07 秋のきざはし④
鍋のよい香りがして、わたしたちはぴたりと手を止める。
ダイニングテーブルに、カセットコンロを設置して、すでに坂本さんのお姉さんは夕飯の支度を整えていた。いつのまにか、わたしたちはくまじろうの生産にすっかり夢中になっていたらしい。もうもうと湯気を立てる鍋を抱えて、台所からお姉さんが出てくる。
「て、手伝います」と、立ちあがろうとすると、坂本さんに制された。お客さんなのだから座っていろといわれる。
「でも、その……」落ち着かない、といいきるまえに、
「うん」と、坂本さんは苦笑いして、「じゃ、コップにお茶ついでくれる?」
「わかった」
食器棚から出してくれたグラスみっつに、わたしはボトルの麦茶をついでいく。そのあいだ、お姉さんと坂本さんは、取り皿と、茶碗に盛った白ごはんを用意してくれる。
「わるい、ゲストなのに」と、お姉さんはお箸を並べながら肩をすくめた。「二宮ちゃんはいい子だね」
「いえ、その……っ」
「ちょっと、わたしの同級生、口説かないでくれる」
耳の先までまっ赤になったと自覚できるくらい、顔が熱くなる。おもわず逃げ出したかった。
「ごめんごめん」と、流線型の瞳をより滑らかにして、「かわいいから、ついね。ごはんにしよう」
わたしは坂本さんのとなりに座って、今日何度目かわからない緊張の大波にさいなまれた。お釈迦様の掌に握りつぶされるみたいに、ぎゅうっと身体が縮こまる。そんなわたしの肩を、坂本さんはぽんぽんと叩き、「グラスもって」と笑う。手が震えるが、いちど深呼吸して、すこし結露したグラスを手に取る。
「乾杯!」
向かいに座るお姉さんの号令で、からんとグラスをかち合わせた。それで、わたしにとっては一夜の夢のような夕食会がはじまった。
おだやかな午後六時まえだった。味噌醤油味のもつ鍋は、ガスコンロのうえでふつふつと煮立っている。お姉さんがよそってくれたもつやにら、もやしなどを受け取り、わたしはおそるおそる箸をのばす。ひとのおうちでごはんをたべるって、いつもどおりでいいのだろうか? あたまがぐるぐるする。でも、そう心配してぜんぜんたべないのも、失礼なことだろうし……わたしはとなりに座る坂本さんをちらりと見やった。ちょうど、もつを口にいれるところだ。お約束のように眼鏡が曇っている。
「お、姉貴、これうまい」
「飲みこんでから喋れ」と、お姉さんはぴしゃりと。
「二宮も、遠慮しないで」
「う、うん……」
遠慮しないで……遠慮しないでいいのだろうか? わたし、恥ずかしいけど、けっこうたべちゃうし――またぐるぐる。でも、悩んでいたってしかたない。ええい、ままよ、とわたしは湯気を立てるそれはもうおいしそうなもつ肉を、ばっくり頬張った。
……すごく熱い!
「だいじょうぶ?」お姉さんは口元を隠すわたしを覗きこんで、「ふふ、だめそう。そんなに熱かった?」
「いえ、あのっ……」うまく喋れないが、「お、おいしいです……!」
ほんとうに、おいしかった。あまりの熱さにはびっくりしたけれど――口にいれた瞬間、味噌のしっかりした風味がぶわっと広がり、熱さと痛みが薄れてきたころにはスープのすてきぶりに感動すらした。
二口目からは充分に注意して、味わってたべる。コクのあるスープがよく染みた熱々の具材は、どれも口にいれると濃厚さに目を瞠るほどだった。三口、四口……と進んで、あれ、わたしはなにに悩んでいたんだっけ?
「おかわりいるでしょ」と、お皿が空になるとなぜか坂本さんが盛り付けてくれる。「どんどんたべなね、わたしのぶんまで」
「七もしっかり食えよ」
「たべてるよ。ふだんの二倍はもうたべた」
「えっ……そ、そうなの? 坂本さん、小食だとは知ってたけど……」
「や、ごめん、盛った。まだ七割くらいだから」
「ななわり……」それでも小食すぎると思う。だって、わたしたち、まだ鍋の四分の一もたべていない。「あ、あの、坂本さんもいっぱいたべて……!」
「え⁉」
「おう、二宮ちゃんもこういってることだし、おまえもたらふく食え。だって今日は、こんなにある……」
お姉さんは唇の端を吊上げて、坂本さんの取り皿に具材をてんこもりにした。一杯目とはちがって、山になり、ともすればお皿から零れ落ちそうなくらいに。すると坂本さんは本気で慌てて、首を激しく横に振り受けとるのを拒否していたが、結局目のまえに置かれてしまった。
「や、無理なんだけど……」と、坂本さんは声のトーンを落として、「二宮、入れ替えて……」
「わ、わたしのお皿と……⁉」
それはまずい気がする。わたしはさっきの坂本さんみたいに、激しく首を横に振った。あたまのなかのよこしまな考えを追い出すように。
「だめなの?」坂本さんは潤んだ瞳で、「たのむ、二宮、わたしの胃はネズミより小さいんだ……」
「だ、だめというか、その……」
「残念だったな、七」と、お姉さんの声に、わたしたちは同時に振りかえった。見ると、坂本さんがすでによそってくれていたわたしのお皿に、お姉さんがお鍋の具材をこれでもかと加えている。
「うわ、それずっる! 卑怯!」
「なんとでもいえ」と、お姉さんは高笑いする。「お姉ちゃんのおいしいごはんを、いつもろくに食べないからこうなるんだ」
「横暴だ! やっぱり大学生なんてみんなろくなもんじゃない!」
「おまえは大学生のなにを知ってるんだ……はい、二宮ちゃん」
わたしがお皿を受け取るとなりで、坂本さんはなおも抗議を続けていた。こんな坂本さんは、ちょっと――ううん、かなりめずらしい。いつも冷静で大人びた雰囲気の坂本さんでも、お姉さんのまえでは、子どもっぽいところを見せるらしい。意外で、でもそれがすごく胸の裡をなごやかにさせて、わたしは自然と笑っていた。
「二宮にまで笑われた」
「あ、ごめん、なんていうか、その……」
「あきらめろ、七。それ食ったらごちそうさまでいいから」
「……」
坂本さんは不服そうに肩を落として、再度、箸を持った。そしてもやしをすこしだけ取って、口に放りこんだ。
「うまいだろ」
「……」坂本さんは観念したように、肯いて、「うまい」
「二宮ちゃんもいっぱいたべなね」
「は、はい」
わたしたちは時間をかけて、ゆっくりとお鍋をたべた。途中、コンロのガスを入れ替えて、鍋の具材が減ってきたころには豆腐もいれた。取り皿によそわれるままにわたしはたくさんたべさせてもらい、おとなりの坂本さんは、ときどき呻きながらもじぶんのぶんを完食した。デザートにはゼリーをたべた。坂本さんはもうギブアップしていたので、明日のおやつに取っておくらしい。
すっかり夕食がおわったころには、もう夜の十九時をまわり、どころか二十時近かった。わたしは適度な満腹感に気が抜けて、夕方、電車に乗りこんだときの不安や緊張なんてどこへやら……なんていえるほどではないけれど、坂本さんのとなりの席は居心地よかった。
わたしは東山さんに連絡をとり、それから断って、お手洗いを借りた。「廊下に出て右奥。洗面所は、そのとなり」。坂本さんは椅子にぐったりもたれながら、そう教えてくれた。
教えてもらったとおり、お手洗いを済ませたら、洗面所で手を洗う。ポーチから今日の日づけを書いておいた袋を取り出し、錠剤を確認する。いち、にぃ、……ちゃんと六個ある。
ひとまえで薬を飲むのは苦手だ。
薬はずいぶん減った。一回二錠が三種類。入院していたころに較べれば、ちっともおおくないし、そもそも錠剤なららくだ。体調だってもう問題ない。
それでも、だれかのまえで薬を飲めば――それも一度に何種類も服用していたら、視線を感じてしまってつらい。本心から心配してくれるひともいる。奇異の目で見る人も……どちらにしても、わたしにはひとの視線がぶすぶすと突き刺す黒い槍のように感じられた。薬を飲むとき、わたしはわたしが無防備になるような感じがして……気にしすぎ、なんだと思う。気にせずにはいられないけど。
わたしはきれいに手入れされている鏡のまえで、ペットボトルの水をあけ、一気に錠剤を飲みほした。喉をごたごたと流れる異物感にはもうとっくに慣れている。おなかに水が流れ着いたのを感じて、ほっとひと息つく。鏡のなかのわたしは、どこか物憂げに見える。
――きっと坂本さんは、わたしが薬を飲んでいるのを見たってなにもいわない。
わかってる、と鏡に向かって肯いた。ただ、わたしが気にしすぎなだけだ。
ポーチとペットボトルを抱えてリビングに戻ると、坂本さんとお姉さんは夕食の後片付けをしていた。お皿を重ねて、箸をまとめて、流し台まで。わたしも焦って加わろうとすると、坂本さんに笑われた。ポーチとペットボトルを抱えたままで、両手が空いてなかった。
後片付けは、わたし抜きですっかりおわった。坂本さんはさっきよりいくらかマシなのだろう、いつもの三分の二くらい爽やかな顔つきで、またテーブルのまえに座った。東山さんが来るまで、時間がある。わたしもとなりに腰かける。
「今日はありがとね。急な誘いだったのに来てくれて」と、坂本さんは微笑んだ。
「う、ううん……お礼をいうのは、わたしのほう。お料理、すっごくおいしかったし、坂本さんたちとおしゃべりできたのも、その……たのしかった」
「うれしいこといってくれるね」坂本さんはくつくつ笑って、「じつは姉貴、料理がすきで、しょっちゅう腕を振るう機会を探ってるんだ。でもわたし、ほら、たべれないじゃん。だから今日はよかったよ、二宮が来てくれて」
そこまでいうと、坂本さんはなにか思いだしたように立ち上がった。そしてソファまで歩いて、二時間まえに坂本さんが仕上げていたあみぐるみを抱え、もどってくる。
「これ、お土産」
お土産? 訊きかえすと、坂本さんは肩をすくめて、
「こいつはいまのところ、いちばんかわいくできたやつ。かなりの自信作だよ」
「そ、それ、もらっていいの、自信作なのに……」
「いいよ。これはもとから、二宮にくれてやろうと思ってたから」
「わたしに?」
「そ。実はね、アニメの主人公は、そいつを部屋で黙々と編んで、大切な仲間に贈るの。親愛の証ってやつだね。すると仲間どうし友情が深まり、絆の力でパワーアップ! そして大魔神ズババーンをめっためたに打ち倒す!」
拳を振り上げて、坂本さんは興奮気味に笑った。で、呆気にとられているわたしにあみぐるみを握らせて、また平静にもどる。
「ま、つまり、これは友情の証だよ」
わたしだったら赤面して、どころか顔が沸騰して爆発しそうなセリフだ。坂本さんは、きざなセリフでもさらりという。そういうところがずるい思うし……でもなぜか、ちょっと、引っかかる。
「友情の証」と、わたしは反芻する。坂本さんは微笑をうかべて首肯する。
「受け取ってくれる?」
「うん」わたしは心の底から肯いた。「ずっと……大切に、する」
緑の服を着た、茶色いクマのあみぐるみ。ちいさなボタンの瞳はつぶらで、じっと見ているとやたら愛おしい。名前は、そうだ、くまじろうといったっけ。
と、携帯が震えた。東山さんが到着したらしい。わたしはバッグと、それに貰ったあみぐるみをひしと抱えて、だいじな友達のおうちを出る。
坂本さんとお姉さんは、一階のエントランスまで見送りに来てくれた。坂本さんは、アパートのまえに立っていた東山さんを見て、「本物のメイドさんだ」と感慨深げに呟いた。わたしはすこし吹き出してしまう。
「また来なよ、二宮ちゃん」と、お姉さんがいった。
「また来て、二宮」坂本さんもそう繰り返して、「ふたり暮らしはなんだかんだ寂しいんだ」
「うん。また……誘ってくれると、うれしい」
素直にいえた。夜のすっかり寒いのに、顔がぼっと上気する。
「じゃ、じゃあ、また学校で……!」
「うん、気をつけて」
別れのあいさつをして、車に乗りこむ。東山さんは扉を閉めてくれて、エントランスのふたりにうやうやしくお辞儀もしている。
運転席に東山さんが乗りこむと、車はゆっくりと走り出した。わたしは窓から、ひかえめに手を振る。坂本さんとお姉さんは、笑顔で振りかえしてくれる。わたしも気づかないうちに笑顔になっているのを、窓の反射で気づく。
すてきな一日だった。まだ甘い湯船に浸かっているような余韻が、からだのなかを満たす。離れゆくアパートを見届けて、わたしは手のなかのくまじろうに視線を落とした。
友情の証。わたしはぎゅっと胸にあてる。
「そのクマちゃん」と、やわらかい東山さんの声。「お友達からの贈り物ですか?」
「はい……くまじろう、だそうです。アニメに出てくる」
「へぇ、くまじろう!」
かわいい名前ですね、と東山さんはバックミラー越しに微笑みかけてくれる。わたしは肯いて、あいくるしい見た目のくまじろうを膝のうえに戻した。
友情の証。あたたかい響きだ。同時にすこし、ほろ苦い。
わたしは窓の向こうを見やった。季節は秋のきざはしを駆けのぼり、もはや冬にほど近い。夜は冷たく澄んでおり、黒塗りの町にはきらびやかな生活の光が星屑みたくさんざめいている。ガラス窓に反射して映るわたしの顔は、いつもどおり自信無さげで、かわいくなくて、へたすると泣きそうだ。
わかってる、とわたしは思った。ほんとうはずっと、気づいていたのに。
「東山さん」
顔も見ずに、呼びかける。東山さんは、わたしのことばをじぃっと待ってくれる。すこし目を閉じて、また見開くと、わたしの顔は多少くっきりとして見えた。
「わたし……すきなんだと思います、坂本さんのこと」
いうと喉の奥に、甘酸っぱい毛糸のかたまりのようなものがつっかえて、わたしはなぜかうれしかった。東山さんはうつくしい顔に静かな微笑を湛え、車をゆっくりと走らせる。夜に舞う精霊のような光たちが、なにも遮ることのない車窓に流れていった。