表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

第5話:角を曲がるまでの見送り

午後三時。縁側に差し込む日差しが、一番柔らかくなる時間帯。

 修一しゅういちは、玄関の土間で時間をかけてスニーカーの紐を結んでいた。お医者様から「一日三十分は歩くように」と言われて以来、天気の良い日はこうして近所を散歩するのが彼の日課だ。

「携帯電話、ちゃんと持った? ポケットに入れておきなさいよ」

「持ったよ。何度も同じこと言うな」

 彼はハンチング帽を深く被り直すと、よっこらしょと掛け声を出しながら立ち上がった。昔なら、数段ある玄関の階段など一段飛ばしで駆け下りていたのに、今は手すりをしっかりと握り、一段ずつ確かめるように降りていく。

 私は彼にカーディガンを渡し、玄関先の門扉までついて出た。

「車には気をつけるのよ。足元、つまずかないようにね」

「わかってる。子供じゃあるまいし、散歩くらい一人でできるだろうが」

 相変わらずの憎まれ口を叩きながら、修一はゆっくりとした足取りで歩き出した。

 私は門扉の前に立ち、彼が路地の奥へと進んでいくその後ろ姿を、黙って見送る。少し丸くなった背中と、一定のリズムでアスファルトを踏む靴音。

 ふと、遠い昔の夜の匂いがフラッシュバックした。

 まだ二十代だった頃。デートの帰り道、私を家の前で降ろした彼は、いつもバイクや車のエンジンをふかしながら、私が門の中に入るのを見届けてくれていた。

 けれど、私はすぐに家には入らず、彼が走り去るのを見送るのが好きだった。

 静かな住宅街。彼が路地の角を曲がる直前、真っ赤なブレーキランプが暗闇の中で鮮やかに光るのだ。

 チカ、チカ、チカ、チカ、チカ。

 きっちり五回。ア・イ・シ・テ・ルのサイン。

 あの頃の私は、その真っ赤な光を見るたびに胸の奥が甘く締め付けられ、彼が角を曲がって見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていたものだ。

 あれから四十年以上の月日が流れ、彼が乗るものは車から自分の二本の足へと変わった。

 若かった頃の情熱的な真っ赤な光はない。静かな午後の住宅街を、おじいさんが一人、トボトボと歩いているだけのありふれた風景。

 やがて、修一が路地の突き当たり、昔と変わらないタバコ屋の角に差し掛かった。

 曲がれば、もうお互いの姿は見えなくなる。私は昔と同じように、その場に立ち尽くして彼を見つめていた。

 すると、修一は角を曲がる直前で、ふと立ち止まった。

 振り返りはしない。でも、彼は背中を向けたまま、右手を肩の高さまでスッと上げ、軽く二度、三度と振ったのだ。

『じゃあな。戻れよ』

 言葉は聞こえないけれど、そのぶっきらぼうな背中がそう言っているのがわかった。

 彼が角を曲がり、その姿が完全に見えなくなる。

 五回のブレーキランプの代わりに、今はあの不器用な右手の合図。

 形はすっかり変わってしまったし、回数だって五回じゃない。ロマンチックな雰囲気なんて欠片もないけれど、私が後ろで見送っていることをちゃんとわかっていて、姿が見えなくなる最後の瞬間に必ず応えてくれる。

 その根底にある「繋がり」だけは、何十年経っても、少しも変わっていなかった。

「……はいはい。気をつけて行ってらっしゃいな」

 誰もいなくなった路地に向かって小さく呟き、私はクスリと笑って家の中へと戻った。縁側に落ちる陽だまりが、あの頃のブレーキランプよりもずっと温かく、私の心を包み込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ