いつものポーカーフェイスに戻ってしまった。こうなってしまっては、どこまでが意図的な発言だったのか分からない。
才能のある人間はなにをやらせても如才なくこなすらしいけれど、彼女ならばラスベガスで一財産築きあげたとしても不思議に思わない。
それほど完璧なポーカーフェイスだよ。
わらしべ長者の夢に敗れた愚か者は、大人しくライ麦パンを食べるしかないのか。
「……もういいよ」
「そう」
「お腹が空いていたのは事実だしね。例え、黒糖パンと見せかけてライ麦パンを渡されたとしても僕は恨みに思ったりしないよ。ユースティアさんはそういう事はしない人だよね。僕は分かっているよ」
「そうよ」
褒め殺し戦術もあっけなく破綻してしまった。
ガードが堅過ぎる。
表情が全く変わらない。
厚い氷のようだ、氷姫とはよく言ったものだよ。
ユースティアさんは奇麗な顔をしかめながら千切った黒パンを口に入れる。嫌いなピーマンを我慢して食べる子供みたいだ。そんなに嫌いなのかな。
いまのユースティアさんを見ていたら、これ以上追及するのが馬鹿らしくなってきた。
「普通、デザートは最後に食べるモノだと思うけど」
「普通の意味が分からない。ユースティアは食べたいものを、食べたいときに食べる」
「傍若無人もいいところだよ。でも昼に食べたA定食のときは最後まで手を付けなかったようなーー」
「A定食は美味しかった」
「もしかして、オレンジシャーベットで口直しをしたかった?」
ユースティアさんが目を反らした。
図星らしい。
「美味しくないと思っていたのは認めるんだね」
「美味しいとは言っていない」
「へぇぇぇ、そうなんだ」
「そうよ」
◇
――会議再開まで、残り二十二分――
黒パンを千切る。
食べる。
顔をしかめる。
水を飲む。
飲み過ぎて咽かえる。
再び、黒パンを千切る。
僕達は黒パンを食べるマシーンと化していた。
美味しくないモノを我慢して食べていると無我の境地に達するらしい。自然と機械的な動作になりがちで、無感動な食事では会話が進まない。
オレンジシャーベットで口直しをしたかったユースティアさんの気持ちが、いまの僕にはよく分かる。
ライ麦パンの味は独特過ぎるのだ。
細かく千切って食べているため、動作ほどには黒パンが減らないのも気分を重くさせる。
ブルルルッ、ブルルルッ、ブルルルッ
腰のベルトにフックで取り付けていた業務用無線機が震え出す。
バイブレータ機能が発動したらしい。
ベルトから業務用無線機を取り外して、送信者が誰かを確認する。もし、アリアさんからだったら電源をOFFにしてやると思ったけれど、前面パネルに取り付けられた橙色のLCD画面に表示されたのは『真壁』の二文字。
『こちら真壁。麻人、聞こえたら応答しろ。どうぞ』
真壁さんの声にユースティアさんの手が止まる。
多分、真壁さんから連絡が来たのに驚いたのではなく、道具を使用して連絡をしているのが理解出来ないのだと思う。
ドォオにおける通信手段は手紙が一般的で、魔術を使える者達だけが魔術による通信を行う。学園の授業で受けた講義によると、魔術による通信は一種の念話のようなもので、会話の内容を口に出して通話を行わないらしい。秘匿性の観点から考えても理解出来る行為だと思う。
まあ、念話というくらいだから口に出して送信する必要性がないけれども、意識だけで通信するのが得意でない人もいるとか。だとしても、それは送信する側だけの問題で、受信する内容は分からない。にも関わらず、見知らぬ道具から真壁さんの声が聞こえた。
ユースティアさんにとって――否、ドォオの人間達にとって未知の現象が起きているのだ。彼女が怪訝な感情をするのは無理もないと思う。
『こちら真壁。麻人、聞こえたら応答しろ。どうぞ』
どのように誤魔化したらいいか悩む僕を無視して、再び真壁さんの声が聞こえて来る。
「……麻人。ユースティアに嘘をついていた」
「僕は嘘をついていないよ」
「ユースティアは、何度も真壁から連絡が来ていないか聞いた」
「真壁さんから連絡がなかったのも、会っていなかったのも事実だよ。僕は嘘を言っていないよ」
「嘘つき」
ユースティアさんの目が怖い。
相変わらずの無表情だけれど、目だけは違う。
かなり怒っている。
なのに表情だけは変わらない。
感情を抑えているのか素なのか判断がつかない分、底が分からないので余計怖い。
『こちら真壁。麻人、聞こえたら応答しろ。どうぞ』
僕の気も知らず、真壁さんの声が聞こえる。
なんとなく少し焦っているような声音だけれど、いまはそれどころではないよ。
「ユースティアは直ぐに真壁と連絡を取りたかったのに、麻人は邪魔をした」
「今日、食堂で真壁さんと会えたのは僕と一緒にいたからだよね。僕はユースティアさんが同席するのを拒否しなかったのだから、邪魔は少し言い過ぎじゃないかな」
「それはそれ、これはこれ。麻人がさっさと真壁に連絡していれば済んだ話」
理解できないでもないけれど、妙にこだわるなぁ。
多分、理屈じゃなくて感情の問題だと思う。
『女性は理性より感情に左右される生き物だ』と真壁さんは言っていたけれど、それは学園最強の魔法士の異名を持つ才女であっても同じらしい。
「その理屈はおかしいよ。そもそも、『真壁さんと連絡を取れないか?』とユースティアさんは聞かなかったじゃないか」
「普通分かる」
「聞かれないことは分からないよ」
「麻人なら分かる」
「ユースティアさんの中で、どれだけ僕の評価が高いのさ!」
「真壁とアマデオの次くらい」
あの二人の次ということは、かなりの高評価なのかもしれない。けれど、いま僕の評価は大暴落しているのだろうな。
冷静にこの展開を分析する僕を冷気が襲い、机の上に置かれていたコップの水が凍る。ユースティアさんが無意識に使った冷却魔術なのだろう。徐々に体温が奪われ、唇が紫になり、体が震えだす。ユースティアさんの持つ氷姫の異名を、僕は身をもって体験していた。
流石に命の危険を感じてきたので、遠巻きに僕達のやり取りをみていた教師や上級生達に助けを求める視線を送る。
いや、送ろうとしたの間違い。
異変を察知した彼等は、我先にと食堂から逃走していた。
一斉に移動すれば普通は出口が混み合うのかもしれないけど、この食堂にはオープンテラスが存在するのだ。つまり、出口は他にも存在するため、一斉に逃走するのも可能だったりする。教師に至っては転移呪文を発動させ、座っていた椅子どころか机ごと移動していた。
上級生はともかく教師なら止めろよと僕は主張したいが、ドォオにおいては教育者の使命より自分の命の方が重いらしい。
知りたくなかったよ、そんな事実。
『こちら真壁。麻人、聞こえたら応答しろ。どうぞ』
命の危険にさらされている僕の気も知らず、無線機は機械的に通信を受信する。
思わず空気読めよと言いたくなる。
「麻人、真壁が呼んでいる」
「出てもいいの?」
「早く出る」
どうやら空気を読まない無線機のお陰で命拾いをしたらしい。
少なくとも真壁さんと話している間は僕の命は無事のようだ。
無言でうなずくと腰に下げている業務用無線機を取り外して、送信ボタンであるPTTを押す。
「こちら麻人。真壁さん、どうかしましたか? どうぞ」
『こちら真壁。ユースティアを探している。悪いが手を貸してくれ、どうぞ』
何故、真壁さんがユースティアさんを探しているのか?
当然の疑問が浮かぶけれど、いま重要なのは真壁さんがこの場に来てくれるかもしれないという事実。いまのユースティアさんを止められるのは真壁さんしかいないと思う。
『お願い、助けて』と念じながら返答をしてみる。
僕は念話を使えないし真壁さんも使えないけれど、出来るとか出来ないとかはこの際関係ない。この通信には僕の命がかかっているのだ。
「――――こちら麻人。ユースティアさんなら目の前にいますが。どうぞ」
真壁さんから返答がない。
もし、ユースティアさんが居るか居ないかを問題にしているとしたら。
そんな事態を考えたくもないよ。
よく思い出せ、麻人。
真壁さんは『安否を確認している』とは言っていない。ということは、真壁さんがユースティアさんに会いに来ると考えるのが普通だよ。
そうだ、問題ない。
問題ない筈だけれど食堂に立ち込める冷気と、その冷気より冷たいースティアさんの視線に死の恐怖を覚えてしまう。
思わず、上級生達が逃げた方向を確認する。
『帝王に逃走は無いのだ!』と誰かが言っていたけれど、僕は世紀末の住人じゃないから自分の心に正直に逃走を試みるけれど、靴が床に凍りついて逃げられない。
ユースティアさんが冷たく微笑む。
「麻人、真壁が呼んでいる」
「……分かっているよ」
深く深呼吸をして心を落ち着かせる。
落ち着け、麻人。
焦ったら全てが終わりなんだ。
「こちら麻人。繰り返しますが、ユースティアさんなら目の前にいます。どうぞ」
『こちら真壁。今どこにいる。どうぞ』
「こちら麻人。食堂で二人して美味しくない黒パンを食べていますが。どうぞ」
今どこにいると聞いてくるということは、真壁さんが食堂に来てくれる!
助かったという安堵感で緊張緩んでしまったのか、思わず黒パンの話題というまったく関係ない話題に触れてしまう。一瞬しくじったかもしれないと思ったけれど、僕を拘束するユースティアさんの冷気が少し緩んだような気がする。
笑いが取れたとは思わないけれど、日常系の話題を挟んだのは正解だったらしい。
『こちら真壁。了解した。今から向かうからユースティアには、その場に留まるよう言ってくれないか。どうぞ』
ユースティアさんは頷いて了解の旨を教えてくれる。
声に出して言わないのに違和感を覚えた。
なぜ、口頭で返事をしないのか? 多分、僕達が使用している機器の性能が未知なので、迂闊な発言を控えているのかな。感情に任せて僕を拘束したのは良いけれど、真壁さんには知られたくないと考えても不思議ではないし。
まあ、元々口数が少ない人だから断言はできないけれどね。
「こちら麻人。ユースティアさんは承知してくれました。ただ、よく分かりませんが機嫌は悪そうですよ。どうぞ」
『こちら真壁。お前が気にするような事じゃない。以上、通信終わり』
◇
―会議再開まで、残り十九分――
「色々誤解や見解の相違はあったのは認めるよ。ごめんね、もう少し気が利けばよかった」
「そう思う。麻人は意地が悪い」
「だから、悪かったって」
食堂に立ち込めていた冷気は消えて、僕の逃走を不可能にしていた氷も解けていた。
冷気は消えたということは、ユースティアさんの怒りが解けたと理解するべきなのかもしれないけれど、いまの彼女からは怒りとは違う感情が見え隠れする。
苛々してると言うべきかな。
真壁さんがもうすぐ来ることだし、これで万事解決。僕はお役御免となる筈だけれど、やり場のない一方的な感情をぶつけられていた。
「ねぇ、ユースティアさんは何に苛々しているのさ」
「分からない。分からないけれど、多分、麻人が悪い」
「根拠も無しに非難される覚えはないよ」
「ユースティアの勘」
酷い理屈だ。
そもそも理屈とすら言えないよ。
「学園最強の魔法士とは思えない論法だね」
「――ユースティア」
「えっ」
「私の名前。その呼ばれ方、好きじゃない」
異名を持つのはある種のステータスと思っていたけれど、嫌な人もいるらしい。異名とは少し違うけれど、あだ名を嫌う人は結構いるとか。その理屈から考えれば異名を嫌がる人がいるのも当然なのかもな。
「わかったよ、ユースティアさん」
「分かればいい」
なにが良いのかは、この際置いておこう。
感情的になっている女性には逆らってはいけない。
「これ以上、僕にどうしてほしいの?」
「分からない。でも、むしゃくしゃする」
「理不尽だよ!」
「麻人が悪いに決まっている」
「理由が分からないのに断言しないでよ。まるでアリアさんみたいじゃないか」
「……麻人、アリアって誰?」
「あれ、言っていなかったかなぁ? 真壁さんの(名義上)姪で、真壁さんと同居している(本人は同棲しているつもりの)女性だよ」
「どんな人?」
「どんなって言われても。そうだなぁ。金髪の長い髪が特徴的な、僕の目から見ても美少女だと断言できる女性だよ」
「そう」
五秒程の沈黙。
「麻人は真壁と連絡できた」
「それは否定しないよ」
「ユースティアは真壁に念話をやったけれど通じなかった。何度も、何度もやったのに」
「それは真壁さんが念話を使えないからで、悪気はないと思うよ。まあ、僕も使えないのだけれど。念話が使えない僕達が連絡を取るには、この道具が必要なんだよ」
「他に持っている人は誰?」
「誰って言われても困るよ。一応、教えてはいけないことになっているから」
「――お願い」
ユースティアさんは僕に頭を下げて頼み込む。
殺されかけた人物から頭を下げられても、本当は頼みなんか聞きたくもない。
けれど美人に頭を下げられては、頼みを聞かないのは男としてどうかと思う。
「――分かったよ」
「ありがとう」
「さっき使用したのは僕達の国の通信手段で業務用無線機というのだけれど、魔力を使用せずに使える道具なんだ。僕の知る限り、これ持っているのは僕と真壁さんとスルガヤさん、そしてアリアさん。どういう原理で動作しているかというと――」
「アリアも持っているんだ」
微妙に会話が成立していないけれど気にしないことにする
「そりゃ、一緒に住んでいるから連絡手段がなければ色々困るよ」
「……ユースティアは持っていない」
ユースティアさんが何に苛々しているのか、僕には分かる気がする。
「そういうことか。ふうん、へえぇぇ」
「なに」
「ねぇ、欲しい? 欲しいよね、この無線機」
「麻人、言い方がイヤラシイ」
「酷いな。これは僕の生命線だから渡せないけれど、手に入れる方法はあるよ」
「どうするの?」
「真壁さんと交渉すればいいさ。事情は分からないけれど真壁さんはユースティアさんを必死に探している。恐らく相当な理由があってのことだと思う。そのとき取引すればいいよ」
「真壁が一生懸命動いているのはユースティアが巻き込んだから。その真壁から何かを貰うのは出来ない」
意外な言葉だった。
他人の感情を一切気にしない人だと思っていたけれど、そうではないらしい。
「いいの? アリアさんは真壁さんといつでも話が出来るよ」
「そう」
「僕はね、一週間前にアリアさんによって真壁さんの家から追い出されたんだよ。『暫く帰って来ないで』って言われてね。酷いでしょう」
「……そう」
「つまり、この一週間。真壁さんはアリアさんと二人っきりだった」
「……」
「ユースティアさんが三日間、一生懸命に真壁さんの行方を探している間もだよ。僕達にこれだけ迷惑をかけた真壁さんは、当然何らかの償いをしてしかるべきじゃないかな?」
十秒程の沈黙。
「……どうすればいいの」
僕、葛宮 麻人のささやかな復讐はこのように行われたのだった。
――会議再開まで、残り十七分三十秒――
ライ麦パンに関する描写について、異論や反論がある方がいらっしゃるかと思います。
この件は僕のモスクワ出張時の実体験を基にしました。
ですので、日本国内のライ麦パンがイマイチだと言っているのではありません。
同時に海外のライ麦パンがイマイチだとまでもいいません。
誤解して食べると、とてつもなく痛い目に会うということを表現したかったのです。
多少オーバーに描いていますが、その辺は創作物故と理解して頂ければ幸いです。




