04 秋のきざはし①
坂本さんのおうちに、お呼ばれしてしまった。いつもの駅で降りた坂本さんを見送って、わたしは電車のなか、ぐるぐる、あたまが回っている。
坂本さんのおうちに?
わたしが?
こまった。ほっぺたが熱い。
坂本さんは、いっつも急だ。放課後、この帰りの電車に乗りこんだときは、若干混んでいてまだ座れなかった。出入口付近で手すりにつかまりながら、坂本さんも読んだらしい推理小説の話をしていた。いま放送中だというアニメの話を聞いた。で、おうちに誘われた。
もうほんとうに、いま思いついたみたいにあっさりいうので、わたしは面食らってしまった。ともだちのおうちに遊びにいったことなんて、わたし、ないのに、それにじぶんから誘うことなんてもってのほかだし、だからおうちへのお誘いが、こんな何気ない日常会話にふっとまぎれこめるものなんだとびっくりした。
なにより……坂本さんのおうちにお呼ばれするだなんて、想像もしてなかったから。
「や、今日のいまからってわけじゃないんだけどね」
あたまが追いついていかないわたしに、坂本さんは淡々とつづけた。
「昨日姉貴と話してて、もうすっかり寒いし、週末に鍋でもやるかと。でも、ほら、姉妹ふたりで鍋囲んでもおもしろくないからさ」
それで、わたしに白羽の矢が立ったみたい。今週末、坂本さんのおうちにいくことになった。
坂本さんの、おうち。
最寄り駅で電車を降り、冷たい空気が熱い頬を撫ぜる。十一月の外気はとうめいで、もうずっと冬にちかい。それでも寒さがわたしの浮ついた熱をとりのぞいてくれる気配はなかった。
坂本さんの、おうち。
あたまのなかで繰りかえすたびに、甘酸っぱい感覚があって、おでこのあたりがちりちりとする。どうしよう。甘い響きが喉にからんで、いまから、緊張が止まらない。
改札を抜けると、
「お嬢さま!」
なんて、声をかけられた。おどろいてあたりを見回すと、メイド服の若い女性が駅のそとで手を振っている。東山さんだ。
「ど」と、ちかづいて、「どうしたの、東山さん」
「ちょうどお帰りの時間かと思いまして」
東山さんは八重歯を見せてにかっと笑い、深緑色の手提げ袋を胸のあたりまで持ちあげる。
「そこのスーパーまでおつかいに。お嬢さまの荷物も、お持ちしましょうか?」
わたしは首を横に振る。そこまでしてもらうのは落ち着かない。
「今晩のメインはシチューにしました」と、東山さんは歩きながら話す。「ちかごろ、ずいぶん冷えこんできましたからね。あたたかいのがよろしいかと思って。ま、つくるのはシノですが」
「ありがとうございます、あの、お父さまたちは……」
「来週までご一緒できないでしょうね。東京のほうにおられますから……なにかご用事が?」
「用事、というか……」
わたしは、とりあえず坂本さんのお誘いを伝えた。今週末、お夕飯に招待されたこと。話しながら、またちょっと照れくさくなる。どうしても、そうなってしまう。
「なるほどぉ」と、東山さんはこくこく肯く。「お嬢さまが、お友達の家に……」
「う、うん」
「やぁ、そいつはいいですね。旦那さまも了承してくだいますよ」
「そうかな」
「えぇ。旦那さまにはわたしからお伝えしましょうか?」
「ううん。夜にでも電話しようと思います」
町なかにある、ちいさな踏切をこえたあたりで、どこからか揚げ物のにおいがした。お肉屋さんのコロッケがちょうど揚げたてらしい。
たべていきますか、と東山さんがいってくれたので、そうすることにした。東山さんがお肉屋さんのおばちゃんに親しくあいさつして、コロッケをふたつ買う。封筒みたいな袋にぽすんと収まっているコロッケは、つめたい秋に湯気を立てて、持つだけでたいへんだった。
東山さんは揚げたての温度にうろたえもせず、かんたんに齧りついてみせ、それから人差し指を口元に立て、
「シノには内緒ですよ」と軽やかに笑った。短い髪が夕陽に透きとおっている。「もちろん、旦那さまにもです」
わたしは肯いて、おなじようにコロッケをたべた。さくっと揚がった衣は歯ざわりよく、コショウのきいたじゃがいもと挽肉は口のなかで溶けるようにほぐれる。
「やっぱり、揚げたてがいちばんですね」東山さんはわたしの目を見ていった。「実をいうと今日、シチューでなく、クリームコロッケというのも考えました。でもわたし、コロッケというからには、その具はポテトだと思うんです、ポテト」
「クリームコロッケも、わたし、すきですよ。おいしいですよね」
「えぇ、もちろん!」と、満面の笑み。「またこんど、おつくりします」
それにしても、と東山さんはコロッケの入っていた袋をちいさく折り畳み、
「お嬢さま、こころなしかたのしそうですね」
「そ」と、わたしはコロッケをまだ味わっているけど。「そうかな。たのしそう?」
「はい。つかぬことをお聞きしますが、お嬢さまのお友達って、やっぱり男の子ですか?」
「え?」目をばちくりさせてしまう。「ううん、ちがいます」
「やぁ、なるほど」
東山さんは腕を組み、いたずら気に八重歯を見せる。
「ま、わたしはお嬢さまがどういった方をお選びになっても、応援しますよ」
「え、選ぶって……」ぱっと顔が熱くなる。「東山さん、なにか勘違いしてない?」
「あぁそうか、まだお友達でしたね」
「そ、そういう話じゃなくって」
「いいじゃないですか、青春はいちどきりって、よくいうでしょう? いまのうちにたのしまなくちゃ。やぁ、ほんと、わたしもお嬢さまくらいの齢にもどりたいですよ」
それからは、東山さんの青春時代の話がはじまった。おもに恋バナで、気になる人にどうアプローチするかなんてことを実体験とともに語る、というテイ。ただ、内容がいかにも少女漫画チックで、きっとノンフィクションとは言い切れないのだと思う。だって、現代の高校に、白馬に乗る男の子なんているわけないもの。
家に帰ると、棗さんが玄関まで出迎えてくれた。東山さんより二、三こ年上の、メイド服が似合うおっとりしたお姉さんだ。すこし背が低いのに、わたしよりずっと力持ちで、お料理が上手。
わたしは二階の部屋まで荷物を置きにいって、制服を着替え、リビングに下りた。だだっ広いリビングには、だれもいない。東山さんにも、棗さんにも、このお家ではふたりだけのお仕事がある。
なんとなくソファに座って、テレビを点けた。ちょうど夕方のアニメをやっている。かわいい女の子たちが不思議なぬいぐるみの力で変身、悪いひとたちと戦うストーリー、だったっけ。わたしは詳しくないけれど、たしか坂本さんは毎週観ているらしい。
途中から見ると、どういうお話なのかはちっともわからない。主人公の名前も、悪いひとが退治される理由も知れないから、いろんなところで置いてけぼりになる。
でも、この番組を、きっといま坂本さんも観ているんだと思うと、心臓のちかくがきゅっとなって目が離せない。
ぼんやり、東山さんとの会話を思い出す。わたしって、そんなにわかりやすいんだろうか。頬に触れると、風邪を引いたみたいに熱かった。