第4話:小言と、食卓の上の好物
夕方の六時。キッチンに立つ私の前で、カレイの煮付けがコトコトと静かな音を立てている。
若い頃は、修一の胃袋を満たすために、唐揚げだのハンバーグだの、とにかくお肉と油をたっぷり使った料理ばかり作っていた。けれど、お互いに七十を過ぎた今、我が家の食卓はすっかり茶色や緑色の、薄味の和食が中心になっている。
「……また、味が薄いな。お湯でも飲んでるみたいだ」
食卓についた修一は、煮付けを一口食べるなり、あからさまに眉間にシワを寄せた。そして、当然のような顔をして、テーブルの端にある醤油差しへ手を伸ばす。
「ちょっと、やめなさいな」
私はすかさずピシャリとその手を叩き、醤油差しを遠ざけた。
「先月の健康診断、お医者様に血圧のことで注意されたばっかりでしょう? 塩分は控えめにって、あれほど言われたのに」
「うるせえな。飯くらい、好きな味で食わせろよ。こんな病院食みたいなのばかり食ってたら、かえって病気になる」
「何言ってるのよ。あなたが倒れたら、誰が面倒を見ると思ってるの。私だって、もう昔みたいに体力があるわけじゃないんだからね」
「へいへい、悪うござんしたね」
修一は口を尖らせて舌打ちをしたが、それ以上醤油差しに手を伸ばそうとはしなかった。文句を言いながらも、結局は私の言うことに渋々従う。それが、この何十年も繰り返されてきた私たちの日常の風景だ。
食事を終え、私が食器を片付けていると、後ろでゴソゴソとスーパーのビニール袋の音がした。今日、彼が散歩のついでに近所のコンビニに寄って買ってきたものだ。
「おい、和子」
振り返ると、修一がダイニングテーブルの上に何かをポンと置いた。
見れば、それは私が昔から好きな、少し高めの和菓子屋のいちご大福だった。
「あら、これ……」
「コンビニのレジ横で、やけに目に入ったんだよ。賞味期限が近くて安くなってたから、つい買いすぎた。俺は甘いもんは食わねえから、お前、食えよ」
修一はそっぽを向きながら、テレビのリモコンをいじり始めた。
安くなっていたなんて、絶対に嘘だ。その和菓子屋の商品はコンビニのレジ横の割引コーナーになんて並ばないし、そもそも彼が甘いものを食べないことなんて、四十五年も一緒にいる私が一番よく知っている。
私が最近、「たまには美味しい甘いものが食べたいわね」とポロリとこぼしていたのを、彼はちゃんと聞いていたのだ。
「……そう。じゃあ、もったいないから私がいただくわね」
私はいちご大福を一つお皿に乗せ、彼のために熱いほうじ茶を淹れた。
「ありがとう」なんて、お互いに口にはしない。彼も「どういたしまして」なんて絶対に言わない。
ただ、私が嬉しそうにいちご大福を頬張るのを、修一がテレビを見るふりをしながら、横目でチラリと確認したのを私は見逃さなかった。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいたことも。
健康を気遣う口うるさい小言も、憎まれ口も。
こんなふうに、さりげなく過ぎていく毎日の食卓のやり取りの中にこそ、彼なりの不器用な「愛してる」が隠されている。言葉で着飾る必要なんてない。あの甘いいちご大福の味のように、彼の優しさは、私の心の奥にじんわりと染み込んでいくのだ。




