第1話:シワの数と、変わらない寝顔
朝六時。寝室のカーテンの隙間から、薄んやりとした白い光が差し込んでいる。
私の隣では、夫の修一が、規則正しい、少しだけ掠れたいびきをかいて眠っていた。
今年で七十二歳になる彼の顔には、当然ながら深いシワが刻まれている。白髪の混じった頭髪はすっかり寂しくなり、若い頃の面影を探すほうが難しいかもしれない。
布団から出た肩口に毛布をかけ直してやると、彼は「んん……」と低く唸って寝返りを打った。その無防備な寝顔だけは、学生時代に出会ったあの頃から、不思議なほど何も変わっていない。
「……また、靴下が脱ぎっぱなし」
ベッドの足元に丸まったまま転がっている黒い靴下を見つけ、私は小さくため息をついた。
結婚して四十五年。何度注意しても直らないこの癖には、もう怒る気も起きない。「はいはい」と心の中で呟きながら、私はそれを拾い上げて洗濯カゴに放り込んだ。
長い年月を共に過ごせば、不満なんて数え切れないほどある。
テレビの音が大きすぎる。食事の時に醤油をかけすぎる。話しかけても、聞こえているのかいないのか生返事ばかり。あの頃の、私を一途に見つめてくれていた情熱的な青年はどこへ行ってしまったのかと、たまに本気で呆れてしまうこともある。
キッチンでお湯を沸かしながら、窓の外の景色をぼんやりと眺めた。
もう何十年も住み慣れたこの街の風景。ふと、遠い昔の記憶が鮮やかに蘇ってくる。
私がまだ二十代だった頃。
修一は、少し古びた中型バイクに乗っていた。デートの帰りはいつも、彼が家まで送ってくれた。冷たい夜風の中、彼の広い背中にしがみつき、エンジンの振動を共有していたあの時間。
ヘルメット越しに伝わる彼の体温は、不器用だけれど、いつも私を安心させてくれた。
『しっかり掴まってろよ』
風の音に掻き消されそうな彼の声を思い出し、私は思わずクスリと笑ってしまった。
あんなにやんちゃにバイクを飛ばしていた彼も、今では「腰が痛い」と言って、庭の草むしりさえ五分と持たないのだから。
お湯が沸き、急須に緑茶を淹れる。
湯気と共に立ち上るお茶の香りが、私を現在へと引き戻した。
「おい、和子。お茶入ってるか」
背後から、少ししゃがれた声がした。
振り返ると、カーディガンを羽織った修一が、目を擦りながらリビングに入ってくるところだった。
「ええ、ちょうど淹れたところよ。おじいちゃんみたいに目を擦らないの」
「なんだよ、もう立派な爺さんだろうが」
修一はぶっきらぼうにそう言うと、食卓のいつもの定位置にどっかりと腰を下ろした。
私が彼の前に熱いお茶を置くと、彼は「あちっ」と小さく文句を言いながらも、両手で湯呑みを包み込み、美味しそうにすすった。
「ありがとう」とか「愛してる」なんて、今の彼は絶対に口にしない。
でも、私が淹れたお茶を毎日文句も言わずに飲み干し、新聞をめくりながら時折こちらをチラリと見る。その不器用な視線の中に、彼なりの変わらない思いがあることを、私は知っている。
シワが増え、動きが鈍くなっても。
口数が減り、不満をぶつけ合うことが多くなっても。
あの頃、彼のバイクの背中で感じていた安心感は、今はこの小さな食卓の上に、確かな形を変えて存在している。
「今日は、お天気が良さそうね。あとで一緒に、駅前のスーパーまで付き合ってくれる?」
「……おう。荷物持ちくらいはしてやるよ」
修一は新聞から目を離さずに、ぶっきらぼうに答えた。
私は、彼の空になった湯呑みに二杯目のお茶を注ぎながら、この穏やかな朝の時間が、たまらなく愛おしいと思った。




