第5話:角を曲がるまでの見送り
午後三時。縁側に差し込む日差しが、一番柔らかくなる時間帯。
修一は、玄関の土間で時間をかけてスニーカーの紐を結んでいた。お医者様から「一日三十分は歩くように」と言われて以来、天気の良い日はこうして近所を散歩するのが彼の日課だ。
「携帯電話、ちゃんと持った? ポケットに入れておきなさいよ」
「持ったよ。何度も同じこと言うな」
彼はハンチング帽を深く被り直すと、よっこらしょと掛け声を出しながら立ち上がった。昔なら、数段ある玄関の階段など一段飛ばしで駆け下りていたのに、今は手すりをしっかりと握り、一段ずつ確かめるように降りていく。
私は彼にカーディガンを渡し、玄関先の門扉までついて出た。
「車には気をつけるのよ。足元、つまずかないようにね」
「わかってる。子供じゃあるまいし、散歩くらい一人でできるだろうが」
相変わらずの憎まれ口を叩きながら、修一はゆっくりとした足取りで歩き出した。
私は門扉の前に立ち、彼が路地の奥へと進んでいくその後ろ姿を、黙って見送る。少し丸くなった背中と、一定のリズムでアスファルトを踏む靴音。
ふと、遠い昔の夜の匂いがフラッシュバックした。
まだ二十代だった頃。デートの帰り道、私を家の前で降ろした彼は、いつもバイクや車のエンジンをふかしながら、私が門の中に入るのを見届けてくれていた。
けれど、私はすぐに家には入らず、彼が走り去るのを見送るのが好きだった。
静かな住宅街。彼が路地の角を曲がる直前、真っ赤なブレーキランプが暗闇の中で鮮やかに光るのだ。
チカ、チカ、チカ、チカ、チカ。
きっちり五回。ア・イ・シ・テ・ルのサイン。
あの頃の私は、その真っ赤な光を見るたびに胸の奥が甘く締め付けられ、彼が角を曲がって見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていたものだ。
あれから四十年以上の月日が流れ、彼が乗るものは車から自分の二本の足へと変わった。
若かった頃の情熱的な真っ赤な光はない。静かな午後の住宅街を、おじいさんが一人、トボトボと歩いているだけのありふれた風景。
やがて、修一が路地の突き当たり、昔と変わらないタバコ屋の角に差し掛かった。
曲がれば、もうお互いの姿は見えなくなる。私は昔と同じように、その場に立ち尽くして彼を見つめていた。
すると、修一は角を曲がる直前で、ふと立ち止まった。
振り返りはしない。でも、彼は背中を向けたまま、右手を肩の高さまでスッと上げ、軽く二度、三度と振ったのだ。
『じゃあな。戻れよ』
言葉は聞こえないけれど、そのぶっきらぼうな背中がそう言っているのがわかった。
彼が角を曲がり、その姿が完全に見えなくなる。
五回のブレーキランプの代わりに、今はあの不器用な右手の合図。
形はすっかり変わってしまったし、回数だって五回じゃない。ロマンチックな雰囲気なんて欠片もないけれど、私が後ろで見送っていることをちゃんとわかっていて、姿が見えなくなる最後の瞬間に必ず応えてくれる。
その根底にある「繋がり」だけは、何十年経っても、少しも変わっていなかった。
「……はいはい。気をつけて行ってらっしゃいな」
誰もいなくなった路地に向かって小さく呟き、私はクスリと笑って家の中へと戻った。縁側に落ちる陽だまりが、あの頃のブレーキランプよりもずっと温かく、私の心を包み込んでいた。




