評論「ミツバチ(遊助)」
【序文】
さて、この奇々怪々として、多くのニコニコユーザーを惑わしている凡そJ・POPとは言い難き歌「ミツバチ」を、解釈し、己の理解の範疇に収めようとするのは、あまりに無謀で、かつ無意味なことである。小林秀雄は音楽を言葉で説明し、予め用意された言葉の範囲のみにとどまる、近代ロマン音楽を批判したが、彼の嫌ったのと同じことを、今から私はしようというのである。これは愚挙といえるが、しかし、私は最初から愚挙と思ってするのではない。単純に、この歌が知りたいのである。この歌の訴えかけんとすることを、分析によって知り得ることには限界があるが、たといわずかな曲の一節しか、解することができなかったとしても、そのわずかな曲の一節が知りたいのである。私は、誰もが心に飼っている好奇心という獣に服従した。服従しなければ、ついにこの獣に食い殺されるであろうことを恐れた。
以下、私が書き連ねることは、この歌の詩のみを見て、作者の心、企図するところを推測し、その意味を記したものである。これは、人の心を覗き見ようとする行為に等しく、全く的外れで、見当違いな妄言であるかもしれない。だが、私は書かずにはおれなかった。
一人の、心弱き者の、自己安定のためのトランキライザーと思って見ていただければ幸いである。
三十八℃の真夏日・・・奇っ怪な妖歌「ミツバチ」の最初の一節である。最初からしてすでにリスナーを惑わす要素に溢れている。周知のことであるが、気象庁の基準でいうと、「真夏日」とは日中の最高気温が三〇℃以上、三十五℃未満の日をいい、日中の最高気温が三十五℃以上に達すると、「猛暑日」という呼称にかわる。これは、「ミツバチ」を聞いた者が最初に違和感を覚えるところで、多くのリスナーが「三十八℃は猛暑日では…?」という疑問を抱いてきた。かくいう私も、同じ疑問を抱いた一人である。
しかし、何度聞いても、歌詞カードを見ても、この一節は厳然と存在している。まるで、わからない我々を嘲るように、疑うしかない我々を蔑むように、ただ遊助の歌声に乗って我々の耳孔へ通って行く。
つまり、真夏日という呼称がすでにまやかしなのである。
真夏日という言葉はそもそも気温などを歯牙にかけてはいなかった。本来、真夏と日は分かれており、それが繋がって言われるようになっても、なお気温なぞという人間の都合に塗り固められた不思議な制度の上にはなかった。人間は、勝手にその中に真夏日を閉じ込めたような気になっているだけである。真夏日は、単に真夏のような日和、という意味しか持ち得なかったのを、勝手に基準の牢獄に思考を押し込めて、三十五℃で区切っているだけなのである。要するに、これは単に真夏のような日和と受取っておけばよく、それ以上に基準云々議論するのは、全くこの言葉の真意を理解できないばかりか、言葉の嘲笑を浴びる羽目になる。
夏祭り・・・この言葉は、歌詞の中で一際異彩をはなっている。
夏祭りという単語が特別なのではなく、この言葉の必要性、必然性が全く不明瞭なのである。なぜならば、以降、夏祭りに関連する詩はなく、この言葉は歌詞の中で一つだけぽかんと上空を浮遊しているのである。
しかし、前の真夏日のように、この言葉を普段脳に飼い馴らしている牧畜のような言葉と思っては、この妖歌の真意には辿りつけまい。言葉の一つ一つを分解して、再構築してみないことにははじまらない。夏と祭りにわかれるこの言葉は、はたして夏に開かれる祭りを指すものだろうか。そうとは限るまい。夏、はこの歌の謳う季節である。いわば、情景に対応した語であり、深い意味を探る必要はないと思われる。そうすると、祭り、に謎が残る。これを読み取るには、文脈からの判断に頼らざるを得ない。以降、歌詞は
「こんな日は、ガンバンベー、踊れミツバチ!」
という風に続く。
こんな日、という言葉が頭にある。つまり、前文はこんな日の、日、を説明するものなのである。夏であり真夏のような日和である。これは時節の説明であり、祭りは祭り気分、ということであろう。夏で、暑くて、気分の高揚しているとき。だからこそ頑張って、踊るように蜜を採りに行こう。そのような意味にとれる。でないと、真夏のような日和だからこそ頑張ろう、というのでは説明がつかない。また、踊れミツバチ、と第三者的な物言いになっているのは、別におかしい点ではない。あくまでも主題はミツバチであり、歌の主人公もまたミツバチである。しかし、後の文で主人公のミツバチには仲間がいることが示されている。ゆえに、ミツバチ、とひろく一般的な呼称を用いることで、自分と仲間、全てのミツバチを発奮させようとしていると思われる。踊れ、という命令形の言い方が、このミツバチはリーダーではないため、強い号令ではなく、己を発奮させる材料にもなっており、その情景は和やかで、心地がいい。
そして、歌はサビに入る。ブーンブンシャカブブンブン、という、この歌を象徴する言葉は、ただの擬音ととってしまってかまわない。これにあえて深く追求するのは無意味であると思われる。私は、もともとその印象のみで人に存在を知らしめる歌を、言葉で解釈するという無粋は行っているが、それは、あくまで、理解できないところを埋めようとする作業であって、すでに均された地面を掘り返して荒らす気はない。
行き先イケメンハイビスカス。イケメンというのは擬人的な表現であり、魅力的な花であるハイビスカスを端的に表した言葉である。夏に鮮やかに花を咲かすハイビスカスへ、蜜を求めに行こうとしているのであろう。
「リズムに合わせて羽上下いくぜ。」
「そこどいて、ちょっとどいて、いかせておくれ。」
「打ちのめされても猛アタック。」
など、以降は理解できる歌詞が続く。ラップ部分も同様で、このあたりはリスナーの心をつかむためのサビの役割を考えてか、この妖歌にしてはわかりやすい。
問題は、Aメロである。
「超マニアック」と「特攻隊長本日も絶好調」という言葉の関連を調べなければならない。
マニアックを、通俗的に「オタク的、専門的」といった意味にとるのは、やはり人為の牢獄に囚われている。これには「熱狂者」という意味がある。つまり、ここの節を以て、周りをともに飛ぶ仲間の蜂を説明しているのである。そして、この蜂は熱狂的なので特攻隊長、先頭部隊に加えられているのであろう。 そして「キャプテン」の役を担う蜂が
「針出せ、Let‘s go」
と号令をかけるのである。即ち、このとき主人公含め蜂たちは編隊飛行を組んでいるのであり、この、傍目には少々滑稽に見える部隊を、俯瞰的に説明しているのである。なんともほのぼのとした景色ではないか。
さて、1番最後の詩である。
花畑に舞い踊る、蝶々にはなれない。この部分からは、自身が棘をもち、忌避される存在であることを引け目に思い、愛され、華麗に舞う蝶への憧れがあることが読み取れる。つまり、主人公の蜂は、蜂としての生活に満足しているものの、しかしそれは狎れあいの中の安堵にすぎぬとわかっているのである。ゆえに、華麗な蝶に思いを馳せて、少々のため息が漏れるのを耐えられないのである。
だが、それが一時の感傷にすぎず、彼の心象風景を荒漠とさせるには至らないことは、次の詩から読みとれるのである。
「でも少しだけでもいい、甘い蜜をちょうだい。」
少々の劣等感を持ちながらも、めげず、劣る自分を隠さないでなお、自分の得んところを得ようとす る、ほんのり根暗な積極性が、伺えるではないか。
さて、ここまで書き連ねてきたが、この文を通じて何が言いたかったか、その総括をせねばなるまい。
「ミツバチ」は希代の妖歌である。これは間違いない。妖歌であるが、意味のないものではなく、実は高いメッセージ性の込められていることを、人に知ってほしかった。
この歌で叙述される一匹の蜂、そして彼を取り巻く環境は全く、人間社会に置き直して構わない。暗い絶望や、自己陶酔的な愛ではなく、果てしなく明るく、希望に満ちた社会の捉え方。これを「ミツバチ」は示していると思う。明るさの中に混じった、うっすら暗い羨望や卑下は、辛味や苦味の調味料である。光だけでは明るさは伝わらない。うっすら影を落とすことで、光のいかに明るいかがわかるのである。
さて、ここまで読んでくれた方、どうもありがとう。
正直、今見返してみて悪文だなとわかる。意味不明な比喩と、分かりにくい文の切り方は、素人丸出しであることが一目に瞭然である。
最後に一つ。
これは、私が考えに考えて作ったジョークであることを。
真剣な評論ではなく、全く意に無いことを書き連ねただけの、最初にあった妄言であることをお忘れなく。
二時間で完成するような、全く推敲されてない文であるということをおわすれなく。
という言い訳。