第3話:今は安全運転の助手席で
木曜日の午前十時。
週に一度、隣町の少し大きなスーパーまで日用品を買い出しに行くのが、私たちのささやかな日課になっている。
「シートベルト、ちゃんとしたか」
「はいはい、していますよ。あなたこそ、ちゃんとミラー確認した?」
「うるせえな、言われなくてもわかってるよ」
修一は、少し背中を丸めながら、愛用の運転用メガネを押し上げた。
彼が今、慎重にハンドルを握っているのは、小回りの利くシルバーの軽自動車だ。エンジン音も静かで、スピードも出ない。交差点を曲がる時のウインカーも、ずいぶんと手前からチッカ、チッカと律儀に音を立てる。
助手席の窓から流れる見慣れた街並みを眺めながら、私はふと、この特等席の移り変わりを思っていた。
一番最初は、あの中型バイクの後ろのシート。風の音で声も聞こえず、ただ彼の背中の温もりだけが頼りだった。
結婚して数年が経ち、少しだけ生活に余裕ができた頃、修一は無理をしてサンルーフの付いたセダンを買った。「これなら、寒くねぇだろ」と得意げに笑う彼と一緒に、よく夜中のドライブに出かけたものだ。
街の明かりが少ない山道まで車を走らせ、ルーフ越しに二人で見上げた満天の星空。あの頃はまだ、私たちにもロマンチックな時間を楽しむ若さがあった。
けれど、七十を過ぎた今、私たちはもう夜のドライブには出かけない。
暗くなるとお互いに目が見えにくくなるし、何より夜更かしをすると翌日の体調に響くからだ。
「……おい、前の車、やけに遅いな」
修一が、制限速度ぴったりで走る前の車を見てボヤいた。
「あなただって、たいして変わらないスピードじゃないの。安全運転でいいじゃない」
「俺のは熟練の技だ。あんなフラフラした走り方とは違う」
憎まれ口を叩きながらも、修一は決して前の車を煽ったり、無理な追い越しをかけたりはしない。昔は、少しでももたつく車がいると舌打ちをして追い抜いていた、あの血の気の多かった男が、である。
「昔みたいに、もっと飛ばせば?」
私がわざとからかうように言うと、修一は前を向いたまま、フンと鼻を鳴らした。
「馬鹿言え。反射神経も落ちてるのに、そんな無茶できるか。……それに、隣にドン臭いばあさん乗せてて、事故にでもなったら面倒だからな」
相変わらず、素直じゃない言い回し。
「お前に怪我をさせたくないから」なんて、歯の浮くようなセリフは絶対に口にしない。でも、彼が両手でしっかりとハンドルを握り、やけに慎重にブレーキを踏むその動作一つ一つに、私を安全に送り届けようとする不器用な誠実さが滲み出ている。
満天の星空を見上げることはなくなったけれど、フロントガラス越しに降り注ぐ春の柔らかな日差しは、ひどく心地が良い。
スーパーの駐車場に着くと、修一は文句を言いながらも、当然のように私の持つ買い物カゴの重いほうをひょいと持ち上げた。
星空の下のロマンチックなドライブより、大根とトイレットペーパーを積んだ、この日中の安全運転。
どれだけ時間が流れても、この不器用で優しい運転手の助手席だけは、私だけの特別な居場所なのだ。




