第9話:少しの不安と、しわがれた手
五月に入り、初夏のような陽気と肌寒い雨の日が交互に訪れるようになった頃。
気圧の変化のせいか、私は真夜中にふと目を覚ました。胸の奥が少しだけざわざわとして、浅い動悸のようなものを感じたのだ。
七十を過ぎると、こうしたちょっとした体調の変化が、ひどく恐ろしいものに思える瞬間がある。
このまま息が苦しくなったらどうしよう。もし、明日目が覚めなかったら。若い頃には想像もしなかった「死」や「老い」という現実的な不安が、暗闇の中で音もなく忍び寄ってくる。
隣で眠る修一を起こしてはいけないと、私はなるべく音を立てないようにゆっくりと息を吐き、胸のあたりをさすった。
「……どうした、和子。具合でも悪いのか」
突然、暗がりから低くかすれた声がした。
修一は、昔から眠りが浅い。私がわずかに身じろぎしただけの気配で、目を覚ましてしまったらしい。
「ごめんなさい、起こしちゃったわね。なんでもないの、少し胸がドキドキして……でも、すぐ治まるから」
「なんでもないわけあるか。ちょっと待ってろ」
修一はよっこらしょと重い身体を起こすと、寝室の小さな足元灯をつけ、スリッパを引きずって部屋を出て行った。
しばらくして戻ってきた彼の手には、白湯が入ったマグカップが握られていた。
「ほら、ゆっくり飲め。冷たい水は胃がびっくりするからな」
「……ありがとう」
私は体を起こし、白湯を一口飲んだ。じんわりとした温かさが胸のつかえを少しずつ溶かしていく。
修一は何も言わず、私のベッドの端に腰を下ろした。そして、マグカップを両手で持っている私の右手に、自分の大きな手をそっと重ねてきたのだ。
ハッとして、彼の方を見た。
足元灯の薄暗い光に照らされた彼の手は、シミやシワだらけで、血管が青く浮き出ている。あの中型バイクの重いハンドルを軽々とさばいていた、若くて力強い手ではない。すっかり年老いた、おじいさんの手だ。
「大丈夫か」とか「愛してる」なんて、甘い言葉はいっさいない。
ただ、少しカサカサとしたそのしわがれた手が、私の震えを止めるように、不器用に、けれどしっかりと私の手を包み込んでいるだけだ。
「……もう、大丈夫よ。落ち着いてきたから」
「そうか。なら、俺が起きているから、お前はもう一度寝ろ」
「あなたも寝てちょうだい。明日、また腰が痛いって騒ぐんだから」
「うるせえな。俺の勝手だろ」
相変わらずの憎まれ口。でも、彼の手は私の手の上に重ねられたままだ。
七十代の現実は、決して綺麗なことばかりじゃない。体は思い通りに動かなくなるし、いつ病気になるかもわからない。若い頃に思い描いていた未来よりも、ずっと不安で、怖いこともたくさんある。
けれど、このしわがれた手の温もりがそばにある限り、私はその不安を乗り越えていける。
きっと何年経っても、こうして彼が不器用に寄り添ってくれるから。
私は重ねられた手から伝わる静かな愛情に包まれながら、いつの間にか、深く安らかな眠りへと落ちていった。




