05 秋のきざはし②
§
「今週の土曜日ですか?」
「はい」棗さんのことばにわたしは肯く。「その……友達のお家に誘われまして」
テーブルの向こうにゆっくり腰かけた棗さんは、春の陽射しのように微笑み、なんどか首を縦に振った。いいですね、ぜひ楽しんできてください。とても温かい声色で、そう返事をくれる。
夕食の時間、わたしは棗さんと、東山さんといっしょに食卓を囲む。家にわたしひとりだけのときは、こうしておなじ時間に、おなじ食事をするように頼んでいるのだ。さいしょ、ふたりは「メイドだから」と断ったが、ふたりの主人はわたしではなくお父さまだし、なによりひとりで食事を摂るのはいいようもなく寂しい。どうにか説得して、こうして三人の食卓になってから、もうしばらく経つ。
棗さんと東山さんは、うちのお手伝いさんではあるけれど、おなじ屋根のしたで暮らして数年、わたしにとってはもうお姉さんのような存在だ。この三人でたべるごはんは、お父さまたちと囲む食卓とはまたちがう、穏やかでゆったりとした憩いがある。
わたしたちのまえには予告通り、もうもうとおいしそうな湯気を立てるシチューのお皿と、こんがり焼けたガーリックトーストが並ぶ。棗さんの料理はいつだっておいしい。うちの食卓に出る料理は大半が棗さんの特製で、お父さまが料理の腕に惚れこんで雇ったというのも、肯ける。
「旦那さまとは、もう話されましたか?」
まだ食事に手を付けていない東山さんの問いかけに、わたしはまたも肯く。ついさっき、お風呂に入るそのまえに電話をかけると、ちょうど暇な移動時間だったみたいですぐ繋がった。
「失礼のないようにしろと、釘を刺されました……あ、あと、遅くならないようにとも」
「あはは、ま、朝帰りにならなければ問題ありませんよ」
東山さんはくつくつ笑って、ガーリックトーストに手を伸ばす。
「当日は車を出しますから、お帰りの時間には連絡してください」
「ありがとう、東山さん。あ、でも、行きはひとりでだいじょうぶです」
「そうですか?」
「その、ちかくの駅まで、友達が迎えにきてくれるみたいなので……」
「なるほど。それなら安心ですね」
いたずらげに微笑みながら肩をすくめて、東山さんはガーリックトーストを一口かじる。サクッという小気味よい音が高らかに響く。
「それで、そのお友達というのは」と、棗さんがしとやかな声で、「どういったお方なのですか?」
「えっと、どういえばいいのかな……」
「かわいい系ですか?」と、東山さんが冗談っぽく。「それともかっこいい系?」
「えっ、や、その――」
「もう、きぃちゃん。困らせるようなことを訊かないの」
「やぁ、だって、お嬢さまのタイプは気になるじゃないですか」
「タイプ?」
棗さんがふんわり首を傾げる。で、すぐに察しがついたみたいで、
「あら、そうなんですか?」ちょっと小悪魔な笑みを浮かべて、「だとしたら、なおさら訊いてみたいですね」
「棗さんまで……!」
恥ずかしさもあいまって舌が痺れるような思いがして、ちょっとシチューの味を感じにくくなる。
「その、坂本さんはただの友達ですし。おんなのこですから……」
「あぁ、おんなのこ」
「やぁ、いまの時代、性別なんて関係ないですよ」
「ふふ、まぁ、そうですね」棗さんは口元を隠してやさしく笑う。「でも、きぃちゃん、デリカシーはないかもね」
「それをいわれると弱いなぁ」東山さんはバツが悪そうに肩を落として、「すみません、お嬢さま。お気を悪くされたなら――」
「あ、いえ、そんな、あやまるなんて……!」
あたまを下げようとするのを、わたしは前のめりになって慌てて制止する。そんなふうにあやまってほしいわけではないし、はっきりしゃべらないわたしがわるいし。
「その、えっと」
わたしはスプーンを置いて、すこし考える。
「坂本さんは、わたしにとってたいせつな友達ですし、いっしょにいるとたのしいです。でも、その、すき……とか、そういう気持ちなのかは。恋って、どういうことか、わかんないですし……」
「ふむ、恋とはなにか」調子をとりもどした東山さんは腕を組み、「むずかしいですねぇ。どうです、シノ」
「う、わたし?」
うなって、棗さんは食事の手をぴたりと止める。ひるがえって、東山さんはいじわるそうに口元を緩めて、
「ほら、現在進行形で恋愛されてる棗先輩のほうが、お嬢さまの悩みに的確なアドバイスが、ね」
「こういうときだけ、棗先輩なんだから」
はぁ、と棗さんはちょっと大きめのため息をつく。うちのお手伝いさんである彼女だけど、じつは二年ほどまえからわたしの兄さんとお付き合いしている。
兄さんはわたしよりずっと優秀で、大学を出るとすぐにお父さまに付いて仕事をしはじめた。ゆくゆくは事業を継ぐことになる、そういうひと。そんな兄さんが恋に落ちたのは、我が家で長いこと健気に働く、料理上手な年上の女性――つまり、棗さんだった。
「わ」と、わたしも肯いて、「わたしも棗さんのお話、聞いてみたいです」
「もう、お嬢さままで」
じつのところ、棗さんと兄さんの話は、ずっと気になっていた。どちらもわたしにとっては近しいひとだけれど、たとえばどちらが先にすきになったのかという恋のはじまりやら、告白したのはだれなのかやら、ちゃんと話してもらったことはない。
でも、棗さんはにっこり首を振って、
「もう、はやくたべないとシチュー冷めちゃいますよ」
「わかりやすく話をそらしましたねぇ」
「あら、きぃちゃん。口元になにかついてるよ」
いわれて、東山さんはティッシュで口元をぬぐう。とても素直な彼女の反応に、棗さんはくすくす笑う。
「とれました?」
「いえ、もうちょっと右」
右もなにも、もとから汚れはない。東山さんはそれでも懸命に、ゆでたまごみたいにすべすべの肌をティッシュでちょいちょいとぬぐっている。わたしも思わず頬をゆるませてしまう。
で、東山さんは一向に成果が出ないので、だんだん怪訝な顔になり、
「やぁ、騙されてませんか、これ?」
「うん、騙してる」
あっさりなネタバラシだった。あじゃぱー、してやられましたね。あじゃぱーってなに? 知りません、旦那さまがよくいわれます。
ふたりの会話を聞きながら、夕食をとる。彼女たちは同僚としても、友達としてもよい関係で、そんなふたりの他愛もないようすを見ているのは微笑ましい。そして、その輪のなかにわたしがいられることは、どことなく胸の奥らへんをあたたかくさせる。
土曜日は、どんな食事になるのかな。
ふいにそんな思いがわく。
たのしみだけど、そのぶんずっと緊張する。さっきの会話も思い出されて、よけい、あたまにちりちり火花が走る感じがある。
――坂本さんは、たいせつな友達。
スプーンを動かしながら、わたしはこころのなかでそう唱える。まるで呪文みたいに。