第4話 初めての本物の触れ合い
マスターは、もういなかった。
闇の中へと消えた。
そしてスターは、一人残された。
痛ましい錯覚の中で、孤独と寄り添うように。
アリアナは、きしむ木の扉をそっと押し開けた。
心臓が破裂しそうなほど高鳴る。
一歩、床板を踏むたびに、静寂の中に悲鳴が響くようだった。
空気は重く、息苦しいほど圧し掛かってくる。
まるでこの家そのものが、「お前はここにいるべきではない」と囁いているかのように。
部屋の隅、ボロ布のようなマットレスの上に、スターは背を向けて横たわっていた。
小さく、少しだけ丸まって、ゆっくりとした呼吸を繰り返している。
その周囲には、操られた「友達」たちが立ち尽くしていた。
まるで命のない守護者のように、彼を見守る彫像のようだった。
アリアナは息を呑んだ。
彼らは、ただ動かないのではない。
まるで石像のように瞬き一つせず、ひたすらスターだけを見つめていた。
あたかも神を崇める信者のように──。
そっと、一歩踏み出す。
ギィ……
床が鳴った。
その瞬間、友人の一人がかすかに肩を痙攣させた。
微かな動きだった。
息を詰めて、じっと待つ。
……それ以上の反応はない。
意識があるのか?
彼が眠ると、魔法は弱まるのか?
それとも、アリアナの存在に反応したのか。
そっと、一番近くにいる少女に囁く。
「……リナ……?」
返事はない。
恐る恐る指先を伸ばし、少女の肩に触れる。反応はない。
もう一度──今度は少し強く。
それでも、まったく動かない。
そこに“存在”しているのに、まるで“ここにいない”。
脈を確かめる。微かに、ゆっくりと。
生きてはいる。だが、それは何か外側の力に無理やり繋がれているような、か細い鼓動。
再びスターを見る。まだ動かない。
……起こすしかない。話をするしかない。
催眠にかからないように注意して──できる、大丈夫。
震える手を、そっと彼の肩に伸ばす。
迷いがよぎる。目が合っただけで術にかかるかもしれない。
でも──やらなきゃ。
軽く、肩に触れる。
……反応はない。
もう少し強く押す。
それでも動かない。
「ねぇ……」小さく声をかけた。
沈黙。
「……聞こえてる?」
スターは動かない。
「……ダメだこりゃ。」
焦りがじわじわと募っていく。数度、名前を呼んでみる。
恐怖と焦燥がせめぎ合う中、ついに彼の腕をつねった。
その瞬間、スターはピクリと反応した。
「……あぐ……」
ゆっくりと、虚ろな目を開ける。
天井を見つめ、ぼんやりと瞬きを繰り返す。混乱した様子。
そして──アリアナを目にした。
世界が、一変した。
スターは怯えた獣のように壁際へ跳ね退き、マントを絡ませながら必死に身体を縮めた。
「女の子……?」
掠れた声。怯えに満ちている。
「なんで……ここに……君は……」
彼の視線が、未だ動かぬ「友達」たちに向けられる。
「……嘘……まだ……? どうして……?」
震えが全身を襲う。
「マスターは……言ってた……。僕が動かさなきゃ……動かないはずなのに。」
荒い息を吐きながら、動揺が広がっていく。
「君は違う……」
アリアナは動かず、彼の崩れゆく姿を見つめていた。
「……こっち来ないで!」
スターはさらに壁に身を寄せ、頭を掻き毟る。
爪が頭皮に食い込み、まるで恐怖そのものを引き剥がそうとするように。
「ダメだ……ダメだダメだダメだ……こんなの……嘘だ!」
壁際に押し潰されるように身を丸め、視線を彷徨わせる。
「……動くはずがない……」
アリアナが囁く。「……何?」
「……誰なんだ……っ! なんで動ける!? なんで……喋れる!?」
頭を抱え、膝を抱え、揺れながら呟く。
「君は本物じゃない……そんなはずない……」
声が割れていく。
「どうせ……どうせ僕のこと……気持ち悪いって言うんだ……」
まるで消えてしまいたいかのように、膝を抱え、小さく囁く。
「お願いだ……行って……僕を……放っておいて……」
その声は、嵐のように震えていた。
アリアナは一歩踏み出す。
「やめて!」
スターはさらに身を縮める。
「もしマスターが知ったら……僕、終わりだ……違う、違う、違う……次はもっと……ちゃんと連れてくる……逃がさない……だからお願い……許して……マスター……!」
アリアナは凍りつく。心臓が痛いほど暴れている。
「私はマスターじゃない。」
そっと、やさしく言った。
「私は、あなたを傷つけに来たんじゃない。」
スターは目を瞬かせ、追い詰められたように息を荒げた。
「……わからない……」
震える声。
「どうして……君は……僕に話しかけるの……誰も……話しかけたりしないのに……」
空虚な瞳が、操られた「友達」に向かう。
まるで誰かが代わりに説明してくれるのを待つように。
アリアナはまっすぐ彼を見つめた。
「……だって、あなた……傷ついてるように見えるから。」
静かに、でも確かに告げた。
「一人じゃなくてもいいんだよ。」
スターは混乱し、震えながらアリアナを見つめた。
アリアナは、そっと近づいていく。
スターは壁の隅で怯えた目を向け、「やめて……傷つけようとしないで……僕を……放っておいて……行って……」と繰り返す。
それでも、アリアナは歩みを止めない。
スターは息を詰める。
罵倒、嘲笑、拳──それが彼の知る「終わり方」。
だが──それは来なかった。
代わりに、温もりが降りた。
そっと触れる、やさしいぬくもり。
鼓動が近く、静かに、しかし確かに響く。
彼女は、彼を抱きしめた。
スターは震えた。困惑の中で。
「どうして……どうしてそんなことを……?」
幽かな声で、問いかけた。
「あなたは“怪物”なんかじゃない。」
「ただ……道に迷ってるだけ。」
スターは呆然と瞬きを繰り返す。
操られた「友達」たちに目をやる。依然として虚ろなまま。
「まだ、ここにいるよ。」
アリアナはそっと言った。
「でも彼らは、今のままじゃだめなの。変えられるのは……あなただけ。」
スターは彼らを見つめる。
長い沈黙が落ちた。
彼は……信じられるだろうか?