第零話 その壱、空
季節は冬。
地上では例年にない大雪に見舞われ交通機関が大混乱しているけれど、およそ三時間の空の旅を間もなく終えて家に帰宅しようとしている、僕こと葛宮 麻人には関係ない出来事だった。
ここは地上四千メーターの高高度にある旅客機。
地を這うしかない人間共とは違うのだよ、と悪役口調で心の声を呟いてみる。
別に僕が偉い訳ではないけれど、文明の利器の偉大さを十四年しかない人生で改めて体験している。もっとも滑走路が使用出来なければスタートに戻されてしまうのだけれど、今はその可能性は考えない事にしている。
機長のアナウンスを聞く限り滑走路が使用出来るらしいから、目的地に直陸出来ない可能性は少ないと思う。まあ可能性の話でいいのだったら機体がいきなり空中分解する可能性だってあるし、いつの間にか機体ごと異世界に迷い込む可能性だって量子論的にはあり得るけどね。そんな可能性まで考慮して人生を送るのはどうかしていると思う。
先ほど上げた例はあまり愉快ではない可能性だけれど、窓から黒い雲をぼんやり見ているとそんな事を考えてしまっていた。何故そのような漫画か小説のような事を考えているのだろうか。そんな現実が起って欲しいと望んでいる訳ではないのに。
手元にあるオレンジジュースを飲み干して、少し冷静になってから考えてみるとしよう。どうせまだ時間があるのだから、自分が思い至った理由を考えてみるのも面白いかもしれない。
1、僕は中二病で大事件を体験してみたがっている。
2、これから起きるかもしれない運命を感じ取っていた。
3、初めて飛行機に乗ったことで少し緊張している。
いや1、2は無いね。そりゃ、僕も漫画やアニメは見るけれど、そこまで重症ではないと思う。なにより僕には霊感の類はないらしく、心霊スポットに行ってもまるで何も感じないし。となると3という事になるけれど、確かに離陸時は緊張したけどそれはないと思う。
でも、ある意味当たっているのかもしれない。僕は今、高度四千メーターにいるけれど、この事実は計器が示すだけで僕にはそれが今一ピンとこない。窓から雲を真近に眺めていてもどこか現実と認識しきれない。
考えてみれば旅客機というのは日常にある非日常なのかもしれない。人は空を飛ぶようには出来ていないけれど、旅客機に乗ることで僕でも空を飛ぶことが出来る。でもそれは旅客機という道具に搭乗する事で結果として空にいるだけであって、僕が空を飛んでいる訳ではない。だから僕は空にいるという事実を今一実感できず、色々な事を考えてしまっているのかもしれない。
そんなどうでも良い事をボンヤリと窓を見ながら考えていた。
窓からあの積乱雲のような黒い雲を眺めていると、まるで某『天空の城』の龍の巣を思い浮かべてしまう。
うん、僕もそれなりに中二病なのかもしれない。
◇
「皆様、揺れてまいります。座席ベルトをお締め下さい」
タービュランスのアナウンスが機内に流れる。それほどアナウンスを気にしない人、僕のように緊張する人の二通りの反応に分かれた。アナウンスを無視したため怪我をした乗客のニュースを思い出したので、僕は大人しく座席ベルトを装着することにした。通路で飲み物を配っていたスチュワーデスさんも、自分の席に付きシートベルトを装着する。気にしてなかった人は相変わらずだが、こういう人に限って怪我をしたら大騒ぎをするのだ。こういう大人にはなりたくないものだね。いや、彼らは率先して悪例を実証しようとしている、と思う事にしよう。
それにしてもこの事態は、あの雲が起こしたものなのだろうか?
だとしたら僕の予測いや予測とまで言えたものではないけれど、とにかく当たったのかもしれない。タービュランスに遭遇したことは運が悪かったかもしれないけれど、でも墜落する事はまずないと言い聞かせ、緊張する自分を落ち着けようとする。
固くなっている僕を見かねたのか隣に座る爺さんが話しかけてきた。
「坊主、運が良かったな。初めてのフライトでタービュランスを体験できるとは」
「僕は無事に空の旅を終えたいけど」
「坊主、せっかく体験できるのだから楽しまなくてはどうする」
「どういう生き方したら、そんなに前向きな捉え方出来るのですか」
隣に座る爺さんは出来の悪い孫に話しかける口調だったけれど、緊張して固くなった僕を気遣ってくれたのかもしれない。最初はとっつき悪い爺さんに見えたけれど、僕が正月休みを利用して祖父母に会いに行っていたと知ったら急に親切になった。少し口が悪いけれど、実は良い人なのかもしれない。
「坊主呼ばわりは止してください、僕には葛宮 麻人という名前があるんですから。葛宮でも麻人でもいいですから、坊主は勘弁して下さいよ」
「そいつは悪かったな、坊主」
「もういいです」
人の名前を覚える気があったらもっと良い人だと思う。
「坊主、座席ベルトくらいで手間取ってどうする」
「僕は飛行機に乗ったのは初めてなんですよ、タービュランスに緊張して手間取っても仕様がないじゃないですか」
「例え出来なくとも、出来るように見せるのが男ってもんだ。それが坊主ときたら困っているのが丸分かりだ」
言い返す言葉が直ぐ思い付かないや。このまま言い負かされるは癪だけど、分が悪いので話題を変えよう。
「それよりアナウンスによると、どうやらあの雲に突っ込むようですね」
「空にいたら急ブレーキなど出来やしない。機長もそれが最善だと判断したのだろうよ」
「それが最善じゃなかったとしたら?」
「どうにもならんだろう。ワシらに出来る事といったらパニックになって乗務員に迷惑をかけないことだけさ」
「達観していますね」
「坊主もタマが付いているんじゃろ? 一々動揺すんじゃない」
思わずクスッと笑ってしまった。とっつきが悪いけど面白い爺さんだよ。
この出会いも間もなく終わる。タービュランスを無事切り抜けて空港に着陸してタラップを降りたらそれまでの付き合い、それでもこの爺さんと出会えた事を良かったと思う。
僕の感慨を無視するかのように、それは急に起きた。
◇
僕は、僕らは堕ちる。
隣に座っていた爺さんも通路で飲み物を配っていたスチュワーデスも、機長と思しき男性も、二百名の乗客乗員全てが悲鳴を上げながら堕ちて行く。
凄まじい空気抵抗のため碌に目を開けていられない。
乗っていた筈の機体は何故か見当たらない。
僕は家に帰るため飛行機に乗っていた筈なのに。
機体が空中分解した訳でもないのに。
一体、どのようにしてこのような状況に陥ったのかまるで分からない。
タービュランスに遭遇したと思ったら、高度四千メーターからのスカイダイビングを強いられるなんて。
確かに座席ベルトを締めていた筈なのに、僕を固定していた座席はどこにもなく身一つ放り出されている。こんなのは何か間違いじゃないないのか、僕は夢でも見ているのではないか、と思い込もうとしたけれど下から突き上げられる強烈な空気抵抗が現実だと教える。
パラシュートもない状態で地面に叩きつけられれば間違いなく即死する。
何秒、何十秒の命。
冷酷な現実の前に泣きたくなったけれど、恐怖心と戦いながらも地面に対してうつ伏せになり四肢を広げる。この状態をベリーフライとかいった筈。予想に違わず時速二百キロメートル程度で安定した。安定したとしても冷酷な現実は変わらないけれど、それでも僕は足掻くのをやめない。
隣に座っていた爺さんやスチュワーデスや他の人達は、頭を下にまま加速を続けたため僕より先に地面に叩きつけられた。
彼ら二百人分の血と肉が、緑の大地の小さな染みとなった。
僕だってもう直ぐ、もう直ぐに地面に叩きつけられるんだ。
今まで生きてきた十四年間がこんな形で終わるなんて嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
涙が溢れながらも、僕は念じる。
飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ。
飛ぶ訳がないと思っても他にやれる事はない。
都合良く雪山にでも落下すれば助かるかもしれないけれど、眼下にあるのは緑の大地。
叩きつければ死ぬしかない。
今までの人生が走馬灯に甦って来る。
こんな事になるのだったら飛行機になんか乗るんじゃなかった!
何が統計学的にはもっとも安全な乗り物だ!
戦闘機だって脱出装置が付いているのに、旅客機の乗客は脱出出来ないなんて欠陥じゃないのか!
大して意味もなく建設的でもない愚痴と罵倒を繰り返しながらも、僕には飛ぶ筈がないと分かっていても飛べと念じるしか出来ない。
目を閉じて諦めればどんなに楽なのかもしれない。
それでも、僕は。
緑の大地に近付くにつれて蒸せるような何かを感じる。
森に行くと感じる高密度の空気に似た感覚だけど、それ以外の何か。
それ以外の何かを感じた瞬間、急減速を感じた。
予想をしなかった急減速に僕は意識を失った。
意識を取り戻したとき目にしたのは、空からは染みにしか見えなかった飛び散った肉片と大量の血。
ほんの少し前まで人であった二百人分の何かを目にして、胃にあった全てを吐き出した。
これが、僕、葛宮 麻人が第二世界『ドォオ』で体験した最初の数分間の出来事。
この時は原因不明の事故程度にしか、状況を理解できていなかった。
2013/2/28 第一回改訂
2013/10/7 第零章の追加と第二回改訂