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機械令嬢は焦げたパンの夢を見るか?

作者: 矢ヶ崎

 

 

 この王国には、歯車の音が満ちている。

 

 魔導と蒸気のあいだで世界が動く時代──金属のメイドが屋敷を磨き、ぜんまい仕掛けの翼を持つ鳥が空を舞い、人工声帯のペットが人の名を呼ぶ。

 それは技術の進歩であり、恩恵であり、人々にとってはもはや当然のものだった。

 

 機械の少女がひとり、街を歩いていても誰も驚かない。

 彼女は、特別ではない。珍しくもない。掃いて捨てるほどある機械のひとつに過ぎない。

 

 誰もがそう思っていた。

 

 ──彼女が歩くことで国が生きているのだと、知らぬまま。

 

 

 

 

 クロニア・クロックは、機械令嬢である。

 

 古くから王国が所有する、自律式巡回機。

 表向きの分類は魔導人形、けれどその身なりと所作の端々が貴族女性の姿をなぞっていたため、いつしか人々は彼女を「令嬢」と呼ぶようになった。

 

 銀の髪を結い上げ、黒と白を基調としたドレス。

 一歩一歩乱れることなく正確に歩むその姿は、時を刻む秒針のようだった。

 

 彼女の俗称は「アイアン・レディ」。その名に、敬意はなかった。

 鉄の淑女。笑わぬ機械。王国に仕える時計仕掛けの幽霊──ただ冷たく、硬く、扱いにくいものとしての蔑みの対象の名であった。

 

 けれどクロニアは、他の機械とは少しだけ違っていた。

 

(この区画、また機械鳩が増えてるんですの! 魔力餌をやっているのは誰ですの!)

 

 自律機構のなかに、確かに思考があった。

 定められた行動をただ繰り返すのではなく、世界を観測し、記録し、解釈するように造られていた。

 

 そして、感情があった。

 

(ふふん、つつかれてもちっとも痛くねーですの。わたくし無敵!)

 

 熱量の増減ではなく意味をともなったゆらぎ──それは制御装置の不具合ではなく、設計そのものに組み込まれた、ごく繊細な心のようなもの。

 

 何より、彼女は古い。

 

 この王国が魔導と蒸気とを結びつけたときから存在している。

 そして今も魔力も尽きることなく、永久機関のように歩き続けている。

 

 製作者は不明。

 それでも、彼女は王国の一部として、ただそこに在り続けた。

 

 とはいえ形式上、クロニア・クロックは王家の所有物である。

 

 だが、それはあくまで登録上の話に過ぎなかった。

 保守の責任も所在も曖昧なまま、歴代の王たちはその存在を受け継ぎ、曖昧に扱い続けた。

 

 彼女の運用にあたっては、分厚い魔導技術文書が添えられていた。

 羊皮紙五百枚を超える設計概要、千枚を超える回路図、加えて日誌形式の備考録──現在、王宮の文書保管庫にはそのごく一部しか残されておらず、欠落した箇所には「未確認」「使用不可」「要点不明」といった印が雑に書き加えられている。

 

 専門家たちは口をそろえて言った。

 

「全体像がわからない」

「でも動いているから問題ないだろう」

「下手にいじると壊れる」

「触れないのが最善」

 

 そうしてクロニアは、誰にも読まれぬ取扱説明書とともに、長い年月を放置されてきた。

 

 誰も正確に理解していない存在。

 けれども国に害をもたらさぬのならいいだろう。

 もしかして国の中枢を彼女が担っているのやもしれぬと誰かがふと思い至っても、それはやがてすぐに忘れられた。

 

 

 

 

 クロニア・クロックの毎日は、ひどく単調だった。

 

 毎日所定のルートを寸分違わぬ足取りで歩き続ける。

 彼女は街を一巡し、再び出発点へと戻ってくると、また同じルートを周っていく。

 それを何年も、何十年も、何百年も、変わらず繰り返していた。

 

 王都の人々は、その姿を時計のようだと言った。

 

「毎日同じ時間に通るから、時間の目安になるよな」

「まあ、またアイアン・レディが時間通りに現れたわ。さすが、遅れ知らずのからくり人形ね」

「ただ巡回してるだけでしょ? 暇なんじゃないの」

 

 市場のど真ん中でも、聖堂の中でも、誰がいようと、何が起きていようと、止まることはない。

 

 王宮の中央、国王が来賓と向かい合う謁見の場ですら──儀礼の厳格さが求められるその空間を、クロニアは一切気にせず、黙って横切る。

 

 国王の演説中であろうと、賓客がいようと、関係ない。

 時間になれば、扉が静かに開き、クロニアはすたすたと歩き出す。

 目も合わさず、声もかけず、ただ前を見据えて進み──反対側の扉へと消えていく。

 

 また、彼女は時折唐突に立ち止まり、空を仰ぐこともあった。

 

 その何をしているのかまったくわからない様子から、彼女はいつも嘲られていた。

 

 

 ある日の市場で。

 

「おい、お前! お前はこんなおいしいパン食べられないんだろうなあ! かわいそうに!」

 

 少年は笑っていた。悪意というより、無邪気な残酷さだった。

 

 クロニアはぴたりと足を止めた。

 

 無表情のまま、少年が持ったふかふかのパンに視線を落とす。

 静止すること数秒。

 その場にそぐわぬほど、静かで、冷たい沈黙。

 

 少年は少しだけ、背筋をこわばらせた。

 そのとき──クロニアの内心では、実に活発な思考が渦巻いていた。

 

(……ふかふかのパン……確かに、わたくしは食べたことがありませんの)

(そもそも、わたくしは食物からエネルギーを摂取する必要がありませんの。消化も吸収も可能ですけれど、それはあくまで外部対応機能としての実装ですの)

(パンの評価は匂い・歯応え・焼き加減など──)

 

 パンの構造と栄養価、加熱処理による変化、香りの拡散係数──クロニアの思考は一瞬にして、膨大な情報を読み込み始める。

 

(でも、わたくしはふかふかのパンより──)

(黒煙が上がるほど、カチカチに炭化した焦げたパンのほうが、好きですの)

(外はバリッとして、中はガリッとして、熱が偏在していて、燃えた匂いがして──)

(焼きすぎて、焦げて、失敗した……)

 

 内心で、こくんと小さく頷く。

 それは誰にも聞こえない、確かな肯定だった。

 

(──あれが、好きですの!) 

(……あ、でもこれは言わない方がいいですの。理解されねーですの)

 

 ようやく結論を導き出し、クロニアはひとつだけ言葉を発した。

 

「ええ。食べたことは、ありませんの」

 

 それだけを淡々と告げて、また歩き出す。

 少年はパンを握ったまま、その場にぽつんと取り残された。

 

 

 また別の日。噴水のある公園広場にて。

 

「ポンコツー!」

「壊れかけー!」

「電池切れー!」

 

 数人の子どもがクロニアを囲んで騒いでいた。

 

 クロニアは立ち止まった。

 ゆっくりと首をかしげ、足元の子どもたちを見つめる。

 

「わたくしは、壊れてはおりませんの」

 

 その声音は平坦で、感情の波はない。

 子どもたちは一瞬だけひるんだが、すぐに笑いながら走り去っていった。

 

「反応した反応した!」

「やばっ!」

「あれ、ちょっとこわいかも〜!」

 

 広場に残されたのは、機械仕掛けの少女、ただひとり。

 クロニアはしばらくじっと立ち尽くしたまま、静かに思考をめぐらせていた。

 

(……壊れている、とのご指摘を受けましたの)

(しかし、稼働系統の異常なし、魔力数値も安定、歩行も正常稼働……)

(分析結果:故障なし──なのに、なんですの!)

(そもそも、わたくしの構造は国家機関準拠よりもはるかに高性能ですのに!)

(設計年数が古いというだけで、すぐポンコツ扱いとは……風評被害もいいところですの)

(ただ古いだけじゃねーですの、レトロですの。ロマンですの!)

(失礼しちゃいますですの!)

 

 内心で小さくぷんすかしながら、クロニアは再び歩き出した。

 その歩幅も足音も、もちろん完璧に制御された、国家水準以上の逸品だった。

 

 

 さらにある日。石畳の遊歩道にて。

 

 クロニアがいつものように巡回していると、道の脇にある白いベンチで、数人の貴族の女学生たちが談笑していた。

 

「ねえ、あれって、夜になったらどこにしまうの?」

「わからないけど、保管庫? 人形だし」

「あんな何してるかわからないもの、とっとと廃棄しちゃえばいいのにね」

 

 明るい笑い声が、無邪気な悪意をまとって風に流れた。

 

 クロニアは、今度は立ち止まらなかった。

 一定の速度と距離を保ったまま、彼女たちの前を無表情のまま通り過ぎる。

 

 けれどその胸の奥では──確かに反応が生まれていた。

 

(しまわれるとは、なんですの! わたくしは道具ではありませんの!)

(……ああ、でも)

(帰る場所──つまり、おうちの話……ですの?)

 

 そこで、思考がふっと止まる。

 ほんのわずかに、けれど明確に、演算がぶれた。

 

(でしたら……わたくしのおうちは──)

(この国には、ねーですの)

 

 彼女の足取りに乱れはなかった。

 けれど、その目だけが一瞬、下を向いた。

 

 女学生たちは、それに気づくこともなく、もう別の話題へと移っていた。

 

 クロニアは、黙って歩き続ける。

 そのまま、風景に溶けていった。

 

 

 

 

 クロニア・クロックはその日の朝も、庭園を横切っていた。

 

 規則どおりの足取りで、風も光も等しく受けながら歩き──ふと、足を止めて、ひとつの方角を見上げる。

 

 毎日、同じ場所、同じ角度、同じ時間。

 

 その視線の先に、王子の私室がある──そんなことは、微塵も意識の中になかった。

 

「来たな、アイアン・レディ!」

 

 鋭い呼びかけとともに、芝を踏みしめて現れたのは、王子だった。

 豪奢な外套を翻し、その隣には、よく整った顔立ちの若い令嬢。

 クロニアを一瞥する彼女の目には、明確な敵意がにじんでいた。

 

「君の気持ちは、わかっている! だが、私にはこの通り、美しい婚約者がいる!」

 

 令嬢が、陶然とした表情で王子を見つめる。

 王子は芝居がかった口調で、なおも続けた。

 

「すまないが、君の気持ちには応えられない!」

 

 クロニアは立ち止まったまま、しばし沈黙し──

 

(……??????)

 

「どちら様ですの?」

「っ……!? なにを……毎朝、私の部屋を見ていただろう! その無表情の奥で、私への秘めた想いを燃やしていると、知っていたぞ! 気づいていないとでも思ったのか!? あれは、恋の視線だったはずだッ!」

 

(目視、していたのは事実ですの)

(しかし、それが恋情に分類されるとは……)

 

「……まったくもって、意味がわかりませんの」

 

 クロニアは真顔のまま、機械的に言葉を返した。

 

「わたくしと貴方様と個人的な接触を持った記録はありませんの。貴方様のお顔も、今日初めてまともに拝見したように思いますの」

「なっ……!? それは君が恥じらって目を逸らしていたから──!」

「恥じらい、とはどういった感情作用のことですの?」

 

 王子の顔がひきつり、羞恥に赤く染まる。

  

「き、君は、私を好きなのだ! それはもう決定事項なのだ! そうに決まっている!」

「そうに、決まっておりませんの」

「ぬ、ぬおおおおおおッ!」

 

 王子は赤面しながら顔をそむけ、捨て台詞を吐いた。

 

「いいさ! 君のような鉄くさい女など、こっちから願い下げだっ! 笑わない! 無機質! 愛嬌ゼロ! 気味が悪いんだよッ!」

 

 半ば涙声でそう吐き捨て、婚約者を置いて駆け出していった。

 残された令嬢は「えっ、ちょっ……!」と戸惑いながら、最後にクロニアを睨みつけ、慌てて後を追っていく。

 

 クロニアは静かに、彼らの背中を見送る。

 

(……とても、熱量の高い人でしたの)

(恋というのは、ああいうふうに燃え上がるものなんですの?)

(わたくし、感情処理系統の仕様をもう一度確認してみますの)

 

 そして、何事もなかったかのように、また歩き出す。

 足音もなく、いつもの巡回を再開する──完璧な機構として。

 

 

「……っ、はあっ、はあっ……!」

 

 王子は庭園から駆け戻ると、そのまま扉を乱暴に押し開けた。

 謁見の間には王冠を戴く父王と、重臣たちの姿がある。

 一斉に注がれる視線の中、彼は堂々と──いや、顔を真っ赤にして半泣きで叫んだ。

 

「アイアン・レディがっ……! あの機械人形がっ……っ、私をッ!」

「……は?」

 

 国王は不機嫌そうに眉をひそめた。

 重々しい空気のなか、王子は震える声で訴える。

 

「……振った! いや、違う、振られたわけじゃ……あれは……! とにかくっ!」

 

 がしがしと頭を掻きながら、王子は鼻息荒く怒鳴り続けた。

 身勝手な怒りを燃やすのはひどく見苦しい姿だったが、本人にその自覚はまるでない。

 ほんの少しだけ美しい顔をしているからといって──機械の分際で、自分のような高貴な存在に刃向かうなど言語道断。

 ましてや、公衆の面前で恥をかかせたなどと──彼は本気で、万死に値すると考えていた。

 

「あれは目障りなんだ! 機械の分際で王宮内を好き勝手に歩き回り、無表情で人の部屋を覗き、反応もせず!」

「……目障り……?」

 

 重臣のひとりが渋い顔をする。

 けれど、国王はゆるやかに手を上げ、全ての声を静めた。

 

「──ちょうどよい」

 

 場に、緊張が走る。

 

「王都の外から来た使節団が言っていた。“謁見の間を横切る幽霊のような女がいる”とな。もはやあれは王家の威厳を損ねる存在だ」

「ですが、陛下……」

「動作は止まらず、反応も薄く、説明もない。ならば、もう役目は終えたと見なす」

 

 国王はゆっくりと断じた。

 

「処分せよ。どのみち、正体不明の魔導人形など、異物にすぎん」

 

 王子はぱあっと顔を明るくした。

 その頬に、ほっとしたような安堵の笑みが浮かぶ。

 

「よかった……あれがいなくなれば、すべて解決だ……!」

 

 

 

 

 クロニア・クロックは翌朝の巡回中に、その決定を知らされた。

 

 王都の広場にて、クロニアは警備兵によって足止めされていた。

 表向きは“解体準備のための拘束”。

 だが、集まった兵たちや役人たちの表情には、妙な笑みが浮かんでいた。

 

「これが……恋に狂ったポンコツ人形ってやつか」

「王子様に捨てられて、発狂しかけたんだってな」

「鉄くせえくせに、女のフリなんかするから……」

 

 そんな言葉が、周囲から投げつけられる。

 クロニアは無言で立っていた。

 

 ──そして。

 

「せめて、お別れの花でもくれてやるか?」

 

 ひとりが笑いながら、何かを手にした。

 濡れた布。腐った果実の皮。泥の浮いた汚水。

 ぐしゃ、と丸めた何かが、クロニアの顔に向かって放られた。

 

 べちゃ、と鈍い音がして、液体が頬を伝う。

 兵士たちは笑い転げた。

 

「ははっ、命中〜!」

「無表情なのが逆にウケるよな、なあ!」

 

 クロニアは、何も言わなかった。表情も一切揺らがない。

  

 けれど、内側で。

 

(……わたくし、なにをされましたの)

(汚されましたの。これは、仕様に含まれておりませんの)

(肌感覚──ないけれど。これが“不快”というやつですの?)

 

「おい、反応しねえのかよ? やっぱただの人形か」

 

 その言葉に、クロニアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「この顔を、汚したのですか?」

 

 その声は冷たい静寂を連れていた。

 心などないとばかり決めつけられた少女が、まるで誇りに傷をつけられたように、凛とした声音で続ける。

 

「──あの方が美しいと褒めてくださった、このわたくしを」

 

 ざわり、と周囲がどよめく。

 

「何言ってんだこいつ、とうとう壊れたか」

「なーにがあの方だよ」

 

 クロニアは聞かず、ゆっくりと歩を進める。

 

「もういらないと、おっしゃいましたの?」

 

 一歩、また一歩。

 

「──あの方が、お造りになられた、このわたくしを」

 

 そのたびに王都に立つ数多の柱が、白く、青く、赤く、不穏に光り始める。

 

「踏みつけましたの。壊そうとしましたの。笑いましたの。あの方が──お父様が愛する、このわたくしを」

 

 声がわずかに、揺れた。

 

「……わかりましたの」

 

 その一言は、まるで機構の停止命令のように明晰で、冷たく。

 

「わたくし、もう、やめますの」

 

 その場にいた全員が、はっと顔を上げた。

 彼女の声は、妙に澄んでいて、はっきりと響いた。

 

 警報が鳴り響く。

 魔力の流れが乱れ、空気が重くなる。

 

「な、なにが……?」

「警報だ!?」

「柱が、魔力柱が異常を──!?」

 

 クロニアは踵を返した。

 顔についた汚れも、服の汚れも、そのままに。

 

「──では、失礼いたしますの」

 

 その背後で、地鳴りのような音が広がっていった。

 誰も彼女を止められなかった。誰も、もう、止められはしなかった。

 

 ただひとり、侮辱された娘が、静かに世界から身を引いた。

 それだけで、国が崩れはじめた。

 

 

 都市が、焼けていた。

 

 塔が砕け、空が割れ、街は魔力の奔流に沈み──そのすべてを背にして、彼女はただまっすぐに歩き続けた。

 

 ──クロニア・クロックは、国家魔導網の中枢制御装置に接続された、唯一の“可動式観測機体”である。

 

 王都の隅々を巡るよう設計された、外部巡回ユニット。

 空を見上げるのも、あらゆる場所を横切るのも、すべては魔力干渉の精密な調整作業だった。

 

 何気ない仕草のすべてが、国家の機構を支えていた。

 

 彼女の歩みに合わせて、治癒網がうねり、交通路が伸び、発電施設が鼓動し、気象制御が滑らかに運行する。

 すべての魔力柱が彼女と同期し、国家は静かに呼吸をしていた。

 

 けれど誰も、気づかなかった。

 恩恵だけを受けながら、その存在をただの風景として見過ごした。

 名前も知らず、冷笑し、蔑み、侮辱した。

 

 そして今──彼女は職務を放棄した。

 柱たちが、一斉に誤差を吐き出し始める。

 均衡を失った魔導網は、蓄積された魔力を制御しきれず、次々と逆流を起こす。

 

 国家機能は即座に麻痺し、地方もまた、魔導網の連鎖崩壊に巻き込まれていく。

 

 それでもクロニアは、いつものように歩いていた。

 すたすたと──無駄のない、完璧な足取りで。

 

 背後で炎が立ち上がり、瓦礫が崩れ、人々の悲鳴が響いても、振り返ることはなかった。

 

 

 

 

 やがて隠された転移装置のもとへとクロニアはたどり着いた。

 

 すっと指先を翳すと、薄い魔法陣が浮かび上がり、足元に扉が開く。

 降り立つのは、地下の迷路──人の目につかない、深く、深く、閉ざされた場所。

 

 歯車が回る音、圧力調整の息吹、発光する魔導管が壁の内側を走っている。

 銅と魔符が編み込まれた配管が天井を這い、通路の端々では、蒸気とともにかすかな魔素の燐光が立ち上っていた。


 足音が響くたび、床下の動力炉がくぐもった音を立てる。

 それはまるで、心臓の鼓動のようだった。

 

 この空間の主である男が、今もそこにいることを、クロニアは知っていた。

 辿り着いた目の前の扉が、機構音を軋ませてひらく。

 

「おい」

 

 その声が空気を震わせた瞬間。

 クロニアの顔が、ふわりと変わる。

 

 それは設計されていながら、王都では一度も使うことのなかった機能──笑顔。

 回路ではなく、心が生み出すもの。

 

「お父様~~~~っ!」

 

 クロニアは満面の笑顔で呼びかけた。

 照明がぱちりと応答し、まるで空間そのものが彼女の帰還を喜んでいるようだった。

 

 そこにいたのは、無造作に伸ばした銀髪と不健康そうな肌を持った、恐ろしく顔立ちの整った男だった。眠たげな目元には鋭さと憂いの混じった翳りがある。

 そして無関心そうな声色の奥に、深い愛情を潜ませている。

 

 かつて機構の父と呼ばれた、地下の迷宮に引きこもる孤高の魔導師。

 不老の肉体に魔導と蒸気と怨嗟の知を積み上げた、人の世を厭う偏屈者である。

  

「……どういうことだ、説明しろ、クロニア」

 

 ぼそりと呟かれたその声に、クロニアはぱっと表情を明るくした。

 

「お父様っ、お父様ぁ~っ♡」

 

 駆け出す脚音が、金属の床に小気味よく響く。

 ぴょこぴょこと跳ねながら、両腕を大きく振って駆け寄る姿は、まるで幼子そのものだった。

 抱きつこうとするその身体を、「よせ」と片手で止められても、笑顔は変わらない。

 

「お父様がお任せしてくださったお役目だから、わたくし頑張ったんですのよ! でも、もう全部やめましたの!」

 

 足元の魔力管がぼんやりと脈打つなか、彼女はなおも元気に続けた。

 

「だって、お顔にべちゃってされたんですの。わたくしのお顔、お父様が美しく作ってくださったのに……」

「……はぁ?」

「あの人たち、わたくしのこと、いらないって言ったんですの! それにお父様が名付けてくださったお名前も、呼んでくれなかったんですの!」

「はぁ~~〜〜……クソが……」

 

 ぶつぶつと、まるで詠唱のように悪態をつきながら、男は彼女の頬についた汚れを指先でぬぐい取った。

 乱暴そうに見えて、その仕草は驚くほど丁寧だった。

 

「向こうから頼み込んできたから、特別に作ってやったってのに。……やっぱり相変わらず、しょうもねー奴らだな」

「はいっ、まったくしょうもねー奴らですの!」

 

 クロニアは無邪気に笑った。

 

「なんだその妙な言葉遣いは」

「お父様の真似ですの〜」

「やめろ。似てねぇ」

 

 そう言って眉を寄せるが、男の声音はどこかやさしいものだ。

 

「でも、お父様のご本がちゃんと読まれていれば、こんなことにはならなかったんですの」

「……また説明書を無視されたのか」

「はいですの! でもわたくし、さっきまでは精一杯お役目は果たしましたの!」

「……そりゃ結構だ」

 

 男はわずかに目を細め、低く鼻を鳴らした。

 

「フン、でもまぁ──いい気味だ」

「はい! わたくしが職務を放棄するだけですべて台無しになるようにしておくだなんて、お父様はさすがの性格の悪さですの!」

「うちの娘を大事にしてりゃ、何事もなかったんだがなぁ?」

 

 肩をすくめながら、彼はふと眉根を寄せた。

 

「……ちょっと大人しく待ってろ。掃除をしてくる」

 

 彼の声は平坦ながら冷たい鋭さがあった。

 クロニアは小首を傾げたが、父には絶大の信頼があるため何も言わずに頷いた。

 

 男は踵を返し、クロニアが帰ってきたときと同じ転移装置のほうへと向かった。

 

 

 

 

 その頃、王都は完全に崩壊していた。

 

 それでも一部の生存者たちは、狂ったように機能停止した国家機構を修復しようと奔走していた。

 

 その中には、憔悴しきった表情の王子もいた。

 かつての豪奢な衣装は泥と埃に汚れ、宝石は剥がれ落ち、魔導具の輝きも消え失せている。

 王子の顔には深い絶望が刻まれていたが、その目にはまだ浅はかな希望と、根深い傲慢さが宿っていた。

 

「くそっ! なぜだ!? なぜこんなことに……!」

 

 彼は瓦礫と化した王宮の中を狂ったように探し回っていた。

 

「あの機械人形だ……あの女さえ連れ戻せば、すべて元通りになるはずだ! そうに決まっている!」

 

 彼はクロニアに付属していた魔導技術文書の一部を見つけ、必死に読み解く。これまで蔑んでいたアイアン・レディに、縋るために。

 

「これだ……この装置を使うことができれば……!」

 

 ついには、隠された転移装置を発見するまでに至る。

 古びた制御盤に、震える指を伸ばす。クロニアが指先を翳した場所に、彼は自身の魔力を流し込んだ。


 しかし──。


 ゴオオオォッ……!

 転移装置が不気味な唸りを上げたかと思うと、圧縮された蒸気が配管の隙間から勢いよく吹き出す。

 

「っあづッ!?」

 

 甲高い声が漏れる。

 噴出したのは、水ではない。──魔力と蒸気が混ざった、高圧の熱霧だ。

 

 顔面を直撃した灼熱の蒸気に、王子は悲鳴を上げた。

 皮膚が焼け爛れる激痛に、彼は床を転げ回る。これまで一度も味わったことのない、身の毛もよだつような苦痛。

 美しい顔は水膨れと赤斑で醜くゆがみ、自らの体から立ち上る焦げた匂いに、彼は絶望の淵を覗き込んだ。

 

「なんだ……これは……っ、こんな……っ」

 

 その時だった。

 

 転移装置が光り出し、蒸気が立ち込める空間にゆらりと人影が現れた。

 

「……チッ、下手に触りやがって」

 

 男は、焼けただれて転がる王子を一瞥する。

 その目に宿るのは、侮蔑でもなく、怒りでもない。ただ、純粋に塵を見るような無関心だった。

 彼の視線は王子の背後にちらりと見えた、不完全に起動し損ねた制御盤に向けられていた。

 

「……何者だ、貴様! く、くるな! 私は王子だぞ!」


 王子は痛みに喘ぎながら、かすれた声で叫ぶ。

 男は一歩、また一歩と近づく。

 

「お前がうちの娘に唾を吐いた、愚か者か」

 

 彼は顔を焼かれて半狂乱になっている王子を、感情の読み取れない目でただ見下ろした。

 

「娘……? ま……まさか、貴様は、き、機構の……父……!」

「はぁ? 父と呼んでいいのは、俺の娘たちだけだ」

 

 その言葉が、凍てつくように空間に響き渡った。

 

「少々、お行儀が悪すぎるな。躾け直してやろう」

 

 それを最後に辺り一帯を蒸気が白く覆い尽くす。

 王子の悲鳴は、そこで途絶えた。

 

 蒸気が晴れた後には、何も残っていなかった。

 

 

 

 

 地下では、クロニアがきちんと座って待っていた。

 

「待たせたな。パンでも焼いてやる」

 

 戻ってきた男は、なんでもないようにクロニアに告げた。

 彼の黒衣にはわずかな蒸気の匂いが染みついていたが、その表情は普段と変わらない

 

「やったー! ですの!」

 

 彼女は両手をあげて飛び跳ねながら喜ぶ。その足音は、地下工房の金属床に小気味よく響いた。

 

 それから、男は決して滑らかとは言えぬ動作でパンの用意をしてくれた。

 手つきは無骨だが、その眼差しは真剣だ。

 

 やがて窯からは蒼白い火花が散り、制御盤には文字が走り、警告灯が点滅する。

 過熱しすぎたのか、けたたましい警報が鳴り響くが、男は一瞥すらしない。

 つまるところ、完全なる無視である。

 

「しかし……お前で出戻り三人目だぞ、ったく……」

「だって、わたくしたち──お父様のことが、大好きですの!」

 

 そうこうしているうちに、パンが焼きあがった。──はずだった。

 

 開ければ、もれなく黒煙。

 外殻はほとんど石炭、内側はねっとりと焦げつき、かろうじてパンの形を保っているだけの代物。

 

「チッ……どうしてこうもうまくいかない」

「お父様は、機械を造る以外はポンコツですの」

「うるせぇ」

 

 パンは、やっぱり焦げていた。

 けれどクロニアは笑ったまま、それを見つめていた。

 

 焼け焦げた匂いと、低くうなる蒸気音。

 人工灯に照らされた地下の厨房──その真ん中で、彼女は確かに思った。

 

 ──ああ。おうちに、帰ってきましたの。

 

 機械令嬢はそうして、夢にまで見た焦げたパンを幸せそうに頬張るのだった。

 

 

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