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第8話:ヘルメットの代わりの合図

四月に入り、東京の桜もすっかり葉桜に変わった頃。

 私はリビングの長座布団に座り、取り込んだばかりの洗濯物を畳んでいた。

 若い頃はテレビを見ながらあっという間に終わらせていた家事も、七十を過ぎるとそうはいかない。特に今日は少し冷えるせいか、肩から背中にかけて嫌なこわばりを感じていた。

「よいしょっと……」

 畳み終えたバスタオルをカゴに移そうと腰を浮かせた瞬間、ピキッと背中に痛みが走り、思わず「痛っ」と声を漏らして動きを止めてしまった。

「……何やってんだ。また腰か?」

 少し離れた座椅子で新聞を読んでいたはずの修一しゅういちが、いつの間にか立ち上がり、私の背後にやって来ていた。

「腰じゃなくて、肩と背中よ。ちょっと筋が張っちゃったみたいで……」

 私が顔をしかめながら答えると、修一は「無理するからだ、ばあさん」と憎まれ口を叩きながら、私の後ろに立った。

 そして、軽く握った右手の拳で、私のこわばった肩を叩き始めたのだ。

 トントン、と心地よい力加減。長年連れ添った夫婦だからこそわかる、絶妙なツボを突いてくる。

 トン、トン、トン、トン、トン。

 彼が肩を叩くリズム。それは、きっちり五回だった。

 五回叩いては少し手を休め、また、トン、トン、トン、トン、トンと五回。

 ハッとして、私は修一の顔を振り返りそうになったが、ぐっと堪えた。

 思い返せば、彼は昔からそうだ。私が少し疲れてソファでうたた寝をしている時、毛布をかけてポンポンと五回軽く肩を叩く。お茶を飲んでむせた時も、背中をさすった後に軽く五回叩く。

 二十代の頃。バイクから降りた彼が、自分のヘルメットを私のヘルメットにぶつけてきた、あの合図。

 ア・イ・シ・テ・ル、のサイン。

 当時の彼は、照れ隠しで少し乱暴にゴツンゴツンとぶつけてきたけれど。今は私の痛む肩を労わるように、優しく、そして確かに五回、拳を落としてくれる。彼自身が無意識なのかもしれないけれど、そのリズムは彼の身体に、何十年も前から深く染み付いているのだ。

「……どうだ、少しはマシになったか」

 修一が手を止め、ぶっきらぼうに尋ねてきた。

「ええ、ずいぶん楽になったわ。ありがとう」

「ふん。湿布でも貼って、あとは大人しく座ってろ」

 彼は照れくさそうにそっぽを向き、私の手元から残りのタオルを不器用に引っ張り出した。彼なりに、残りの洗濯物を畳むのを手伝うつもりらしい。端と端が全然合っていないけれど、今は黙っておくことにした。

 愛の言葉なんて、もう何十年も交わしていない。

 でも、サインの形がすっかり変わってしまった今も、彼の中にあるあの不器用な五回のリズムは、少しも変わっていないのだ。そして、その不格好で優しい合図を受け取るたびに、私は心の底から思う。

 ああ、私はこの小言の多いシワだらけの夫のことを、今でも同じ気持ちで、素直に愛しているのだと。

 不格好に畳まれていくタオルを見つめながら、私は二人分の温かいお茶を淹れるために、ゆっくりとキッチンへ向かった。

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