『百匹目の猿現象』とシンクロニシティ
マンションが魔窟だったとは知らなかった。
翔はテロリストのアジト制圧事件の後、通学や買い物のときに気を付けて周囲を注意深く観察してみた。
警察車両やマスコミの姿は見なくなったが、確かに怪しい人物の出入りはある。黒塗りの車両が路上駐車していたり、電柱の陰にトレンチコートの男が立っていたりする。
当然、翔もマークされているのだろうけれど特に怪しまれることもなかった。
「やれやれ」
平穏な学校生活に戻っても気は休まらない。
真歩姉ぇはあいかわらずニート無職だけど、パソコンの前に座っている時間が増えた。
それもゲームをしているわけではなく、真剣に何かをカチカチしている。
「なにしてんの?」
「……スクリプト作ってる」
「面白い?」
「最高に面白いよこれ」
「みていい?」
「いいよ」
横でコーラを飲みながら眺める。熱心に呪文のような文字と記号の羅列が画面を埋め尽くしていた。
#魔素[生成][m+]【置換】[対象]【素粒子】Quarks[[トップ][ボトム][チャーム][ストレンジ][アップ][ダウン]]【レプトン】[[【電子】[eー]【陽電子】[e+]][ミュー][タウ][【疑似Higgs】[【置換【電子】】[[e-]me-]][等価]]//・・・・
なんだこりゃ。
プログラム言語というよりスクリプト、何かよくわからない狂人の日記みたいだった。
「……呪文? ぜんっぜんわかんない」
「うん、あたしのオリジナルスペルだから」
「やっぱ魔法ってこと?」
「魔法の基礎をつくってる」
「へぇ……?」
うーん、どういうことだろう。
「この世界の基礎要素のいくつかを根こそぎ変える。もちろん大混乱になったり、戦争になったりしないよう、慎重に……誰にも気づかれないようにね」
ゲームの設定的なやつかな。
真剣な表情の真歩姉ぇの邪魔をしちゃ悪いと思いつつ、興味と疑問がとまらない。
「……これ、パソコンで動くの?」
膨大な文字列が流れてゆく。
文字列はファイリングされ、蜘蛛の糸か道路地図みたいな線が結んでゆく。複雑に絡み合い、何か曼荼羅みたいな図の一部になる。
「最近流行の生成AIに流し込む。世界中にばらまいて……根っこから変革する」
目をギラつかせながら軽く笑う。
「サイバーテロ的な?」
「サイバーどころかこの世界の構成要素、エレメントへの挑戦、まぁ捉え方によってはテロだね」
真歩姉ぇはエナジードリンクを飲み干した。
「ふーん」
いつも彼女の話は難解だ。難しいことを言う大人に憧れる気持ちは少なからずあるけれど。
「でも心配しないで。誰も傷つけないから。すでに何個か試してる。うまくいったしもっと大規模に仕掛けようと思ってさ。誰も、何が起こったかわからないようにするし」
「先日の監視カメラ操作みたいな?」
「あれもテストの一環。通常のネット回線内で意のままに動き、カメラに動作不良を起こす魔法のワーム……。まぁ警察や公安が思ったより有能で驚いたけどね」
「この前はびっくりしたよ」
「でも、試作のワームはその程度のものなんだ」
「その程度?」
十分すごいと思うけど。
「ヤンキーを猿に変えたり、監視カメラを無効化したり。それは単なる『魔法』でその場限り、その時だけでおしまい。結果を操作する使い捨てのもの。花火とか雷と変わらないよ」
「んーなんとなくわかるけど」
ゲームでもそうだ。炎の魔法を使えば敵が燃え上がる。でもそれは持続しない。その場かぎりの現象にすぎない。
「次は、もっと広くて深い。それは伝播して感染して、全てのパラメータそのものを変更する」
真歩姉ぇは立ち上がり、マンションの窓から外を眺めた。タンクトップにショートパンツ。ラフな恰好のままベランダヘ。
「それってもう世界を変える……みたいな?」
にこりと微笑む。眼差しは遥か遠くを見ていた。
「百匹目の猿現象って知ってる?」
真歩姉ぇは翔にしずかに尋ねた。
「えと……なんかで見た。百匹目がイモを洗い出すと、他も真似る……みたいな?」
「んー惜しい! 『ある集団のなかで、あたらしい行動や考えをする個体が一定数を超えると、接触の無い集団にも影響が伝播する』っていう説」
「当たらずとも遠からずかな」
「そうだね、翔は賢いね。まぁ『百匹目の猿現象』の逸話はライアル・ワトソンって生物学者の創作なんだけど」
「え、そうなんだ」
「他にも似た話があるよ。有名な『グリセリンの結晶化』っての」
「むしろ知らないけど……」
「百年前から人類が利用している化合物のグリセリンは常温で液体だけど、だれも結晶化する方法がわからなかった」
「ふむふむ」
「けれど20世紀初頭のある日、ロンドンに運ばれる途中、樽のなかで突然結晶化が起こった。その原因を調べるため、科学者が樽から小分けにしてサンプルを受け取ったんだけど……。なんと研究室で保管していた他の瓶に入っていたグリセリンまで結晶化をはじめたんだ」
「え……?」
「あるとき起こった事象が、感染したみたいにね」
「まさか」
日が陰りマンションの室内が暗くなる。
「それからグリセリンの結晶化は世界中でごく普通に起こるようになった。温度をあげて下げるだけで結晶化する。簡単なプロセスで何度も試したはずなのに……。あるときを境に世界中であたりまえにできるようになった。その後、グリセリン結晶化の話自体が『創作であり都市伝説だ』というふうにレッテルを張られてしまうほど、そんなものは最初からそうだった、と当たり前のことみたいに認識されていった」
なんとなく言いたいことはわかった。
「真歩姉ぇがやろうとしていることって」
「現象をシンクロニシティ、共時性と呼ぶ」
シンクロニシティ。
「因果関係の無いと思われていた二つの事柄に、意味のある偶然の一致が起こる。だれだって経験ぐらいあるだろう? 偶然、隣の席の子が同じジュースを飲んでいたり、好きな子のことを考えていたら目が合ったり……。そんな細かいことからマクロまで。世界は深くて小さな領域でつながっているんだ」
両腕を広げ、風を受ける。
髪が大胆になびくさまを翔は呆然と眺めていた。
「真歩姉ぇは、それをするつもりなの?」
「あぁそうだよ! じきにわかるよ。世界でただ一人の魔女が、伝播させ感染させる魔法……!」
「魔法……」
「この世界の構成要素、エレメントたる素粒子の、もっと細かいクォーツの一部が、あるとき突然、偶然、奇跡みたいに置換され、作り替えられる。原子物理学者でさえわからないうちにね」
真歩姉ぇの言葉は全て謎めいていた。
翔は完全に理解できたわけではなかった。
でも真歩姉ぇは魔女として、この世界の理、つまり物理法則やルールの一部を変えようとしている。
それだけはなんとなく理解できた。
そして数日。
変革は突然やってきた。
珍しく早朝から真歩姉ぇは起きていた。
髪を整え、顔を洗い。テレビの前のソファーに腕を広げて座り、ニュースを眺めている。
「ふぁ……?」
「おはよう、翔」
「めずらしいね……こんな早くから」
真歩姉ぇはインスタントのコーヒーを口にしている。
テレビからニュースが流れている。
『――くりかえしお伝えします! 日本時間AM4時、世界各地で停電が発生しました。停電時間は3秒ほどで回復し、大きな混乱、停電に伴う事故などは今のところ報告されておりません。しかしこの停電、不思議なことに日本時間の早朝4時を起点に発生し、西回りに地球を一周。およそ十数分のうちに世界各国の送電網を伝い、世界中で同じような停電が起こったことが報告されています。中国、韓国、ベトナム、タイ、マレーシア。そして中央ヨーロッパ諸国にロシア、トルコを皮切りにヨーロッパ全域。英国を経てアメリカ合衆国、ハワイに到達したのが十五分後でした。これについて専門家は、強力な太陽風、もしくは荷電粒子を帯びた宇宙線によるEM効果が原因ではないかと――」
「世界中で、瞬電なんて……どゆこと?」
どのチャンネルも繰り返しこのことを伝えている。飛行機事故も原発事故も、特には起こってないらしい。
「はじまった」
「え? これ真歩姉ぇの仕業!?」
「はっはっは、まーね」
「ヤバ……」
停電させて何がしたかっ……いや。これが先日言っていたシンクロニシティとやらなのかな。
「ここから面白いことが起こるよ。翔も面倒なのが来たら、そのときは頼むわ」
「面倒って……」
「力に目覚めると暴走するヤツとか、でるだろ。中学生の思春期みたいなもんさ」
「はぁ?」
よくわからない。
翔はとりあえず朝の支度をすることにした。
いつも通りトーストは焼けるし、冷蔵庫も普通通り。機械も壊れていない。
日常は何もかわっている様子もない。
ニュースもやがてスポーツや芸能へと変わり、落ち着きをとりもどしてゆく。
停電はほんの一瞬の珍しい現象だったらしい。
「真歩姉ぇ、テレビのチャンネル変えてくれる? 朝の運勢みたいんだけど」
翔が言いかけると、チャンネルが自然に切り替わった。
「あら?」
真歩姉ぇはリモコンに触れていない。
もちろん翔はキッチンにいるのだから触れられるはずもない。
「へんなの、故障?」
自然に「チャンネル5が見たいな」と思っただけだ。もしかして真歩姉ぇから与えられた「魔法」を使っちゃったのかもしれないが。
思考しただけでチャンネルが切り替わった?
「翔は魔法に慣れてるからね、感受性も強い。この世界ではあたしの次に『最強』でいてもらわないと困るし、これでいい」
「最強」
翔はなんのことやらと返答に困った。
――今日の運勢
牡羊座。
驚くようなことが起こるでしょう!
<つづく>