第零話 その参、僅かな休息
十五時
俺は一週間ぶりに寝る事が出来た柔らかなベッドの誘惑を振り払い、ようやく寝室から這い出してきた。
昨夜は井上陽子を救い出したまでは良かったが、彼女にウーヌスへ帰れる事を理解させるには些か骨が折れた。言葉で幾ら語っても理解されないのは経験上知っていたが、金持ちでもある地球出身の魔術師が自分を救い出してくれたことに陽子が舞い上がってしまったのだ。
差し詰め彼女は囚われの御姫様で、俺は姫を助けに来た騎士。
このような精神状態では、いくら話したところで理解してもらえる筈がない。ましてや地球に帰れるなど、俄かに信じがたい内容ならば尚更だ。
部屋のカーテンを開けて、窓から見える光景を陽子に見せた。
窓から見えるのは妾都ファマグスタの怪しく蠢く灯と、ウーヌスの朝日が照らすビルディング街。俺が所長を務める真壁探偵事務所は、第一世界『ウーヌス』と第二世界『ドォオ』の狭間に存在していた。
大抵の場合、この光景を見せると自分が帰れるという事実を理解させられる。その結果として喜びのあまり卒倒したり、泣き叫んだり、或いは何故もっと早くに助けてくれなかったのかと怒りをぶつけられたりする。
だが今回のケースでは、彼女から姫を助けに来た騎士と認識されている点により異なる展開をみせた。
◇
「君は自宅に帰る事が出来る。君はそこの扉を開けて出て行くだけでいい、あの扉を潜ればファマグスタでの日々も全ては夢のように忘れる事が出来る」
「君なんて言わないで下さい、私の名前は井上 陽子です」
「悪かった、陽子。帰還する事には同意は出来るな?」
「嫌です!」
「もしかして、この光景を疑っていて俺の言葉を信用できないのか」
「御主人様を疑うなんて、とんでもありません。でも、魔術師である御主人様が幻覚を見せているのか、それとも真実なのかは私には判断できないのも事実ではあります」
「御主人様は勘弁してくれ。俺にも真壁 征志朗という名前がある」
「分かりました、真壁様。どうか陽子を捨てないで下さい」
涙目になりながら上目使いで懇願されては、強引に帰らせるわけにもいかない。恐らく陽子は俺が話す内容をやや盲目的に信じた上で、家に帰れるという部分については彼女を捨てる方便だと曲解してしまったのだろう。
或いは、陽子にとって真実などどうでも良いのかもしれない。全ての希望を諦め、男達に身を委ねる事で生き延びてきたのだ。彼女にとって重要なのは、家でも真実でもなく、男に捨てられるか否かなのかもしれない。
自分がどのように訴えても捨てられると思ったのだろう、陽子はシクシクと泣き始めた。
かける言葉がなかった。
ファマグスタに来た数時間、陽子を助けるのにそれほど積極的でなかった。彼女のような境遇の人物を捜していたのは事実だが、陽子を見つけ出したのはそもそも俺ではない。その俺に慰めの言葉をかける権利がある筈がない。
陽子が泣いていたのは数分間だったが数時間の出来事のように思えた。
「……分かりました、これ以上嫌だと言ってご主人様に迷惑はかけません」
「本当にそれでいいんだな」
「私は真壁様に御仕えするしがない女です。拒絶などとんでもない態度でした」
「俺は帰還する人物の希望を出来る範囲で一つ叶えてやるようにと依頼人から言われている。極端な話、君から一緒に死んでくれと言われても拒絶はしにくい」
表面上のやり取りだけを考えればあり得ないと思うが、女というのは何を言い出すか知れたものではない。一緒に死んでくれと言われるぐらいは覚悟して発言をした。
もっとも魔術士である俺は殺されたぐらいでは死ねない。他の魔術士はどうかしらないが、少なくとも俺はそうだ。
「私の望みは分かりますよね?」
陽子は俺に抱きつくと唇を重ねてきた。
陽子は顔を真っ赤に染めていたが、それが羞恥心のためか興奮のためかは分からない。いずれにせよ俺に拒否する権利はなかったし、拒否する気も無かった。
俺は部屋の電気を消した。
僅かな期間しか居なかったとしても、陽子も娼都ファマグスタ住人だった。
陽子の求めは情熱的で激しく、それでいて初々しい面を決して忘れなかった。スルガヤを含めた男達が夢中になったのも無理がないのかもしれない。
陽子の求めに応え、腹が減れば飯を食い、腹が満たされればまた彼女の求めに応える。俺達は娼都ファマグスタのサイクルを繰り返した。
何週目かのサイクルに入ったとき、ようやく陽子が気絶した。
その表情はどこか幸せそうだった。
陽子を抱きかかえたまま扉を潜り、彼女の身が消える。
次に陽子が目覚めるのが家か病院かはしらないが、いずれかのベッドの上だろう。全ては泡沫の夢と認識されドォオでの生活を覚えていまい。男達に翻弄された記憶が深層心理に残らないように祈るだけだ。
◇
という事があり、俺が起きて来たのは昼と呼ぶには遅すぎる時間だった。
依頼人への報告書は既に書き終えているが、提出は明日でいいだろう。流石にありのままに書く訳にもいかず、取捨選択をした上でオブラートに包んだ内容になった。
乱れ切った寝室を後にすると、下着姿でシャワールームに移動しようとした。
そんな俺を引き止めるかのように携帯が鳴った。
着メロはシューベルト作曲4つの即興曲 作品90 D899、その第一曲。
単旋律のみで演奏される、どこか物哀しいメロディーが部屋に響く。
十数秒間着メロを堪能してから発信者を確認すると依頼人からだった。
まあ、ある程度予想はしていた。
今回の件は俺に決して非はないし、後ろ指をさされるような行為はしていないと胸を張れる。だが、どこか後ろめたい気持ちがあり、いま電話に出るのは気が進まない。そんな葛藤を無視するかのように着メロは鳴り続ける。依頼人への義務は優先されるべきだが、今日の俺はシャワーを優先することにした。
無視された事に抗議をするかのように物哀しいメロディーを奏で続けたが、シャワールームから出たときには鳴き止んでいた。
三十分後、ソファーに座りながら棚から取り出したブッカーズをショットグラスに注ぐ。アルコール度60℃を越える熱い液体をストレートで飲むと強い喉越を感じる。この一杯のために生きているとまでは言わないが、一週間ぶりに友と再会したことに満足感を覚えずにはおれない
携帯は鳴り止んでいるが、執拗に電話を寄越していたのは着信履歴を見れば分かる。本来は直ぐに連絡を取るべきなのだろうが気が進まない。
空になったショットグラスに再びブッカーズを注ぎ、何気なくTVを付けた。
丁度ニュース番組中だったらしく某市発のボーイング737型機がタービュランスに遭遇、乗客乗員の一部に軽傷を負った方が発生したとの報道が流れた。ただし機体に損傷はなく、同機はそのまま飛行を継続、無事着陸したらしい。
大方、どこかの馬鹿が機内アナウンスを無視して座席ベルトを締めなかったのだろう。勿論、座席ベルトを締めていたとしても荷物が落下してくる可能性や、熱いコーヒーが零れることで火傷する可能性はある。だが、機内アナウンスを無視して怪我をする馬鹿に付ける薬はない。
もっとも機内アナウンスを守った上での怪我だったとしても、俺に関係ない話だ。どこのどいつが怪我を負うが死のうが知った事ではない。それは国土交通省航空・鉄道事故調査委員会の管轄であり、現在依頼されている仕事とは関係ない。
二杯目のブッカーズを飲み乾そうとした時、執事のマイヤーが所長室に入って来た。
「征志朗様、アリア様からお電話が入っておりますが、お出になられますか?」
「今は休息中だと言いたいが依頼人には誠実であるべきだろう。分かった、電話には出よう」
諦めたと思ったが固定電話にかけてきたか、こうなっては無碍にする訳にはいかない。俺の指示にマイヤーは『畏まりました』と返答すると、所長室に電話を転送してきた。
「お嬢、まだ旅行の最中かと思ったがどうかしたか」
依頼人であり同居している姪でもあるアリアは、三日前から学校行事でスキー旅行に出かけ家を留守にしていた。アリアと陽子がはち合わなかったのは天の配剤というしかない。善行は積んでおくものである。
「どうかしたか、ではありません。征志朗、貴方は何故携帯には出ないのです!」
「生憎、その時間帯はシャワーを浴びていた」
着信を無視してシャワーを優先した事実は伏せ、さも当然の対応のように応えた。だがその対応が気に障ったのだろうか、非難と罵声が聞こえ始めた。もっともその間は受話器を離しているので俺には聞こえない。無駄な労力だと思うが気の済むようにさせておく。
「……という訳で、征志朗は今すぐに第二世界『ドォオ』に行ってください」
受話器を離し過ぎていたため本文が抜けてしまった。まあ、こういう事もある。
「すまない、TVを付けていたのでよく聞こえなかった。もう一度、用件を話してもらえないか」
「征志郎叔父様、単に私の話しを聞いてなかったのではないのですか」
「そんな事はない。今し方のニュースで――某市発のボーイング737型機がタービュランスに遭遇、乗客乗員の一部に軽傷を負った方が発生した――という事実を知ったところだ」
女の勘は案外鋭い。それは彼女、アリアも例外ではない。こういうときは事実を交えた嘘で対応すると大抵やり過ごせる。
アリアは若干疑っているようだが、『本当にニュースを見ていたのですね』と答えた。先ほど報道されたニュースを知っている事について違和感を覚えなくもない。だがニュースサイトで知るなり手段はいくらでもあり、そういうこともあるのだろう。
「そのニュースを知っているのでしたら話しは早いです。およそ一時間前、タービュランス遭遇と同時刻にボーイング737型機の乗客乗員が全員、ドォオに堕ちました」
「パラシュート無しで高度四千メーターからスカイダイビングとは、レミングも顔負けの集団自殺だな」
「馬鹿な事言わないで下さい!」
「その様子だとウーヌスに帰還できなかった不幸な奴がいたようだな。助かったのが不幸とはなんとも皮肉な話だ」
アリアは俺の言葉には答えない。彼女の葛藤を想い軽くジョークで返答したのだがお気に召さなかったらしい。
「……未だに意識が戻らない人物は、葛宮 麻人、学生、十四歳、男性です」
「人物を特定できるとは珍しいケースだな」
「旅客機ごとという特異なケースでしたから人物の特定は容易でした。幸い迅速に状況を把握できましたので、彼が飛ばされたおおよその座標も分かっています。征志朗は早急に葛宮 麻人を救出してください」
「了解した」
葛宮 麻人に関する写真や住所、生年月日、そして携帯電話等の個人情報が携帯電話に転送されてきた。用件は済んだので俺は電話を切ろうとしたが、少し思うところが合って直ぐに切るのを止めた。
「アリア」
「何ですか、いいから早く行きなさい!」
陽子の一件で気分が沈んでいたのだろう、少しからかい過ぎた。
「済まない、気晴らしに軽い冗談を言ったつもりだったのだが少しからかい過ぎた」
受話器越しにアリアの声が聞こえたが意味をなさない文章だった。アリアの声は無視をして話器を置く。
約半日か、まったく短い休息だった。
俺はTVを消すと、友との別れを惜しむようにブッカーズを棚に戻すことにした。
ウーヌスとドォオは隣接するが本来交流はない。いや、交流以前に移動はほぼ不可能だ。だが何らかの偶発的事象により世界と世界の境界面が薄くなる事例は存在する。偶然に境界面に存在した人物がウーヌス、又はドォオに落下するのは理屈上あり得る。だとしても境界面に人が存在するなど天文学的確率である。にも拘らず依頼人によれば近年不自然に増加しているらしい。
罠にかかるように意図せずに移動させられた人々を、『異世界に無意識に拉致された者達』と依頼人は呼んでいた。
俺はこの拉致された人物達の救出を依頼されていた。
とはいえ、ドォオのどこに、どれだけ、誰を救出するのかさえ分からない。はっきり言って不可能な依頼だが、諸事情により受けてしまったのだから致し方ない。
今回は対象者が分かる上におおよその居場所まで分かるのだから、特異なケースといえよう。全てがこうなら助かるのだが、そう簡単なら俺も依頼人であるアリアも苦労はしない。
麻人が『ドォオ』に拉致されてから、既に一時間が経過していた。
それだけ時間が過ぎれば落下地点の周辺にいるとは限らないか。
だが、それでも仕事なのだ。
執事のマイヤーを呼び出すと教えられた座標への転送を指示した。