03 鴨南蛮③
おばちゃんが湯気の立つそばを運んできた。あたたかくてうまそうな香りが鼻腔をくすぐる。二宮のまえには、並盛の鴨南蛮とセットのミニ肉丼。わたしが頼んだ小盛のそばとは量がちがう。帰りにふらっと寄って、というより、ちゃんとした夕食の雰囲気だった。
ただ、二宮はこれで家に帰っても普段通りに夕食をたべることができるらしい。世のなかには、ほんとうに胃がひとつしかないのだろうか、疑わしい人間がいる。人体の神秘である。
いただきます。二宮がそばをすする。たべるときだけやたら元気になる二宮は、ひとくちだけでとろけるような顔をした。ほっぺたが落ちるよう、なんて慣用句を体現した表情だった。ここで白状すると、わたしは二宮のその表情を見るだけでおなかいっぱいなのだが、そばを注文してしまったてまえ、こっちもたべなければいけない。
二宮のそれと較べると、わたしの眼前にある器は非常にこぶりで、そばの量もすくない。自制しているわけではない。ほんとうに、このくらいしかたべられない。
世のなかには、胃がいくつもあるとしか思えないような人間もいるし、ぎゃくに胃がひとつもないのではないかと心配になる人間もいる。つまり、そういうことだった。(さらにいえば、いくらたべても肥らない人種と、ほんのちょっとたべただけで体重計とにらめっこするはめになる人種がいる。二宮は前者で、わたしはいわずもがなだった)
わたしは神様の不平等をうらみつつ、それでもそばはうまかった。鼻をふんわりと抜ける香りが上品で、なかなかにオツである。ただ、家で夕食はむりだと思った。あとで姉貴に連絡しなければいけない。
二宮は鴨南蛮に七味をふりかけ、風味をたのしんでいた。鴨南蛮、おいしいのだろうか。たしかに、鴨と南蛮の相性は古来ばっちりで、それにあわせてここのそばはうまいし、鴨南蛮、なかなかよさそうである。現に二宮はリスみたいに頬張って、もくもくとたべすすめている。ミニ肉丼とあわせて。ミニ肉丼の肉はなんだろうか。見た感じ、豚っぽい。甘辛そうな色味の濃いタレで炒めた豚肉を、てのひらで包みこめるぎりぎりのお茶碗に盛ったお米のうえに数枚のせてある。わたしは、あれ、ひとくちで満足できる気がする。
食事する二宮をながめるのは、すきだった。この子はたくさんたべるし、なんでもうまそうにするから、見ていて気持ちがいい。ごはんを頬張り、うれしそうにする女の子を見ると、やはりこちらもうれしくなるし、なんならわたしのぶんのごはんもたべさせてあげたくなる。わたしがたべきれないわけではない。断じて。
そば屋には、わたしたち以外、ほとんどお客さんはいない。すこし離れた場所に、カップルだろうか、二十代くらいの男女が向かいあって座っているくらいで、そのふたりはもう食事をおえたところみたいだった。店内にはテレビもラジオもなく、ずいぶんと静かだった。わたしたちの食事する音だけがささやかに響く。エプロンのおばちゃんはカウンターのひとつに座り、眼鏡をかけて懸賞のまちがいさがしをやっているみたいだった。
わたしのそばが半分くらい減ったころ、二宮は三分の二をすでにくいおわっていた。時間にして、午後五時ちかく。わたしはスマホをとりだし、姉貴にラインを打った。今日、たべて帰る。既読がつく。返信はない。
二宮は箸を休めない。このようすを見ると、ずいぶん健康優良児である。まさか今年の二月まで入院生活を続けていたとは思えない。わたしもそばをたべる。やはりうまい。
わたしがペースをあげてそばをたべおわったころ、二宮もちょうど「ごちそうさまでした」と手を合わせた。わたしもそれに倣う。
「ちょっとお手洗いいってくるね」
と、錠剤のはいったポーチを手に二宮が席を立った。わたしはいつものように見送る。すこし眠気がある。
エプロンのおばちゃんは、あいかわらずカウンター席でまちがいさがしをやっていた。先客だったカップルはすでに店を去り、いまやわたしたち以外に客もいないし、ずっと静かだった。おばちゃんは目を凝らしてふたつのイラストを見較べ、集中を切らさない。
二宮がもどってくる。わたしは伝票をとり、「出ようか」といった。
§
駅まで、バスをつかった。歩くのが億劫だったからだ。わたしは適度な満腹感を覚えて、バスが駅に着いたころにはもはや呼吸すら大儀かった。
下りの電車にふたりで乗った。すこし走るとひとが減り、わたしたちは並んで座った。わたしは二宮の肩を借りてすこし眠った。今夜はじまるアニメがあるから、寝ておきたかった。
わたしの降りる駅が近づくと、二宮は揺すって起こしてくれた。ぼんやりと、まだ寝ぼけたあたまで車掌のアナウンスを聞く。
「二宮」と、わたしはあくびを噛みころしながら、「鴨南蛮、おいしかった?」
「え」
二宮は目をぱちくりさせる。で、恥ずかしそうに口元を綻ばせて、肯いた。
「明日はなに食べたい?」
「えぇっと……」真剣に悩んでくれる。「や、焼きそばパン!」
「購買でたべなよ、それは」
わたしはおもむろに立ち上がり、ほとんど質量のないうすっぺらなリュックサックを背負う。置き勉を極めるとこうなる。
「じゃ、昼休憩は購買いこうか、明日」
「うん」
つよく肯く。やたらうれしそうだ。そんなに焼きそばパンがたべたいのだろうか。
電車が止まる。わたしは二宮にさよならをいって、寒空のプラットホームに降りる。ちょうど上りの電車が向かいに入って、ロングコートの姉貴が出てくるのを見つける。まるで冬のよそおいだ。
わたしは車窓の二宮に手を振り、ずっと向こうにちいさくなるのを見送って、駅舎の外で姉貴と落ちあった。髪をうしろでひとつに結った姉貴は、ジャッキー・チェンの顔がプリントされたトートバッグを肩にかけ、きびきびと歩いていた。
「それ、コート」追いついて、わたしは姉貴の袖を引っぱり、「暑くないの?」
「寒い」さっぱりした口調だった。「なに食べてきたん」
「鴨南蛮。や、わたしはふつうのそばだけど」
「そ」
わたしたちは最寄りのスーパーまでの道を歩き、姉貴はふと思いついたように、
「そば」と口にする。「うまかった?」
「うん」
「こんど教えて」
「や、姉貴は知ってるとこだよ、たぶん」
「そば屋なんて知らん」
「つぎは、焼きそばパン、たべにいくんだよ」
「鴨南蛮くった子と?」
「そう」
「購買でくえよ」
姉貴は細い目をより細めて笑った。お得意の表情だった。
「その子、七の友達でしょ。こんど連れてきなよ」
「いいけど、いっぱいたべるよ」
「くわない妹がいるからな。プラマイゼロ」
そうかもしれなかった。わたしはあまりにも坂本家の食費に貢献しすぎているから。
日は短くなり、もうずいぶんと低まった太陽は、影として夜を地上に送りこんでいた。風はずっと冷たくなり、たしかに、冬のよそおいでちょうどよいのかもしれない。
「姉貴、なにつくってくれるの?」
「ん?」
「二宮、家に呼んだら」
「二宮っていうのか。そうだな」しばし思案して、「もつ鍋かな」
あの子なら、飛んできそうだった。食の趣味がすこしおじさんっぽいし。
わたしは二宮が姉貴特製のもつ鍋を頬張るところを想像した。近所の肉屋で仕入れたもつに、あの子ががっついて、熱い熱いともいいながら、しあわせそうにたべる。わたしはそれを眺め、姉貴はさらにもつを勧める。たぶん、姉貴は二宮を気に入ると思う。
「鍋のシーズンがきたら、誘えよ」
姉貴はそういい、また目を細めて笑った。わたしは肯く。吹きはじめた夜風に、秋の深まりを感じた。