第2話 森と忘れられた者たち
マスターの声が、いつものようにスターの頭の中で反響した。
「行け。また“友達”を連れてこい。」
迷いはなかった。スターは従った。それが彼の生き方であり、存在理由だった。
黒いフード付きのマントを羽織り、スターは家を出た。朽ちた壁に囲まれたその家は、町外れにひっそりと佇む、忘れ去られた遺物のようだった。
影のように静かに、彼は森を進む。誰にも気づかれず、誰にも見られず。安全な道も、人目を避ける死角も、すべて熟知していた。
──だが、今夜はどこかが違っていた。
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### 一方その頃──森の中。
アリアナとその友人たち――五人の少年と五人の少女――は、最高に楽しい時間を過ごしていた。町での小さな冒険を終え、これからが本番だった。
最近、町ではある噂が広まっていた。
夜になると、人が消える――と。二度と戻らない、と。
「超常現象」と呼ばれ、日が落ちると一人歩きを避ける人が増えていた。
だが、アリアナは鼻で笑った。
「幽霊? 悪魔? そんなのいるわけないじゃん。臆病者の妄想よ!」
そう言い放った彼女は、挑戦するように町で最も危険とされる森でキャンプを決行した。日が沈めば誰も近づかない、闇に包まれた森で。
焚き火がパチパチと音を立て、揺れる炎が木々に怪しげな影を落とす。
アリアナは青いスーツ姿で焚き火の前に立ち、白髪が炎に照らされ金色に揺れていた。彼女は怪談を語っていた。
一部の友人たちは身を震わせ、残りは無理に笑って恐怖をごまかしていた。
だが、誰一人として、この闇の中に本物の危険が潜んでいるとは思っていなかった。
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茂みの陰から、スターはその光景をじっと見つめていた。
表情はなく、ただ冷え切った瞳が彼らに向けられている。
「一度に十一人……」
こんな好機は滅多にない。すべて手に入れられれば、マスターも満足するだろう。食事も二日分もらえるかもしれない。
焦るな……
大事なのは、“機”だ。
焚き火が小さくなり、物語が終わる頃には、一人、また一人とテントに戻っていった。テントは二人用で共有されていた。
ただ一人──アリアナだけが、一人用のテントで眠りについていた。
最後の火が消えた瞬間、スターは動いた。
夜そのもののように静かに、彼はキャンプ地へと忍び寄る。
テントは密集していたが、音を立てずに動く術は心得ていた。
一つずつ、確実に。
テントの入口に指をかけ、そっと布をめくる。
中からは規則正しい寝息。容易すぎる。
唇から囁きが漏れ、命令が影のように染み込んでいく。
「……ついてこい。」
疑問もなく、従う者たち。
同じ手順を繰り返す。慎重に、確実に。二人、また二人と術にかけていく。
残るは──アリアナのテントだけ。
心のどこかが囁く。「もう十人は確保した、十分だ」と。
マスターはそれ以上を求めていない。ひとり余分に捕らえたところで、大した意味はない。
スターは躊躇なく背を向け、操られた者たちを連れて森の奥へと消えていった。
その頃、アリアナは静かに眠っていた。
自分の周囲で何が起きているか、知る由もなく。
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夜は静かだった。フクロウの鳴き声と、風が木々を撫でる音だけが響いていた。
スターは無表情のまま歩く。操られた十人は、まるで機械のように足並みを揃え、虚ろな瞳を闇に向けていた。
これがスターの日常。新しい“友達”を集め、家へと連れ帰る。ただそれだけ。
罪悪感も喜びもない。ただ、命令に従うだけ。
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その頃──キャンプ地。
アリアナは、蚊に刺された首を掻きながら不機嫌そうに目を覚ました。
「……もう、虫除けどこ?」
眠気まじりに隣のテントを開ける。
「ねえ、スプレー貸して──」
……誰もいない。
不安が胸をよぎる。別のテントを開ける。さらにもう一つ。
……どこも、空っぽ。
苛立ちは困惑に変わった。
冗談? さっきまで一緒に怪談話してたのに? どこ行ったの?
最初は悪戯かと思った。昼間、消える噂をからかっていたせいで、今度は自分が仕返しされているのかと。
だが、静寂と闇に包まれた森に一人きりで立っていると、その考えは恐怖に飲み込まれた。
私は……一人?
誘拐? 野生動物? もっと恐ろしい何か?
想像が膨らみ、息が速くなる。
アリアナは懐中電灯を手に取り、森の奥へと駆け出した。
「ねえ、もうやめてよ……冗談なら笑えない!」
返事はない。
枯葉を踏みしめる音が静寂に響く。木々は視界を奪い、闇は深さを増す。
影が動いたような錯覚、音ひとつに鼓動が跳ねる。
そのとき、見えた。
列をなして歩く人影。
息を呑み、木陰に身を隠す。
それは──彼女の友人たち。だが、何かがおかしい。
動きは機械のように揃い、顔には表情がなかった。先頭には、黒いフードの人物。
アリアナの目が見開かれる。……誰?
恐怖なのか、好奇心なのか、胸の鼓動が早まる。これは悪戯なんかじゃない。
間違いなく異常だ。
アリアナは慎重に距離を保ち、影に紛れて彼らを追った。
森はさらに深くなり、月光さえ届かない。
──そして、見つけた。
ぽつんと森の中心に佇む、朽ちた屋敷。
まるで時間に忘れ去られたかのように、不気味な存在感を放っていた。
この場所は……存在してはいけない。
スターは扉を開け、無表情の“友達”たちを連れて中へ入っていく。
息を殺し、アリアナはその後を追った。
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屋敷の中は、息も詰まるほど重苦しかった。
空気は澱み、何年も閉ざされていたように埃と腐臭が漂っていた。
鉄のような、どこか血を思わせる匂いが鼻を刺す。
壁に身を寄せ、アリアナは必死に気配を消す。
部屋の中央、“友達”たちは棒立ちのまま並び、虚ろな目をしていた。
まるで人ではなく、操り人形そのもの。
そしてそこに、スター。冷たい気配を纏いながらも、どこか整った顔立ちの少年。
アリアナは目を細めた。
誰……? 彼は一体、何をしたの?
スターは無言で指を弾く。
全員が同時に跪く。意志は完全に奪われていた。
そのとき、奥から重い足音が響いた。
暗闇から現れたのは──マスター。
黒よりも深いローブをまとい、顔はフードで隠れている。
その存在は、まるで獲物を狙う捕食者のような圧を放っていた。
アリアナは息を止めた。
「よくやった。」マスターは囁くように言った。
スターは答えない。ただ頷くだけの人形。
マスターはフードを外し、“友達”を一人ずつ品定めするように見回った。
「十人か……随分と頑張ったな。」
スターは無反応。
「決まりは知っているな。十人が限界。それ以上は必要ない。」
その“余分”とは、前に集められた十人のことだ。
アリアナは思った。……その人たちは、どうなるの?
マスターは笑った。
「解放してやろう。いつも通りにな。」
スターは無表情で小さく頷く。
だが、アリアナの胸には冷たい不安が広がっていく。
解放……? それが何を意味するのか、嫌な予感しかしない。
マスターはローブの下からカップ麺を六つ取り出し、机に並べた。
「忠誠の褒美だ。二日分、飢えから解放されろ。」
スターは何も反応を示さない。ただ、受け入れるだけ。喜びも、感謝も、存在しなかった。
アリアナの思考は、この異常すぎる光景に追いついていなかった。
マスターは“余分”を見回す。
「さて、お前たちには……自由が待っている。」
冷たい笑みとともに、暗い気配が彼と人々を包み込む。
無言で彼は彼らを連れ、屋敷を出た。町とは逆の、さらに森の奥へと消えていく。
アリアナは胸が締め付けられた。人々は一人、また一人と夜に飲まれるように消えていく。
沈黙は静寂ではなく、重く、息を潜めるように漂っていた。
アリアナは割れた窓枠に身を寄せ、埃まみれの木材を指でなぞった。
この家は、人間が住むべき場所じゃない――
そう、本能が告げていた。
鼓動が耳に響く。
見つかれば、今度は自分が……そう思いながら。