愛、故に
わたしには――記憶がない。
「久子ー、朝よ。起きなさい」
階段下から聞こえる母の声。それを合図に久子はベッドから出たが、目は疾うに覚めていた。ここは他人の家みたいで、他人のベッドみたいで、とても落ち着いては眠れない。
久子がこの家で暮らし始めて、今日で三日目だ。記憶がこの体を捨てたのは、もう一週間前の話だった。
今日から学校へ行く事になっている。母も、父も、肉親とは全く思えないのに、その上他人の輪へ入っていくのは正直――怖い。
そう思えば、事前にキッチンから確保しておいた小型のナイフを引き出しから出し、ポケットへと収めていた。
「大丈夫」
言い聞かせるように言葉を吐いて、身支度を整えると、久子は部屋を後にする。
「久子、顔色が悪いぞ。別に無理して今日行く事はないんだからな」
音を立てないようゆっくり階段から降りていたところで、父と鉢合わせた。極力部屋から出ようとしなかった久子には、この男性は面識も薄く、話しづらい。
階段の先は玄関だ。きっとこれから、彼は出勤するのだろう。
「大丈夫です。……行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
さみしそうな笑顔を残して、父は家を後にした。
*
リビングに入ると、母は洗い物のため、こちらには背を向けていた。彼女は専業主婦でもう一週間生活を共にしているから、少し人として心を許せるようになってきたところだ。
「おはようございます」
「あら、おはよう久子。早起きは久しぶりだから辛いんじゃない?」
愛想のいい母の言葉に、久子は苦笑しか返せなかった。起床時間は、一週間前も今日も変わらないのだ。
久子の住む安西家のリビングは、ダイニングと続きになっている。ダイニングテーブルから少し離れたテレビでは、朝のニュースを伝えていた。
『……でして、自殺の疑いが強いものの、遺書が見当たらず、今も真相は闇の中です』
真相……。それは久子にとっても他人事じゃない言葉だ。記憶がないことは、今ある現実が真実と証明できるものもないということで、ここが本当に自分の家とも、自分が本当に安西久子とも限らないということだ。
「怖いわよね。いじめかしら? その自殺した子の高校って、久子の学校の隣なのよ」
「へえ」
正直、そんな事はどうでもよくて、久子は曖昧に返事を返した。椅子を引いて、皿に飾られたトーストにかぶりつく。
「最近本当物騒よね。学校へは送るわ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ。その……捕まってないのよ?」
「……」
捕まっていないというのは、久子を記憶喪失に追い込んだ犯人だ。それは久子のストーカーで、犯人特定も出来ていないと、警察は言っていた。
それはどれだけ説明されても、久子にとっては他人事だった。ストーカーに襲われた過去の自分よりも、周りの人間が皆他人という状況に置かれた現在の自分の方が、断然怖い。
そんな気持ちをごまかすように、冷め始めたコーヒーを一口すすった。
「須藤くんと、待ち合わせしてますから、大丈夫です」
そう言って、久子は席を立った。食べる気のなくなった残飯ごと、流し台に預ける。そのまま逃げるように玄関に向かった。
いつまでたっても他人行儀な娘に、母は行ってらっしゃいの言葉も忘れてあきれ返る。
「“大丈夫”って言って、記憶なくして帰ってきたんじゃない。あの日も……」
***
「久子!」
家を出てすぐにあるコンビニの前で、須藤は久子を待っていた。光にあたると赤くなる茶髪と、女の割に高い身長は、遠くからでも久子だと分かる。
須藤はストーカーに襲われて倒れた久子の第一発見者で、久子とは元々友達だったらしい。友達なんて彼は言うけれど、本当はもっと深い関係なのだろうな、なんて久子は勝手に思っていた。
だってただの友達を、“久子”なんて、きっと呼ばない。
「おはよう」
「おはよ。大丈夫か? 緊張してんじゃねえの」
言いながら、須藤は久子の頬を引っ張った。優しく触れたその手に、不服そうにむくれてみる。
「してるよ、だって……須藤くん同じ学校じゃないし」
須藤は隣の男子高生だと聞いていた。そう、今朝のニュースの……。
「そういえば、自殺した人……いるんだってね。須藤くんの学校で」
須藤は、記憶を無くした久子が初めて目にした人物だった。まるで生まれたての雛が初めに見たものを親だと思い、懐くように、記憶をなくしてから誰より親身になってくれた須藤は、今の久子にとって誰より心許せる相手だった。
以前から恋人同士であってもなくても、久子は彼を、好きだと思っている。まだ知り合って一週間なのに、こんなに心許せる相手を好きにならない人間など、きっといないだろう。
パッと触れていた手が離れたかと思うと、須藤の表情が急に曇った。
「ああ、うん。よく知ってるね」
「ニュース見たの。テレビ見たこと自体が久しぶりだったから今まで知らなくて。教えてくれてもよかったのに」
「自分のことがあるのにそんなこと知っても、重いだけだろ」
「そっか……」
「……あのさ、久子」
「ん?」
「……や、うん。学校がんばれよ」
そう言って、彼は目をそらした。
もしかして、相手は須藤くんの友達だったのだろうか。そんな風に思ったのは、彼の顔が、まさに顔面蒼白だったからだ。
「……須藤くん、また、わたしの話してよ」
気まずい雰囲気を取り繕うように久子は明るく声を出した。須藤に会うたび記憶を無くす前の自分の様子を聞くのは決まった事だった。そうすることで回復に繋がるのだと言っていた医師の言葉から、須藤がしてくれているのだ。
できるだけ久子を傷つけたくないと、何も話してくれない親達より、須藤のそういう態度の方が久子には嬉しい。
「そうだな……。久子は卵焼きが好きなんだよ。しかも極甘」
「極甘?」
「すっげえあめぇの。あれにはか――」
瞬間、須藤は口ごもった。久子は怪訝な目を向ける。
「須藤くん?」
今言葉を発してはいけない。そうとでもいいたげに須藤は口を押さえている。そんな彼を見ていると、久子の背中に悪寒が走った。びくりと肩を震わせて振り返る。いつの間にか、そこは校門だった。
助けを求めるように仰ぎ見た須藤は、激しく久子の学校の校門を睨んでいた。追った視線の先には、物悲しそうにこちらを見つめる男の姿がはっきりと映る。
高い身長と浅黒い肌。うねるようなくせ毛はよくも悪くも目立って、彼の視線はきっと何処からでも感じるだろうと思った。
「久子」
そっと囁くように須藤が呼ぶ。男の視線と比べる事が出来なくて、数回首を振りながら須藤に向いた。
「あいつには近づくな」
「え。え、どうして? あの人誰なの?」
「それは……。っ……確証はない、けど、俺はあいつがストーカーなんじゃないかとおもってる」
須藤の言葉を理解すれば、サーっと血の気が引いていくのを久子は感じた。
「……本当、なの? じゃあ、警察に言おうよ! あの人、わたしと同じ学校じゃない……!」
「言ったよ。でも、取り入ってくれなかった。俺が勝手に思ってるだけで、マジ、確証ないから」
ストーカー、と初めて聞いた時、漠然と三十代か四十代の男性を思い浮かべていた久子にとって、その衝撃は大きかった。
あまりにも、現実は近く恐ろしかったのだ。
かたかたと震え出す久子の体を支えるように、須藤はそっとその手を握った。
「とにかく、さ。何かあったらすぐ電話しろ? 放課後はまた此処で待ってるし。な? 久子に手出しはさせないから」
うん、と小さく頷いて、久子は校門をくぐった。大丈夫。須藤くんなら、絶対にわたしを守ってくれる。
視線の先にはもう、あの男の姿はなかった。
*
校内へ入れば、まずは職員室へ向かった。担任だと名乗る、まだ若そうな女教師に教室へと案内してもらう。
記憶喪失だという久子への対応が気まずいのか、担任はあまり話し掛けてこなかった。ただ黙って、久子もその後をついて行く。
ガシャーン!
「きゃっ!」
「安西さん!」
突然割れた窓ガラス。それは久子が今しがた通り過ぎた場所だった。幸いけがはしなかったが、なぜだか震えが止まらない。
「大丈夫? 安西さん?」
放心している久子に息を呑むと、担任は他の先生を呼んでくるといって去っていった。
ふと、自分の傍に転がっていた紙くずが目に入る。手にとり開くと、そこには五百円玉程の大きさの石が包み込まれていた。そして、紙の内側には、
“愛する久子。今日もかわいいね。久しぶりに見てますますかわいくなったんじゃないか? 早く俺に気付いて”
「いやぁっ!」
とっさに手放した紙切れは、割れた窓から外に流された。
何で? こんなの、当たり所が悪かったらけがじゃ済まない。何でこんな事……。何でわたしがこんな目に合わなきゃいけないのよ!
震えの止まらない久子にはその事を教師達に伝える事はできなくて、「帰る?」と訊ねる担任の声にもとにかく首を横に振った。
家だって安全だとは限らない。須藤の傍。今久子が信じられるのはそれだけだった。
此処にいた方が、須藤くんに近い。
担任に連れられた教室は、朝礼もまだのため人間は少なかったが、それでもみんなが自分に注目すれば、久子の肩は竦んだ。
「窓側の二番目が安西さんの席よ。えっと、分からない事は近くの人に聞きなさい」と、担任が言う。
頷いて席に着けば、数人の女子が周りに集まってきた。
「安西さん、退院したんだねー」
「もう体調はいいの?」
「ねえ、記憶ないって本当なの? あたしの名前も覚えてないんだよね」
「う、うん、ごめんね」
どう対応していいか分からなくて、久子は苦笑だけを浮かべ続けた。
そんな彼女の様子に、周りに集まっていた女子達はそそくさと退散していく。
その後の彼女達は、こそこそと教室の隅で話し出していた。久子に聞かれまいとする内容だったのだろうが、その声は丸聞こえだ。
「マジで記憶ないんだね」
「うん。ホント、あれが安西さん? って感じ。イメージ変わるよ」
「前はあたしら声掛けても、シカトか無愛想に答えるかだったのにね」
「そのくせ石井先輩とかと仲良くてさ、マジストーカー遭って当然じゃん? とか思ってたのに」
「ね〜」
彼女達の話に耳を傾けていると、須藤の話では分からない以前の自分が知れていいな、と、厭味を言われているにも関わらず久子はそんな事を思っていた。
忘れた記憶は取り戻したいが、以前の自分が批判されたところで、久子にとっては他人事だ。それが忘れてしまった自分に興味が無いのか、元々他人からの批評には興味が無いのかは分からないが。
ただ、気になる言葉があったのも確かだ。
イシイセンパイ。
久子は二年。ならばイシイとは、三年の人間だろうか。何にせよ、この高校で唯一久子に近い人間なのには変わりない。
「あ、あの、イシイ……センパイって?」
内緒話をしている人間のもとへ、いきなり話の対象である当人が入ってくれば、誰だって驚くだろう。女子達の表情は、久子も思わず笑いをこらえるものだった。
「あ、えと……先輩のことも、覚えてないの?」
「うん、生憎だけど」
女子達は顔を見合わせると、半ば面倒くさそうに、はたまた苛ついたように話してくれた。
「三年の、石井友也先輩だよ。安西さんあんまりクラスに馴染んでなかったから、先輩とばっか一緒にいた。付き合ってたんじゃないの?」
「え」
付き合っていたかどうかなんて、もちろん覚えていない。だけど、仮にそうだとしたら、何故イシイは久子に会いに来ないのだろう。
そして、須藤は以前の久子にとって、何だったというのだ。
そうして女子達に話を聞いていると、ブレザーのポケットで携帯が震える。記憶を失って以降初めてのメール受信に、期待と不安を覚えながらそれを開いた。
『To.石井友也
放課後、教室で待ってて。行くから』
イシイ、トモヤ
「そう、その人」
メールを覗き込んだ女子があっけらかんと言った。
タイミングいいな。そう思いつつも、以前の自分を知る重要人物として、久子は喜んでイシイトモヤを待つことにした。
***
放課後。みんな何がそんなに忙しいのか、挨拶が終われば、教室に残る人間はすっかりいなくなっていた。
調度久子の席からは帰りゆく生徒たちが見えたので、そんな人の波に目をおくる。
「お待たせ」
数十分ほど待てば、低く透き通るような男性の声が聞こえた。イシイトモヤだ、と思えば視線を窓外から反対のドアに向ける。
瞬間、久子は目を見開いた。
そこにいたのは、今朝のあの男だ。須藤が、彼こそストーカーではないかと疑っている、あの男だ。
久子の顔が恐怖に歪んだ。男が近づいてくる。怖い。逃げようとお尻を動かせば、腰に力が入っていなかったらしくそのままずり落ちた。怖い。
「や……! 誰!」
「石井友也だよ」
「嘘!」
何の意味も無いのに、久子は目を固く閉じた。須藤の言葉を疑う理由はどこにもない。だったら、コイツがストーカーで、石井友也?
なんで、ストーカーの名前が携帯に登録されてるの。
「……本当に、覚えてないんだな」
石井友也だと名乗る男は、搾り出すようにそう呟いた。それは悲しみをこらえるようで、だけど今の久子には届かない。
「やっ」
がっと久子の腕を掴めば、懇願するように男は叫んだ。
「思い出せよ、和也のこと!」
「やああ!」
「お前が思い出さなきゃ和也は自殺で片付けられちまうんだよ! 分かってんのか? 和也が自殺なんかするはず無い。お前何か知ってんだろ? だから和也が死んだ日に記憶喪失なんかになったんだろ!?」
「知らない! 離してぇ!」
和也って、誰? あなた本当に誰!
「お前ら付き合ってたろうが!」
「え……?」
その言葉に、久子は落ち着きを取り戻したように大人しくなった。……付き合ってた? わたしが、和也くんと? 須藤くんでも、イシイトモヤでもなくて……?
初めて出てきた第三の人物に、久子は妙に心惹かれた。須藤がストーカーではないかと疑うこの男の話すら、素直に聞いてみようかという気になってくる。
「和也は俺の弟だ。石井和也。隣の高校で、屋上から落ちて死んでんのが見つかった。なあ、お前らあんなに好き合ってたじゃん。そんな簡単に忘れんなよ。他の男に乗り換えんなよ、あいつ一体誰なんだよ!」
好き、和也くん……。あいつ、誰?
あいつ――誰。
頭痛がする。痛い。嫌。思い出したくない。あいつ誰。嫌。和也。好き。痛い。弟。やめて。自殺。知らない。他の男。石井友也。嫌。いや。イヤ!
「やああああああ!」
「ストーカー?」
それは、調度和也と付き合い始めた直後だった。家に掛かってくる無言電話や、盗撮写真、不気味なラブレターが届きだしたのだ。
「心配すんなよ。俺が守ってやるからさ」
丸い目を細めて笑う和也。そんな彼が、久子は大好きだった。
久子が和也と付き合い始めたのは、彼の兄である友也の紹介からだ。お互いに一目惚れで、あまり他人に興味のなかった久子もすぐに彼の内心に惹かれていった。優しくて、頼りになる、本当にすてきな男の子だった。
「え? ストーカーが誰か分かったの?」
それがちょうど、一週間前のことだ。いつも通り一緒に登校していると、和也がそんなことを言い出した。
「うん。今日屋上で話すことにした。もう久子にこんなことしないよう、ちゃんと俺が話つけるから」
「そんな、危ないよ! わたしも一緒に……」
「俺のせいなんだ」
「え……」
「あいつがストーカーになったの、多分俺のせいなんだ。だから、俺がちゃんと説得するから。大丈夫だよ」
――そう言って笑ったのが、久子が最後に見た和也の笑顔だった。
その日の放課後。和也は来るなと言ったけど、やっぱり自分も無関係なわけではないのだ。そう思えば、久子は和也の高校に忍び込み、静かに屋上へと向かっていた。
本当は、すごく怖いし、出来るなら関わりたくないけれど、これはまず久子の問題で、和也こそ本来関係の無い人間なのだ。だったら、ここで久子が逃げてはいけない。
「うわああああ!」
! 和也の声だ。思うと同時に残りの階段を一気に駆け上がった。すでに開け放たれた状態のドアから屋上を覗くと、そこにあったのは和也の姿ではなかった。
「え……? 須藤くん?」
屋上の手すりから下を見つめていたのは須藤だった。和也の親友の彼は、久子も面識がある。
「久子」
「何、やってるの? 和也くんは?」
ゆっくり須藤に近づく。その隣に立った時、久子は見たくない光景を目の当たりにすることとなった。
屋上は、地上から十メートルはあるだろうか。確かにさっきは上から聞こえた和也の声。それなのに今、彼の体は地上にある。ぐったりと横たわり、頭部から流れる血が、久子の目には鮮明に映った。
「何で? 須藤くん。どうして……和也くんが……」
「――」
その後、須藤は何かを口にした気がするが、そんな彼の言葉を聞き取る前に、久子は意識を手放した。
全部思い出した。ストーカーは、三十代、四十代の男でも、イシイトモヤでもない。
――須藤だ。
そう、よく思い返してみればつじつまが合う。今朝久子に向かって投げられた石の先にあったのは、隣の男子高校の校舎だった。
タイミングよく携帯が鳴った。相手は須藤だったが、久子は臆することなく通話ボタンを押した。
『久子? どうした? まだ帰らねぇの?』
「ううん。ごめんね。今から行く」
それだけ言って電話を切ると、鞄を持って久子は立ち上がった。記憶を取り戻す頃には、腰に力も入るようになっていた。
「久子?」
名前を呼ぶ友也の声に答えることなく、久子は教室を後にする。
友也のことも、もちろん思い出した。和也の兄で、部活の先輩だった彼は、人見知りが激しい上あまり他人に興味がないため、なかなかクラスで馴染めない久子を心配していつもお昼や休み時間を一緒に過ごしてくれた、心優しい人だった。疑うまでもなく、友也がストーカーなんて有りえない。
須藤は、和也を殺した。犯行を見たわけではないが、状況からして揉み合いか何かになったのだろう。その末に、須藤は彼を突き落としたのだ。
許せない。和也くんの仇――の、はずなのに。思い返した脳裏に浮かんでくるのは、何処までも優しかった須藤。記憶のない久子に、無償の愛情を注いでくれた須藤。
――緊張してんの?
――自分のことがあるのに、そんなこと知っても重いだけだろ。
――久子は卵焼きが好きなんだよ。しかも極甘。
――あいつには近づくな。
――久子に手出しはさせないから。
――久子!
彼は、和也の仇。だけど――。
玄関を出れば、すぐに校門だ。その先で須藤は久子を待っていた。
片手を上げて久子の名を呼ぶ。何もなかったように見せる笑顔は、本当に、“何もなかった”ようだ。
「ごめん、待った?」
「待ったよ。遅い」
そう言いながら、ハハッと笑う。そんな彼の肩に、久子は額を預けた。
「久子?」
「何でもないよ」
そう言いながら頬を摺り寄せる久子の肩を須藤は優しく抱いた。その顔に浮かぶ優しい笑みは、久子の瞳には映らない。
とんっ。
「! ……ひさ……こ?」
それは一瞬の出来事で、須藤も何が起こったのかわかっていない様子だった。それでも確かに、久子が離れた後もその胸は暖かい。
暖かい、血が、溢れている。
何で、と言いたげな声はやがて消えた。
須藤の胸には、久子の護身用ナイフが突き刺さっている。
あなたはわたしに、惜しみない愛情をくれた。
わたしはあなたを愛した。例え一時でも、嘘偽り無く。だけど。
それでもあなたが、許せない。
それでもあなたを、和也くんより愛せる日は来ない。
わたしが和也くんより愛せる人は――、
いない。
***
「あーあー、まさか殺しちゃうとはな。俺としては、あいつを君から引き離してくれればそれでよかったのに」
屋上から事の一部始終をみていた青年は、楽しそうに言った。
一週間前の“こと”が思い出される。
「久子のストーカー、あんたなんだろ。俺見たんだよ、あんたの部屋に久子の隠し撮り写真があるの」
和也の言葉に、青年はニヤリと笑った。
「だったら? こんなとこで話なんかつけなくても、家で話せばよかったんじゃない?」
「家には親がいるから、何かと都合悪いだろ。――兄貴」
兄貴――友也は、おかしそうに喉を鳴らす。
「久子のストーカーさえやめてくれれば、警察に話す気はない。なあ、兄――」
「イヤだね」
ガシャン!
友也はそう言うと、和也の体をフェンスへと押し付けた。ここは、友也たちの学校と和也たちの学校の調度間だ。ここから落ちれば、和也は自分の学校の屋上から落ちたのだと思われるだろう。例えここが、“友也の学校の屋上”でも。
「俺のほうが先に久子を好きになったんだ。何で今更お前に譲らなきゃいけない? 本当は知ってたんだろ? 俺がおまえの協力を求めて久子を紹介したの。なのに、またおまえは俺から奪うのか。渡さない。ぶっ壊してやる」
「兄貴……。俺、久子と別れるよ。俺、兄貴から奪いたいなんて思わない」
「!」
「だから……!」
「死ね」
和也の言葉を聴き終える前に、友也はその体を押し出した。
「うわああああ!」
その声に、男子校の屋上の扉が開く。和也め。自分に何か遭った時に変わりに起訴できるよう、第三者を待機させていたな。
瞬間的にそこまで読取れば、友也は現れた須藤に顔を見られる前に背を向けて走り去った。
その後は、久子の見たとおりだ。
「和也。俺、お前を殺す気なんかなかったんだよ。けどお前が、久子と別れるなんていうから。そうやって、いつまでも俺を下手に見るお前が許せなかった。なあ? お前は俺よりかっこいいし、性格もいい。昔から親にも親戚にも可愛がられてきた。――俺が一番憎かったのはお前なんだよ、和也。……だけど、安心しろ。久子は俺が大切にする。お前の愛した久子は、もう、俺のものだ」
渡さない。誰にも。
須藤が久子を好きなのは知っていた。そうそれは、和也と久子が付き合っていた頃から。
それでもやはり、一番初めに好きになったのは、自分なのだ。今更誰にも譲るものか。
愛する久子。ねえ、これからは、俺がずっと傍にいてあげる。和也や須藤なんかより、たくさんたくさん愛してあげる。
俺の久子。早く、俺の愛に気付いて。
不気味なほどの友也の笑いが、いつまでも屋上に響いていた。