[後日談]俺と王女は幼馴染。だけど、暗殺対象。
『俺と王女は幼馴染。だけど、暗殺対象。』後日談
殺してきた手で、守るために
深夜二時。
レイン・アッシュフォードは、自分の両手を見つめていた。
月明かりが窓から差し込み、その手を青白く照らしている。傷だらけの手。暗殺者として生きてきた証。人を殺すために振るってきた、この手。
どれだけの命を、奪ってきただろうか。
標的の顔が、次々と脳裏をよぎる。商人。貴族。役人。そして——組織の仲間さえも。冷たくなった体の感触。途絶える呼吸。見開かれたまま動かなくなる瞳。
すべてを、この手が作り出した。
レインは手のひらを見つめた。細かい傷痕が、無数に走っている。短剣を握りしめた痕。返り血を浴びた記憶。どれも消えることはない。
「……」
隣では、アリシアが穏やかに眠っていた。
金色の髪が、月光を受けてかすかに輝いている。規則正しい呼吸。安らかな寝顔。そして、わずかに膨らんだ腹部。
妊娠五ヶ月。
そこには、新しい命が宿っている。
自分の子供が。
レインは拳を握った。
この手で——この、人を殺してきた手で、子を抱いていいのか。
育てていいのか。
守っていいのか。
問いかけても、答えは返ってこない。
ただ、沈黙だけがある。
レインは立ち上がり、窓辺に立った。王都の夜景が広がっている。無数の明かりが、星のように煌めいていた。
あの中に、貧民街もある。
かつて自分が暮らしていた場所。飢えと寒さに苦しんだ場所。そして——アリシアと出会った場所。
明日、いや今日——そこを訪れることになっている。
学校建設の視察。アリシアの夢。貧しい子供たちに、学ぶ機会を与える場所。
井戸のある、あの広場に。
レインは再び、自分の手を見た。
「……俺に、できるのか」
誰にともなく呟く。
父親に。
人を守る者に。
未来を作る者に。
かつてゼロは言った。『暗殺者に感情はいらない』と。『お前は刃だ』と。
だが、自分はその刃を捨てた。
組織を裏切り、師匠を殺し——人間になろうとした。
なろうとした。
だが、本当になれたのだろうか。
「レイン?」
声がした。
振り返ると、アリシアが目を覚ましていた。眠そうに目を擦りながら、こちらを見ている。
「また、眠れないの?」
「……ああ」
レインは窓辺から離れた。
「すまない。起こしてしまったか」
「ううん」
アリシアは首を横に振った。
「大丈夫。でも——」
彼女はベッドの端に座り、レインに手を伸ばした。
「こっちに来て」
レインは少し躊躇してから、彼女の隣に座った。
アリシアは何も言わず、レインの手を取った。
温かい。
彼女の手は、いつも温かかった。
「また、手を見ていたのね」
アリシアの声が、優しかった。
「……ああ」
「同じこと、何度も考えてるでしょう」
図星だった。
レインは黙って頷いた。
「この手で、子を抱いていいのかって」
アリシアはレインの手を、両手で包み込んだ。
「いいに決まってるでしょう」
「でも——」
「でも、じゃないわ」
アリシアの声が、少しだけ強くなった。
「あなたの手は、確かに——人を殺した」
レインは目を逸らそうとした。だが、アリシアがそれを許さない。
「でも、それ以上に守ってきた」
「守った?」
「私を」
アリシアはレインの手を、自分の頬に当てた。
「何度も。命をかけて」
あの夜のことを、レインは思い出した。刺客が襲ってきた夜。組織との決別の夜。ゼロとの最後の戦いの夜。
すべて、彼女を守るために。
「それに——」
アリシアはレインの手を、自分のお腹に当てた。
「この子も、守ってくれるでしょう?」
胎動を感じた。
小さな、でも確かな命の鼓動。
それが、レインの手のひらに伝わってくる。
「……ああ」
レインの声が、掠れた。
「守る」
「だったら、大丈夫」
アリシアは微笑んだ。
「あなたの手は、もう殺すための手じゃない」
その言葉が、レインの胸に染み込んだ。
だが——本当にそうだろうか。
過去は消えない。
罪は消えない。
自分は本当に、変われたのだろうか。
「レイン」
アリシアがレインの頬に手を当てた。
「不安なのね」
「……ああ」
「私も」
その言葉に、レインは目を見開いた。
「お前も?」
「当たり前でしょう」
アリシアは自分のお腹を撫でた。
「初めての子供よ。怖くないわけがない」
彼女の目が、わずかに揺れている。
「ちゃんと育てられるか。いい母親になれるか。毎日、考えてる」
「……そうか」
「でもね」
アリシアはレインの手を握った。
「あなたがいるから、大丈夫だって思える」
その言葉が、レインの心を揺さぶった。
「二人でなら、できるって」
アリシアは微笑んだ。
「だから、一人で抱え込まないで」
レインは何も言えなかった。
ただ、アリシアの手を握り返すことしかできない。
「さあ、寝ましょう」
アリシアはベッドに横になった。
「明日——いえ、今日は視察があるわ。疲れてちゃダメよ」
「……ああ」
レインも横になった。
アリシアが、レインの腕に抱きつく。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
レインは目を閉じた。
だが、眠れなかった。
アリシアの規則正しい呼吸。
お腹の中の子供の存在。
そして——明日訪れる、あの場所のこと。
井戸のある広場。
すべてが始まった場所。
そこに、また戻る。
レインは再び、自分の手を見た。
暗闇の中、その手は見えなかった。
だが、感じることができた。
この手の重さを。
この手に染み付いた、血の記憶を。
そして——これから、この手で何かを作らなければならないという、責任を。
朝が来た。
レインは結局、ほとんど眠れなかった。だが、それを顔には出さない。いつも通りの表情で、執務室へと向かった。
アリシアは既に到着していた。机の上には、書類の山。貧民街改革プロジェクトの資料だ。
「おはよう、レイン」
「おはよう」
レインは窓辺に立った。執務室からは、王都の街並みが一望できる。
その中に、貧民街の一角が見える。
あの場所が。
「レイン様」
セシルが入ってきた。彼女もまた、資料を抱えている。
「おはようございます」
「ああ」
セシルは資料を机に置き、アリシアに報告を始めた。
「殿下、建設予定地の整地が完了しました」
「そう。それは良かったわ」
アリシアは資料に目を通す。
「技師たちの準備は?」
「万端です。いつでも着工できます」
「分かったわ」
アリシアは顔を上げた。
「では、今日の午前中に視察に行きましょう」
その言葉に、レインの心臓が跳ねた。
今日。
今日、あの場所に行く。
「レイン」
アリシアが声をかけてきた。
「一緒に来てくれる?」
「……ああ」
レインは頷いた。
拒否する理由はない。
いや、拒否したくない。
あの場所を——もう一度、見たかった。
「あの場所、あなたにとっても特別な場所でしょう」
アリシアの言葉に、レインは何も答えられなかった。
特別。
そうだ、特別だ。
すべてが始まった場所。
自分が人間になれると信じた場所。
そして——
「分かった」
レインは言った。
「行こう」
アリシアは微笑んだ。
「ありがとう」
セシルは二人のやりとりを見守っていたが、やがて資料をまとめ始めた。
「では、護衛の手配をいたします」
「お願い」
アリシアは頷いた。
セシルが退室した後、執務室には二人だけが残された。
「ねえ、レイン」
アリシアが立ち上がり、窓辺に来た。
「楽しみね」
「……そうだな」
レインは貧民街の方角を見つめた。
「十年ぶりだ」
「ううん、違うわ」
アリシアは首を横に振った。
「あなた、組織にいた頃——あの辺りで任務をしたことがあるでしょう」
図星だった。
暗殺者として、何度か貧民街に足を運んだ。
標的を追って。
情報を集めて。
だが、あの広場には——決して近づかなかった。
「……ああ」
「どうして、近づかなかったの?」
アリシアの問いに、レインは少し考えてから答えた。
「怖かったんだと思う」
「怖い?」
「ああ」
レインは拳を握った。
「あの場所に行けば——昔のことを思い出す」
彼は目を閉じた。
「お前と過ごした日々を。約束を。希望を」
そして——
「それを裏切った自分を」
アリシアは黙ってレインを見つめていた。
「でも、もう大丈夫」
レインは目を開けた。
「今は、お前がいる」
「ええ」
アリシアはレインの手を取った。
「一緒よ」
その手が、温かかった。
レインは頷いた。
そうだ。もう一人じゃない。
一緒に、あの場所に行ける。
過去と向き合える。
そして——未来を作れる。
その夜。
視察の前夜。
レインとアリシアは、寝室で向かい合っていた。
アリシアはベッドに座り、レインは窓辺に立っている。
月が、二人を照らしていた。
「レイン」
アリシアが口を開いた。
「怖い?」
「何が」
「父親になること」
その問いに、レインは答えに窮した。
怖い。
正直に言えば、怖い。
だが、それを認めることが——
「怖い」
レインは正直に答えた。
「俺は、人殺しだった」
彼は自分の手を見た。
「この手で、何人殺してきたか分からない」
手のひらの傷痕が、月光を受けて浮かび上がる。
「そんな人間が——親になっていいのか」
「いいに決まってるでしょう」
アリシアは即座に答えた。
「どうして、そう言い切れる」
「だって」
アリシアは立ち上がり、レインに近づいた。
「あなたは、もう暗殺者じゃない」
彼女はレインの手を取った。
「今のあなたは——私の夫」
その言葉が、レインの胸を温めた。
「そして、この子の父親」
アリシアはレインの手を、自分のお腹に当てた。
胎動。
小さな命が、そこにある。
「感じる?」
「……ああ」
レインの声が震えた。
「この子が、あなたを待ってるのよ」
アリシアの目が、潤んでいた。
「だから——怖がらないで」
「でも——」
「過去は変えられない」
アリシアが遮った。
「でも、未来は作れる」
その言葉が、レインの心に響いた。
未来。
そうだ。もう過去には戻れない。
だが、これから——
「あなたの手は、確かに人を殺した」
アリシアはレインの手を、自分の頬に当てた。
「でも、この手は——私を守った」
彼女は微笑んだ。
「何度も。命をかけて」
レインは何も言えなかった。
「だから、この手で——この子を抱いて」
アリシアの涙が、零れ落ちた。
「お願い」
レインは、アリシアを抱きしめた。
彼女の温もりが、自分を包み込む。
「……ああ」
レインの声が、掠れた。
「抱く。必ず」
二人は抱き合ったまま、しばらく動かなかった。
月明かりが、二人を照らしている。
やがて、アリシアが顔を上げた。
「明日、あの場所に行くわね」
「ああ」
「楽しみ」
アリシアは微笑んだ。
「あの井戸、覚えてる?」
「忘れるわけがない」
レインも微笑んだ。
「そこで、お前に初めて会った」
「そして、友達になった」
「ああ」
二人は手を繋いだまま、ベッドに横になった。
「おやすみなさい、レイン」
「おやすみ」
アリシアは、すぐに眠りに落ちた。
だが、レインは——やはり眠れなかった。
目を閉じても、脳裏に浮かぶのは——
井戸のある広場。
金色の髪の少女。
『友達なんだから』という言葉。
そして——これから築く未来。
レインは自分の手を見た。
月明かりに照らされた、傷だらけの手。
この手で——
明日、あの場所に立つ。
過去と向き合う。
そして——新しい一歩を踏み出す。
レインは深く息を吐いた。
怖い。
正直に言えば、まだ怖い。
だが——
隣には、愛する人がいる。
お腹には、新しい命が宿っている。
それだけで——前に進める。
レインは目を閉じた。
今夜は、眠れないかもしれない。
だが、それでいい。
明日に備えて——心の準備をする時間が必要だった。
窓の外では、月が静かに輝いている。
その光は冷たく、でも優しく——まるで、レインの決意を見守っているかのようだった。
後日談 第2部:過去との再会
貧民街の入口は、十年前と変わらなかった。
薄暗い路地へと続く石造りのアーチ。壁には黴と湿気の染み。朝日が差し込んでも、ここだけは影に包まれている。まるで、光を拒むかのように。
レインは馬車を降り、その入口を見つめた。
体が、記憶している。足が、勝手に道を知っている。この先にある路地の曲がり角。石畳の割れた場所。壁の窪み。すべてが、かつての自分を呼び起こす。
「レイン」
アリシアが隣に立った。簡素な旅装に身を包んだ彼女は、王女というより旅人のようだった。だが、その金髪だけは隠せない。朝日を受けて、まるで光そのもののように輝いている。
「大丈夫?」
「……ああ」
嘘だった。大丈夫ではない。だが、それを口にすることはできなかった。
「殿下、護衛を密にします」
セシルが指示を出す。彼女の後ろには、十名ほどの護衛兵。だが、アリシアは首を横に振った。
「護衛は最小限でいいわ。あまり大げさにしたくない」
「ですが——」
「セシルと、レインがいれば十分よ」
その言葉に、セシルは渋々頷いた。レインもまた、無言で頷く。
三人は貧民街へと足を踏み入れた。
路地は狭い。両側の壁が迫り、空が細い帯のように見えるだけ。足元の石畳は汚れ、所々が割れている。壁には落書き。窓からは洗濯物が垂れ下がり、どこからか子供の泣き声が聞こえてくる。
レインの鼻が、匂いを捉えた。
土と、埃と、生活の匂い。それに混じる、わずかな腐敗臭。ゴミの山から漂ってくるもの。かつて、自分もこの匂いの中で暮らしていた。
「ここは……」
アリシアが息を呑んだ。
「十年前と、あまり変わっていないのね」
その声には、痛みが滲んでいた。改革を進めてきた。民のために戦ってきた。それでも、この場所は——まだ、ここにある。
「いや」
レインが言った。
「少しは、変わっている」
彼は路地の先を指差した。そこには、小さな診療所があった。白い壁に、赤十字の印。十年前には、なかったものだ。
「改革の成果だ。お前がやったことは、無駄じゃない」
アリシアは微笑んだ。だが、その笑顔はどこか寂しげだった。
「まだまだね。やることは、たくさんある」
三人は路地を進んだ。曲がり角を曲がる度に、レインの記憶が蘇る。
ここで、パンを盗もうとして失敗した。
ここで、雨宿りをした。
ここで、衛兵に追われて逃げた。
すべてが、昨日のことのように鮮明だった。
「レイン」
セシルが声をかけてきた。
「あなた、ここの地理に詳しいわね」
「……昔、住んでいたからな」
「そう」
セシルは何も聞かなかった。ただ、その目には理解の色があった。彼女は知っている。レインがどこから来たのか。何者だったのか。
そして、今、何者になろうとしているのか。
やがて、路地が開けた。
小さな広場に出る。
レインの足が、止まった。
そこには、古い井戸があった。石造りの井戸。縁は苔むし、所々が欠けている。だが、確かにそこにある。十年前と、変わらない姿で。
「……ここ」
アリシアの声が震えた。
「ここよ。ここで、私たち——」
彼女は井戸へと歩み寄った。その縁に手を置く。冷たい石の感触。それが、過去を呼び起こす。
「七歳の誕生日だったわ」
アリシアは目を閉じた。
「城を抜け出して、ここまで来たの。王族の暮らしが息苦しくて。外の世界を見たくて」
レインは黙って聞いていた。彼もまた、その日のことを覚えている。
「そしたら、井戸の側で——」
アリシアは井戸の縁を撫でた。
「一人の男の子が、倒れていた」
レインの脳裏に、記憶が蘇る。
あの日、自分は三日間何も食べていなかった。盗もうとしたパンは衛兵に見つかり、逃げる途中で力尽きた。気がついたら、井戸の縁に倒れていた。
そして——金色の髪の少女が、自分の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?」
その声が、今でも耳に残っている。
「あなた、レインって名乗ったわね」
アリシアは目を開けた。その碧眼が、レインを見つめる。
「私が名前を聞いたら、警戒した目でそう答えた。まるで、誰も信じていないような——」
「……ああ」
レインは井戸に近づいた。アリシアの隣に立つ。
「俺は、誰も信じていなかった」
彼は井戸の中を覗き込んだ。暗い。底が見えない。まるで、かつての自分の心のように。
「でも、お前だけは違った」
レインは井戸の縁に手を置いた。アリシアの手のすぐ隣に。
「お前は、俺を人として見てくれた。貧民の子供としてじゃなく。レインとして」
「そうよ」
アリシアは微笑んだ。
「だって、友達だもの」
その言葉が、レインの胸を温めた。
友達。そう、最初は友達だった。身分も、立場も、すべてを超えて。ただの子供同士として。
「ねえ、レイン」
アリシアが井戸の縁に座った。
「ここで、色んな話をしたわね」
「ああ」
レインも隣に座る。石の冷たさが、尻から伝わってくる。
「私の愚痴も、あなたの夢も」
夢。
レインは空を見上げた。貧民街の上空は、狭い。建物に挟まれて、わずかな空しか見えない。だが、あの頃は——この狭い空が、世界のすべてだった。
「俺に、夢なんてあっただろうか」
レインは呟いた。
「あったわよ」
アリシアは即座に答えた。
「あなたね、言ったのよ。『いつか、俺も立派になる。誰かを守れるくらい、強くなる』って」
レインの胸が、締め付けられた。
そんなことを言ったのか。覚えていない。いや、忘れようとしていたのかもしれない。
「私、その言葉が嬉しくて」
アリシアは立ち上がり、広場の中央に立った。
「だから約束したの。『じゃあ私は、みんなが幸せになれる国を作る。レインみたいに苦しんでいる人がいない国を』って」
彼女は両手を広げた。まるで、この貧民街全体を抱きしめようとするかのように。
「この約束が、私の全てなの」
アリシアの声が、広場に響く。
「女王になりたいのも、改革を進めたいのも、全部——あの日の約束を守るため」
レインは立ち上がった。アリシアの隣に立つ。
「だから、ここに学校を建てるんだ」
「そうよ」
アリシアは頷いた。
「あなたみたいな子供が、未来を諦めなくていいように」
その時、広場の端で物音がした。
レインは反射的に身構える。暗殺者の本能が、まだ抜けていない。
だが、現れたのは——子供だった。
ぼろを纏った、痩せこけた少年。年は十歳前後だろうか。その目は警戒に満ちていたが、どこか興味津々でもあった。
「……誰だ、お前ら」
少年の声は、掠れていた。
レインは、その少年を見つめた。
まるで、鏡を見ているようだった。
ぼろを纏った姿。痩せた体。警戒した目。そして、それでも消えない——生への執着。
かつての、自分自身だった。
「あなたは?」
アリシアが優しく問いかけた。少年は一歩後ずさる。
「……ケイ」
「ケイね。私はアリシア。こっちは——」
「知ってる」
ケイはレインを指差した。
「お前、王女様の旦那だろ。噂で聞いた」
レインは何も答えなかった。ただ、その少年を見つめ続ける。
「ここで、何してんだ」
「学校を建てるのよ」
アリシアが答えた。ケイの目が、わずかに見開かれる。
「学校?」
「そう。あなたみたいな子供が、ちゃんと学べる場所」
ケイは信じられないという顔をした。
「……俺みたいな?」
「ええ」
アリシアは微笑んだ。
「誰だって、学ぶ権利があるの。生まれた場所なんて、関係ない」
ケイは黙り込んだ。その目が、揺れている。信じたい。でも、信じられない。そんな感情が、入り混じっていた。
「……本当か?」
「本当よ」
アリシアは頷いた。
「嘘なんかじゃない。必ず、ここに学校を建てる」
ケイはアリシアを見つめ、それからレインを見た。
「あんたは?」
その問いに、レインは少し考えてから答えた。
「……ああ。本当だ」
ケイの顔に、わずかな笑みが浮かんだ。
「そっか」
彼は踵を返し、路地へと走り去った。その背中を、レインは見送る。
まるで、過去の自分が走り去っていくようだった。
「……あの子」
セシルが呟いた。
「殿下と出会う前の、レイン様に似ていますね」
「ああ」
レインは頷いた。
「だから——」
彼は広場を見渡した。古びた井戸。割れた石畳。薄暗い路地。すべてが、かつての自分を映している。
「ここに、未来を作らなければならない」
アリシアがレインの手を握った。
「一緒に、ね」
「ああ。一緒に」
二人は手を繋いだまま、しばらくそこに立っていた。
やがて、セシルが声をかけた。
「殿下、建設技師たちが到着しました」
「分かったわ」
アリシアは広場の端に設営された、仮設のテントへと向かった。そこには、数名の建築技師と、改革派の官僚たちが待っている。
「お待ちしておりました、殿下」
初老の技師が一礼した。
「早速ですが、計画をご説明いたします」
テントの中央には、大きな図面が広げられていた。広場の見取り図。そして、その上に描かれた建物の設計図。
「この広場を中心に、三階建ての校舎を建設します」
技師が図面を指差しながら説明する。
「一階は教室。二階は図書室と実習室。三階は——」
「孤児院」
アリシアが遮った。
「三階は、孤児院にしてください」
技師は目を瞬かせた。
「孤児院、ですか」
「ええ。学ぶ場所だけじゃなく、住む場所も必要なの。家のない子供たちのために」
アリシアの声には、強い意志が込められていた。
「承知いたしました。では、設計を変更して——」
「それから」
アリシアは図面の中央、井戸の場所を指差した。
「この井戸は、残してください」
「ですが、建設の邪魔になるかと——」
「残してください」
アリシアの声が、きっぱりと響いた。
「この井戸は、大切な場所なの。ここから、すべてが始まったから」
技師は戸惑いながらも頷いた。
「分かりました。井戸を中心に、中庭のような形で設計し直します」
「お願いします」
アリシアは微笑んだ。
レインは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。彼女は変わっていない。十年前と同じ。民のために戦う、その姿勢。
だが、同時に——変わったものもある。
彼はアリシアの腹部に視線を向けた。まだ目立たないが、確かにそこには命が宿っている。二人の子供。
守らなければならない。
この場所を。この未来を。そして——彼女と、子供を。
「それでは、名称についてですが」
官僚の一人が言った。
「『ヴェルディア王女記念学院』というのは、いかがでしょうか」
「いいえ」
アリシアは即座に首を横に振った。
「私の名前は要りません」
「ですが——」
「この学校は、私のためのものじゃない。子供たちのためのもの」
アリシアは図面を見つめた。
「だから——『希望の学び舎』。それがいいわ」
希望の学び舎。
その名前が、広場に静かに響いた。
説明が終わり、技師たちは準備のために散っていった。残されたのは、アリシア、レイン、セシルの三人だけ。
「殿下、そろそろ戻りましょう」
セシルが言った。空を見上げると、太陽が高く昇っている。もう昼近くだ。
「そうね」
アリシアは頷いた。だが、井戸から離れようとしない。
「……もう少しだけ、ここにいたいの」
セシルは理解したように微笑み、少し離れた場所へと下がった。
アリシアとレイン、二人だけが井戸の側に残された。
「ねえ、レイン」
アリシアが呟いた。
「この井戸、覚えてる?」
「忘れるはずがない」
「そうよね」
彼女は井戸の縁に手を置いた。
「ここで、あなたに初めてパンをあげたの」
レインは思い出した。あの時、自分は受け取ろうとしなかった。他人からの施しを、拒絶していた。
だが——
「『友達なんだから』って、お前は言った」
「ええ」
アリシアは微笑んだ。
「そうしたら、あなた——すごく驚いた顔をして。それから、ゆっくりとパンを受け取った」
その記憶は、レインの心に深く刻まれている。
あれが、初めてだった。
誰かに「友達」と呼ばれたのは。
誰かに受け入れられたのは。
誰かに——必要とされたのは。
「あの時、私も嬉しかったのよ」
アリシアは井戸の縁に座った。
「城では、みんな『王女様』って呼ぶ。でも、あなただけは違った」
彼女は空を見上げた。
「『アリシア』って、名前で呼んでくれた」
レインは隣に座った。石の冷たさが、また尻から伝わってくる。
「お前は、王女じゃなかった」
「そう。ただの、女の子だった」
二人は並んで座り、しばらく黙っていた。
広場には、誰もいない。ただ、風が吹き抜けていくだけ。
「レイン」
アリシアが口を開いた。
「あなた、怖い?」
「何が」
「父親になること」
その問いに、レインは答えられなかった。
怖い。
正直に言えば、怖い。
自分のような人間が、親になっていいのか。人を殺してきた手で、子を抱いていいのか。
「……分からない」
レインは正直に答えた。
「俺は、ずっと一人だった。誰かを守るとか、育てるとか——そんなこと、考えたこともなかった」
「でも、今は?」
「今は——」
レインは拳を握った。
「守りたいと思う。お前を。子供を。そして——」
彼は広場を見渡した。
「この場所を」
アリシアは微笑んだ。
「それで十分よ」
彼女はレインの手を取った。
「あなたは、もう一人じゃない。私がいる。この子がいる。そして——」
アリシアは広場を指差した。
「ケイみたいな子供たちがいる」
レインは頷いた。
そうだ。もう一人じゃない。
守るべきものがある。
戦う理由がある。
生きる意味がある。
「行こう」
レインは立ち上がり、アリシアに手を差し伸べた。
「ああ、これから忙しくなるわよ」
アリシアはその手を取り、立ち上がった。
「学校の建設。孤児院の運営。それに——」
彼女は自分のお腹に手を当てた。
「この子の準備も」
レインは微笑んだ。
「大丈夫だ。お前なら、できる」
「私じゃないわ」
アリシアは首を横に振った。
「私たちなら、できる」
その言葉が、レインの胸を温めた。
私たち。
もう、一人じゃない。二人で歩んでいく。
二人は手を繋ぎ、広場を後にした。
井戸だけが、そこに残された。十年前と変わらない姿で。だが、その周りには——これから、新しい未来が築かれていく。
路地を抜け、馬車へと戻る道すがら、レインは振り返った。
広場が、まだ見えた。あの井戸が、小さく見えた。
あそこから、すべてが始まった。
そして、あそこから——新しい物語が始まろうとしている。
「レイン、どうしたの?」
アリシアが不思議そうに尋ねる。
「いや」
レインは前を向いた。
「何でもない」
二人は馬車に乗り込んだ。セシルが御者台で手綱を取る。馬車がゆっくりと動き出した。
貧民街の路地を抜け、城下町へと戻る。徐々に、周囲が明るくなっていく。建物も、道も、人々の表情も。
だが、レインの心には——あの広場の景色が、焼き付いて離れなかった。
井戸。
ケイ。
そして、これから建つ学校。
馬車の中、アリシアがレインの肩に頭を預けた。
「疲れた?」
「少し」
レインは窓の外を見た。
「でも、悪くない」
「そうね」
アリシアは目を閉じた。
「これから、もっと忙しくなるわ」
「ああ」
「でも——」
彼女は微笑んだ。
「楽しみね」
レインは頷いた。
楽しみ。
そんな感情を抱いたのは、いつ以来だろうか。
暗殺者だった頃には、なかった感情。
だが、今——確かにそこにある。
馬車は城へと向かっていく。
後ろには、貧民街。
前には、王城。
過去と未来を繋ぐ道を、二人は進んでいく。
レインは自分の手を見た。
この手で、何人殺してきただろうか。
だが、この手で——これから、何かを作っていく。
学校を。
未来を。
そして——新しい命を、迎え入れる。
手のひらの傷跡が、わずかに疼いた。
過去は消えない。
だが、それでも——前に進める。
レインは拳を握り、また開いた。
この手は、もう震えていなかった。
後日談 第3部:過去の自分との対峙
その日の午後、レインは一人で貧民街に戻っていた。
アリシアは城で休んでいる。妊娠五ヶ月の体に、午前中の視察は負担だったのだろう。セシルが付き添い、レインだけが再び貧民街へと足を向けた。
理由は、自分でも分からなかった。
ただ、あの少年——ケイのことが、気にかかっていた。
路地を抜け、広場に出る。
午後の陽射しが、井戸を照らしていた。朝よりも明るい。だが、広場には相変わらず人影がない。ただ、建設予定を示す杭が、幾つか打たれているだけ。
レインは井戸の縁に腰を下ろした。
石の冷たさ。それは、変わらない。十年前も、今も。
「……戻ってきちまったな」
誰にともなく呟く。
この場所に、何を求めているのだろう。過去か。それとも、未来か。
「おっちゃん」
声がした。
振り返ると、ケイが立っていた。午前中よりも警戒心が薄れているように見える。だが、まだ完全には心を開いていない。
「……おっちゃんって歳じゃない」
レインは溜息をついた。
「じゃあ、何て呼べばいいんだ」
「レインでいい」
「レイン、か」
ケイは井戸に近づいてきた。レインから少し離れた場所に座る。
「なんで戻ってきたんだ」
「さあな」
レインは空を見上げた。
「お前こそ、なんでここにいる」
「俺の家だからな」
ケイは広場を指差した。その先には、崩れかけた建物がある。
「あそこに住んでる」
「……一人で?」
「ああ」
ケイは頷いた。
「親は、もういない」
その言葉に、レインの胸が締め付けられた。
「病気で死んだ」
ケイは淡々と続けた。
「二年前に、母さんが。去年、父さんが」
感情を殺した声。それは、かつてのレイン自身の声と同じだった。
「それから?」
「盗みで食ってる」
ケイは拳を握った。
「でも、いつか——立派になる」
「立派、か」
レインは繰り返した。
「どういう意味だ、お前にとって」
ケイは少し考えてから答えた。
「強くなること。誰にも負けないくらい」
その答えが、レインの記憶を呼び起こす。
自分も、同じことを言った。アリシアに。
「それだけか」
「……あと」
ケイは井戸を見つめた。
「誰かを守れるくらい」
レインの心臓が、大きく跳ねた。
同じだ。
この少年は、かつての自分と——まったく同じことを言っている。
「なんで、守りたいんだ」
「分かんねえ」
ケイは首を横に振った。
「でも、俺——弱いやつが虐められてるの、見るの嫌なんだ」
彼は拳を震わせた。
「親が死んで、俺が一人になった時。みんな、俺のこと馬鹿にした。『孤児のくせに』って。石を投げられたこともある」
ケイの目に、涙が浮かんでいた。だが、流そうとしない。
「だから、強くなる。そうすれば、誰も馬鹿にできない」
レインは何も言えなかった。
この少年の痛みが、分かりすぎるほど分かった。
自分も、同じだった。
貧民街で育ち、虐げられ、それでも生きてきた。強くなりたいと願った。誰にも屈しない自分になりたいと。
そして——組織に拾われた。
暗殺者として。
「なあ、ケイ」
レインは口を開いた。
「強くなって、それからどうする」
「え?」
「誰かを守るって言ったな。誰を守りたいんだ」
ケイは黙り込んだ。
「……分かんねえ」
しばらくして、彼は呟いた。
「でも、俺みたいに——一人ぼっちの奴がいたら、助けたい」
その言葉が、レインの胸を貫いた。
この少年は、まだ純粋だ。
歪んでいない。
憎しみに染まっていない。
だからこそ——この子を、自分と同じ道に進ませてはいけない。
「なあ、ケイ。学校のこと、覚えてるか」
「ああ」
ケイは頷いた。
「本当に、できるのか?」
「本当だ」
レインは断言した。
「ここに、必ず学校ができる。お前みたいな奴が、ちゃんと学べる場所が」
「……俺、字も読めないけど」
「だから学ぶんだろう」
レインは立ち上がった。
「強くなりたいなら、まず学べ。本当の強さは、腕力だけじゃない」
ケイは不思議そうにレインを見上げた。
「レイン、あんた——強いのか?」
「……さあな」
レインは自分の手を見た。
「強かったかもしれない。でも、それは——間違った強さだった」
「間違った?」
「ああ」
レインは拳を握った。
「俺は、人を傷つけることしか知らなかった。守るんじゃなくて、壊すことしか」
ケイの目が、見開かれた。
「でも、今は違う」
レインは拳を開いた。
「今は、守ることを学んでいる」
ケイは黙ってレインを見つめていた。その目には、何かを探るような色があった。
「なあ、レイン」
「なんだ」
「あんた、本当に——あの王女様の旦那なのか?」
「……ああ」
「どうして」
その問いに、レインは少し考えてから答えた。
「彼女が、俺を救ってくれたからだ」
「救った?」
「ああ」
レインは井戸を見つめた。
「十年前。ここで。俺は飢えて倒れていた。お前と同じように」
ケイの息を呑む音が聞こえた。
「そしたら、金髪の少女が——今の王女様が、俺を助けてくれた」
レインは井戸の縁に手を置いた。
「パンをくれた。『友達なんだから』って言って」
その記憶が、鮮明に蘇る。
「それが、俺にとって——初めてだった」
「初めて?」
「誰かに、必要とされたのが」
レインの声が、わずかに震えた。
「それまで、俺は一人だった。誰も信じていなかった。でも、彼女だけは違った」
ケイは黙って聞いていた。
「だから、俺は——彼女を守ると決めた」
レインは振り返り、ケイを見つめた。
「お前も、きっと見つかる」
「何が」
「守りたいもの」
その言葉に、ケイの目が揺れた。
「でも——」
「焦るな」
レインはケイの頭に手を置いた。
「まずは、学べ。生きろ。そうすれば、いつか分かる」
ケイは黙って頷いた。
二人はしばらく、そこに立っていた。
やがて、ケイが口を開いた。
「なあ、レイン」
「なんだ」
「学校、本当にできたら——俺、行っていいのか?」
「当たり前だ」
レインは即座に答えた。
「お前のための学校だ」
「……俺の?」
「ああ。お前みたいな子供のための」
ケイの目に、涙が浮かんだ。今度は、堪えきれずに零れ落ちる。
「ありがとう」
小さな声だった。だが、レインの耳にははっきりと届いた。
「礼を言うのは、まだ早い」
レインは微笑んだ。
「学校ができてから、ちゃんと来いよ」
「……うん」
ケイは涙を拭った。
「約束する。絶対、行く」
「よし」
レインは頷いた。
「じゃあ、俺も約束する。必ず、学校を作る」
二人は拳を突き合わせた。
小さな約束。だが、それは確かに——この場所で交わされた。
その時、広場の入口から声が聞こえた。
「レイン様!」
セシルだった。息を切らして、こちらに走ってくる。
「どうした」
「殿下が——心配なさって」
セシルは立ち止まり、呼吸を整えた。
「一人で貧民街に来るなんて、危険です」
「すまない」
レインは頭を下げた。
「少し、気になることがあって」
セシルはケイに気づいた。
「この子は?」
「ケイ。この辺りに住んでいる」
「そう」
セシルは優しくケイに微笑みかけた。
「私はセシル。王女様の侍女よ」
「……セシル」
ケイは戸惑いながらも、小さく頭を下げた。
「殿下が、お呼びです。戻りましょう」
「ああ」
レインは頷いた。だが、その前にケイに向き直る。
「また来る」
「……本当か?」
「ああ。約束しただろう」
ケイは笑った。初めて見る、本当の笑顔だった。
「待ってる」
レインとセシルは広場を後にした。路地を抜け、馬車が待つ場所へと向かう。
「レイン様」
歩きながら、セシルが言った。
「あの子、あなたに似ていますね」
「……そうか?」
「ええ。昔のあなたに」
セシルは微笑んだ。
「だから、放っておけなかったのでしょう」
レインは何も答えなかった。
図星だった。
あの少年を見て、自分を見た。
そして——もし、自分がアリシアに出会っていなかったら、どうなっていたかを想像した。
暗殺組織に拾われる前に、誰かが手を差し伸べてくれていたら。
学ぶ場所があったら。
温かい食事があったら。
未来への希望があったら。
自分は、暗殺者にならずに済んだのだろうか。
「レイン様」
セシルが立ち止まった。
「あなたは、優しい方ですね」
「……優しい?」
レインは首を横に振った。
「俺は、人を殺してきた。優しいなんて——」
「過去は変えられません」
セシルが遮った。
「でも、未来は作れます。あなたは今、それをしようとしている」
その言葉が、レインの胸に染み込んだ。
未来を作る。
そうだ。もう過去には戻れない。
だが、これから——作っていくことはできる。
二人は馬車に乗り込んだ。
御者が手綱を取り、馬車が動き出す。
レインは窓から、貧民街を見つめた。
あの広場に、ケイがまだいるかもしれない。
一人で、井戸の側に座っているかもしれない。
でも——もう、完全に一人じゃない。
約束がある。
未来がある。
希望がある。
馬車は城へと向かっていく。
レインは目を閉じた。
ケイの笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。
あの笑顔を、守りたい。
あの希望を、壊させたくない。
だから——学校を作る。
約束を果たす。
そして——この手で、未来を掴む。
城に戻ると、アリシアが執務室で待っていた。
「レイン!」
彼女は駆け寄ってきた。
「心配したのよ。一人で貧民街なんて——」
「すまない」
レインは頭を下げた。
「少し、確認したいことがあって」
「確認?」
アリシアは首を傾げた。
「あの少年——ケイのことか?」
レインは頷いた。
「気になったんだ」
「そう」
アリシアは微笑んだ。
「あなたらしいわ」
彼女は椅子に座り、レインにも座るよう促した。
「どうだった? ケイは」
「……元気だった」
レインは答えた。
「それに、約束した」
「約束?」
「学校ができたら、必ず来るって」
アリシアの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当? それは嬉しいわ」
「ああ」
レインは窓の外を見た。
「あの子、俺に似ている」
「そうね」
アリシアは頷いた。
「でも、あの子はあなたと違って——もう一人じゃない」
「……そうだな」
「あなたがいる。私がいる。セシルもいる」
アリシアは立ち上がり、レインの隣に立った。
「そして、これから学校ができる」
彼女はレインの手を取った。
「あの子は、幸せになれるわ」
「ああ」
レインは頷いた。
「必ず」
二人は手を繋いだまま、窓の外を見つめた。
王都の街並みが、夕日に染まっている。
その中に、貧民街もある。
あの井戸の広場も。
ケイも。
「ねえ、レイン」
アリシアが呟いた。
「私たち、いいことをしているのよね」
「……ああ」
「本当に、あの子たちの未来を変えられるのかしら」
その問いに、レインは少し考えてから答えた。
「分からない」
「え?」
「でも——」
レインはアリシアを見つめた。
「やらなければ、何も変わらない」
アリシアは微笑んだ。
「そうね」
彼女は自分のお腹に手を当てた。
「この子のためにも、いい世界を作らなきゃ」
レインもまた、アリシアのお腹に手を重ねた。
胎動を感じる。小さな、でも確かな命の鼓動。
「ああ。必ず」
夕日が沈み、夜の帳が降りてくる。
だが、城には明かりが灯され、温かな光が窓から溢れていた。
レインとアリシアは、しばらくそこに立っていた。
手を繋ぎ、未来を見つめながら。
その夜、レインは再び眠れなかった。
寝室の窓辺に立ち、夜空を見上げる。
星が、無数に輝いていた。
ケイの顔が、脳裏に浮かぶ。
あの少年は、自分と同じ道を歩むことになるのだろうか。
いや——違う。
もう、道は違う。
ケイには、学校がある。
温かい食事がある。
仲間がいる。
希望がある。
自分と同じように、組織に拾われることはない。
暗殺者になることもない。
人を殺す道を歩むこともない。
「レイン」
アリシアが目を覚ました。
「また、眠れないの?」
「……ああ」
「こっちにいらっしゃい」
アリシアはベッドを叩いた。
レインは窓辺を離れ、ベッドに戻った。
アリシアが彼の腕に抱きつく。
「何を考えてたの」
「ケイのこと」
「そう」
アリシアは微笑んだ。
「心配?」
「……少し」
「大丈夫よ」
アリシアはレインの胸に頭を預けた。
「あの子は、強い子よ。きっと、立派になる」
「ああ」
レインは頷いた。
「俺よりも、ずっと」
「あなたも、十分立派よ」
アリシアは目を閉じた。
「人を守ろうとしている。それだけで、十分」
レインは何も答えなかった。
ただ、アリシアを抱きしめた。
温かい。
柔らかい。
そして——生きている。
この人を、守る。
この子を、守る。
ケイを、守る。
貧民街の子供たちを、守る。
それが、自分の使命だ。
もう、殺すためじゃない。
守るために、生きる。
「レイン」
アリシアが眠そうに呟いた。
「愛してるわ」
その言葉が、レインの胸を満たした。
「俺も」
小さく、だが確かに答えた。
「愛している」
アリシアはもう眠りに落ちていた。
規則正しい呼吸。
平和な寝顔。
レインはそっと、彼女の髪を撫でた。
そして——自分の手を見た。
暗闇の中、その手は見えなかった。
だが、感じることができた。
この手の温かさを。
この手の重さを。
そして——この手に宿る、新しい力を。
殺すための手じゃない。
守るための手。
創るための手。
レインは目を閉じた。
今夜は、眠れそうだった。
隣には愛する人がいる。
お腹には新しい命が宿っている。
そして、貧民街には——希望を持った少年がいる。
それだけで、十分だった。
レインは深く息を吐き、眠りに落ちていった。
穏やかな、暗殺者だった頃には一度も見たことのない——安らかな眠りに。
後日談 第4部:小さな危機
視察から三日が過ぎた。
その間、貧民街では建設の準備が着々と進んでいた。資材が運び込まれ、職人たちが測量を始め、広場には活気が戻りつつあった。
だが——
レインの中で、警鐘が鳴っていた。
暗殺者としての本能。それは、組織を離れた今でも消えていない。危険を察知する感覚。それが、何かを告げていた。
「レイン様」
夜、執務室でセシルが声をかけてきた。アリシアは既に寝室に戻り、レインだけが残っていた。
「どうした」
「報告があります」
セシルの表情が、硬い。
「貧民街で、不審な動きが」
レインの目が、鋭くなった。
「詳しく」
「学校建設に反対する声が出ています。作業員への嫌がらせ、資材の破壊——」
「保守派残党か」
「おそらく」
セシルは資料を手渡した。
「ダリウス公爵は失脚しましたが、その残党はまだ各地に散らばっています」
レインは資料に目を通した。だが、文字は頭に入ってこない。
ただ、本能が叫んでいた。
これは、前触れだ。
本命は、別にある。
「警備を強化しろ」
レインは資料を置いた。
「特に、殿下の護衛を」
「承知しました」
セシルは一礼して退室した。
一人残されたレインは、窓の外を見た。
貧民街の方角。
あの広場。
ケイのいる場所。
嫌な予感が、胸を締め付ける。
レインは短剣に手をかけた。もう組織の武器ではない。だが、護身用に常に携帯している。
その柄の感触が、かつての記憶を呼び起こす。
暗殺者だった頃の自分。
人を殺すことに、何の躊躇もなかった自分。
だが、今は——
レインは短剣を鞘に収めた。
もう、あの頃には戻れない。
戻らない。
翌日の昼。
アリシアは再び、建設現場の視察に向かった。レインとセシル、そして少数の護衛が同行する。
広場に着くと、職人たちが働いていた。礎石の周りに、基礎が作られ始めている。学校の形が、少しずつ見えてきた。
「順調ね」
アリシアは満足そうに頷いた。
レインは周囲を警戒していた。屋根の上、路地の影、人混みの中——暗殺者の目が、自動的に危険要素を探し出す。
だが、今のところ異常はない。
「レイン兄ちゃん!」
声がした。
振り返ると、ケイが駆けてきた。息を切らし、顔は蒼白だった。
「どうした」
「助けて! 友達が——」
ケイは崩れかけた建物を指差した。
「あそこに、閉じ込められたんだ!」
レインの全身が、警報を発した。
この状況——罠の匂いがする。
「殿下」
レインはアリシアに目配せした。
「ここで待っていてください」
「でも——」
「セシル、殿下を」
「承知しました」
セシルがアリシアの前に立つ。
レインはケイに向き直った。
「案内しろ」
「うん!」
ケイは走り出した。レインがその後を追う。
崩れかけた建物——かつての倉庫だろうか。壁は崩れ、屋根は陥没している。中からは、子供の泣き声が聞こえてくる。
「早く!」
ケイが叫ぶ。
だが、レインは慎重に近づいた。
建物の周囲を確認する。
殺気——ある。
複数。
三つ。
罠だ。
だが、子供の泣き声は本物だ。
「レイン、行くぞ!」
レインは短剣を抜いた。
「ケイ、ここで待て」
「え?」
「いいから」
レインは建物に入った。
薄暗い。埃と黴の臭い。床には瓦礫が散乱している。
そして——奥に、瓦礫の下敷きになった子供がいた。
「助けて!」
少女の声。まだ幼い。
レインは駆け寄ろうとした。
その時——
殺気が、動いた。
レインは反射的に跳躍した。刃が、彼がいた場所を貫く。
三人の黒装束。
刺客だった。
「……やはりな」
レインは短剣を構えた。
刺客たちは無言で、レインを囲む。その動きは洗練されていた。
暗殺者だ。
それも、かなりの腕前。
「レイン兄ちゃん!」
外からケイの声。
「大丈夫か!?」
「来るな!」
レインは叫んだ。
「セシルを呼べ! 護衛を!」
「分かった!」
ケイの足音が遠ざかる。
レインは刺客たちと向き合った。
三対一。
しかも、子供を庇いながら。
厳しい。
だが——
刺客の一人が動いた。
速い。
レインは辛うじて受け止める。金属音が響く。
二人目が側面から迫る。
レインは後退し、距離を取った。
だが、三人目が背後から——
レインは身を捩り、刃を躱す。
カウンター。
レインの短剣が、三人目の腕を切り裂いた。
だが、致命傷ではない。
殺さなかった。
刺客たちが、一瞬動きを止めた。
「……殺さないのか」
一人が呟いた。
「お前は『影の手』のレイン・アッシュフォード。組織で最も優秀な刃だったはず」
レインは何も答えなかった。
ただ、短剣を構え直す。
「なぜ殺さない」
「……」
「答えろ」
刺客が再び襲いかかってきた。
レインは防戦一方だった。
殺せば、簡単だ。
三人とも、急所を突ける位置にいる。
心臓。頸動脈。延髄。
一瞬で終わる。
だが——
レインの脳裏に、アリシアの顔が浮かんだ。
ケイの笑顔が浮かんだ。
お腹の中の子供が浮かんだ。
「俺は——」
レインは叫んだ。
「もう、殺さない!」
その瞬間、レインの動きが変わった。
暗殺者の技術。
だが、使い方が違う。
急所を外す。
致命傷を与えない。
ただ、動きを封じる。
レインの短剣が、一人目の膝を切り裂いた。
深くない。だが、立てなくなる。
二人目の手首を打つ。
短剣が床に落ちる。
三人目——
レインは懐に入り、関節を極めた。
そのまま、床に叩きつける。
三人とも、戦闘不能。
だが、生きている。
レインは息を整えた。
手が、震えていない。
これでいい。
これが、今の自分だ。
「……くそ」
床に倒れた刺客の一人が呻いた。
「お前、本当に変わったのか」
「ああ」
レインは頷いた。
「変わった」
その時、外から声が聞こえた。
「レイン様!」
セシルだった。護衛たちを連れて駆けつけてきた。
そして——ケイも。
「レイン兄ちゃん! 大丈夫か!」
「ああ」
レインは短剣を鞘に収めた。
「子供を頼む」
護衛たちが瓦礫の下の少女を救出する。怪我はあるが、命に別状はない。
刺客たちは、護衛に拘束された。
「逃げた者はいませんか」
セシルが尋ねた。
「いや」
レインは首を横に振った。
「三人とも、ここにいる」
「そうですか」
セシルはレインを見つめた。
「……殺さなかったのですね」
「ああ」
「どうして」
その問いに、レインは少し考えてから答えた。
「殺す必要がなかったからだ」
セシルは微笑んだ。
「そうですか」
彼女は護衛たちに指示を出す。
「この者たちを城の牢へ。殿下に報告を」
「承知!」
護衛たちが刺客を連行していく。
レインとケイ、セシルだけが残された。
「レイン兄ちゃん」
ケイが恐る恐る近づいてきた。
「すげえな。三人相手に」
「……いや」
レインは首を横に振った。
「危なかった」
「でも、勝った」
「勝ったんじゃない」
レインは建物を見た。
「守っただけだ」
ケイは不思議そうにレインを見上げた。
「守った?」
「ああ」
レインは頷いた。
「あの子を。お前を。そして——」
彼は広場の方を見た。
そこには、アリシアがいる。
「殿下を」
ケイは黙って頷いた。
「レイン兄ちゃん、強いんだな」
「……さあな」
レインは微笑んだ。
「でも、お前も強かった」
「え?」
「護衛を呼びに行っただろう」
レインはケイの頭に手を置いた。
「あれがなければ、俺は負けていたかもしれない」
ケイの目が、輝いた。
「本当か?」
「本当だ」
レインは頷いた。
「ありがとう、ケイ」
ケイは顔を赤らめた。
「……どういたしまして」
広場に戻ると、アリシアが駆け寄ってきた。
「レイン! 怪我は!?」
「ない」
レインは答えた。
「大丈夫だ」
アリシアは安堵の息を吐いた。
「良かった……」
彼女はレインを抱きしめた。
「心配したのよ」
「すまない」
レインもまた、アリシアを抱きしめた。
その温もりが、自分を落ち着かせる。
「セシルから聞いたわ」
アリシアは顔を上げた。
「三人の刺客——殺さなかったのね」
「……ああ」
「どうして」
その問いに、レインは答えた。
「殺す必要がなかったからだ」
アリシアの目が、潤んだ。
「そう」
彼女は微笑んだ。
「あなた、本当に変わったのね」
「変わった、のか?」
「ええ」
アリシアは頷いた。
「昔のあなたなら、迷わず殺していたはず」
レインは何も言えなかった。
その通りだった。
組織にいた頃の自分なら、三人とも即座に始末していた。
だが、今は——
「殿下」
セシルが近づいてきた。
「刺客たちを尋問しました」
「それで?」
「保守派残党の仕業です。ダリウス公爵の元腹心が、雇ったとのこと」
「そう」
アリシアの表情が、険しくなった。
「まだ、諦めていないのね」
「はい。ですが——」
セシルはレインを見た。
「レイン様のおかげで、首謀者の名前も割れました。すぐに逮捕します」
「分かったわ」
アリシアは頷いた。
「これで、しばらくは安全ね」
「はい」
セシルは一礼した。
アリシアはレインに向き直った。
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「いいえ」
アリシアは首を横に振った。
「あなたは、私を守った。子供たちを守った」
彼女はレインの手を取った。
「そして、殺さなかった」
その言葉が、レインの胸を満たした。
「これが——」
アリシアの声が、優しかった。
「あなたの本当の強さよ」
レインは何も答えられなかった。
ただ、アリシアの手を握り返すことしかできない。
「さあ、帰りましょう」
アリシアは微笑んだ。
「今日は、もう十分よ」
「ああ」
レインは頷いた。
二人は馬車へと向かった。
だが、その前に——
「レイン兄ちゃん!」
ケイが駆け寄ってきた。
「また、来るよな?」
「ああ」
レインは頷いた。
「約束しただろう」
「うん!」
ケイは笑った。
「待ってる!」
レインは微笑み、ケイの頭を撫でた。
「ああ。また来る」
馬車に乗り込むと、アリシアがレインの肩に頭を預けた。
「疲れた?」
「少し」
レインは窓の外を見た。
広場が、遠ざかっていく。
ケイが、手を振っている。
レインも、小さく手を振り返した。
「ねえ、レイン」
アリシアが呟いた。
「さっき、怖かった?」
「……いや」
レインは首を横に振った。
「不思議と、怖くなかった」
「そう」
アリシアは微笑んだ。
「それは、良かった」
馬車は城へと向かっていく。
レインは自分の手を見た。
この手で、刺客と戦った。
だが、殺さなかった。
制圧した。
守った。
これが、今の自分だ。
暗殺者の技術は、まだ体に染み付いている。
だが、その使い方が——変わった。
殺すためじゃない。
守るために。
「レイン」
アリシアが顔を上げた。
「あなたの手、温かいわ」
「……そうか」
「ええ」
アリシアはレインの手を、自分の頬に当てた。
「昔よりも、ずっと」
その言葉が、レインの心を温めた。
そうか。
俺の手は、温かくなったのか。
冷たく、人を殺すだけだったこの手が。
「ありがとう」
レインは呟いた。
「何が?」
「お前がいてくれて」
アリシアは微笑んだ。
「どういたしまして」
馬車は城門をくぐった。
夕日が、二人を照らしている。
その光は温かく、まるで——新しい未来を祝福しているかのようだった。
その夜、レインは寝室の窓辺に立っていた。
アリシアは既に眠っている。
レインは自分の手を見つめた。
今日、この手で刺客と戦った。
だが、殺さなかった。
それでも、守れた。
これでいい。
これが、自分の道だ。
もう、殺すためじゃない。
守るために、この手を使う。
「レイン?」
アリシアが目を覚ました。
「また、眠れないの?」
「いや」
レインは微笑んだ。
「今夜は、眠れそうだ」
「そう?」
「ああ」
レインはベッドに戻った。
アリシアが、レインの腕に抱きつく。
「良かった」
彼女は目を閉じた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
レインも目を閉じた。
今夜は——本当に、眠れそうだった。
心が、穏やかだった。
もう、迷いはない。
暗殺者の技術は、まだ体に染み付いている。
だが、それを——守るために使う。
それが、今の自分だ。
レインは深く息を吐き、眠りに落ちていった。
穏やかな、安らかな——
そして、温かな眠りに。
後日談 第5部:過去の昇華
一週間が過ぎた。
その間、レインは何度も貧民街へ足を運んだ。建設の準備を見守るため——表向きはそうだった。だが、本当の理由は別にある。
ケイに会うためだった。
少年は毎日、広場にいた。まるでレインを待っているかのように。二人は言葉少なに、井戸の側に座った。時には何も話さない。ただ、そこにいるだけ。
それだけで、良かった。
そして今日——学校建設の開始式が行われる。
レインは執務室で、アリシアと向き合っていた。彼女は演説の原稿に目を通している。その表情は真剣だったが、どこか緊張も見える。
「大丈夫か」
レインが声をかけると、アリシアは顔を上げた。
「ええ。でも——少し緊張してるわ」
「お前が?」
「だって」
アリシアは窓の外を見た。
「今日は、特別な日だもの」
特別。
そう、今日は特別だ。
二人が出会った場所に、未来の礎が置かれる。
過去と未来が、交わる日。
「レイン」
アリシアが立ち上がった。
「あなた、昨夜——また眠れなかったでしょう」
「……少しだけ」
「嘘」
アリシアは微笑んだ。
「目の下に隈ができてるわよ」
レインは思わず顔に手を当てた。
「何を考えていたの」
「色々と」
レインは窓辺に立った。
「この一週間、ケイに会った」
「知ってるわ」
「あいつ、毎日広場にいる。まるで——」
「あなたを待ってるのよ」
アリシアがレインの隣に立った。
「あの子にとって、あなたは特別な存在になったんだわ」
「俺が?」
「ええ」
アリシアはレインの手を取った。
「希望を与えてくれた人。未来を見せてくれた人」
その言葉が、レインの胸を締め付けた。
「俺は、何もしていない」
「してるわよ」
アリシアは強く言った。
「あなたがいるだけで、あの子は救われてる」
レインは何も答えられなかった。
自分が、誰かを救う?
人を殺してきた自分が?
「レイン」
アリシアの声が、優しくなった。
「あなた、まだ自分を許していないのね」
「……」
「過去のこと。暗殺者だったこと」
図星だった。
レインは拳を握った。
「許せるわけがない」
「どうして」
「俺は、人を殺した。何人も。罪もない人たちを」
レインの声が震えた。
「ゼロも、殺した。育ててくれた師匠を」
アリシアは黙って聞いていた。
「そんな俺が——父親になる。人を育てる。そんな資格が——」
「ある」
アリシアが遮った。
「資格なんて、誰が決めるの?」
「俺自身が——」
「じゃあ、私が決める」
アリシアはレインの両手を握った。
「あなたには、資格がある」
「どうして、そう言い切れる」
「だって」
アリシアの目が、潤んでいた。
「あなたは、私を守った。命をかけて。それも、一度じゃない」
レインは目を逸らそうとした。だが、アリシアがそれを許さない。
「あの夜。刺客が襲ってきた時。あなたは迷わず、私を庇った」
あの夜のことを、レインは覚えている。
「そして、組織を裏切った。ゼロと戦った。すべて、私のために」
「それは——」
「それは、愛よ」
アリシアの涙が、零れ落ちた。
「過去がどうであれ、今のあなたは——人を愛せる人」
レインの喉が、詰まった。
「愛せる人は、育てられる。守れる。そして——」
アリシアはレインの手を、自分のお腹に当てた。
「父親になれる」
胎動を感じる。
小さな命が、そこにある。
自分の子供が。
「怖いんだ」
レインの声が、掠れた。
「この手で——」
彼は自分の手を見た。
「この手で、抱いていいのか。この子を」
「いいに決まってるでしょう」
アリシアは微笑んだ。
「あなたの手は、温かいわ」
「でも、この手は——」
「殺した。分かってる」
アリシアの声が、優しかった。
「でも、それ以上に——守った」
彼女はレインの手を両手で包んだ。
「私を。ケイを。そして、これから生まれる子を」
レインの目から、涙が溢れた。
初めてだった。
人前で泣くのは。
アリシアの前でさえ、一度もなかった。
だが、今——堪えきれなかった。
「すまない」
レインの声が震えた。
「俺は——」
「泣いていいのよ」
アリシアがレインを抱きしめた。
「我慢しなくていい」
レインはアリシアの肩に顔を埋めた。
そして、声を殺して泣いた。
長い間、押し殺してきた感情が溢れ出す。
罪悪感。
後悔。
恐怖。
そして——それでも、生きていることへの感謝。
アリシアは何も言わなかった。
ただ、レインを抱きしめていた。
その温もりが、彼を包み込む。
どれくらいそうしていただろうか。
やがて、レインは顔を上げた。
「……すまない」
「謝らないで」
アリシアは涙を拭ってくれた。
「泣きたい時は、いつでも泣いていいのよ」
レインは頷いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
アリシアは微笑んだ。
「さあ、行きましょう。みんな、待ってるわ」
「ああ」
レインは深く息を吐いた。
胸が、軽くなっていた。
まるで、重い鎧を脱いだかのように。
井戸の広場には、大勢の人々が集まっていた。
貧民街の住民たち。
改革派の貴族たち。
建設に携わる職人たち。
そして——子供たち。
ケイの姿も、最前列にあった。彼は目を輝かせて、レインとアリシアを見つめている。
広場の中央には、大きな石が置かれていた。礎石だ。その表面には、まだ何も刻まれていない。これから、言葉が刻まれる。
アリシアが前に出た。
民衆が静まり返る。
彼女は深く息を吸い、口を開いた。
「皆さん」
その声は、広場全体に響いた。
「今日、ここに集まっていただき、ありがとうございます」
アリシアは広場を見渡した。
「この場所は、私にとって特別な場所です」
彼女は井戸を指差した。
「十年前。私はここで、一人の少年に出会いました」
民衆がざわめいた。
「その少年は、飢えて倒れていました。でも——諦めていなかった」
アリシアの声が、熱を帯びる。
「生きることを。未来を。希望を」
彼女はレインを見た。
レインは、ただ黙って立っていた。
「その少年が、私に教えてくれたんです」
アリシアは拳を握った。
「どんなに辛くても、諦めなければ——未来は変えられるって」
民衆の中から、拍手が起こった。
「だから、私は約束しました。この国を変えるって。貧しさに苦しむ人がいない国を作るって」
アリシアは礎石に近づいた。
「そして今日——その約束の第一歩を、ここで踏み出します」
彼女は礎石に手を置いた。
「この学校は、未来への礎です」
その声が、広場に響く。
「ここで学ぶ子供たちが、いつか——この国を変えてくれる」
アリシアは子供たちを見た。
ケイと、目が合った。
「だから、お願いします」
アリシアは微笑んだ。
「この学校を、みんなで作りましょう。未来を、一緒に」
民衆が歓声を上げた。
拍手が、雷のように鳴り響く。
アリシアは礎石から離れ、レインに手招きした。
レインは戸惑った。
俺が?
民衆の前で?
だが、アリシアの目が全てを語っていた。
一緒に、と。
レインは深く息を吸い、前に出た。
民衆のざわめきが大きくなる。
「王女様の旦那だ」
「元暗殺者だって噂の——」
その囁きが、レインの耳に届く。
だが、もう怯まなかった。
レインはアリシアの隣に立った。
そして——礎石に手を置いた。
冷たい石の感触。
それが、過去を思い出させる。
この手で、何人殺してきただろうか。
この手で、どれだけの血を流してきただろうか。
だが——
この手で、これから何かを作る。
学校を。
未来を。
希望を。
アリシアが、レインの手に自分の手を重ねた。
温かい。
その温もりが、レインの心を満たす。
二人の手が、礎石の上で重なっている。
過去と未来が、そこで交わる。
「レイン」
アリシアが囁いた。
「一緒に」
「ああ」
レインは頷いた。
「一緒に」
民衆が再び歓声を上げた。
ケイが、一番大きな声で叫んでいる。
「レイン兄ちゃん! すげえ!」
その声が、レインの胸を温めた。
兄ちゃん。
そう呼ばれるのが、悪くない。
いや——嬉しかった。
式典が終わり、民衆が散っていく。
だが、レインとアリシアは礎石の側に残った。
そして——ケイが駆け寄ってきた。
「レイン兄ちゃん!」
「おう」
レインは微笑んだ。
「見てたぞ。一番前で」
「うん!」
ケイは目を輝かせた。
「すげえな。本当に、学校ができるんだな」
「ああ」
レインは頷いた。
「約束しただろう」
「うん」
ケイは礎石に手を置いた。
「俺、絶対来る。毎日来る」
「ああ。待ってるぞ」
ケイはアリシアにも頭を下げた。
「王女様、ありがとうございます」
「どういたしまして」
アリシアは優しく微笑んだ。
「ケイ、あなたは頑張り屋さんね」
「……そうかな」
「ええ。だから、きっと立派になるわ」
ケイの目に、涙が浮かんだ。
「俺——頑張る」
「うん。応援してるわ」
ケイは再び頭を下げ、走り去っていった。
その背中を、二人は見送る。
「いい子ね」
アリシアが呟いた。
「ああ」
レインは頷いた。
「きっと、立派になる」
「あなたみたいに?」
「いや」
レインは首を横に振った。
「俺よりも、ずっと」
夕方になり、広場には二人だけが残された。
セシルは先に城へ戻り、職人たちも撤収した。
静けさが、再び広場を支配する。
レインとアリシアは、井戸の縁に座っていた。
十年前と、同じように。
「ねえ、レイン」
アリシアが口を開いた。
「覚えてる? ここで初めて会った時のこと」
「忘れるわけがない」
レインは井戸を見つめた。
「俺は、倒れていた。三日間、何も食べていなくて」
「そしたら、金髪の少女が——」
「パンをくれた」
二人は顔を見合わせて、微笑んだ。
「『友達なんだから』って、お前は言った」
「ええ」
アリシアは頷いた。
「それから、毎日のようにここに来たわね」
「ああ」
レインは空を見上げた。
夕焼けが、空を赤く染めている。
「お前は愚痴を言った。城の暮らしが息苦しいって」
「あなたは、夢を語った」
アリシアもまた、空を見上げた。
「『いつか、俺も立派になる。誰かを守れるくらい、強くなる』って」
「そんなこと、言ったっけか」
「言ったわよ」
アリシアは笑った。
「そしたら私、約束したの」
「『じゃあ私は、みんなが幸せになれる国を作る』」
レインが続けた。
「『レインみたいに苦しんでいる人がいない国を』」
二人の声が、重なった。
沈黙。
だが、それは心地よい沈黙だった。
「ねえ、レイン」
アリシアが井戸の縁に手を置いた。
「私たち、約束を守ってるわね」
「……まだ途中だ」
「でも、ここまで来た」
アリシアはレインを見つめた。
「あなたは、私を守ってくれた」
「お前は、国を変え始めた」
レインもまた、アリシアを見つめた。
「どっちも、まだ完成じゃない」
「そうね」
アリシアは微笑んだ。
「でも——」
彼女はレインの手を取った。
「一緒なら、できる」
その手が、温かかった。
「ああ」
レインは頷いた。
「一緒なら」
風が吹いた。
アリシアの髪が舞い、金色の輝きが夕日に溶ける。
レインは、その横顔を見つめた。
美しかった。
十年前も、今も。
だが、今は——ただ美しいだけじゃない。
強い。
優しい。
そして——愛おしい。
「アリシア」
レインが呼びかけた。
「何?」
「ありがとう」
アリシアは目を瞬かせた。
「何が?」
「俺を、救ってくれて」
レインは井戸を見つめた。
「あの日。ここで。お前が手を差し伸べてくれなかったら——」
彼は拳を握った。
「俺は、もっと違う道を歩んでいた」
「それは——」
「もっと、暗い道を」
レインの声が、静かに響く。
「人を殺すだけの、道を」
アリシアは黙って聞いていた。
「でも、お前がいた」
レインはアリシアを見つめた。
「だから、俺は——人間になれた」
その言葉が、アリシアの目に涙を浮かばせた。
「レイン——」
「これから、父親になる」
レインは自分の手を見た。
「この手で、子を抱く」
その手が、もう震えていなかった。
「怖いか?」
アリシアが尋ねた。
「……少し」
レインは正直に答えた。
「でも、もう逃げない」
彼はアリシアの手を握った。
「お前がいる。この子がいる。ケイがいる」
レインは広場を見渡した。
「守るべきものがある」
アリシアは涙を流しながら、微笑んだ。
「レイン、あなた——」
「変わったんだろうな」
レインも微笑んだ。
「お前と出会って。再会して」
「うん」
アリシアは頷いた。
「とっても」
二人は抱き合った。
井戸の側で。
夕日の中で。
二人だけの時間が、そこにあった。
城への帰り道、馬車の中でアリシアは眠っていた。
レインの肩に頭を預け、穏やかな寝息を立てている。
レインは窓の外を見た。
貧民街が、遠ざかっていく。
あの広場も。
あの井戸も。
だが、心の中には——確かに残っている。
ケイの笑顔。
アリシアの涙。
礎石の冷たさ。
そして——自分の手の温かさ。
レインは自分の手を見た。
この手は、たくさんの命を奪った。
ゼロの命も。
刺客たちの命も。
罪は消えない。
だが——
この手で、これから何かを作る。
学校を。
未来を。
そして——新しい命を、迎え入れる。
「師匠」
レインは小さく呟いた。
「見ているか」
返事は、当然ない。
だが、風に乗って——かすかに声が聞こえた気がした。
『よくやった』
そんな気がした。
レインは微笑んだ。
馬車は王城へと向かっていく。
後ろには、貧民街。
前には、未来。
レインは目を閉じた。
心が、穏やかだった。
もう、迷いはない。
もう、恐れることはない。
守るべきものがある。
愛するものがある。
生きる意味がある。
それだけで、十分だった。
馬車が揺れる。
アリシアが、小さく寝返りを打った。
レインは優しく、彼女の髪を撫でた。
そして——自分の手を、彼女のお腹に当てた。
胎動を感じる。
小さな、でも確かな命。
「待ってろ」
レインは囁いた。
「もうすぐ、会えるからな」
子供に語りかけるように。
父親として。
馬車は城門をくぐった。
石畳を踏む音が、規則正しく響く。
その音が、まるで——新しい人生の始まりを告げる鐘のようだった。
レインは窓の外を見た。
王城が、目の前に聳えている。
白亜の塔が、夕日を受けて輝いていた。
かつて、ここに暗殺者として潜入した。
彼女を殺すために。
だが、今——
ここは、家だった。
帰る場所だった。
愛する人がいる場所だった。
馬車が止まった。
御者が扉を開ける。
レインはアリシアを起こさないように、そっと抱き上げた。
「ん……」
アリシアが目を開けた。
「着いたの?」
「ああ」
「降ろして。自分で歩けるわ」
「いや」
レインは首を横に振った。
「このまま、部屋まで運ぶ」
「もう、恥ずかしい」
アリシアは顔を赤らめた。
「みんな見てるわよ」
「構わない」
レインは微笑んだ。
「お前は、俺の妻だ」
その言葉に、アリシアは諦めたように笑った。
「もう、仕方ないわね」
レインは城の中へと入っていった。
廊下を歩く。
すれ違う使用人たちが、微笑ましそうに二人を見る。
セシルもまた、廊下で待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
アリシアが答えた。
「お疲れ様でした、殿下」
「ありがとう、セシル」
セシルはレインにも頭を下げた。
「レイン様も」
「ああ」
レインは頷いた。
寝室に着くと、レインはアリシアをベッドに降ろした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
レインは窓を開けた。
夜風が、部屋に流れ込んでくる。
星が、無数に輝いていた。
「綺麗ね」
アリシアが呟いた。
「ああ」
レインは頷いた。
「今夜は、よく眠れそうだ」
「そう?」
「ああ」
レインはベッドに座った。
「心が、軽いんだ」
「良かった」
アリシアは微笑んだ。
「これから、もっと忙しくなるわよ」
「ああ」
「学校の建設。孤児院の運営。それに——」
アリシアは自分のお腹を撫でた。
「この子の準備も」
「大丈夫だ」
レインは言った。
「一緒なら、できる」
「そうね」
アリシアは目を閉じた。
「一緒なら」
二人は手を繋いだまま、眠りに落ちていった。
窓の外では、星が輝いている。
冷たく、でも優しく。
まるで、二人の未来を見守っているかのように。
レインは、最後に思った。
かつて殺すために握りしめた拳は、今、未来を掴むために開かれた。
そして、その手は——もう、震えていなかった。
―――完―――




