11 ゆめのしるべに④
§
放課後、わたしたちは揃って校門を出た。
この時期になると、午後四時でもすでに暗くなりつつある。寒さはゆっくり強まり、昼と夜のちょうどあいま、今日のわたしは寒さにまったく無防備なせいで、二宮からもらったカイロだよりで、まだなんとか熱を保つカイロを両手で包みながら、けっきょく、ひとつくしゃみをした。二宮が横から覗きこんで、ひかえめに「だいじょうぶ?」と訊く。わたしは肯く。
「でもちょっとキビシイかも」
「じゃ、じゃあ、あたらしいカイロとか……あ、それとも、わたしのマフラー使う……?」
なんて、二宮はあたふたしながら、マフラーを外そうとする。わたしはそれを手で制止して、くつくつ笑った。
「それじゃ、二宮が寒くなるでしょ」
家まで、だいたい三十分。うち、半分くらいは電車のなかだ。こうして歩く時間はそう長くないし、耐えられないほどではない。
とはいえ、ひたすら駅まで歩くだけでは、なかなかつらい気温なのもたしかだった。先週から気温はぐっと下がり続け、さらに今週は最高気温が十度を下回るばかり、なんてこのあいだニュースで聞いた。今日の天気予報はあいにく見ていないが、この無遠慮に肌を突き刺す寒さをみるに、御多分に漏れずといったところなのだろう。
カイロを包む両手に、息を吹きかける。吐く息が白く、指先は赤い。寒さは苦手じゃないが、防寒具なしで走りまわれるような風の子でもなかった。
小学生のころは――と、とりとめもなく思う。寒くても、走りまわれば関係ないと思っていた。よく男子にまじってかけっこしながら、ろくに舗装もされていない道を帰路に、鋭く澄み切っていた空気を全身で切った。思えば、あの元気はいったいどこから湧いてきていたのだろう? いまでは、どれだけ寒くても、二宮に「競争ね!」なんていって、駅までの道を走るということは……
いや、ぜんぜん、できる気がする。
「二宮」と、わたしは足首を回し、「ちょっと競争しよう」
「えっ? 競争って――」
訊きかえす暇も与えず、わたしはぱっと走りだした。凍てつく外気が顔面に襲い掛かってくる。なんだか懐かしい感じがする。歩道に人通りはない。ちょっとくらい勝手になったって、いまなら、だれに迷惑をかけることもないだろう。
二宮を振り返る。突然のことに、目を丸くしているが、意識より先にからだが走りだしたみたいだ。するとからだが付いていかない、一瞬よろけて、それでもどうにか右足で踏みとどまり、たどたどしいフォームでわたしに追いつこうとする。
わたしは肩をすくめて、またまえを向いた。走る。アスファルトを蹴って、腕を軽く振って、左足をまえに出す。右足をまえに出す。そして、あぁ、だめだなと思って、冬の寒さとか関係なしに背筋がぞくりとして、思わず笑みがこぼれて、そのまますぐの交差点まで走りきると、立ち止まった。
息が上がる。うしろから二宮のどたどたした足音が近づいてくる。追いつかれるまえに、息を整えなくちゃいけない。深呼吸をする。深呼吸をして、胸に手を当てると、心臓の動きはとっくに平静だった。
安心して、わたしは振り返る。ちょうど二宮が追い付いたところだった。
「さ、坂本さん……」膝に手を置き、息を切らしている。「どうしたの、きゅうに……?」
「や、寒いからさ。からだ動かしたら、ごまかせるかなと思って」
交差点は、赤。横断歩道の白黒がいつもよりくすんでいる。冬はどうして、世界が灰色じみて見えるのだろう。
「たまにはいいでしょ、こういうのも」
「う、うん……いきなりは、びっくりする、けど」
息を整えて、二宮はやわらかい笑みを浮かべる。わたしは横隔膜のあたりがきゅっとして、視線をそらし、信号機を見やった。まだ赤のままだ。ここの信号は、長い。
そして、若干の沈黙が降った。赤信号は、依然、赤信号のまま。立ち止まっていると、耳の先から凍りづけになって、それに髪の毛一本いっぽん、芯から固まるような気がしてくる。わたしはため息をついて、二宮のほうに視線を戻した。
視線がばっちりあう。
こんどは二宮が視線を外す番だった。あわてて、そっぽを向く。
「え、なに?」ちょっと心外な態度だった。「どうかした?」
「う、ううん、その……なんでもない」
「ね、気になる」
わたしは二宮が目を背けたほうに動いて、無理やり視界にはいる。二宮は、わたしより背が高いくせに縮こまって、上目遣いにこちらを見て、
「その、なんでもないの」と遠慮がちにいった。「ただ、ちょっと、顔色がわるそうな気がして……」
「だれの?」
「坂本さん」
わたしはびっくりした。びっくりしすぎて、とっくに信号が青になっていたことにも気づかなかった。信号機に目をやったときには、すでに点滅している。ここは赤が長いうえに、青がすさまじく短いのだ。
「やっぱり、寒い? 手袋とか、マフラーとか、使う……?」
「え、や、いいよ。いいってば」
わたしは朝、二宮からもらったカイロを振った。これがあれば充分だぜ、とでもいってやるみたいに――すると、ひときわ強い風が吹いた。凶器のような冷たさがわたしをぶって、またくしゃみをしてしまう。
わたしは唸った。このままだと明日には風邪をひいてしまう……なんてことはないと思うが、この調子で家まで帰りきれるかといわれると、だんだん自信がなくなってきた。
わたしはあたりを見回す。信号はまだ赤のまま、またしばらく変わらない。突っ立ているしかないか。でも、たしかこのあたりに――
「ね、二宮。たい焼きたべない?」
いわれて、二宮は、わたしの視線の先をたどる。道をすこしいったところに、年季のはいったたい焼き屋がある。ここらではおいしいと評判の店で、わたしと二宮もなんどか買い食いしたことがあった。
お店のまえまでいくと、三十歳くらいのおねえさんが「いらっしゃい」と穏やかに声をかけてくれる。寒さのせいだろうか、地元の有名店とはいえ、ほかにお客さんはいない。
「二宮はどれにする?」
「あ、あの、わたしは……」
「あぁそうだ、ダイエット中なんだっけ」
「うん」と、二宮は力強く肯く――が、非常にタイミング悪く、おなかの音がした。「あ、あう、これはその……」
「なるほどなぁ」わたしもまた、力強く肯く。「二宮って、つぶあん派だったよね?」
「え、うん、そうだけど……」
「じゃ、つぶあん二個ください」
おねえさんは丁寧な手つきでたい焼きを二個、手渡してくれる。代金を支払って、ひとつはもちろん、二宮に。
「わたしのおごり」
「い、いいの? ぜんぜん払うよ……」
「これは日ごろのお礼みたいなもんだから」
ことばのなにかが引っかかるのか、眉をしかめはしたものの、とりあえず二宮はたい焼きを受け取った。とはいえ、ダイエット中という彼女は、すぐにかじりつくようなことはしない。難しい顔をして、たい焼きの目と熱く見つめ合っている。
「はやくたべなきゃ、冷めるよ」
わたしは笑って、じぶんのたい焼きにかじりつく。うん、うまい。ふんわりした生地と、あんこの上品な甘さがマッチして、素朴ながらクセになる味だ。そしてなにより、温かい。芯まで凍え切ったからだには、たい焼きの人情味ある温かさが沁みる。
わたしたちは横断歩道まで引き返す。その間も、二宮はずっと葛藤しているみたいだった。おなかは空いている。でも、こういうときのちょっとの間食という誘惑は、いちど負けるとこの先、厄介なのだ。すぐに自制が緩くなって、ちょっとぐらい、ちょっとぐらい、の積み重ねでダイエットは悲惨な結果になる。だからこそ、その一度目の「ちょっとぐらい」をどれだけ我慢できるか。成功の秘訣は、まさにそこだ。
とはいえ、わたしからすると、ほんとうに二宮にダイエットが必要なのか、はなはだ疑問だ。食事制限をして、きっと家では運動もしているのだろうが……そもそもこいつは太ってないし、引っ込むべきところはちゃんと引っ込んでいる。なにより、いままで食欲をほとんど押さえずにこの体型を維持できていたなら、むしろたくさんたべるのが二宮の体質的に正解なのであって、無理に食事制限をするとかえって体調を崩すのではないかと心配ですらある。
「二宮さ、なんでダイエットしてるんだっけ」
「え、そ、それは……」
「あー、そうだ。気になるやつがいるんだっけか」
思いだした。そういえば、昨日、そんな話をした。二宮はかたくなに認めようとしなかったけれど、反応を見れば、一目瞭然だ。
二宮も、そういう年頃か……まるで親みたいなことを思ってしまった。同級生とはいえ、いちおう、年上なのに。
でも、こんなかわいい子にすいてもらえるやつは、しあわせものだ。健気にダイエットだってがんばっているし、引っ込み思案だけど案外芯の通ったやつだし、なにより顔がいい。最近は見た目にも気を遣っているみたいで、まえはわりかし無頓着だった髪もこのごろはていねいに整えてある。
「しかし、わたしは思うんだ。二宮はものをたべているときがいちばんかわいい!」
「えっ⁉」いきなりいわれて、二宮、目をぱちくり。
「それに気づかないやつなんて、はっきりいって、二宮にふさわしくないよ。おまえがすきでも、わたしが認めない」
「な、なんの話……?」
「ダイエットなんてしなくても、二宮はとっくにかわいいって話」
火が付いたみたいに、二宮の顔が紅潮した。こういう反応もかわいい。ちゃんと魅力が伝われば、どんな男だって、二宮なら一発だと思う。
二宮は、顔を赤くしたまま、たい焼きと熱い視線を交わす。やはり、なおも葛藤している。しかし、ついに決心して、ばくりと大きな一口をいった。途端に目を瞠って、表情はきらきら輝きだす。やっぱり、たべているときがいちばん、魅力的な女の子だ。
わたしたちはたい焼きを頬張りながら、横断歩道まで戻った。赤信号。また待ちぼうけだが、こころなし、さっきよりは気分が楽だ。たい焼きをかじる。まだ三分の一もたべきれていない。
となりの二宮を見る。三分の一は、もうたべおわっている。それでも、二宮にしては、まだ遠慮がちなたべかただ。わたしは数秒、目を閉じて、静かに開く。横断歩道は青になっている。歩きだす。
「で、結局、だれがすきなの?」
二宮は咳き込んだ。耳たぶまで真っ赤にしている。寒いからだろう。
「い、いわない」
「えぇー」肩をおとすそぶりをしてみる。「わたしと二宮の仲だぜ。それとも、信用ない? 言いふらすなんてことしないけど」
「そ、そういうことでは、なく……恥ずかしいですので……」
「なんで敬語?」
しかも微妙に違和感のある敬語だ。
とはいえ、昨日のようにまたかわされて、これは一筋縄ではいきそうにない。こうだんまりを決め込まれると、やはりストレートに聞きだすのは難しそうだ。
二宮のおもいびと……うーん、気になる。わたしはいわゆる恋バナにさしたる興味はない部類だが、こと二宮にかぎっては、気になってしかたない。こいつはこれまで、浮いたうわさのひとつもなかったし、恋愛とか、あんまり興味なさそうなそぶりだったのに――高校ではずいぶん長く一緒にいたわたしですらそういう認識だったのに! きゅうに、すきなひとができた、なんて話になったのだ。それで気にならないというほうがおかしい。
二宮はどんなやつをすきになったのだろうか? タイプは? 年齢は? 血液型は? 邦楽と洋楽はどちらをよく聴くか? 食の嗜好は? 杏と椋ならどちらが好みか? レイとアスカなら? C.C.とカレンは?……
ま、べつに、そこまで詳細なプロフィールをよこせといっているのではない。面白半分にからかってやろうというのでも、断じて、もちろんない。純粋に、それはもうひたすらに、二宮のタイプってのが気になるし、もし相手が知っているやつなら、ちょっとくらい力になれるかもしれない、というだけの話だ。
「高橋!」
「え、だ、だれ?」
「うそ。うちのクラスにいるでしょ、めがねの」
「あ、う、うん? いる、ね」
「その反応はハズレだな」そもそも記憶のそとみたいな反応だった。おなじクラスなのに。「クラスのメンツをローラーしていけば、あたる?」
「も、もう! わたしの話はいいから……」
頬をふくらませて、二宮はそっぽを向く。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
「二宮ー。にのみやさーん」顔を覗きこむと、もっと首を曲げて、ぜったいに視線をあわせてくれない。「や、ごめんって。もう問い詰めたりしないからさ。わたしぜんぜん気にならないよーおまえがだれをすきなのかって、ほんとほんと」
ちらりとこっちを見る、と、二宮はこらえきれないとでもいうように吹きだした。
「それはちょっと失礼じゃない?」
「ご、ごめん、いいかた、おもしろくて……」
「うさんくさかったとでも」
「うーん、そう、かも」
「心外だな」わたしはたい焼きを一口かじり、「あ、わかった。上杉!」
「だ、だからぁ……」眉をさげて、二宮は苦笑する。「だれも、ちがうよ。たぶん、坂本さんには、あてられないから」
「む」
わたしにはあてられない……どういう意味だろう? 学外の人間ということだろうか。となれば、他校の男子とか……どこで出会うんだ? いってはなんだが、二宮に校外の人脈があるとも思えないし、もしかして、電車で見かけたやからに一目ぼれとか? でも、わたしは登下校もいっしょだけれど、二宮のそういう素振りはまったく見かけなかった。二宮はわたしと話すとき、ぜんぜんよそ見をしないほどいい子だし、会話という会話がないときだって、わたしを無視してどこぞのだれかに熱視線を送っている、なんて、これまでなかった。
とすれば。
「二宮」わたしはハッとして、彼女の顔を見つめた。「二宮、おまえ、もしかして――」
「えっ、えっ」
肩を掴む。二宮の顔がこれ以上ないほど紅潮している。
「二宮……」
「う、うん……」
「それは、ほんとうに、やめとけ」
「……」目をまんまるにする、二宮。「う、うん?」
「あのね、二宮。そもそも、未成年に手を出すやつなんてみんなヤバいやつなんだ。禁断の恋とかいうのもアニメのなかだけの話だし、現実問題、そういうのって犯罪に近くて――」
「ま、まって⁉ なんの話をしてるの……⁉」
「なにって――あれ、ちがうの? わたしはてっきり、教師のだれかかと……」
「え、えぇ……」
二宮はがっくしと肩を落として、うなだれた。わかりやすく落ち込んでいる。
「や、すまん。早とちりだった」
「う、うん……いいよ」二宮はうつむき気味に、たい焼きをたべた。それで、二宮のたい焼きはぜんぶ平らげられてしまった。残った袋をていねいに畳み、掌で包み込む。




