12 ゆめのしるべに⑤
夕間暮れ、というには日が落ちすぎてしまった帰り路。こうして話していると、なんとなく、寒さもやわらいできたように思える。
油断している横っ面に、また冷たい風が吹いた。おもわずくしゃみをする。「だいじょうぶ?」と、二宮がやわらかく笑む。わたしは肯く。
「あの、坂本さんは、その……いないの?」
「いないの、って?」
「えっと……気になるひと、とか」
背筋が伸びる。まさかのカウンターだ。
わたしは顎に手をやって、すこし考える。じぶんの恋バナというのも、じつのところ、これまでまったく縁遠い人間だった。恋人もいたことがないし、他人に恋愛感情と名付けられそうなものを抱いたことだって、いまだない気がする。
「気になるひと、ね」冬の町を、わたしはまたも歩きだす。「いる、っていったら、どうする?」
「い、いるの……?」
「だれだと思う?」
「え、あの、えっと……!」目をぐるぐるさせながら、あたふたしている。かわいい。「や、山田さん……とか?」
「なんで山田……」予想だにしない名前で、こんどはわたしが動揺する番だった。「え、ほんと、なんで山田なの。マジでビビるんだけど」
「そ、その、仲良さそうだったし……」
「う、うーん」
わたしは山田の、むかつくほどに整った顔を思いうかべる。しかし顔がいいだけだ。あいつは顔がいいだけで、その他の要素がダメすぎる。顔はいいのにアタリが強いし、口もわるいし、そのうえわたし以外には聖母のようなふるまいをする。あれは顔がいい以外になんら好ましい点がない、というかそもそも、ああいう美人系はタイプじゃない。もっと丸い顔立ちで、かわいらしい雰囲気の方が……
「ま、なんにせよ、山田はない」と、わたしはきっぱり言い切った。「仲はわるくないけどさ。どっちかといえば、あれは、腐れ縁みたいなものだし」
「腐れ縁……」
「そ。小中がいっしょで、やたらクラスもいっしょになることも多くて、しかも高校まで被ってんだ。中学のときはバスケもやってたし」
「へぇ」二宮は面白そうに相槌をうつ。「バスケ、やってたんだ」
「むかしの話」
「……やめちゃったの?」
「うん。話すと長くなるが」そう前置きして、わたしはたい焼きをまた小さくかじる。「……しかし短くいうこともできるっちゃできる。つまり、わたしは走れないんだ」
右足のつま先で、わたしは二、三度、歩道をつつく。あまりだれかれ構わず話すことではない。でも、二宮になら、話せる気がする。
「中学のころ、わたしこれで、けっこうまじめにバスケやってたんだ。朝練もサボったことないし、放課後もわりと遅くまで残ってたし、土日もまた体育館で汗を流して。二年のおわりには、そのまじめさが評価されて、なんと副部長をやってた。あ、部長はいわずもがな、あの山田ね。
たのしかったんだよね、バスケ。ぜんぜん向いてなかったんだけど……あ、ほら、わたし、背が低いでしょ。中一のころからずっと伸びなくて、こんななんだよね。つっても、背が低いやつにも役割があるわけで。ポイントガードみたいな、ドリブルして、パスまわして、エースの山田に気持ちよく打たせる仕事がさ、けっこう性に合ってたんだ。
練習するのは苦じゃなかったし、試合はめちゃくちゃたのしかった。山田とタッグを組んで、ポイント稼いで、勝ったらいっしょにはしゃぎまわって、負けたらちょっとけんかして、で、次の日にはふたりで何事もなかったかのように練習して。それでものすごく満ち足りてたんだ。
でも、中学の――最後の大会でね。あれは準決勝だったかな。中学最後だからさ、山田もわたしも、ほかのメンツも気合い入ってて、なによりこれに勝てば決勝だっていうから、もうすごい気迫なわけ。それで試合はわたしたちのチーム優位で進んで、最終局面ってところでさ、相手の選手と派手にぶつかったんだ、わたし。
ま、事故みたいなもんだよ。つまりね、わたしたちとおなじように、相手も中学ラストの大会だったわけで、きっとものすごく勝ちたくて、焦ってたんだ。そしてなにより、わたしはあともうすこしで勝ちだってところに、油断したの。だから、相手は加減を間違えてしまったし、わたしはうまく避けてあげられなかった。
その試合中は、なんとか堪えたんだけど……終わったら、一気に右足が痛みだして、もう病院に直行! そしたら綺麗にヒビがはいってたの。それで、あー、えっと……」
困った。動悸がする。わたしは立ち止まる。二宮も立ち止まる。心配そうにわたしの顔をのぞきこんで、
「む、無理しなくても、いいよ……」
「ううん。わたしが話したいの」深呼吸する。肺胞が凍てつくほどの空気が、いまはかえって、ありがたい。「なんつーか、案外、トラウマっぽいんだ。単にぶつかっただけ、といえば、そうなんだけど、あのときは向こうも殺気立ってたし、なんか理不尽だけど、わたしが吹き飛ばされたら相手チームに怒られたし。あれ、なんだったんだろう? いまいちわかんないんだよな。
……ま、それっきり、走れなくなったんだ。足のけがはとっくに治ってるんだけどさ、全力で走ろうとすると、あのときの痛みが蘇る気がして、すぐにダサいフォームになっちゃう。体力もめっきり落ちたし、バスケ熱も冷めちゃったし、それで高校は帰宅部。いまに至る」
ひととおり話し終えて、わたしはたい焼きをまた頬張った。それで、ようやくわたしのぶんのたい焼きが腹におさまった。からの包装紙をてのひらで握りつぶす。
「さて、なにか質問は?」
「へっ⁉」鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。「え、う、うーん……その、大会は、どうなったの?」
「あー、大会ね。わたしが病院送りになったあと、どうやら山田たちが奮起して、優勝したんだ。わたしのぶんまでがんばろう、って感じだったらしい」
駅に着く。そこらへんのゴミ箱にたい焼きの包装紙を捨てて、改札を抜け、わたしたちは電車を待つ。
電車が来るまで、すこしある。
「大会、勝ってくれたのさ、本心からうれしかったんだ」
「うん」
「でも、心のべつのところでさ、思っちゃったんだ。わたしがいなくても、わりとどうにかなるんだなー、って」
「そ」二宮は、首を振る。「そんなこと」
「わかってる。でも、どうしたって、思うんだ。わたしがどれだけ全力でがんばっても、なにかの拍子で水の泡で、しかも――水の泡になることすら、無意味なのかも」
二番乗り場に電車が入ってくる。けたたましい音は、鋼鉄の唸り。甲高い金属音がプラットフォームに響き、やがて消え入り、ぱらぱらとひとが降り、ぱらぱらとひとが乗りこんでいく。わたしたちも動きだす。
電車のなかは、思っていたより空いていた。わたしと二宮はドアちかくの席に腰かける。付近に座るひとも、立つひとも、いまはいない。
二宮は静かだった。そして、わたしはずいぶんと暗い話をしてしまったのだと後悔した。だれも、ひとのトラウマ話なんてすきこのんで聞きたくはないだろうし、一方的な自分語りをされるのはうんざりするはずだ。とはいえ、すべていまさらだった。
それで、わたしたちはしばらく黙りこくっていた。わたしたちのあいだに沈黙が流れることは日常茶飯事だ。わたしはじつは寡黙なほうだし、二宮はいうまでもない。
しかし、今日の沈黙は微妙に居心地がわるかった。というより、気恥ずかしかったのだ。どこにも当てはまれないパズルのピースになった気分だ。わたしは目を閉じる。眠れない。昨晩とおなじだ。ゆっくりと目を開ける……
「坂本さん」
と、ちょうど声をかけられた。二宮が、わたしの目をひかえめに、でも芯のある瞳で見据えている。どきりとした。一瞬、時間が凍りづけになった気がして、彼女の口元がふっと綻んで電車が動きだしているのに気づいた。
「眠たいの?」
「たぶん」
「た、たぶん……」二宮は困ったように首を傾げる。「確証は、ない?」
「そ。眠いという確証はない」
口に出して、わたしもまた困った。意味不明だ。
「二宮は、寝ておきたいのに眠れないとき、どうする?」
「うーん……ストレッチ、とか?」
「なにか、ここでできるやつ、ある?」
「ない、かも」肩をすくめて、「あのね、坂本さん」
「うん?」
「わたしも、その、なんとなくわかる気がするんだ」
「確証のない眠さが?」
「そ、そうじゃなくて……さっきの話」
二宮はぶあつい鞄を腕一杯に抱えて、神妙そうな面持ちになる。それで、ちょっと――いや、かなり黙った。こうなると、こいつは一分、二分ちかく喋らない。それでもわたしは静かに続きを待つ。二宮は、じぶんで切り出した話を途中で放りだすようなやつではない。真面目すぎて、ことばを選ぶのに時間がかかるのだろうと思う。
やがてまとまったのか、二宮は数度肯く。で、わたしを待たせたことに気づいて、
「ご、ごめんにゃひゃっ」と、ものの見事に噛む。
「や、落ち着きなって」肩を叩いてみる。「降りる駅までまだ時間あるし、ゆっくりでいいからさ。てか、だいじょうぶ? 舌とか噛んでない?」
「う、うん……血は出てない」
「出てたらおおごとだ、そりゃ」
笑い飛ばす。二宮も、若干目に涙を浮かべながら、くすくす笑う。
「やっぱり、坂本さんは、やさしい」
「なに、いきなり」
「わたし、口下手で、ううん……ふつうに話すことすら、ままならないのに、坂本さんはいつも、根気強く、わたしを待ってくれる」
二宮は一瞬、目を伏せて、すぐにわたしを見つめ返した。電車の遠慮ない蛍光灯が二宮の顔の輪郭をくっきり縁どる。
「わ、わたしね、むかしから……病気がちだったの。学校をひと月休むのなんて、おさないころはよくあって、それに話すのもにがてだから、友達もできなかった。でも、中学生になってからは、すこし調子がよかったの。二年生のときなんて、いちども病気で休まなかったくらい。だから、高校でも、おなじだと思ってた。
去年は、ほんとうにひどくて……ずっと高熱がつづいて、ベッドから起き上がれない日もたくさんあって……留年も、しちゃった。わたし、すごくかなしかったの。せっかく高校生になったのに、四月のあいだくらいしか登校できずに、進級もできないなんて――わたしのさいしょの一年間は、無意味になっちゃった。そう思うと、苦しくて、いつも泣きそうになるの。でも……」
そこまでいうと、二宮はふっと肩の力を抜いて、気楽そうな笑みを浮かべた。
「最近は、ちょっとちがう……留年したおかげで、わたしは坂本さんに出会えた、って、思えるようになったの」
――なんともまぁ、面と向かって恥ずかしいセリフをいうものである。
わたしは思わず、吹き出してしまった。照れ隠しだろう、といわれたら図星だ。でも、べつに、それだけじゃない気もする。
「わ、わらわれた……!」
「ごめん、ちがうの。そうだな。二宮、そんなにわたしのことがすきだったんだなー、と思って」
「ぅ……」熟れた林檎よりまっ赤な顔になる。「それは、その」
「わたしも、二宮のそういうところ、すきだよ」
肩を大きく震わせて、なにかいいかけた二宮を遮るように、車掌のアナウンスが響いた。わたしの降りる駅だ。おやつを取りあげられた仔犬みたいに、二宮は寂しそうな表情を浮かべる。
わたしはそんな友達の肩を叩きながら、
「ありがとね、二宮」と立ち上がった。こころなし、足が軽い。「なんだか気分がらくになった気がする。二宮のおかげ」
「そ、そう?……なら、よかった」
「こんどカキフライたべにいこっか」
「え、カキフライ……?」
「旬なんでしょ。おいしいとこ知ってる?」
「し、調べとくね」
「頼んだ」
軋む音を立てながら、電車は停まる。今日はゆっくり眠れるだろうか。なんとなく、だいじょうぶな気がする。
「じゃ、また明日」
「うん、またね」
ホームから、車窓の二宮に手を振る。ひかえめな笑みを浮かべて、彼女は手を振りかえしてくれる。
家に帰ると、リビングに姉貴がいた。朝が早い日は、帰りも早い。今日も例にもれず、わたしよりずっと早くに帰宅して、どうやら掃除をしていたらしい。ダイニングテーブルのうえは一時的な物置と化し、漫画やらフィギュアやら雑多なプリントやらが混沌としている。
「手伝おうか?」
「いや、いい。もう片付けるだけだし」
姉貴はこちらを一瞥もせず、背中を向けたままクローゼットのなかにあたまを突っ込んでいる。ま、手がいらないなら、それでいい。無理に手伝おうという気概もないし――わたしは自室に戻って、かばんをおろす。そして勉強机のうえを調べて、すぐに見つけた。進路希望の調査票。やっぱりここに忘れていたのか。
「そういえば、いいもの見つけたんだ」
いつのまにか、姉貴がわたしのすぐ横に立っていた。姉貴はこういう動きが得意で、こっちとしてはもう慣れたものだから、動揺もせず、
「いいものって?」
「じゃーん。七の秘蔵写真」
姉貴は眼鏡の奥でいたずらっぽく目を細め、数枚の写真をとりだした。どれも、わたしがおさないころの写真で――赤いフリフリのついた派手な衣裳を着ている。
「ちょっ、それ――!」
「おっと、あぶない」わたしの伸ばした手をひらりと避け、姉貴は写真を高く掲げる。「いやぁ、そういや七にも、こういう時代があったなぁ。まさしく我が家のアイドルだった」
「アイドルって――そんな昔の写真、どこで見つけたの!」
「仕送りの段ボールにアルバムがあってな。なつかしいなと整理してたら、こういう写真もばっちり」
「最悪!」
で、十数分の格闘の末、わたしはどうにか写真の奪取に成功した。カメラの前でフリフリの衣裳を着て踊る、おさないころのわたし――子どものころ観たアニメに影響されて、将来はアイドルになる、なんて誰彼かまわずうそぶいていた時代だ。いまとなってはいわずもがな、黒歴史である。燃やそう。これは、あとでしっかり焼却処分しなくては。
「そうだ、まさかバックアップはとってないよね?」
「とってない」
「うそだ」
「それなら、なんだ? スマホを割るか? パソコンを水没させるか? そんなことをしてみろ、おまえはもうここには住めないが……」
「くっ……!」
わたしは睨みを利かせたが、姉貴は鼻でせせら笑うだけだった。こうなってしまっては、もうどうしようもない。わたしは結局、どっと疲れて、回転イスに倒れ込むようにして座った。姉貴は勝ち誇ったような高らかな笑い声を響かせて、掃除に戻る。
たましいの出涸らしみたいなため息がでた。机に写真を放る。並ぶ、進路希望調査とアイドル気取りの写真。ぱらぱらめくっただけの数学のワーク。
将来の夢、か。たしかに、アイドルを夢みた時期もあった。いまとなっては恥ずかしくて、できれば封印しておきたいような記憶。つとめて思いださないし、というか当然、アイドルになんてなれなかったし。それは……無意味な夢だっただろうか。
わたしは電車でのことを考える。だいじな友達との会話。きっとわたしは、二宮みたいにはなれない。すべてのことが無意味に思えても、そこに美しい世界の帰結があるとは到底信じ切れない。自慢じゃないが、そこまで強い人間じゃないのだ。
わたしは目をつむる。瞼の裏に、二宮のひかえめな笑顔が描ける。
――でも、そんなわたしにも、出会えてよかったといってくれる友達がいた。
――すきだと伝えてくれる友達がいた。
「ちょっとぐらい、がんばってみるか……」
進路希望調査票を、まるっきり嘘にするのは気が引ける。写真をしまって、わたしは勉強道具をぱっぱと用意した。数学のワークをぱらぱらめくって、中腹ぐらいをぐっと見開く。数年後を見据えて、たまには学生の本業に精を出すのもわるくない。
わたしがどうなりたいかなんてわからない。目標もなにも定まってない。でも二宮がいてくれるなら、わたしはがんばれる気がする。あの子の成績に追いつくのは、わたしにはずいぶん難題だけど、そうだ。なんならいつか追い抜いて、わっと驚かせてやろう。
だからいまは、ただ、夢のしるべに。




