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ひかりになって  作者: 維酉
第二話 秋のきざはし
6/26

06 秋のきざはし③

   §




 あっというまに、土曜日になった。


 前日にきめておいたブラウスはすこし生地がかたく、どことなく胸のあたりがきつく感じる。電車は縦に揺れながら夕暮れどきのトンネルを抜け、複雑さのない黄色い陽射しが青のスカートを照らした。


 車内はひとがまばらで、乗降口そばのシートが空いていたのでそこに座った。膝上にゼリーのはいった紙袋をのせ、わたしはゆっくり息をする。暴れ馬の心臓がばくばくと轟き、落ち着かない。あがってしまっている。昨日の晩からこの調子だ。


 ――坂本さんのおうち。坂本さんのおうちに、いかなきゃいけない。


 そう思うだけで、もう昨日の夜、ごはんも薬ものどを通らず、お風呂にはいるときも髪を乾かすときも、照明を落としてベッドに潜り目を閉じたときまでずっと、あたまのなかをぐるぐるぐるぐる駆けまわる、どうしようの気持ち。だれかのおうちにお邪魔するのははじめてで、粗相があってはいけないし、緊張して泣いちゃいそうなのに、しかも相手は坂本さんだなんて。それにお姉さんもいらっしゃるらしいし。緊張のトリガーがたくさんある。


 それでも東山さんたちに見送られ、電車に乗ったところまではまだマシだった。スカートを表裏まちがえて履いたり、かばんを忘れかけたりしたけれど、それでもいちおう平静を保ち、電車の時刻にまにあってこうして座れている。


 が、いざ電車が動きだすと、鼓動はずんずん早くなり、いまや200bpmを超えんとしそうな勢いがある。やたら暖房が暑く感じて、もう汗ばむし、できることなら逃げだしたい。そしてあと一週間、いや三日でいいから、こころの準備をさせてほしい。やっぱり一週間ほしい。


 目的の駅には十分ほどで着いた。


 ここまで来たら、もう行くしかない。わたしは停車の甲高い金属音を聞きながら五度、六度の深呼吸をし、手すりを掴みながら立ちあがった。ドアが開くと十一月にしては冷たすぎる風がわたしの頬めがけて吹きこんでくる。気が引き締まるような、そうでもないような気持ちで、ホームに降りる。足の裏でしっかり立つよう意識する。


 いける、いける、だいじょうぶ。


 また走りだす電車の風に押されるよう、わたしは駅舎に向かって歩きだす。寒さは熱を落ち着かせ、現実にわたしをちゃんと押しとどめてくれている。寒いのはきらいだけれど、寒さに救われることだってある。いける、いける、だいじょうぶ。


 改札を抜ける。ここで坂本さんとまちあわせのはず。いくぶんか冷静になれたままにあたりを見回すと、


「二宮」と、聞き馴染みのある声がした。「こっちこっち」


 駅の出入り口に、丸眼鏡の坂本さんが立っていた。眼鏡だ。新鮮でどきっとする。


「週末に会うの、ちょっと違和感あるね」


 となりまで来たわたしに、坂本さんは軽やかに笑った。あどけないその表情はびっくりするほどかわいくて、みとれてしまい、肯くのがワンテンポ遅れる。坂本さんはそんなこと気にせず、「じゃ、いこっか」と笑みを浮かべて歩きだす。チェック柄のやわらかそうなジャケットが一瞬、羽を広げるようになびく。


 坂本さんのとなりを歩くのは、慣れたことのはずだった。帰宅部のわたしたちはいつもおなじ時間に校門を抜け、駅までのみちのりを、あるいはかるい寄り道などして帰っていく。いまだって、かたちとしてはなにもかわらない、ただふたりで夕間暮れのみちを歩いているだけ。


 なのに、案内してくれる坂本さんのよこにいる、いまこのとき、鎮まっていた鼓動はまた騒ぎはじめてしかたない。だってそれは、いつもみたいな制服ではないから。平日ではなく週末だから。坂本さんの、おうちにいくから。


 坂本さんはいつもの調子で世間話をしてくれる。わたしはそれに相槌をうつだけで一杯いっぱい。転ばないように歩くだけでたいへんだ。もうすでに、先が思いやられる心境。


 十分くらい歩いて、着いた。坂本さんが、大学生のおねえさんといっしょに暮らしているアパートだ。裏手に公園があるらしくて、ちいさな子どものソプラノみたいな遊び声がさりげなくきこえる。


「うちは四階」と、エレベーターに乗りこんで、坂本さんはボタンを押す。「ちょっと早いかもね」


 階数表示のうえにあるデジタル時計をみると、16:48だった。たしかに、夕食というには早い時間だ。


 四階に着くと、みっつほど部屋があって、エレベーターにいちばん近い手前の部屋が坂本家みたいだった。坂本さんが薄青色のカードキーをかざすとぴっという音がして、鍵が開く。


 ふわっとひとの家のにおいがして、胸がきゅっとなった。今日なんどめかの緊張の波に襲われて、四階の廊下で固まってしまう。靴を脱いでふりかえった坂本さんの顔を見て、どうにか我にかえる。おそるおそる敷居をまたぐ。


「お、おじゃまします……」

「うん、いらっしゃい――おっと」


 靴を脱ぐのに手間取って、バランスを崩してしまった。倒れかけたのを坂本さんに支えられる。きゅうに距離が近くなって、花のようなよい香りがする。全身に汗がふきでるのを確実に感じる。


「だいじょうぶ?」

「あ、ご、ごめん……!」

「いいよ。ほら、あがって」


 坂本さんは初夏の風のようにさわやかに笑って、わたしの手をとった。そのまま廊下をぬけ、リビングまで連れていってくれる。


「連れてきたよ」


 すると、台所のほうから返事が聞こえる。お姉さんがちょうど食事の支度をはじめるところだったらしい。ちょっとして、タオルで手を拭きながら、背の高いすらりとした女性が現れる。黒のトップスに、スキニーのジーンズを履き、髪はひとつにまとめている。


「いらっしゃい。きみが二宮ちゃん?」

「は、はじめまして……二宮乃子です。あの、これ、つまらないものですが」

「ありがとう――あ、これ、もしかして、カトリヤのゼリー?」お姉さんは紙袋のなかを覗きながら、すらっとしたうつくしい目を細めて、坂本さんの肩を叩く。「七、有名なやつだ、これ」

「そうなの?」

「そうなの、っておまえ、そうなんだよ」ちょっと呆れたように肩をすくめて、それからまた涼しげな笑みにもどる。「あぁごめんね、二宮ちゃん。夕ごはんまで、まだしばらくかかると思う。準備できるまで、七と遊んでて」

「は、はい」

「よしよし。なにするかな」


 わたしたちはテレビのまえ、水色のソファに腰かけて、しばらく時間を潰すことにした。テレビとソファのあいだには白の丸テーブルがあり、うえにはガチャガチャの景品だろうか、五センチ大くらいのアクリルスタンドが大量にある。そのどれも、かわいらしい女の子だ。それと、なぜかジャッキー・チェンの飾られた写真立てもあり、とにかくそうしたグッズがテーブルの半分を占め、雑然としてふしぎな様相をていしている。


 もはやディスプレイ・スペースとなっているそのテーブルを、わたしにとってはめずらしいものしかないからまじまじ見ていると、坂本さんは膝に頬杖をついて、


「気になる?」と、やわらかに口元を緩めた。「二宮って、アニメとか観るっけ?」

「ご、ごめん、詳しくない……」

「なんであやまるの」坂本さんはおかしそうに肩を揺らす。「や、気になるのはわかる。わたしだって、ひとんちいってこんなテーブルあったら面白すぎるもん」

「すごい、たくさんだよね」

「自慢じゃないが、わたしの部屋にはもっとある」と、坂本さんは自慢げに胸を張った。「置く場所なくて、リビングを浸食してるんだ。ここには姉貴しかいないから、遠慮する必要もないし」

「そっか……お姉さんとふたり暮らしなんだっけ」

「そ。実家よりここのほうが学校近いんだ。しかもずっと街中だし、小うるさいお袋もいない」


 天国! と坂本さんは両手をあげて、わざとらしく笑った。わたしも釣られて笑ってしまう。きっとお姉さんと仲がいいんだろうな、とうらやましくなる。


「あ、そうだ。二宮って、手芸とかできるほう?」


 急に訊かれた。びっくりして、「手芸?」とそのままおうむ返ししてしまう。


「そ、手芸」と、坂本さんはゆっくり肯く。「ちょっと待ってて」


 ぱっとソファを立ち上がり、坂本さんはとなりのお部屋まで消えていった。わたしはついとなりの部屋を覗こうとして、すぐに失礼だと思ってあわててテーブルに視線を戻した。


 とはいえ、手持無沙汰で、ぜんぜん落ち着かないし、わたしは結局きょろきょろあたりを見回してしまう。うさぎの形をした薄茶色の壁掛け時計が目にはいり、ちょうど五時十分を指していた。で、そのすぐ近くにジャッキー・チェンの映画ポスター。額にいれられ、鉄心のようにまっすぐとした拳を突きだすジャッキーと目があう。意志の強そうな瞳に、なんだか気圧される感じがして、目が回ってくる。わたしいま、ひとの家でどう待てばいいのかわからないのを、あのきっとしたポスターに糾弾されているのでは? そんなはずないのに、泣きそう。こわい。ころさないでください……


「二宮」と、坂本さんの声でぱっと目が醒めた。「どうしたの? ジャッキーすき?」

「あ、えっと」わたしはぶんぶん首を振って、「うん……なんでもない」


「そ」と、短く肯かれる。となりの部屋から戻ってきた坂本さんは、赤と青、緑の毛糸玉とかぎ針を何本か、そして小さなぬいぐるみを抱えている。で、それをテーブルの、まだテーブルとして使える面積のうちに広げて、


「これをつくろうと思って」と、ぬいぐるみを拾いあげた。毛糸でできたクマのいわゆる“あみぐるみ”で、坂本さんの手作りらしかった。「夕方にやってるアニメ、知ってる? ぬいぐるみの力で魔法少女に変身するやつなんだけど、それに出てくるクマのぬいぐるみをつくってみたんだ。名前は量産型くまじろう。主人公がじぶんの部屋で黙々と大量生産するのでそう呼ばれている」


 で、坂本さんは一枚のプリントをとりだしてみせる。オフィシャルで発信された、その、量産型くまじろう、という子の編み方らしい。図案はもちろん、かわいらしい丸文字で簡単なかぎ針の使い方までまとめてある。


「えっと……これを、量産するの?」

「さすが二宮、話がはやいね」


 かぎ編みなら、それなりに覚えがある。わたしは肯いて、5/0号のかぎ針をとった。


「や、ごめんね。遊ぶって感じじゃないけど」

「ううん、わたし、編み物すきだから……家でもよくやってるんだ」

「そっか。ならよかった」坂本さんは眼鏡の奥で、かわいらしく目を細める。「姉貴に手伝わせようとも思ったんだけどさ、こういうの、面倒くさがってやってくれないんだよね」


 それから、わたしたちは三十分ほどかぎ編みをして過ごした。坂本さんは編みかけだったものを仕上げたし、わたしはお姉さんがあきらめたというくまじろうを引き継ぎ、工程の四分の一をおわらせた。


 途中、坂本さんはご家族の話をしてくれた。坂本さんにはふたりのお姉さんがいて、いっしょに住んでいる大学生のおねえさんと、もうひとりは北海道は札幌市で電車の車掌さんをしているらしい。札幌ではすでに初雪が降ったみたいで、昨日もビデオ通話をしたそうなのだけれど、もうすっかり暖房器具が唸っていたのだという。


 坂本さんはずっと笑顔で、たのしそうにお姉さんたちの話をしてくれた。湧き水のように清らかでやわらかい表情だった。その笑みで、たまにわたしの目を見て語ってくれるたびに、胸の奥がかき乱されるような感覚があった。あまりにかわいらしいその顔を、その声を、永遠に見ていたい、聞いていたい。なんとなくそう思って、じぶんでびっくりした。わたしは勝手に恥ずかしくなって、それからは坂本さんの話をうまく聴けずに、ただまぎらわすように手先を動かすので精一杯だった。

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