第零話 その四 -荒野(1)-
アリアから指定された座標にビルディングを転移させると、そこは木一つない山々が連なる土地だった。山と山の間に当たるこの場所は渓谷というには広く、盆地というには狭い。木一つない風景は谷間から吹く強風が影響を与えたのだろうか。
山肌は青草で覆われた風景は秋田県の寒風山やスコットランドのハイランドを思い起こさせるが、山影が辺りを暗くするためか何処か物悲しかった。
やや感慨に浸りながら窓越しに風景を見ていると、遮蔽物一つ無い緑の大地に染み付いた小さい赤い点を確認する事が出来た。恐らく乗員乗客二百名が高度四千メーターから地上に叩きつけられた跡だ。大量に血と肉片が辺りに散らばっているあの場所には、ハイエナやら禿鷹の類が集まっているのだろう。
意外だったのは台地が思ったよりも抉られていない点だ。
少なく見積もっても時速二百キロメートルで平均体重六十キロの物体が二百体分叩きつけられたにしては被害が軽微に思うのだが。
「どう思う、マイヤー」
「死体跡でございましょう」
何をどう思うのかを聞かなかったとはいえ、マイヤーの返答はそっけないものだった。勿論有能かつ忠実な我が執事マイヤーは俺の意図を理解している筈だ。だが主人である俺の問いよりも、俺一人で調査するように依頼してきたアリアの言葉を順守して余計な推測を一切入れない。
「アリア様からのご連絡が事件発生から一時間後ですから、ドォオでの時間は約四十時間経過しているかと思います」
「四十時間が経過すれば、恐らく麻人はあの場所にいまい。何処に移動したかは検討も付かないが、障害物がないからビルに気付く可能性があるのは幸いだな」
「左様でございますな。私は万が一、麻人様が来店されたときに備えて控えて置きます」
俺は魔術を施された特製のスーツが大量に架けられているクローゼットから卸したての一着を取り出し身に纏う。着替えている間にマイヤーは大型のリュックサックを手早く用意する。いつ今回のような件があるか知れないので、事前に一週間程度は探索可能な装備を準備していた。
スーツも黒ならリュックサックも黒。
実に良い色合いだ。
スーツにリュックサックというのは些かシュールな取り合わせかもしれないが、スーツケース片手で荒野を当てもなく探索するのは自殺行為というものだ。
無論空間を歪めれば無限に収納する事は可能だが、歪められた空間では物体が形状を維持できない。つまり取り出したら元の形状ではない、何か別の物体に変化している可能性が極めて高い。残念ながら魔術は万能ではなく、収納に関しては物理法則に軍配が上がる。
シュールだろうと何だろうと、利便性を考えればリュックサックを使用するのは止むを得ない判断だった。
「征志朗様、申し遅れましたが先程のアリア様の御電話ですが……」
マイヤーは俺と話しながら防寒用のコートを肩にかけてくれたが、彼にしては珍しく言い淀んだ。
「お前が言葉を濁すとは珍しい、どうかしたか?」
「いえ、何と言いましょうか。あの後に、アリア様が私に征志朗様の事で何か変わったことがなかったのか? という内容で再度御電話があったのでございます」
「なるほどな、あのくらいの年齢でも女とは鋭いものだな」
「いや、はや」
「で、マイヤー。執事であるお前は誰に忠実であったのだ」
「私は昨夜当家を留守にしておりました。昨晩、征志朗様が何をされていたのか、私は存じておりません」
「……確かにお前が帰って来たのは昼過ぎであったな」
「左様でございます」
この件に関してマイヤーは俺の、否、男性の味方であった。
別にアリアと付き合っている訳ではない。故に後ろ黒い点などない筈だが、出発前に余計な心配事が減ったと感じたのは偽らざる心境だった。
「後を頼む」
「征志朗様、行ってらっしゃいませ」
テントや寝袋を含め総重量二十キロは越える装備を背負うと、マイヤーの言葉に送り出され部屋を後にした。
◇
山から振り下ろされる肌押さす冷風。
叩きつけられる雨粒。
風と共に運ばれて来る高密度のマナ。
それらを浴び、若干咽ながら落下地点を目指して歩いていた。
流石に皮靴で歩く訳にはいかないので登山靴を履いているが、雨で地面が抜かるむため何度も青草で滑りそうになる。歩きにくくて敵わないが、俺と違い麻人は雨具や防寒具を持ち合わせていない。そのような装備では低体温症や凍傷で死亡する可能性は否定できない。早く麻人を発見しなければならない以上、いまは足場を気にして歩く余裕はなかった。
ウーヌスの季節は冬だったから麻人は厚着をしている可能性は高い。
カイロの類をポケットに偶然入れていた可能性はあり得る。
或いは着陸に備え、少し早めに防寒具を身に着けていた可能性も零ではない。
などと都合のよい条件を並び立てるが、全てが都合よく揃っている筈がない。
コートに叩きつけられる雨音を聞きながら、焦る自分を落ち着かせるため今後の方針と状況を整理し始めた。
麻人がどこに居るか分からない以上、まずは現場から始めるべきなのだろう。移動した可能性はかなり高いと思うが、居ないとしても麻人の痕跡くらいは見つけられるだろう。
もっとも彼がどのようにして助かったのかは、大よその見当はついている。
恐らく魔術だ。
それ以外考えられない。
空挺師団の連中が訓練中にドォオに落ちたのではないのだ。パラシュートなど装備していない以上、魔術以外で助かるわけがない。分からないのはどのような魔術を使用したのかという技術的な点だが、この際問題では無い。
麻人が何故魔術を使用出来たのかは、ドォオの持つ特殊な環境で説明できる。ドォオは魔術を行使するための最も基本的な要素、マナが大気中に豊富に含まれている。これを巧みに使いこなせれば魔術の行使は不可能ではない。
不可能ではないが、実のところ可能とも思えない。
ドォオに落ちて僅か数分以内に魔術を発動させることが素人に可能だとしたら、ドォオには魔術を行使できる人間が溢れかえっていなければならない。ウーヌスより魔術士が多いとしても、そのような世界でないと思っていたのだが。
商都ファマグスタでベルナルドは言った。
「この街で店内をライトで照らしだすなんで贅沢をしているのは、うちの店ともう一つくらいですぜ」
あの状況でベルナルドが嘘を言う道理がない。
奴の言葉が真実だとするならば、やはり魔術士の絶対数は多くないのだろう。
だが、それでも麻人は魔術を行使出来た。
些か不自然さを感じなくもないが、出来たからこそ麻人は生きている。
神の奇跡?
はっ、何を馬鹿げた事を。
生憎、俺は魔術士だ。
事実だったとしても魔術士が考えるべき仮説では無い。
神など存在しないし、仮に存在していたとしても存在を認めない。
この世にあるのは科学か魔の論理だけだ。
魔術士とは神からは遠い存在、多かれ少なかれ人の道を外れた外道なのだ。
それにしてもウーヌスにはこれほどのマナが存在する環境は皆無、少なくとも俺は知らない。
最近でこそ慣れてきたが。最初の頃など高山病になったのかと思う程苦しめられた。並みの人間なら蒸せるような空気としか感じられないだろうが、俺のような魔術士には自身の持つマナと異なる密度のマナを吸い込むので上手く混合出来るまで大変だった。
ここで余談になるが、ウーヌスとドォオのマナに対する認識の差について語ろう。
マナとは魔術を行使するための最も基本的な触媒。簡単にいえば燃料のようなものだという認識で良いだろう。
根本的に異なるのは、マナをどのように取り入れているかだ。
ウーヌスではマナが気薄なため、自身の持つマナを内燃機関のように利用する事で魔術の行使を可能としている。対してドォオでは大気中に含まれる大量のマナを随時取り入れることで外燃機関のようの魔術を行使できる。
さらに分かりやすくいえば、マナ不足のため燃費を気にして効率の良いエンジンを開発した日本車に対して、燃費を無視したパワー重視の外車といえば想像しやすいかもしれない。ドォオでは某国の車番組さながらに「POWWWEEER!!!」と叫びながら、無駄に強力な魔術を行使するのが理屈上可能である。
どちらが魔術を発展させられるかといえば、車と違い後者に軍配が上がる。何故ならば魔術を行使できる程マナを個人が内包する例は稀なのだ。
逆境に屈せずウーヌスでは各家が独自の手法で伝承してはいるが、衰亡の一途を辿ってきたのは事実だ。それに引き換えドォオでは個人の資質に頼る比率が少ないため、相対的に魔術を行使できる絶対数が多い。
外燃機関方式の欠点を一つ上げるとすれば、一々外からマナを取り入れるため詠唱速度が劣る点だろう。だとしても個人の錬度である程度はカバーできる。
戦士さながらに白兵戦でもしなければ、左程問題にはならないだろう。
気付いた人もいるかもしれないが、今の俺は理屈上、内燃機関と外燃機関のいずれも利用できるという事になる。巧く切りかえられれば今まで以上に強力な魔術を行使できるのだが、ガソリンと同じでマナにも混合比という問題がある。エタノールやテンプラ油を大量に入れ過ぎたガソリンがエンジンに煤を付けて駄目にするあれだ。
最近でこそ扱いに慣れてきたが高密度のマナに酔う感覚は未だにあり、今も風に運ばれて来た高密度のマナに咽返っているのもこのためだ。
何事も便利だけではないものだと考えながら歩いていると、ようやく目的地である落下地点に辿り着いた。
◇
上から確認できた通り落下地点の地面は抉れていなかった。
それでも落下地点と分かるのは、大量の血と二百分の遺体が折り重なるように存在しているからだ。
正直なところ四十時間前まで人であった二百人分の何かを想像していたのだが、それらは遺体と言うに相応しい欠損が無い状態だった。
そう、だったのだ。
喰われているのだ。
俺の目の前で喰らい続ける、十数頭の野獣によって。
ハイエナや禿鷹の役割をドォオで担うであろう、体長三メーターの四足歩行生命体。
不確定名、野獣といったところか。
この畜生共が遺体を処理するという、自然のサイクルの中で重要なプロセスの一環を担っているのは理解してはいる。
こうなっている可能性も考えないではなかった。
魔術士などしていると折り重なるように放置された二百体の遺体を目にしても、その遺体が野獣共に食い散らかされる惨状を目にしても胃液を戻すようなまとも神経はとうの昔に捨てていた。だとしても同胞の遺体が食い散らかされる状況を放置する程、人間を止めた気はなかった。
奴らの大部分は俺を無視して食事を優先させる。だが、それでも注意を向けた奴らが三頭はいた。
(冒険者かと思ったが、あれはなんだ)
(知らんさ、哀れな狩られるモノだろうさ)
(違いない)
(あの奇妙な服装は何だ?)
(人のやることなど我らに分かるものか)
(違いない)
(どうする、せっかくの粋の良い獲物だ。喰うか?)
(悪くはないが走りまわって一頭捉えるより、黙っていても食べられる方が楽だ)
(違いない)
(我等はこちらの御馳走に用があるのだ、見逃してやるから何処となり消えるがよい)
一瞥すると他の仲間に注意を即する事もなく、目の前にある大量の御馳走を優先させた。
俺は担いでいたリュックサックを下ろし、身を軽くした。
(見ろ、担いでいた荷を下ろしおったわ)
(見逃してもらった礼に荷を差し出すとは、殊勝な心がけよの)
(違いない)
侮蔑するような瞳で俺を見下すが、それは決定的な誤りとなる。
気付いた奴らでだけでも、直ぐにその場を離れるべきだった。
即座に高速詠唱で身体強化の呪文を唱えると、拳圧で三頭諸共吹き飛ばす。
雨音のみが聞こえる大地に畜生共の悲鳴が山彦のように木霊した。
これが合図になった。
今まで俺を無視していた奴らも遺体を放置して俺を敵と認識する。
畜生共は俺を取り囲むように移動しようとするが、身体強化で移動速度が増しているため背後を取る事を許さない。総重量二十キロの荷物は既に下ろしているため動きを阻害しなかった。
思いの外、対象の動きが速いと理解したのだろう。畜生共は数を頼みに多彩な動きで俺を翻弄しようとする。畜生と言えど地面が剥き出しであれば泥に足を取られただろうが、多少滑るが青草に覆われているから可能な動きだ。
十数頭がランダムな動きをされたら流石に読めない。
動きを読めない奴は無視して、比較的動きに規則性のある畜生達に的を絞る。
右、左、右、左、前、右、左、右、左、前、右、左、右……
左!
両袖に隠しているナイフを二本同時に投げる。
狙い違わず二頭の胴体に刺さる。
致命傷ではないがもはや戦力とは呼べまい。
容易に背後を取れず、隙も作り出せないまま仲間がやられた事に苛立ち、威嚇するように吠える。
十数頭の唸り声に怯まず、ブルース・リーのように手を振り挑発する。意味は分からないだろうが挑発されているのは理解したのだろう、唸り声は猛るような吠えに変わる。
(人間が!)
(生意気、人間風情が!)
(貴様等は大人しく我らに狩られていれば良いのだ)
(狩られる側の貴様等が狩られるのは自然の法)
(我らを舐めた事を後悔させてやる!)
などと思っているのだろう。殺気立つ二十数個の眼が俺を射抜くように見詰める。
俺達は七メートルの距離を置いて二十秒程睨み合いが続けたが、耐えきれず若い奴らが三頭同時に飛びかかって来た。
低空だが滞空時間が長く、思いの外、速い。十メートル以上飛ぶ能力があると直感した。飛んだことで回避は不可能だが、三頭の内いずれかの牙が相手を捕える事を狙った決死の戦法。最悪、俺を仕留められなくとも、後方に移動出来れば良しと踏んだのだろう。
0.05秒後、一頭目を五メートルの距離で右のリードジャブが鼻の頭を打ち抜く。
0.10秒後、二頭目を三メートルの距離で渾身の左ストレートが身体諸共吹き飛ばす。
0.15秒後、三頭目には七十センチの距離まで接近されるが、返しの右フックで頭部を吹き飛ばす。
三頭は自らの速さが仇となり、カウンター気味に入った拳圧でミンチになる。
これで残りは九頭になったか。
戦力の四割程度を失ったのだ、勝ち目がないと理解して逃げるのが正しい選択だ。
だが、奴らのボスは拒否した。
ボスとしての意地なのか、或いは縄張りを守るための意地なのかは分からない。
畜生共の考えは理解出来ないし、理解する気もない。
どいつがボスか分からないし、知っても無意味。
そもそも逃がしてやるつもりなどない。
俺がやろうとしているのは殲滅戦。
一切合財、全てあの世に送ってやるのだ。
以後、奴らは距離を保ったまま睨み合いを続ける。俺の体力と精神力が落ちるのを待つ気なのだろう。確かにこのまま雨に打たれ続ければ体力の低下は免れない。
俺は利き腕である左手のみポケットに入れ、拳を温めておく事にした。右腕のみで牽制攻撃を続けて距離を維持する。
一時間が経過する。
俺はともかく、麻人が一時間も余計に雨に打たれている事に遅まきながら気付く。
不味いと思ったが、意識を反らしたことが合図になり、畜生共が九頭同時に飛びかかって来た。流石に足場が悪い状況では九頭同時に対処できないが、既に呪文を完成させていた。
ポケットに入れていた左手を出し、指を鳴らす。
パチン!
次の瞬間、畜生共は下から突き上げる突風で宙を舞う。
動けなくなっていた畜生共も宙を舞い、自身に起きた不幸に悲鳴を上げる。
十数秒後、緑の大地は新たに十数頭分の血を吸い込んだ。
ドォオにおいては魔術を行使できる者で白兵戦をする馬鹿は少ない。
彼らは冒険者と共に行動して集団で戦う事で詠唱時間という弱点を補っている。
だからこそ、畜生共は俺が魔術を行使できるとは疑わなかった。
白兵戦を仕掛けて来たという事実。
高速詠唱の技法により詠唱時間が無いため魔術と判断出来なかった事実。
これらが奴らの敗因だった。
ドォオにおいて高速詠唱は極めて高度な技法と位置付けられているため、高速詠唱と理解出来なかったのだろう。
ドォオにおいては、だが。
内燃機関方式でマナを取り入れることで詠唱工程が減るウーヌスの魔術士にとってそこまで高度な技法ではない。
これらの誤解を利用した上で、手札を隠し通すため最後は高速詠唱すら使用せず印のみで呪文を完成させた。印のみでの呪文は効率が悪く時間がかかるが、消耗戦を仕掛けてきたため時間は十分にあった。
俺は懐から無線機を取り出すと数キロ先に居るマイヤーに連絡する。山間部であっても木という障害物もない。またビルの屋上にアンテナを取り付けているため通信は問題なく成立した。
「マイヤー、今すぐこの場に来て然るべき処置をしろ」
「征志朗様、ドォオでの調査は征志朗様御一人でやられるようにと、アリア様からきつく承っています。なによりこの場を離れては、万が一麻人様が来店されたときに御迎えする方が居なくなってしまいます」
「マイヤー、俺はやれと言っている」
「……承知しました」
語気を荒げたつもりはないが雰囲気を察したのだろう、それ以上抗弁してこなかった。