15 ひかりになって③
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まえから数えて三両目の扉をあける。動きだした電車のなかで、手すりにつかまり、車内を見渡す。いた。うしろ側の出入り口付近で、ひとり、坂本さんが座っている。黒革のジャケットに、スリムフィットのパンツを履いている。
坂本さんも、こっちに気づいてくれたみたいだった。銀縁の六角眼鏡をかけた彼女は、軽く右手を掲げて、にっと笑む。わたしはちょっと急ぎ足で向かう。
「や、二宮。メリークリスマス」
「め、メリー、クリスマス……!」
「となり、空いてるから。座りなよ」
促されるまま、わたしは坂本さんのとなりに腰を下ろした。そしてぶり返してきた、緊張が。
ともかく、坂本さんとの約束の電車に、わたしはなんとか間に合った。車に乗りこんだときはどうなることかと思ったが、道路は空いていて、信号にも引っかからず、プラットフォームに出るころには意外と余裕があった。寒空の下、わたしは坂本さんが乗っている電車がくるのをじぃっと見つめて、もはや何十回目かわからない深呼吸をする。そのときは、家でのどたばたのおかげで、けっこう気楽だったのに。
こうして、いざ、坂本さんのとなりに落ち着くと、緊張であたまが締め付けられるようだ。
置かれている状況は、あまり、いつもとかわらない。電車のなかでふたり並んで座るなんて、登下校ではよくあるし、最近は緊張でガチガチになるというふうなことは少なくなってきた。だから今日のこの横並びだって、いつもとかわらない。ただ、クリスマス・イブ、夜中のおでかけで、服装にいつもよりずっと気を遣っているけど、その目的地は学校と反対方向のプラネタリムだというだけ――だけ、というには、すこし特別すぎるか。喉が乾いてきた。
でも、ただ固まって内心ドキドキしているばかりというのは、きっといけない。それだと今日、いったいなんのためにお誘いしたのか、わからないんだから。
がんばって、距離を縮めるんだ。いつも以上に。それが今日の目標だ。坂本さんは、たぶんこれをデートだなんて思ってないけど、わたしにとっては天下分け目の大決戦なのだ。勇気よ、奮い立て。とりいそぎ話しかけてみよう。まずは当たり障りのない話とか、そう、今日寒いよねとか、そんな――
「二宮」
「ひぅっ」
坂本さんの顔が、睫毛のくっきり見える至近距離にあった。声をかけられて、横を見やったらこれだ。心臓がばくん、ばくんと大きく跳ねる。
彼女はにぃっと口元をゆるめて、
「失礼なやつめ。ひとの顔を見て驚くだなんて」
「ご、ごめん……」
「いーよ。それにしても」
わたしの顔を覗きこんで、坂本さんは笑みを崩さない。軽やかな花の香りがする。くるおしいくらいにかわいいと思う。
「二宮、今日、気合い入ってるね」
「えっ……う、うん。そうかな?」
「化粧もしてるんだ」
「に、にあわない?」
「まさか。すごくかわいい」
「――っ!」
脳が焼け落ちるかと思った!
坂本さんのかわいらしい声で、潤いのある黒い瞳に見つめられて、そんな「かわいい」なんていわれて、すべての思考がたちまちのうちに吹っ飛んだ。もはや、今日はこれで充分かもしれない。今日どころか、わたしの一生、充分すぎるほど報われたかも。
「えっ二宮、どしたの、なんか泣きそう?」
「う、ううん、気にしないで……」わたしはあたまを横に振る。落ち着け、わたし。「あ、あの……坂本さんも、その……今日は一段と、かわいい、です……」
「ほんと? うれしい。とくにどこらへんが?」
「ど、どこらへん……」ぶっちゃけ、ぜんぶだ。「えと、め、眼鏡とか……!」
「お、なに、二宮。もしかして眼鏡すき?」
正直、坂本さんならなんでもすきだ。
「そ、その、新鮮っていうか……あんまり見ないから」
「たしかに。学校じゃかけてないもんね。いつもコンタクトだから」
運動部時代はずっとコンタクトだったから、学校にいくときはその名残で、いまも眼鏡をかけないらしい。で、お休みの日は、ぎゃくに気分をかえるつもりで眼鏡をかける。学校はコンタクト、休日は眼鏡。そういうふうにずっときめていたから、お休みにコンタクトだとぎゃくに調子が出ないとか。
「ま、でも好評なら、学校に眼鏡をもっていくのもやぶさかではない」
坂本さんは眼鏡の奥でウィンクして、くつくつ笑った。かわいい。この世に天使は実在したんだと感動すらする。やっぱり今日が命日かもしれない。
電車を降りると、坂本さんは弾んだ調子でプラットフォームを歩く。そのまま改札を抜け、わたしたちは午後五時の市街地に出た。
駅前の広場には大きなクリスマスツリーが立ち、待ち合わせの人だかりがすさまじい。平時からひとでごったがえす広場には、今日のこの聖夜にいっそうの賑わいを見せていた。カップル、家族連れ、友達どうし。スーツのひともちらほら見える。
ここから目的地まで、徒歩で十分とかからない。「ちょっと早いね」と坂本さんはいい、わたしの手をとって歩き出した。ふいに繋がれた手が、やわらかい感触の熱に震える。
「さ、坂本さん、手……っ」
「うん? ほら、ひと多いから。二宮、はぐれちゃいそうだし」
「も、もう……」
なんだか子ども扱いだ。でも、いまはそれでもいい気がする。
市街地はきらびやかで、街路樹たちは七色の電飾でうつくしく彩られていた。すっかり日の落ちた冬の午後に、ビルの照明ですらイルミネーションのようで活気づいている。わたしは坂本さんの手をなるべくやさしく握り、遅れないよう、となりに立つ。坂本さんは道行く先のきらびやかな街並みに目を輝かせている。わたしは吸いこまれるように、そのサファイアめいた瞳に見入っている。
しあわせだ、と思った。今日はもう、いつもよりずっとしあわせすぎる。もし一生分のしあわせの量がきまっているのだとしたら、きっと今日の一日だけで、その大部分をもらっている。わたしの胸の器にははいりきらないほど、溢れて爆発しそうなほど、だいすきなひとがわたしのとなりで、目を輝かせているのを見るのは、幸福でしかたない。
「あ、ね、二宮。フォトスポットだ」
「う、うん……!」
星型のオブジェを指さす坂本さんに、わたしは肯いた。ちょっと泣きそうだった。でも、だめだ、こんなことで満足して泣いちゃったら。本来の目的を思いだせ、わたし。
坂本さんとの距離をすこしでも縮める、これはデートなのだ。
「い、いっしょに」と、絞り出すように、いった。「いっしょに、撮らない?」
「もちろん。いこ!」
走りだしそうだった。溢れだしそうだった。わたしの手を握ってたのしそうに先を歩く彼女の笑みは、どのイルミネーションよりうつくしかった。
「ほら、もっと寄って」と、インカメにしたスマホを構えて、坂本さんはいう。
「よ、寄るって……!」
「こう!」
肩を抱かれて、わたしは蒸発しそうになる。はい、ピース。坂本さんのかけ声で、なんとか笑顔をつくることに成功。いや、ちょっと不出来な笑顔だったけど。
「うん、いい感じ。ありがとね、二宮」撮った写真を見ながら、坂本さんは満面の笑みだった。「ね、わたし、ちょっとはしゃぎすぎかな?」
「ど、どうだろ……」
たしかに、いつもと較べるとハイテンションだ。
「あんまりこういうイベントごとに縁がなくてさ、浮ついちゃってるみたい。うざかったらごめんね」
「そ、そんな……! むしろ、うれしい、よ」
「うれしい?」
坂本さんは目を丸くする。わたしは、しっかり肯いて、
「うん、うれしい。坂本さんがたのしくしてるの見てたら、今日、誘ってよかったなって思える」
わたしは、こんどはわたしから、彼女の手をとる。今日はきっと、このうれしさを、ちょっともとりこぼさないように。
「だから、その、いっぱいはしゃいで、ね。わたしも……いま、すごくたのしいから」
「ありがと、二宮」
坂本さんは、シリウスが瞬くように笑った。そしてわたしの手をしっかり握りかえしてくれる。喉の奥がきゅっとなって、あまくきつく、締め付けられる感じがする。
それからもわたしたちは、街のきらびやかに目を奪われながら、とくべつな人ごみを縫って歩いた。談笑しながらまえを歩くカップルの会話や、遠くから聞こえる子どもたちのソプラノ、片側三車線を走りゆく自動車たち。喧騒は真冬のつめたい帳のしたで、しかしやわらかな温度をしていた。坂本さんとつないだ右手は、ちゃんとわたしの鼓動を加速させる。寒さだけが、熱に浮ついたわたしのからだをくっきりとさせてくれる。
非現実の道のりだった。目的地までをゆっくりと歩き、わたしは坂本さんばかりを見ていた。プラネタリウムは、市街地のとあるデパートの八階である。おもえば、デパートに身内以外のだれかと出かけるというのもはじめてだ。胸が高鳴る。緊張なのか、期待なのか、どちらにしろ、どういう種類の緊張で、どういうことへの期待なのかも、いまやまぜこぜで判然としない。
ただ、わたしは坂本さんがすきだ。わたしのとなりで、イルミネーションを指さしあどけなく笑いかけてくれる、彼女がすきだ。ほころぶ口元も、のぞく歯も、笑うときにきまって細める目も、きらきらと輝く睫毛も、すべてにときめいてしまう。わたしはあなただけをずっと見ていたいと思った。デパートへの道のりが永遠に抜け出せない迷宮であればいいのにと思った。そしてデパートへたどり着いたとき、わたしはくやしくさえあった。




