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[後日談]俺と王女は幼馴染。だけど、暗殺対象。

『俺と王女は幼馴染。だけど、暗殺対象。』後日談


 殺してきた手で、守るために


 深夜二時。


 レイン・アッシュフォードは、自分の両手を見つめていた。


 月明かりが窓から差し込み、その手を青白く照らしている。傷だらけの手。暗殺者として生きてきた証。人を殺すために振るってきた、この手。


 どれだけの命を、奪ってきただろうか。


 標的の顔が、次々と脳裏をよぎる。商人。貴族。役人。そして——組織の仲間さえも。冷たくなった体の感触。途絶える呼吸。見開かれたまま動かなくなる瞳。


 すべてを、この手が作り出した。


 レインは手のひらを見つめた。細かい傷痕が、無数に走っている。短剣を握りしめた痕。返り血を浴びた記憶。どれも消えることはない。


「……」


 隣では、アリシアが穏やかに眠っていた。


 金色の髪が、月光を受けてかすかに輝いている。規則正しい呼吸。安らかな寝顔。そして、わずかに膨らんだ腹部。


 妊娠五ヶ月。


 そこには、新しい命が宿っている。


 自分の子供が。


 レインは拳を握った。


 この手で——この、人を殺してきた手で、子を抱いていいのか。


 育てていいのか。


 守っていいのか。


 問いかけても、答えは返ってこない。


 ただ、沈黙だけがある。


 レインは立ち上がり、窓辺に立った。王都の夜景が広がっている。無数の明かりが、星のように煌めいていた。


 あの中に、貧民街もある。


 かつて自分が暮らしていた場所。飢えと寒さに苦しんだ場所。そして——アリシアと出会った場所。


 明日、いや今日——そこを訪れることになっている。


 学校建設の視察。アリシアの夢。貧しい子供たちに、学ぶ機会を与える場所。


 井戸のある、あの広場に。


 レインは再び、自分の手を見た。


「……俺に、できるのか」


 誰にともなく呟く。


 父親に。


 人を守る者に。


 未来を作る者に。


 かつてゼロは言った。『暗殺者に感情はいらない』と。『お前は刃だ』と。


 だが、自分はその刃を捨てた。


 組織を裏切り、師匠を殺し——人間になろうとした。


 なろうとした。


 だが、本当になれたのだろうか。


「レイン?」


 声がした。


 振り返ると、アリシアが目を覚ましていた。眠そうに目を擦りながら、こちらを見ている。


「また、眠れないの?」

「……ああ」


 レインは窓辺から離れた。


「すまない。起こしてしまったか」

「ううん」


 アリシアは首を横に振った。


「大丈夫。でも——」


 彼女はベッドの端に座り、レインに手を伸ばした。


「こっちに来て」


 レインは少し躊躇してから、彼女の隣に座った。


 アリシアは何も言わず、レインの手を取った。


 温かい。


 彼女の手は、いつも温かかった。


「また、手を見ていたのね」


 アリシアの声が、優しかった。


「……ああ」

「同じこと、何度も考えてるでしょう」


 図星だった。


 レインは黙って頷いた。


「この手で、子を抱いていいのかって」


 アリシアはレインの手を、両手で包み込んだ。


「いいに決まってるでしょう」

「でも——」

「でも、じゃないわ」


 アリシアの声が、少しだけ強くなった。


「あなたの手は、確かに——人を殺した」


 レインは目を逸らそうとした。だが、アリシアがそれを許さない。


「でも、それ以上に守ってきた」

「守った?」

「私を」


 アリシアはレインの手を、自分の頬に当てた。


「何度も。命をかけて」


 あの夜のことを、レインは思い出した。刺客が襲ってきた夜。組織との決別の夜。ゼロとの最後の戦いの夜。


 すべて、彼女を守るために。


「それに——」


 アリシアはレインの手を、自分のお腹に当てた。


「この子も、守ってくれるでしょう?」


 胎動を感じた。


 小さな、でも確かな命の鼓動。


 それが、レインの手のひらに伝わってくる。


「……ああ」


 レインの声が、掠れた。


「守る」

「だったら、大丈夫」


 アリシアは微笑んだ。


「あなたの手は、もう殺すための手じゃない」


 その言葉が、レインの胸に染み込んだ。


 だが——本当にそうだろうか。


 過去は消えない。


 罪は消えない。


 自分は本当に、変われたのだろうか。


「レイン」


 アリシアがレインの頬に手を当てた。


「不安なのね」

「……ああ」

「私も」


 その言葉に、レインは目を見開いた。


「お前も?」

「当たり前でしょう」


 アリシアは自分のお腹を撫でた。


「初めての子供よ。怖くないわけがない」


 彼女の目が、わずかに揺れている。


「ちゃんと育てられるか。いい母親になれるか。毎日、考えてる」

「……そうか」

「でもね」


 アリシアはレインの手を握った。


「あなたがいるから、大丈夫だって思える」


 その言葉が、レインの心を揺さぶった。


「二人でなら、できるって」


 アリシアは微笑んだ。


「だから、一人で抱え込まないで」


 レインは何も言えなかった。


 ただ、アリシアの手を握り返すことしかできない。


「さあ、寝ましょう」


 アリシアはベッドに横になった。


「明日——いえ、今日は視察があるわ。疲れてちゃダメよ」

「……ああ」


 レインも横になった。


 アリシアが、レインの腕に抱きつく。


「おやすみなさい」

「おやすみ」


 レインは目を閉じた。


 だが、眠れなかった。


 アリシアの規則正しい呼吸。


 お腹の中の子供の存在。


 そして——明日訪れる、あの場所のこと。


 井戸のある広場。


 すべてが始まった場所。


 そこに、また戻る。


 レインは再び、自分の手を見た。


 暗闇の中、その手は見えなかった。


 だが、感じることができた。


 この手の重さを。


 この手に染み付いた、血の記憶を。


 そして——これから、この手で何かを作らなければならないという、責任を。


 朝が来た。


 レインは結局、ほとんど眠れなかった。だが、それを顔には出さない。いつも通りの表情で、執務室へと向かった。


 アリシアは既に到着していた。机の上には、書類の山。貧民街改革プロジェクトの資料だ。


「おはよう、レイン」

「おはよう」


 レインは窓辺に立った。執務室からは、王都の街並みが一望できる。


 その中に、貧民街の一角が見える。


 あの場所が。


「レイン様」


 セシルが入ってきた。彼女もまた、資料を抱えている。


「おはようございます」

「ああ」


 セシルは資料を机に置き、アリシアに報告を始めた。


「殿下、建設予定地の整地が完了しました」

「そう。それは良かったわ」


 アリシアは資料に目を通す。


「技師たちの準備は?」

「万端です。いつでも着工できます」

「分かったわ」


 アリシアは顔を上げた。


「では、今日の午前中に視察に行きましょう」


 その言葉に、レインの心臓が跳ねた。


 今日。


 今日、あの場所に行く。


「レイン」


 アリシアが声をかけてきた。


「一緒に来てくれる?」

「……ああ」


 レインは頷いた。


 拒否する理由はない。


 いや、拒否したくない。


 あの場所を——もう一度、見たかった。


「あの場所、あなたにとっても特別な場所でしょう」


 アリシアの言葉に、レインは何も答えられなかった。


 特別。


 そうだ、特別だ。


 すべてが始まった場所。


 自分が人間になれると信じた場所。


 そして——


「分かった」


 レインは言った。


「行こう」


 アリシアは微笑んだ。


「ありがとう」


 セシルは二人のやりとりを見守っていたが、やがて資料をまとめ始めた。


「では、護衛の手配をいたします」

「お願い」


 アリシアは頷いた。


 セシルが退室した後、執務室には二人だけが残された。


「ねえ、レイン」


 アリシアが立ち上がり、窓辺に来た。


「楽しみね」

「……そうだな」


 レインは貧民街の方角を見つめた。


「十年ぶりだ」

「ううん、違うわ」


 アリシアは首を横に振った。


「あなた、組織にいた頃——あの辺りで任務をしたことがあるでしょう」


 図星だった。


 暗殺者として、何度か貧民街に足を運んだ。


 標的を追って。


 情報を集めて。


 だが、あの広場には——決して近づかなかった。


「……ああ」

「どうして、近づかなかったの?」


 アリシアの問いに、レインは少し考えてから答えた。


「怖かったんだと思う」

「怖い?」

「ああ」


 レインは拳を握った。


「あの場所に行けば——昔のことを思い出す」


 彼は目を閉じた。


「お前と過ごした日々を。約束を。希望を」


 そして——


「それを裏切った自分を」


 アリシアは黙ってレインを見つめていた。


「でも、もう大丈夫」


 レインは目を開けた。


「今は、お前がいる」

「ええ」


 アリシアはレインの手を取った。


「一緒よ」


 その手が、温かかった。


 レインは頷いた。


 そうだ。もう一人じゃない。


 一緒に、あの場所に行ける。


 過去と向き合える。


 そして——未来を作れる。


 その夜。


 視察の前夜。


 レインとアリシアは、寝室で向かい合っていた。


 アリシアはベッドに座り、レインは窓辺に立っている。


 月が、二人を照らしていた。


「レイン」


 アリシアが口を開いた。


「怖い?」

「何が」

「父親になること」


 その問いに、レインは答えに窮した。


 怖い。


 正直に言えば、怖い。


 だが、それを認めることが——


「怖い」


 レインは正直に答えた。


「俺は、人殺しだった」


 彼は自分の手を見た。


「この手で、何人殺してきたか分からない」


 手のひらの傷痕が、月光を受けて浮かび上がる。


「そんな人間が——親になっていいのか」

「いいに決まってるでしょう」


 アリシアは即座に答えた。


「どうして、そう言い切れる」

「だって」


 アリシアは立ち上がり、レインに近づいた。


「あなたは、もう暗殺者じゃない」


 彼女はレインの手を取った。


「今のあなたは——私の夫」


 その言葉が、レインの胸を温めた。


「そして、この子の父親」


 アリシアはレインの手を、自分のお腹に当てた。


 胎動。


 小さな命が、そこにある。


「感じる?」

「……ああ」


 レインの声が震えた。


「この子が、あなたを待ってるのよ」


 アリシアの目が、潤んでいた。


「だから——怖がらないで」

「でも——」

「過去は変えられない」


 アリシアが遮った。


「でも、未来は作れる」


 その言葉が、レインの心に響いた。


 未来。


 そうだ。もう過去には戻れない。


 だが、これから——


「あなたの手は、確かに人を殺した」


 アリシアはレインの手を、自分の頬に当てた。


「でも、この手は——私を守った」


 彼女は微笑んだ。


「何度も。命をかけて」


 レインは何も言えなかった。


「だから、この手で——この子を抱いて」


 アリシアの涙が、零れ落ちた。


「お願い」


 レインは、アリシアを抱きしめた。


 彼女の温もりが、自分を包み込む。


「……ああ」


 レインの声が、掠れた。


「抱く。必ず」


 二人は抱き合ったまま、しばらく動かなかった。


 月明かりが、二人を照らしている。


 やがて、アリシアが顔を上げた。


「明日、あの場所に行くわね」

「ああ」

「楽しみ」


 アリシアは微笑んだ。


「あの井戸、覚えてる?」

「忘れるわけがない」


 レインも微笑んだ。


「そこで、お前に初めて会った」

「そして、友達になった」

「ああ」


 二人は手を繋いだまま、ベッドに横になった。


「おやすみなさい、レイン」

「おやすみ」


 アリシアは、すぐに眠りに落ちた。


 だが、レインは——やはり眠れなかった。


 目を閉じても、脳裏に浮かぶのは——


 井戸のある広場。


 金色の髪の少女。


『友達なんだから』という言葉。


 そして——これから築く未来。


 レインは自分の手を見た。


 月明かりに照らされた、傷だらけの手。


 この手で——


 明日、あの場所に立つ。


 過去と向き合う。


 そして——新しい一歩を踏み出す。


 レインは深く息を吐いた。


 怖い。


 正直に言えば、まだ怖い。


 だが——


 隣には、愛する人がいる。


 お腹には、新しい命が宿っている。


 それだけで——前に進める。


 レインは目を閉じた。


 今夜は、眠れないかもしれない。


 だが、それでいい。


 明日に備えて——心の準備をする時間が必要だった。


 窓の外では、月が静かに輝いている。


 その光は冷たく、でも優しく——まるで、レインの決意を見守っているかのようだった。


 後日談 第2部:過去との再会


 貧民街の入口は、十年前と変わらなかった。


 薄暗い路地へと続く石造りのアーチ。壁には黴と湿気の染み。朝日が差し込んでも、ここだけは影に包まれている。まるで、光を拒むかのように。


 レインは馬車を降り、その入口を見つめた。


 体が、記憶している。足が、勝手に道を知っている。この先にある路地の曲がり角。石畳の割れた場所。壁の窪み。すべてが、かつての自分を呼び起こす。


「レイン」


 アリシアが隣に立った。簡素な旅装に身を包んだ彼女は、王女というより旅人のようだった。だが、その金髪だけは隠せない。朝日を受けて、まるで光そのもののように輝いている。


「大丈夫?」

「……ああ」


 嘘だった。大丈夫ではない。だが、それを口にすることはできなかった。


「殿下、護衛を密にします」


 セシルが指示を出す。彼女の後ろには、十名ほどの護衛兵。だが、アリシアは首を横に振った。


「護衛は最小限でいいわ。あまり大げさにしたくない」

「ですが——」

「セシルと、レインがいれば十分よ」


 その言葉に、セシルは渋々頷いた。レインもまた、無言で頷く。


 三人は貧民街へと足を踏み入れた。


 路地は狭い。両側の壁が迫り、空が細い帯のように見えるだけ。足元の石畳は汚れ、所々が割れている。壁には落書き。窓からは洗濯物が垂れ下がり、どこからか子供の泣き声が聞こえてくる。


 レインの鼻が、匂いを捉えた。


 土と、埃と、生活の匂い。それに混じる、わずかな腐敗臭。ゴミの山から漂ってくるもの。かつて、自分もこの匂いの中で暮らしていた。


「ここは……」


 アリシアが息を呑んだ。


「十年前と、あまり変わっていないのね」


 その声には、痛みが滲んでいた。改革を進めてきた。民のために戦ってきた。それでも、この場所は——まだ、ここにある。


「いや」


 レインが言った。


「少しは、変わっている」


 彼は路地の先を指差した。そこには、小さな診療所があった。白い壁に、赤十字の印。十年前には、なかったものだ。


「改革の成果だ。お前がやったことは、無駄じゃない」


 アリシアは微笑んだ。だが、その笑顔はどこか寂しげだった。


「まだまだね。やることは、たくさんある」


 三人は路地を進んだ。曲がり角を曲がる度に、レインの記憶が蘇る。


 ここで、パンを盗もうとして失敗した。


 ここで、雨宿りをした。


 ここで、衛兵に追われて逃げた。


 すべてが、昨日のことのように鮮明だった。


「レイン」


 セシルが声をかけてきた。


「あなた、ここの地理に詳しいわね」

「……昔、住んでいたからな」

「そう」


 セシルは何も聞かなかった。ただ、その目には理解の色があった。彼女は知っている。レインがどこから来たのか。何者だったのか。


 そして、今、何者になろうとしているのか。


 やがて、路地が開けた。


 小さな広場に出る。


 レインの足が、止まった。


 そこには、古い井戸があった。石造りの井戸。縁は苔むし、所々が欠けている。だが、確かにそこにある。十年前と、変わらない姿で。


「……ここ」


 アリシアの声が震えた。


「ここよ。ここで、私たち——」


 彼女は井戸へと歩み寄った。その縁に手を置く。冷たい石の感触。それが、過去を呼び起こす。


「七歳の誕生日だったわ」


 アリシアは目を閉じた。


「城を抜け出して、ここまで来たの。王族の暮らしが息苦しくて。外の世界を見たくて」


 レインは黙って聞いていた。彼もまた、その日のことを覚えている。


「そしたら、井戸の側で——」


 アリシアは井戸の縁を撫でた。


「一人の男の子が、倒れていた」


 レインの脳裏に、記憶が蘇る。


 あの日、自分は三日間何も食べていなかった。盗もうとしたパンは衛兵に見つかり、逃げる途中で力尽きた。気がついたら、井戸の縁に倒れていた。


 そして——金色の髪の少女が、自分の顔を覗き込んでいた。


「大丈夫?」


 その声が、今でも耳に残っている。


「あなた、レインって名乗ったわね」


 アリシアは目を開けた。その碧眼が、レインを見つめる。


「私が名前を聞いたら、警戒した目でそう答えた。まるで、誰も信じていないような——」

「……ああ」


 レインは井戸に近づいた。アリシアの隣に立つ。


「俺は、誰も信じていなかった」


 彼は井戸の中を覗き込んだ。暗い。底が見えない。まるで、かつての自分の心のように。


「でも、お前だけは違った」


 レインは井戸の縁に手を置いた。アリシアの手のすぐ隣に。


「お前は、俺を人として見てくれた。貧民の子供としてじゃなく。レインとして」

「そうよ」


 アリシアは微笑んだ。


「だって、友達だもの」


 その言葉が、レインの胸を温めた。


 友達。そう、最初は友達だった。身分も、立場も、すべてを超えて。ただの子供同士として。


「ねえ、レイン」


 アリシアが井戸の縁に座った。


「ここで、色んな話をしたわね」

「ああ」


 レインも隣に座る。石の冷たさが、尻から伝わってくる。


「私の愚痴も、あなたの夢も」


 夢。


 レインは空を見上げた。貧民街の上空は、狭い。建物に挟まれて、わずかな空しか見えない。だが、あの頃は——この狭い空が、世界のすべてだった。


「俺に、夢なんてあっただろうか」


 レインは呟いた。


「あったわよ」


 アリシアは即座に答えた。


「あなたね、言ったのよ。『いつか、俺も立派になる。誰かを守れるくらい、強くなる』って」


 レインの胸が、締め付けられた。


 そんなことを言ったのか。覚えていない。いや、忘れようとしていたのかもしれない。


「私、その言葉が嬉しくて」


 アリシアは立ち上がり、広場の中央に立った。


「だから約束したの。『じゃあ私は、みんなが幸せになれる国を作る。レインみたいに苦しんでいる人がいない国を』って」


 彼女は両手を広げた。まるで、この貧民街全体を抱きしめようとするかのように。


「この約束が、私の全てなの」


 アリシアの声が、広場に響く。


「女王になりたいのも、改革を進めたいのも、全部——あの日の約束を守るため」


 レインは立ち上がった。アリシアの隣に立つ。


「だから、ここに学校を建てるんだ」

「そうよ」


 アリシアは頷いた。


「あなたみたいな子供が、未来を諦めなくていいように」


 その時、広場の端で物音がした。


 レインは反射的に身構える。暗殺者の本能が、まだ抜けていない。


 だが、現れたのは——子供だった。


 ぼろを纏った、痩せこけた少年。年は十歳前後だろうか。その目は警戒に満ちていたが、どこか興味津々でもあった。


「……誰だ、お前ら」


 少年の声は、掠れていた。


 レインは、その少年を見つめた。


 まるで、鏡を見ているようだった。


 ぼろを纏った姿。痩せた体。警戒した目。そして、それでも消えない——生への執着。


 かつての、自分自身だった。


「あなたは?」


 アリシアが優しく問いかけた。少年は一歩後ずさる。


「……ケイ」

「ケイね。私はアリシア。こっちは——」

「知ってる」


 ケイはレインを指差した。


「お前、王女様の旦那だろ。噂で聞いた」


 レインは何も答えなかった。ただ、その少年を見つめ続ける。


「ここで、何してんだ」

「学校を建てるのよ」


 アリシアが答えた。ケイの目が、わずかに見開かれる。


「学校?」

「そう。あなたみたいな子供が、ちゃんと学べる場所」


 ケイは信じられないという顔をした。


「……俺みたいな?」

「ええ」


 アリシアは微笑んだ。


「誰だって、学ぶ権利があるの。生まれた場所なんて、関係ない」


 ケイは黙り込んだ。その目が、揺れている。信じたい。でも、信じられない。そんな感情が、入り混じっていた。


「……本当か?」

「本当よ」


 アリシアは頷いた。


「嘘なんかじゃない。必ず、ここに学校を建てる」


 ケイはアリシアを見つめ、それからレインを見た。


「あんたは?」


 その問いに、レインは少し考えてから答えた。


「……ああ。本当だ」


 ケイの顔に、わずかな笑みが浮かんだ。


「そっか」


 彼は踵を返し、路地へと走り去った。その背中を、レインは見送る。


 まるで、過去の自分が走り去っていくようだった。


「……あの子」


 セシルが呟いた。


「殿下と出会う前の、レイン様に似ていますね」

「ああ」


 レインは頷いた。


「だから——」


 彼は広場を見渡した。古びた井戸。割れた石畳。薄暗い路地。すべてが、かつての自分を映している。


「ここに、未来を作らなければならない」


 アリシアがレインの手を握った。


「一緒に、ね」

「ああ。一緒に」


 二人は手を繋いだまま、しばらくそこに立っていた。


 やがて、セシルが声をかけた。


「殿下、建設技師たちが到着しました」

「分かったわ」


 アリシアは広場の端に設営された、仮設のテントへと向かった。そこには、数名の建築技師と、改革派の官僚たちが待っている。


「お待ちしておりました、殿下」


 初老の技師が一礼した。


「早速ですが、計画をご説明いたします」


 テントの中央には、大きな図面が広げられていた。広場の見取り図。そして、その上に描かれた建物の設計図。


「この広場を中心に、三階建ての校舎を建設します」


 技師が図面を指差しながら説明する。


「一階は教室。二階は図書室と実習室。三階は——」

「孤児院」


 アリシアが遮った。


「三階は、孤児院にしてください」


 技師は目を瞬かせた。


「孤児院、ですか」

「ええ。学ぶ場所だけじゃなく、住む場所も必要なの。家のない子供たちのために」


 アリシアの声には、強い意志が込められていた。


「承知いたしました。では、設計を変更して——」

「それから」


 アリシアは図面の中央、井戸の場所を指差した。


「この井戸は、残してください」

「ですが、建設の邪魔になるかと——」

「残してください」


 アリシアの声が、きっぱりと響いた。


「この井戸は、大切な場所なの。ここから、すべてが始まったから」


 技師は戸惑いながらも頷いた。


「分かりました。井戸を中心に、中庭のような形で設計し直します」

「お願いします」


 アリシアは微笑んだ。


 レインは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。彼女は変わっていない。十年前と同じ。民のために戦う、その姿勢。


 だが、同時に——変わったものもある。


 彼はアリシアの腹部に視線を向けた。まだ目立たないが、確かにそこには命が宿っている。二人の子供。


 守らなければならない。


 この場所を。この未来を。そして——彼女と、子供を。


「それでは、名称についてですが」


 官僚の一人が言った。


「『ヴェルディア王女記念学院』というのは、いかがでしょうか」

「いいえ」


 アリシアは即座に首を横に振った。


「私の名前は要りません」

「ですが——」

「この学校は、私のためのものじゃない。子供たちのためのもの」


 アリシアは図面を見つめた。


「だから——『希望の学び舎』。それがいいわ」


 希望の学び舎。


 その名前が、広場に静かに響いた。


 説明が終わり、技師たちは準備のために散っていった。残されたのは、アリシア、レイン、セシルの三人だけ。


「殿下、そろそろ戻りましょう」


 セシルが言った。空を見上げると、太陽が高く昇っている。もう昼近くだ。


「そうね」


 アリシアは頷いた。だが、井戸から離れようとしない。


「……もう少しだけ、ここにいたいの」


 セシルは理解したように微笑み、少し離れた場所へと下がった。


 アリシアとレイン、二人だけが井戸の側に残された。


「ねえ、レイン」


 アリシアが呟いた。


「この井戸、覚えてる?」

「忘れるはずがない」

「そうよね」


 彼女は井戸の縁に手を置いた。


「ここで、あなたに初めてパンをあげたの」


 レインは思い出した。あの時、自分は受け取ろうとしなかった。他人からの施しを、拒絶していた。


 だが——


「『友達なんだから』って、お前は言った」

「ええ」


 アリシアは微笑んだ。


「そうしたら、あなた——すごく驚いた顔をして。それから、ゆっくりとパンを受け取った」


 その記憶は、レインの心に深く刻まれている。


 あれが、初めてだった。


 誰かに「友達」と呼ばれたのは。


 誰かに受け入れられたのは。


 誰かに——必要とされたのは。


「あの時、私も嬉しかったのよ」


 アリシアは井戸の縁に座った。


「城では、みんな『王女様』って呼ぶ。でも、あなただけは違った」


 彼女は空を見上げた。


「『アリシア』って、名前で呼んでくれた」


 レインは隣に座った。石の冷たさが、また尻から伝わってくる。


「お前は、王女じゃなかった」

「そう。ただの、女の子だった」


 二人は並んで座り、しばらく黙っていた。


 広場には、誰もいない。ただ、風が吹き抜けていくだけ。


「レイン」


 アリシアが口を開いた。


「あなた、怖い?」

「何が」

「父親になること」


 その問いに、レインは答えられなかった。


 怖い。


 正直に言えば、怖い。


 自分のような人間が、親になっていいのか。人を殺してきた手で、子を抱いていいのか。


「……分からない」


 レインは正直に答えた。


「俺は、ずっと一人だった。誰かを守るとか、育てるとか——そんなこと、考えたこともなかった」

「でも、今は?」

「今は——」


 レインは拳を握った。


「守りたいと思う。お前を。子供を。そして——」


 彼は広場を見渡した。


「この場所を」


 アリシアは微笑んだ。


「それで十分よ」


 彼女はレインの手を取った。


「あなたは、もう一人じゃない。私がいる。この子がいる。そして——」


 アリシアは広場を指差した。


「ケイみたいな子供たちがいる」


 レインは頷いた。


 そうだ。もう一人じゃない。


 守るべきものがある。


 戦う理由がある。


 生きる意味がある。


「行こう」


 レインは立ち上がり、アリシアに手を差し伸べた。


「ああ、これから忙しくなるわよ」


 アリシアはその手を取り、立ち上がった。


「学校の建設。孤児院の運営。それに——」


 彼女は自分のお腹に手を当てた。


「この子の準備も」


 レインは微笑んだ。


「大丈夫だ。お前なら、できる」

「私じゃないわ」


 アリシアは首を横に振った。


「私たちなら、できる」


 その言葉が、レインの胸を温めた。


 私たち。


 もう、一人じゃない。二人で歩んでいく。


 二人は手を繋ぎ、広場を後にした。


 井戸だけが、そこに残された。十年前と変わらない姿で。だが、その周りには——これから、新しい未来が築かれていく。


 路地を抜け、馬車へと戻る道すがら、レインは振り返った。


 広場が、まだ見えた。あの井戸が、小さく見えた。


 あそこから、すべてが始まった。


 そして、あそこから——新しい物語が始まろうとしている。


「レイン、どうしたの?」


 アリシアが不思議そうに尋ねる。


「いや」


 レインは前を向いた。


「何でもない」


 二人は馬車に乗り込んだ。セシルが御者台で手綱を取る。馬車がゆっくりと動き出した。


 貧民街の路地を抜け、城下町へと戻る。徐々に、周囲が明るくなっていく。建物も、道も、人々の表情も。


 だが、レインの心には——あの広場の景色が、焼き付いて離れなかった。


 井戸。


 ケイ。


 そして、これから建つ学校。


 馬車の中、アリシアがレインの肩に頭を預けた。


「疲れた?」

「少し」


 レインは窓の外を見た。


「でも、悪くない」

「そうね」


 アリシアは目を閉じた。


「これから、もっと忙しくなるわ」

「ああ」

「でも——」


 彼女は微笑んだ。


「楽しみね」


 レインは頷いた。


 楽しみ。


 そんな感情を抱いたのは、いつ以来だろうか。


 暗殺者だった頃には、なかった感情。


 だが、今——確かにそこにある。


 馬車は城へと向かっていく。


 後ろには、貧民街。


 前には、王城。


 過去と未来を繋ぐ道を、二人は進んでいく。


 レインは自分の手を見た。


 この手で、何人殺してきただろうか。


 だが、この手で——これから、何かを作っていく。


 学校を。


 未来を。


 そして——新しい命を、迎え入れる。


 手のひらの傷跡が、わずかに疼いた。


 過去は消えない。


 だが、それでも——前に進める。


 レインは拳を握り、また開いた。


 この手は、もう震えていなかった。


 後日談 第3部:過去の自分との対峙


 その日の午後、レインは一人で貧民街に戻っていた。


 アリシアは城で休んでいる。妊娠五ヶ月の体に、午前中の視察は負担だったのだろう。セシルが付き添い、レインだけが再び貧民街へと足を向けた。


 理由は、自分でも分からなかった。


 ただ、あの少年——ケイのことが、気にかかっていた。


 路地を抜け、広場に出る。


 午後の陽射しが、井戸を照らしていた。朝よりも明るい。だが、広場には相変わらず人影がない。ただ、建設予定を示す杭が、幾つか打たれているだけ。


 レインは井戸の縁に腰を下ろした。


 石の冷たさ。それは、変わらない。十年前も、今も。


「……戻ってきちまったな」


 誰にともなく呟く。


 この場所に、何を求めているのだろう。過去か。それとも、未来か。


「おっちゃん」


 声がした。


 振り返ると、ケイが立っていた。午前中よりも警戒心が薄れているように見える。だが、まだ完全には心を開いていない。


「……おっちゃんって歳じゃない」


 レインは溜息をついた。


「じゃあ、何て呼べばいいんだ」

「レインでいい」

「レイン、か」


 ケイは井戸に近づいてきた。レインから少し離れた場所に座る。


「なんで戻ってきたんだ」

「さあな」


 レインは空を見上げた。


「お前こそ、なんでここにいる」

「俺の家だからな」


 ケイは広場を指差した。その先には、崩れかけた建物がある。


「あそこに住んでる」

「……一人で?」

「ああ」


 ケイは頷いた。


「親は、もういない」


 その言葉に、レインの胸が締め付けられた。


「病気で死んだ」


 ケイは淡々と続けた。


「二年前に、母さんが。去年、父さんが」


 感情を殺した声。それは、かつてのレイン自身の声と同じだった。


「それから?」

「盗みで食ってる」


 ケイは拳を握った。


「でも、いつか——立派になる」

「立派、か」


 レインは繰り返した。


「どういう意味だ、お前にとって」


 ケイは少し考えてから答えた。


「強くなること。誰にも負けないくらい」


 その答えが、レインの記憶を呼び起こす。


 自分も、同じことを言った。アリシアに。


「それだけか」

「……あと」


 ケイは井戸を見つめた。


「誰かを守れるくらい」


 レインの心臓が、大きく跳ねた。


 同じだ。


 この少年は、かつての自分と——まったく同じことを言っている。


「なんで、守りたいんだ」

「分かんねえ」


 ケイは首を横に振った。


「でも、俺——弱いやつが虐められてるの、見るの嫌なんだ」


 彼は拳を震わせた。


「親が死んで、俺が一人になった時。みんな、俺のこと馬鹿にした。『孤児のくせに』って。石を投げられたこともある」


 ケイの目に、涙が浮かんでいた。だが、流そうとしない。


「だから、強くなる。そうすれば、誰も馬鹿にできない」


 レインは何も言えなかった。


 この少年の痛みが、分かりすぎるほど分かった。


 自分も、同じだった。


 貧民街で育ち、虐げられ、それでも生きてきた。強くなりたいと願った。誰にも屈しない自分になりたいと。


 そして——組織に拾われた。


 暗殺者として。


「なあ、ケイ」


 レインは口を開いた。


「強くなって、それからどうする」

「え?」

「誰かを守るって言ったな。誰を守りたいんだ」


 ケイは黙り込んだ。


「……分かんねえ」


 しばらくして、彼は呟いた。


「でも、俺みたいに——一人ぼっちの奴がいたら、助けたい」


 その言葉が、レインの胸を貫いた。


 この少年は、まだ純粋だ。


 歪んでいない。


 憎しみに染まっていない。


 だからこそ——この子を、自分と同じ道に進ませてはいけない。


「なあ、ケイ。学校のこと、覚えてるか」

「ああ」


 ケイは頷いた。


「本当に、できるのか?」

「本当だ」


 レインは断言した。


「ここに、必ず学校ができる。お前みたいな奴が、ちゃんと学べる場所が」

「……俺、字も読めないけど」

「だから学ぶんだろう」


 レインは立ち上がった。


「強くなりたいなら、まず学べ。本当の強さは、腕力だけじゃない」


 ケイは不思議そうにレインを見上げた。


「レイン、あんた——強いのか?」

「……さあな」


 レインは自分の手を見た。


「強かったかもしれない。でも、それは——間違った強さだった」

「間違った?」

「ああ」


 レインは拳を握った。


「俺は、人を傷つけることしか知らなかった。守るんじゃなくて、壊すことしか」


 ケイの目が、見開かれた。


「でも、今は違う」


 レインは拳を開いた。


「今は、守ることを学んでいる」


 ケイは黙ってレインを見つめていた。その目には、何かを探るような色があった。


「なあ、レイン」

「なんだ」

「あんた、本当に——あの王女様の旦那なのか?」

「……ああ」

「どうして」


 その問いに、レインは少し考えてから答えた。


「彼女が、俺を救ってくれたからだ」

「救った?」

「ああ」


 レインは井戸を見つめた。


「十年前。ここで。俺は飢えて倒れていた。お前と同じように」


 ケイの息を呑む音が聞こえた。


「そしたら、金髪の少女が——今の王女様が、俺を助けてくれた」


 レインは井戸の縁に手を置いた。


「パンをくれた。『友達なんだから』って言って」


 その記憶が、鮮明に蘇る。


「それが、俺にとって——初めてだった」

「初めて?」

「誰かに、必要とされたのが」


 レインの声が、わずかに震えた。


「それまで、俺は一人だった。誰も信じていなかった。でも、彼女だけは違った」


 ケイは黙って聞いていた。


「だから、俺は——彼女を守ると決めた」


 レインは振り返り、ケイを見つめた。


「お前も、きっと見つかる」

「何が」

「守りたいもの」


 その言葉に、ケイの目が揺れた。


「でも——」

「焦るな」


 レインはケイの頭に手を置いた。


「まずは、学べ。生きろ。そうすれば、いつか分かる」


 ケイは黙って頷いた。


 二人はしばらく、そこに立っていた。


 やがて、ケイが口を開いた。


「なあ、レイン」

「なんだ」

「学校、本当にできたら——俺、行っていいのか?」

「当たり前だ」


 レインは即座に答えた。


「お前のための学校だ」

「……俺の?」

「ああ。お前みたいな子供のための」


 ケイの目に、涙が浮かんだ。今度は、堪えきれずに零れ落ちる。


「ありがとう」


 小さな声だった。だが、レインの耳にははっきりと届いた。


「礼を言うのは、まだ早い」


 レインは微笑んだ。


「学校ができてから、ちゃんと来いよ」

「……うん」


 ケイは涙を拭った。


「約束する。絶対、行く」

「よし」


 レインは頷いた。


「じゃあ、俺も約束する。必ず、学校を作る」


 二人は拳を突き合わせた。


 小さな約束。だが、それは確かに——この場所で交わされた。


 その時、広場の入口から声が聞こえた。


「レイン様!」


 セシルだった。息を切らして、こちらに走ってくる。


「どうした」

「殿下が——心配なさって」


 セシルは立ち止まり、呼吸を整えた。


「一人で貧民街に来るなんて、危険です」

「すまない」


 レインは頭を下げた。


「少し、気になることがあって」


 セシルはケイに気づいた。


「この子は?」

「ケイ。この辺りに住んでいる」

「そう」


 セシルは優しくケイに微笑みかけた。


「私はセシル。王女様の侍女よ」

「……セシル」


 ケイは戸惑いながらも、小さく頭を下げた。


「殿下が、お呼びです。戻りましょう」

「ああ」


 レインは頷いた。だが、その前にケイに向き直る。


「また来る」

「……本当か?」

「ああ。約束しただろう」


 ケイは笑った。初めて見る、本当の笑顔だった。


「待ってる」


 レインとセシルは広場を後にした。路地を抜け、馬車が待つ場所へと向かう。


「レイン様」


 歩きながら、セシルが言った。


「あの子、あなたに似ていますね」

「……そうか?」

「ええ。昔のあなたに」


 セシルは微笑んだ。


「だから、放っておけなかったのでしょう」


 レインは何も答えなかった。


 図星だった。


 あの少年を見て、自分を見た。


 そして——もし、自分がアリシアに出会っていなかったら、どうなっていたかを想像した。


 暗殺組織に拾われる前に、誰かが手を差し伸べてくれていたら。


 学ぶ場所があったら。


 温かい食事があったら。


 未来への希望があったら。


 自分は、暗殺者にならずに済んだのだろうか。


「レイン様」


 セシルが立ち止まった。


「あなたは、優しい方ですね」

「……優しい?」


 レインは首を横に振った。


「俺は、人を殺してきた。優しいなんて——」

「過去は変えられません」


 セシルが遮った。


「でも、未来は作れます。あなたは今、それをしようとしている」


 その言葉が、レインの胸に染み込んだ。


 未来を作る。


 そうだ。もう過去には戻れない。


 だが、これから——作っていくことはできる。


 二人は馬車に乗り込んだ。


 御者が手綱を取り、馬車が動き出す。


 レインは窓から、貧民街を見つめた。


 あの広場に、ケイがまだいるかもしれない。


 一人で、井戸の側に座っているかもしれない。


 でも——もう、完全に一人じゃない。


 約束がある。


 未来がある。


 希望がある。


 馬車は城へと向かっていく。


 レインは目を閉じた。


 ケイの笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。


 あの笑顔を、守りたい。


 あの希望を、壊させたくない。


 だから——学校を作る。


 約束を果たす。


 そして——この手で、未来を掴む。


 城に戻ると、アリシアが執務室で待っていた。


「レイン!」


 彼女は駆け寄ってきた。


「心配したのよ。一人で貧民街なんて——」

「すまない」


 レインは頭を下げた。


「少し、確認したいことがあって」

「確認?」


 アリシアは首を傾げた。


「あの少年——ケイのことか?」


 レインは頷いた。


「気になったんだ」

「そう」


 アリシアは微笑んだ。


「あなたらしいわ」


 彼女は椅子に座り、レインにも座るよう促した。


「どうだった? ケイは」

「……元気だった」


 レインは答えた。


「それに、約束した」

「約束?」

「学校ができたら、必ず来るって」


 アリシアの顔が、ぱっと明るくなった。


「本当? それは嬉しいわ」

「ああ」


 レインは窓の外を見た。


「あの子、俺に似ている」

「そうね」


 アリシアは頷いた。


「でも、あの子はあなたと違って——もう一人じゃない」

「……そうだな」

「あなたがいる。私がいる。セシルもいる」


 アリシアは立ち上がり、レインの隣に立った。


「そして、これから学校ができる」


 彼女はレインの手を取った。


「あの子は、幸せになれるわ」

「ああ」


 レインは頷いた。


「必ず」


 二人は手を繋いだまま、窓の外を見つめた。


 王都の街並みが、夕日に染まっている。


 その中に、貧民街もある。


 あの井戸の広場も。


 ケイも。


「ねえ、レイン」


 アリシアが呟いた。


「私たち、いいことをしているのよね」

「……ああ」

「本当に、あの子たちの未来を変えられるのかしら」


 その問いに、レインは少し考えてから答えた。


「分からない」

「え?」

「でも——」


 レインはアリシアを見つめた。


「やらなければ、何も変わらない」


 アリシアは微笑んだ。


「そうね」


 彼女は自分のお腹に手を当てた。


「この子のためにも、いい世界を作らなきゃ」


 レインもまた、アリシアのお腹に手を重ねた。


 胎動を感じる。小さな、でも確かな命の鼓動。


「ああ。必ず」


 夕日が沈み、夜の帳が降りてくる。


 だが、城には明かりが灯され、温かな光が窓から溢れていた。


 レインとアリシアは、しばらくそこに立っていた。


 手を繋ぎ、未来を見つめながら。


 その夜、レインは再び眠れなかった。


 寝室の窓辺に立ち、夜空を見上げる。


 星が、無数に輝いていた。


 ケイの顔が、脳裏に浮かぶ。


 あの少年は、自分と同じ道を歩むことになるのだろうか。


 いや——違う。


 もう、道は違う。


 ケイには、学校がある。


 温かい食事がある。


 仲間がいる。


 希望がある。


 自分と同じように、組織に拾われることはない。


 暗殺者になることもない。


 人を殺す道を歩むこともない。


「レイン」


 アリシアが目を覚ました。


「また、眠れないの?」

「……ああ」

「こっちにいらっしゃい」


 アリシアはベッドを叩いた。


 レインは窓辺を離れ、ベッドに戻った。


 アリシアが彼の腕に抱きつく。


「何を考えてたの」

「ケイのこと」

「そう」


 アリシアは微笑んだ。


「心配?」

「……少し」

「大丈夫よ」


 アリシアはレインの胸に頭を預けた。


「あの子は、強い子よ。きっと、立派になる」

「ああ」


 レインは頷いた。


「俺よりも、ずっと」

「あなたも、十分立派よ」


 アリシアは目を閉じた。


「人を守ろうとしている。それだけで、十分」


 レインは何も答えなかった。


 ただ、アリシアを抱きしめた。


 温かい。


 柔らかい。


 そして——生きている。


 この人を、守る。


 この子を、守る。


 ケイを、守る。


 貧民街の子供たちを、守る。


 それが、自分の使命だ。


 もう、殺すためじゃない。


 守るために、生きる。


「レイン」


 アリシアが眠そうに呟いた。


「愛してるわ」


 その言葉が、レインの胸を満たした。


「俺も」


 小さく、だが確かに答えた。


「愛している」


 アリシアはもう眠りに落ちていた。


 規則正しい呼吸。


 平和な寝顔。


 レインはそっと、彼女の髪を撫でた。


 そして——自分の手を見た。


 暗闇の中、その手は見えなかった。


 だが、感じることができた。


 この手の温かさを。


 この手の重さを。


 そして——この手に宿る、新しい力を。


 殺すための手じゃない。


 守るための手。


 創るための手。


 レインは目を閉じた。


 今夜は、眠れそうだった。


 隣には愛する人がいる。


 お腹には新しい命が宿っている。


 そして、貧民街には——希望を持った少年がいる。


 それだけで、十分だった。


 レインは深く息を吐き、眠りに落ちていった。


 穏やかな、暗殺者だった頃には一度も見たことのない——安らかな眠りに。


 後日談 第4部:小さな危機


 視察から三日が過ぎた。


 その間、貧民街では建設の準備が着々と進んでいた。資材が運び込まれ、職人たちが測量を始め、広場には活気が戻りつつあった。


 だが——


 レインの中で、警鐘が鳴っていた。


 暗殺者としての本能。それは、組織を離れた今でも消えていない。危険を察知する感覚。それが、何かを告げていた。


「レイン様」


 夜、執務室でセシルが声をかけてきた。アリシアは既に寝室に戻り、レインだけが残っていた。


「どうした」

「報告があります」


 セシルの表情が、硬い。


「貧民街で、不審な動きが」


 レインの目が、鋭くなった。


「詳しく」

「学校建設に反対する声が出ています。作業員への嫌がらせ、資材の破壊——」

「保守派残党か」

「おそらく」


 セシルは資料を手渡した。


「ダリウス公爵は失脚しましたが、その残党はまだ各地に散らばっています」


 レインは資料に目を通した。だが、文字は頭に入ってこない。


 ただ、本能が叫んでいた。


 これは、前触れだ。


 本命は、別にある。


「警備を強化しろ」


 レインは資料を置いた。


「特に、殿下の護衛を」

「承知しました」


 セシルは一礼して退室した。


 一人残されたレインは、窓の外を見た。


 貧民街の方角。


 あの広場。


 ケイのいる場所。


 嫌な予感が、胸を締め付ける。


 レインは短剣に手をかけた。もう組織の武器ではない。だが、護身用に常に携帯している。


 その柄の感触が、かつての記憶を呼び起こす。


 暗殺者だった頃の自分。


 人を殺すことに、何の躊躇もなかった自分。


 だが、今は——


 レインは短剣を鞘に収めた。


 もう、あの頃には戻れない。


 戻らない。


 翌日の昼。


 アリシアは再び、建設現場の視察に向かった。レインとセシル、そして少数の護衛が同行する。


 広場に着くと、職人たちが働いていた。礎石の周りに、基礎が作られ始めている。学校の形が、少しずつ見えてきた。


「順調ね」


 アリシアは満足そうに頷いた。


 レインは周囲を警戒していた。屋根の上、路地の影、人混みの中——暗殺者の目が、自動的に危険要素を探し出す。


 だが、今のところ異常はない。


「レイン兄ちゃん!」


 声がした。


 振り返ると、ケイが駆けてきた。息を切らし、顔は蒼白だった。


「どうした」

「助けて! 友達が——」


 ケイは崩れかけた建物を指差した。


「あそこに、閉じ込められたんだ!」


 レインの全身が、警報を発した。


 この状況——罠の匂いがする。


「殿下」


 レインはアリシアに目配せした。


「ここで待っていてください」

「でも——」

「セシル、殿下を」

「承知しました」


 セシルがアリシアの前に立つ。


 レインはケイに向き直った。


「案内しろ」

「うん!」


 ケイは走り出した。レインがその後を追う。


 崩れかけた建物——かつての倉庫だろうか。壁は崩れ、屋根は陥没している。中からは、子供の泣き声が聞こえてくる。


「早く!」


 ケイが叫ぶ。


 だが、レインは慎重に近づいた。


 建物の周囲を確認する。


 殺気——ある。


 複数。


 三つ。


 罠だ。


 だが、子供の泣き声は本物だ。


「レイン、行くぞ!」


 レインは短剣を抜いた。


「ケイ、ここで待て」

「え?」

「いいから」


 レインは建物に入った。


 薄暗い。埃と黴の臭い。床には瓦礫が散乱している。


 そして——奥に、瓦礫の下敷きになった子供がいた。


「助けて!」


 少女の声。まだ幼い。


 レインは駆け寄ろうとした。


 その時——


 殺気が、動いた。


 レインは反射的に跳躍した。刃が、彼がいた場所を貫く。


 三人の黒装束。


 刺客だった。


「……やはりな」


 レインは短剣を構えた。


 刺客たちは無言で、レインを囲む。その動きは洗練されていた。


 暗殺者だ。


 それも、かなりの腕前。


「レイン兄ちゃん!」


 外からケイの声。


「大丈夫か!?」

「来るな!」


 レインは叫んだ。


「セシルを呼べ! 護衛を!」

「分かった!」


 ケイの足音が遠ざかる。


 レインは刺客たちと向き合った。


 三対一。


 しかも、子供を庇いながら。


 厳しい。


 だが——


 刺客の一人が動いた。


 速い。


 レインは辛うじて受け止める。金属音が響く。


 二人目が側面から迫る。


 レインは後退し、距離を取った。


 だが、三人目が背後から——


 レインは身を捩り、刃を躱す。


 カウンター。


 レインの短剣が、三人目の腕を切り裂いた。


 だが、致命傷ではない。


 殺さなかった。


 刺客たちが、一瞬動きを止めた。


「……殺さないのか」


 一人が呟いた。


「お前は『影の手』のレイン・アッシュフォード。組織で最も優秀な刃だったはず」


 レインは何も答えなかった。


 ただ、短剣を構え直す。


「なぜ殺さない」

「……」

「答えろ」


 刺客が再び襲いかかってきた。


 レインは防戦一方だった。


 殺せば、簡単だ。


 三人とも、急所を突ける位置にいる。


 心臓。頸動脈。延髄。


 一瞬で終わる。


 だが——


 レインの脳裏に、アリシアの顔が浮かんだ。


 ケイの笑顔が浮かんだ。


 お腹の中の子供が浮かんだ。


「俺は——」


 レインは叫んだ。


「もう、殺さない!」


 その瞬間、レインの動きが変わった。


 暗殺者の技術。


 だが、使い方が違う。


 急所を外す。


 致命傷を与えない。


 ただ、動きを封じる。


 レインの短剣が、一人目の膝を切り裂いた。


 深くない。だが、立てなくなる。


 二人目の手首を打つ。


 短剣が床に落ちる。


 三人目——


 レインは懐に入り、関節を極めた。


 そのまま、床に叩きつける。


 三人とも、戦闘不能。


 だが、生きている。


 レインは息を整えた。


 手が、震えていない。


 これでいい。


 これが、今の自分だ。


「……くそ」


 床に倒れた刺客の一人が呻いた。


「お前、本当に変わったのか」

「ああ」


 レインは頷いた。


「変わった」


 その時、外から声が聞こえた。


「レイン様!」


 セシルだった。護衛たちを連れて駆けつけてきた。


 そして——ケイも。


「レイン兄ちゃん! 大丈夫か!」

「ああ」


 レインは短剣を鞘に収めた。


「子供を頼む」


 護衛たちが瓦礫の下の少女を救出する。怪我はあるが、命に別状はない。


 刺客たちは、護衛に拘束された。


「逃げた者はいませんか」


 セシルが尋ねた。


「いや」


 レインは首を横に振った。


「三人とも、ここにいる」

「そうですか」


 セシルはレインを見つめた。


「……殺さなかったのですね」

「ああ」

「どうして」


 その問いに、レインは少し考えてから答えた。


「殺す必要がなかったからだ」


 セシルは微笑んだ。


「そうですか」


 彼女は護衛たちに指示を出す。


「この者たちを城の牢へ。殿下に報告を」

「承知!」


 護衛たちが刺客を連行していく。


 レインとケイ、セシルだけが残された。


「レイン兄ちゃん」


 ケイが恐る恐る近づいてきた。


「すげえな。三人相手に」

「……いや」


 レインは首を横に振った。


「危なかった」

「でも、勝った」

「勝ったんじゃない」


 レインは建物を見た。


「守っただけだ」


 ケイは不思議そうにレインを見上げた。


「守った?」

「ああ」


 レインは頷いた。


「あの子を。お前を。そして——」


 彼は広場の方を見た。


 そこには、アリシアがいる。


「殿下を」


 ケイは黙って頷いた。


「レイン兄ちゃん、強いんだな」

「……さあな」


 レインは微笑んだ。


「でも、お前も強かった」

「え?」

「護衛を呼びに行っただろう」


 レインはケイの頭に手を置いた。


「あれがなければ、俺は負けていたかもしれない」


 ケイの目が、輝いた。


「本当か?」

「本当だ」


 レインは頷いた。


「ありがとう、ケイ」


 ケイは顔を赤らめた。


「……どういたしまして」


 広場に戻ると、アリシアが駆け寄ってきた。


「レイン! 怪我は!?」

「ない」


 レインは答えた。


「大丈夫だ」


 アリシアは安堵の息を吐いた。


「良かった……」


 彼女はレインを抱きしめた。


「心配したのよ」

「すまない」


 レインもまた、アリシアを抱きしめた。


 その温もりが、自分を落ち着かせる。


「セシルから聞いたわ」


 アリシアは顔を上げた。


「三人の刺客——殺さなかったのね」

「……ああ」

「どうして」


 その問いに、レインは答えた。


「殺す必要がなかったからだ」


 アリシアの目が、潤んだ。


「そう」


 彼女は微笑んだ。


「あなた、本当に変わったのね」

「変わった、のか?」

「ええ」


 アリシアは頷いた。


「昔のあなたなら、迷わず殺していたはず」


 レインは何も言えなかった。


 その通りだった。


 組織にいた頃の自分なら、三人とも即座に始末していた。


 だが、今は——


「殿下」


 セシルが近づいてきた。


「刺客たちを尋問しました」

「それで?」

「保守派残党の仕業です。ダリウス公爵の元腹心が、雇ったとのこと」

「そう」


 アリシアの表情が、険しくなった。


「まだ、諦めていないのね」

「はい。ですが——」


 セシルはレインを見た。


「レイン様のおかげで、首謀者の名前も割れました。すぐに逮捕します」

「分かったわ」


 アリシアは頷いた。


「これで、しばらくは安全ね」

「はい」


 セシルは一礼した。


 アリシアはレインに向き直った。


「ありがとう」

「礼を言われることじゃない」

「いいえ」


 アリシアは首を横に振った。


「あなたは、私を守った。子供たちを守った」


 彼女はレインの手を取った。


「そして、殺さなかった」


 その言葉が、レインの胸を満たした。


「これが——」


 アリシアの声が、優しかった。


「あなたの本当の強さよ」


 レインは何も答えられなかった。


 ただ、アリシアの手を握り返すことしかできない。


「さあ、帰りましょう」


 アリシアは微笑んだ。


「今日は、もう十分よ」

「ああ」


 レインは頷いた。


 二人は馬車へと向かった。


 だが、その前に——


「レイン兄ちゃん!」


 ケイが駆け寄ってきた。


「また、来るよな?」

「ああ」


 レインは頷いた。


「約束しただろう」

「うん!」


 ケイは笑った。


「待ってる!」


 レインは微笑み、ケイの頭を撫でた。


「ああ。また来る」


 馬車に乗り込むと、アリシアがレインの肩に頭を預けた。


「疲れた?」

「少し」


 レインは窓の外を見た。


 広場が、遠ざかっていく。


 ケイが、手を振っている。


 レインも、小さく手を振り返した。


「ねえ、レイン」


 アリシアが呟いた。


「さっき、怖かった?」

「……いや」


 レインは首を横に振った。


「不思議と、怖くなかった」

「そう」


 アリシアは微笑んだ。


「それは、良かった」


 馬車は城へと向かっていく。


 レインは自分の手を見た。


 この手で、刺客と戦った。


 だが、殺さなかった。


 制圧した。


 守った。


 これが、今の自分だ。


 暗殺者の技術は、まだ体に染み付いている。


 だが、その使い方が——変わった。


 殺すためじゃない。


 守るために。


「レイン」


 アリシアが顔を上げた。


「あなたの手、温かいわ」

「……そうか」

「ええ」


 アリシアはレインの手を、自分の頬に当てた。


「昔よりも、ずっと」


 その言葉が、レインの心を温めた。


 そうか。


 俺の手は、温かくなったのか。


 冷たく、人を殺すだけだったこの手が。


「ありがとう」


 レインは呟いた。


「何が?」

「お前がいてくれて」


 アリシアは微笑んだ。


「どういたしまして」


 馬車は城門をくぐった。


 夕日が、二人を照らしている。


 その光は温かく、まるで——新しい未来を祝福しているかのようだった。


 その夜、レインは寝室の窓辺に立っていた。


 アリシアは既に眠っている。


 レインは自分の手を見つめた。


 今日、この手で刺客と戦った。


 だが、殺さなかった。


 それでも、守れた。


 これでいい。


 これが、自分の道だ。


 もう、殺すためじゃない。


 守るために、この手を使う。


「レイン?」


 アリシアが目を覚ました。


「また、眠れないの?」

「いや」


 レインは微笑んだ。


「今夜は、眠れそうだ」

「そう?」

「ああ」


 レインはベッドに戻った。


 アリシアが、レインの腕に抱きつく。


「良かった」


 彼女は目を閉じた。


「おやすみなさい」

「おやすみ」


 レインも目を閉じた。


 今夜は——本当に、眠れそうだった。


 心が、穏やかだった。


 もう、迷いはない。


 暗殺者の技術は、まだ体に染み付いている。


 だが、それを——守るために使う。


 それが、今の自分だ。


 レインは深く息を吐き、眠りに落ちていった。


 穏やかな、安らかな——


 そして、温かな眠りに。


 後日談 第5部:過去の昇華


 一週間が過ぎた。


 その間、レインは何度も貧民街へ足を運んだ。建設の準備を見守るため——表向きはそうだった。だが、本当の理由は別にある。


 ケイに会うためだった。


 少年は毎日、広場にいた。まるでレインを待っているかのように。二人は言葉少なに、井戸の側に座った。時には何も話さない。ただ、そこにいるだけ。


 それだけで、良かった。


 そして今日——学校建設の開始式が行われる。


 レインは執務室で、アリシアと向き合っていた。彼女は演説の原稿に目を通している。その表情は真剣だったが、どこか緊張も見える。


「大丈夫か」


 レインが声をかけると、アリシアは顔を上げた。


「ええ。でも——少し緊張してるわ」

「お前が?」

「だって」


 アリシアは窓の外を見た。


「今日は、特別な日だもの」


 特別。


 そう、今日は特別だ。


 二人が出会った場所に、未来の礎が置かれる。


 過去と未来が、交わる日。


「レイン」


 アリシアが立ち上がった。


「あなた、昨夜——また眠れなかったでしょう」

「……少しだけ」

「嘘」


 アリシアは微笑んだ。


「目の下に隈ができてるわよ」


 レインは思わず顔に手を当てた。


「何を考えていたの」

「色々と」


 レインは窓辺に立った。


「この一週間、ケイに会った」

「知ってるわ」

「あいつ、毎日広場にいる。まるで——」

「あなたを待ってるのよ」


 アリシアがレインの隣に立った。


「あの子にとって、あなたは特別な存在になったんだわ」

「俺が?」

「ええ」


 アリシアはレインの手を取った。


「希望を与えてくれた人。未来を見せてくれた人」


 その言葉が、レインの胸を締め付けた。


「俺は、何もしていない」

「してるわよ」


 アリシアは強く言った。


「あなたがいるだけで、あの子は救われてる」


 レインは何も答えられなかった。


 自分が、誰かを救う?


 人を殺してきた自分が?


「レイン」


 アリシアの声が、優しくなった。


「あなた、まだ自分を許していないのね」

「……」

「過去のこと。暗殺者だったこと」


 図星だった。


 レインは拳を握った。


「許せるわけがない」

「どうして」

「俺は、人を殺した。何人も。罪もない人たちを」


 レインの声が震えた。


「ゼロも、殺した。育ててくれた師匠を」


 アリシアは黙って聞いていた。


「そんな俺が——父親になる。人を育てる。そんな資格が——」

「ある」


 アリシアが遮った。


「資格なんて、誰が決めるの?」

「俺自身が——」

「じゃあ、私が決める」


 アリシアはレインの両手を握った。


「あなたには、資格がある」

「どうして、そう言い切れる」

「だって」


 アリシアの目が、潤んでいた。


「あなたは、私を守った。命をかけて。それも、一度じゃない」


 レインは目を逸らそうとした。だが、アリシアがそれを許さない。


「あの夜。刺客が襲ってきた時。あなたは迷わず、私を庇った」


 あの夜のことを、レインは覚えている。


「そして、組織を裏切った。ゼロと戦った。すべて、私のために」

「それは——」

「それは、愛よ」


 アリシアの涙が、零れ落ちた。


「過去がどうであれ、今のあなたは——人を愛せる人」


 レインの喉が、詰まった。


「愛せる人は、育てられる。守れる。そして——」


 アリシアはレインの手を、自分のお腹に当てた。


「父親になれる」


 胎動を感じる。


 小さな命が、そこにある。


 自分の子供が。


「怖いんだ」


 レインの声が、掠れた。


「この手で——」


 彼は自分の手を見た。


「この手で、抱いていいのか。この子を」

「いいに決まってるでしょう」


 アリシアは微笑んだ。


「あなたの手は、温かいわ」

「でも、この手は——」

「殺した。分かってる」


 アリシアの声が、優しかった。


「でも、それ以上に——守った」


 彼女はレインの手を両手で包んだ。


「私を。ケイを。そして、これから生まれる子を」


 レインの目から、涙が溢れた。


 初めてだった。


 人前で泣くのは。


 アリシアの前でさえ、一度もなかった。


 だが、今——堪えきれなかった。


「すまない」


 レインの声が震えた。


「俺は——」

「泣いていいのよ」


 アリシアがレインを抱きしめた。


「我慢しなくていい」


 レインはアリシアの肩に顔を埋めた。


 そして、声を殺して泣いた。


 長い間、押し殺してきた感情が溢れ出す。


 罪悪感。


 後悔。


 恐怖。


 そして——それでも、生きていることへの感謝。


 アリシアは何も言わなかった。


 ただ、レインを抱きしめていた。


 その温もりが、彼を包み込む。


 どれくらいそうしていただろうか。


 やがて、レインは顔を上げた。


「……すまない」

「謝らないで」


 アリシアは涙を拭ってくれた。


「泣きたい時は、いつでも泣いていいのよ」


 レインは頷いた。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 アリシアは微笑んだ。


「さあ、行きましょう。みんな、待ってるわ」

「ああ」


 レインは深く息を吐いた。


 胸が、軽くなっていた。


 まるで、重い鎧を脱いだかのように。


 井戸の広場には、大勢の人々が集まっていた。


 貧民街の住民たち。


 改革派の貴族たち。


 建設に携わる職人たち。


 そして——子供たち。


 ケイの姿も、最前列にあった。彼は目を輝かせて、レインとアリシアを見つめている。


 広場の中央には、大きな石が置かれていた。礎石だ。その表面には、まだ何も刻まれていない。これから、言葉が刻まれる。


 アリシアが前に出た。


 民衆が静まり返る。


 彼女は深く息を吸い、口を開いた。


「皆さん」


 その声は、広場全体に響いた。


「今日、ここに集まっていただき、ありがとうございます」


 アリシアは広場を見渡した。


「この場所は、私にとって特別な場所です」


 彼女は井戸を指差した。


「十年前。私はここで、一人の少年に出会いました」


 民衆がざわめいた。


「その少年は、飢えて倒れていました。でも——諦めていなかった」


 アリシアの声が、熱を帯びる。


「生きることを。未来を。希望を」


 彼女はレインを見た。


 レインは、ただ黙って立っていた。


「その少年が、私に教えてくれたんです」


 アリシアは拳を握った。


「どんなに辛くても、諦めなければ——未来は変えられるって」


 民衆の中から、拍手が起こった。


「だから、私は約束しました。この国を変えるって。貧しさに苦しむ人がいない国を作るって」


 アリシアは礎石に近づいた。


「そして今日——その約束の第一歩を、ここで踏み出します」


 彼女は礎石に手を置いた。


「この学校は、未来への礎です」


 その声が、広場に響く。


「ここで学ぶ子供たちが、いつか——この国を変えてくれる」


 アリシアは子供たちを見た。


 ケイと、目が合った。


「だから、お願いします」


 アリシアは微笑んだ。


「この学校を、みんなで作りましょう。未来を、一緒に」


 民衆が歓声を上げた。


 拍手が、雷のように鳴り響く。


 アリシアは礎石から離れ、レインに手招きした。


 レインは戸惑った。


 俺が?


 民衆の前で?


 だが、アリシアの目が全てを語っていた。


 一緒に、と。


 レインは深く息を吸い、前に出た。


 民衆のざわめきが大きくなる。


「王女様の旦那だ」

「元暗殺者だって噂の——」


 その囁きが、レインの耳に届く。


 だが、もう怯まなかった。


 レインはアリシアの隣に立った。


 そして——礎石に手を置いた。


 冷たい石の感触。


 それが、過去を思い出させる。


 この手で、何人殺してきただろうか。


 この手で、どれだけの血を流してきただろうか。


 だが——


 この手で、これから何かを作る。


 学校を。


 未来を。


 希望を。


 アリシアが、レインの手に自分の手を重ねた。


 温かい。


 その温もりが、レインの心を満たす。


 二人の手が、礎石の上で重なっている。


 過去と未来が、そこで交わる。


「レイン」


 アリシアが囁いた。


「一緒に」

「ああ」


 レインは頷いた。


「一緒に」


 民衆が再び歓声を上げた。


 ケイが、一番大きな声で叫んでいる。


「レイン兄ちゃん! すげえ!」


 その声が、レインの胸を温めた。


 兄ちゃん。


 そう呼ばれるのが、悪くない。


 いや——嬉しかった。


 式典が終わり、民衆が散っていく。


 だが、レインとアリシアは礎石の側に残った。


 そして——ケイが駆け寄ってきた。


「レイン兄ちゃん!」

「おう」


 レインは微笑んだ。


「見てたぞ。一番前で」

「うん!」


 ケイは目を輝かせた。


「すげえな。本当に、学校ができるんだな」

「ああ」


 レインは頷いた。


「約束しただろう」

「うん」


 ケイは礎石に手を置いた。


「俺、絶対来る。毎日来る」

「ああ。待ってるぞ」


 ケイはアリシアにも頭を下げた。


「王女様、ありがとうございます」

「どういたしまして」


 アリシアは優しく微笑んだ。


「ケイ、あなたは頑張り屋さんね」

「……そうかな」

「ええ。だから、きっと立派になるわ」


 ケイの目に、涙が浮かんだ。


「俺——頑張る」

「うん。応援してるわ」


 ケイは再び頭を下げ、走り去っていった。


 その背中を、二人は見送る。


「いい子ね」


 アリシアが呟いた。


「ああ」


 レインは頷いた。


「きっと、立派になる」

「あなたみたいに?」

「いや」


 レインは首を横に振った。


「俺よりも、ずっと」


 夕方になり、広場には二人だけが残された。


 セシルは先に城へ戻り、職人たちも撤収した。


 静けさが、再び広場を支配する。


 レインとアリシアは、井戸の縁に座っていた。


 十年前と、同じように。


「ねえ、レイン」


 アリシアが口を開いた。


「覚えてる? ここで初めて会った時のこと」

「忘れるわけがない」


 レインは井戸を見つめた。


「俺は、倒れていた。三日間、何も食べていなくて」

「そしたら、金髪の少女が——」

「パンをくれた」


 二人は顔を見合わせて、微笑んだ。


「『友達なんだから』って、お前は言った」

「ええ」


 アリシアは頷いた。


「それから、毎日のようにここに来たわね」

「ああ」


 レインは空を見上げた。


 夕焼けが、空を赤く染めている。


「お前は愚痴を言った。城の暮らしが息苦しいって」

「あなたは、夢を語った」


 アリシアもまた、空を見上げた。


「『いつか、俺も立派になる。誰かを守れるくらい、強くなる』って」

「そんなこと、言ったっけか」

「言ったわよ」


 アリシアは笑った。


「そしたら私、約束したの」

「『じゃあ私は、みんなが幸せになれる国を作る』」


 レインが続けた。


「『レインみたいに苦しんでいる人がいない国を』」


 二人の声が、重なった。


 沈黙。


 だが、それは心地よい沈黙だった。


「ねえ、レイン」


 アリシアが井戸の縁に手を置いた。


「私たち、約束を守ってるわね」

「……まだ途中だ」

「でも、ここまで来た」


 アリシアはレインを見つめた。


「あなたは、私を守ってくれた」

「お前は、国を変え始めた」


 レインもまた、アリシアを見つめた。


「どっちも、まだ完成じゃない」

「そうね」


 アリシアは微笑んだ。


「でも——」


 彼女はレインの手を取った。


「一緒なら、できる」


 その手が、温かかった。


「ああ」


 レインは頷いた。


「一緒なら」


 風が吹いた。


 アリシアの髪が舞い、金色の輝きが夕日に溶ける。


 レインは、その横顔を見つめた。


 美しかった。


 十年前も、今も。


 だが、今は——ただ美しいだけじゃない。


 強い。


 優しい。


 そして——愛おしい。


「アリシア」


 レインが呼びかけた。


「何?」

「ありがとう」


 アリシアは目を瞬かせた。


「何が?」

「俺を、救ってくれて」


 レインは井戸を見つめた。


「あの日。ここで。お前が手を差し伸べてくれなかったら——」


 彼は拳を握った。


「俺は、もっと違う道を歩んでいた」

「それは——」

「もっと、暗い道を」


 レインの声が、静かに響く。


「人を殺すだけの、道を」


 アリシアは黙って聞いていた。


「でも、お前がいた」


 レインはアリシアを見つめた。


「だから、俺は——人間になれた」


 その言葉が、アリシアの目に涙を浮かばせた。


「レイン——」

「これから、父親になる」


 レインは自分の手を見た。


「この手で、子を抱く」


 その手が、もう震えていなかった。


「怖いか?」


 アリシアが尋ねた。


「……少し」


 レインは正直に答えた。


「でも、もう逃げない」


 彼はアリシアの手を握った。


「お前がいる。この子がいる。ケイがいる」


 レインは広場を見渡した。


「守るべきものがある」


 アリシアは涙を流しながら、微笑んだ。


「レイン、あなた——」

「変わったんだろうな」


 レインも微笑んだ。


「お前と出会って。再会して」

「うん」


 アリシアは頷いた。


「とっても」


 二人は抱き合った。


 井戸の側で。


 夕日の中で。


 二人だけの時間が、そこにあった。


 城への帰り道、馬車の中でアリシアは眠っていた。


 レインの肩に頭を預け、穏やかな寝息を立てている。


 レインは窓の外を見た。


 貧民街が、遠ざかっていく。


 あの広場も。


 あの井戸も。


 だが、心の中には——確かに残っている。


 ケイの笑顔。


 アリシアの涙。


 礎石の冷たさ。


 そして——自分の手の温かさ。


 レインは自分の手を見た。


 この手は、たくさんの命を奪った。


 ゼロの命も。


 刺客たちの命も。


 罪は消えない。


 だが——


 この手で、これから何かを作る。


 学校を。


 未来を。


 そして——新しい命を、迎え入れる。


「師匠」


 レインは小さく呟いた。


「見ているか」


 返事は、当然ない。


 だが、風に乗って——かすかに声が聞こえた気がした。


『よくやった』


 そんな気がした。


 レインは微笑んだ。


 馬車は王城へと向かっていく。


 後ろには、貧民街。


 前には、未来。


 レインは目を閉じた。


 心が、穏やかだった。


 もう、迷いはない。


 もう、恐れることはない。


 守るべきものがある。


 愛するものがある。


 生きる意味がある。


 それだけで、十分だった。


 馬車が揺れる。


 アリシアが、小さく寝返りを打った。


 レインは優しく、彼女の髪を撫でた。


 そして——自分の手を、彼女のお腹に当てた。


 胎動を感じる。


 小さな、でも確かな命。


「待ってろ」


 レインは囁いた。


「もうすぐ、会えるからな」


 子供に語りかけるように。


 父親として。


 馬車は城門をくぐった。


 石畳を踏む音が、規則正しく響く。


 その音が、まるで——新しい人生の始まりを告げる鐘のようだった。


 レインは窓の外を見た。


 王城が、目の前に聳えている。


 白亜の塔が、夕日を受けて輝いていた。


 かつて、ここに暗殺者として潜入した。


 彼女を殺すために。


 だが、今——


 ここは、家だった。


 帰る場所だった。


 愛する人がいる場所だった。


 馬車が止まった。


 御者が扉を開ける。


 レインはアリシアを起こさないように、そっと抱き上げた。


「ん……」


 アリシアが目を開けた。


「着いたの?」

「ああ」

「降ろして。自分で歩けるわ」

「いや」


 レインは首を横に振った。


「このまま、部屋まで運ぶ」

「もう、恥ずかしい」


 アリシアは顔を赤らめた。


「みんな見てるわよ」

「構わない」


 レインは微笑んだ。


「お前は、俺の妻だ」


 その言葉に、アリシアは諦めたように笑った。


「もう、仕方ないわね」


 レインは城の中へと入っていった。


 廊下を歩く。


 すれ違う使用人たちが、微笑ましそうに二人を見る。


 セシルもまた、廊下で待っていた。


「お帰りなさいませ」

「ただいま」


 アリシアが答えた。


「お疲れ様でした、殿下」

「ありがとう、セシル」


 セシルはレインにも頭を下げた。


「レイン様も」

「ああ」


 レインは頷いた。


 寝室に着くと、レインはアリシアをベッドに降ろした。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 レインは窓を開けた。


 夜風が、部屋に流れ込んでくる。


 星が、無数に輝いていた。


「綺麗ね」


 アリシアが呟いた。


「ああ」


 レインは頷いた。


「今夜は、よく眠れそうだ」

「そう?」

「ああ」


 レインはベッドに座った。


「心が、軽いんだ」

「良かった」


 アリシアは微笑んだ。


「これから、もっと忙しくなるわよ」

「ああ」

「学校の建設。孤児院の運営。それに——」


 アリシアは自分のお腹を撫でた。


「この子の準備も」

「大丈夫だ」


 レインは言った。


「一緒なら、できる」

「そうね」


 アリシアは目を閉じた。


「一緒なら」


 二人は手を繋いだまま、眠りに落ちていった。


 窓の外では、星が輝いている。


 冷たく、でも優しく。


 まるで、二人の未来を見守っているかのように。


 レインは、最後に思った。


 かつて殺すために握りしめた拳は、今、未来を掴むために開かれた。


 そして、その手は——もう、震えていなかった。


 ―――完―――

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